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「小田原一家5人殺害事件」の版間の差分

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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 村野薫『日本の大量殺人総覧』[[新潮社]] [[2002年]] [[ISBN]] 4-10-455215-1
* 村野薫『日本の大量殺人総覧』[[新潮社]] [[2002年]] ISBN 4-10-455215-1


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2016年12月11日 (日) 01:35時点における版

小田原一家5人殺害事件(おだわらいっか5にんさつがいじけん)とは、1949年昭和24年)に発生した19歳少年による大量殺人事件である。

事件の概要

1949年9月14日神奈川県小田原市銭湯一家宅に午前1時40分ごろ、隣家の二階に住む当時19歳の工員の少年Aが侵入し就寝中の経営者一家6人をナタや包丁でめった打ちにした。この凶行により銭湯の主人(45歳)と妻(43歳)と主人の母(81歳)と、次女(7歳)と長男(4歳)が殺害され、長女(19歳)だけが重傷を負ったが一命を取り留めた。工員は犯行後そのあしで足柄下地区警察署自首した。工員は犯行動機として工員がいつも浴室内部をノゾキ見するとして倉庫を高くし窓の目隠しにしたのが癪に障ったというものであった。工員は自分は覗き見などしていないと主張したが、実際のところ不明である上、一家皆殺しを意図する凶行に及んだ動機にしては身勝手なものであった。

裁判

Aは殺人罪でただちに起訴され、翌年の1月に一審の横浜地方裁判所小田原支部は死刑判決を出した。担当弁護士はただちに控訴したが、被告人のAは死刑判決を確定させるために弁護士や拘置所所長が制止するのを無視して控訴取下げの手続きをすすめようとした。

この事を聞きつけた一審で死刑判決を出した三淵乾太郎判事(のちの浦和地方裁判所所長、当時の最高裁長官三淵忠彦の息子)が、拘置所に赴きAに対し取り下げを思いとどまるように説得にした。この説得に心を動かされたことから、取り下げをやめ最高裁まで争うことになったが、1951年9月18日最高裁上告が棄却され死刑が確定した。その後、死刑執行にむけて当時死刑施設のなかった東京から仙台拘置所に送致(仙台送り)されることになった。

その後

死刑囚として絞首されるその日をまっていたが、1952年4月恩赦により無期懲役に減刑された。前述の判事が減刑のための運動をしたこともあるが、サンフランシスコ講和条約記念恩赦があったためである。これは1951年9月サンフランシスコ講和条約が調印され、国会の承認を経て1952年4月28日から効力が発効したが、法務当局は国家的慶事として数多くの刑務所収容者を恩赦で減刑した。この時の死刑囚で恩赦の対象になったのは殺人犯でも殺人罪のみで死刑が確定したものに限定されていた。そのため一人殺害であっても脱獄のために刑務官を殺害したり強盗殺人罪といった複数の罪状の死刑囚は対象外であった。Aのように大量殺人犯であっても、時期的めぐりあわせによって恩赦減刑という国家の特典を受けることが出来たわけである[1]

Aは宮城刑務所で無期懲役囚として服役し1970年に仮出獄し東京都内で印刷工として働いていた。しかし1984年7月8日殺人未遂事件を起こした。この事件はAの自宅アパートが家出少女や不良少女の溜まり場になっていたが、同棲状態にあった13歳の少女から別れ話を切り出されたことに逆上し、この少女と仲を引き裂こうとしていると邪推した14歳の少女の二人をメッタ刺しにしたものであった。この事件で懲役8年を宣告され、仮釈放も取り消され再び刑務所に戻された。そのため、寿命が尽きる前に再び仮釈放される可能性は乏しい[2]状況であったが、2009年10月27日に獄死した[要出典]。79歳没。

脚注

  1. ^ この時、政令恩赦で無期懲役に減刑された死刑囚は12人いたが、個別恩赦を除けば、2010年現在政令恩赦された最後の死刑囚である。
  2. ^ 刑事訴訟法482条は「自由刑の裁量的執行停止」を定めており、検察官が高齢と病気のため生命の危機にある場合には刑の執行停止の措置を取ることが出来るとされており、場合によっては刑務所から出られる可能性もある。実例として江津事件がある。

参考文献

関連項目