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「桂米團治 (4代目)」の版間の差分

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* 桂米朝座談 1(桂米朝 [[岩波書店]] 2005年)
* 桂米朝座談 1(桂米朝 [[岩波書店]] 2005年)
* 上方落語家名鑑([[やまだりよこ]] [[出版文化社]] 2006年)
* 上方落語家名鑑([[やまだりよこ]] [[出版文化社]] 2006年)
* 上方落語の戦後史([[戸田学]] 岩波書店 2014年 ISBN9784000259873)
* 上方落語の戦後史([[戸田学]] 岩波書店 2014年 ISBN 9784000259873)
* [http://www.wahha.or.jp/dendou/profe/gokai.htm 第5回殿堂入り(平成12年度) 四代目桂米団治] - [[大阪府立上方演芸資料館]]公式サイト内の記事。
* [http://www.wahha.or.jp/dendou/profe/gokai.htm 第5回殿堂入り(平成12年度) 四代目桂米団治] - [[大阪府立上方演芸資料館]]公式サイト内の記事。
* [http://www.midosuji.net/katsurabunshi/kakomu/kakomu-4.html#shisyou 桂文枝「あんけら荘」第三章 米團治師匠] - 桂文枝公式サイト内の記事 。
* [http://www.midosuji.net/katsurabunshi/kakomu/kakomu-4.html#shisyou 桂文枝「あんけら荘」第三章 米團治師匠] - 桂文枝公式サイト内の記事 。

2016年12月11日 (日) 01:34時点における版

4代目 桂米團治かつら よねだんじ
4代目 桂米團治
4代目米團治
本名 中濱 賢三(なかはま けんぞう)
別名 中濱靜圃
生年月日 1896年9月3日
没年月日 (1951-10-23) 1951年10月23日(55歳没)
出身地 日本の旗 日本大阪
師匠 3代目桂米團治
弟子 3代目桂米之助
3代目桂米朝
桂米治郎
2代目桂べかこ
名跡 2代目桂米之助
4代目桂米團治
出囃子 羯鼓
活動期間 1912年 - 1943年
活動内容 上方落語
所属 三友派
吉本
主な作品
代書

4代目 桂 米團治(4だいめ かつら よねだんじ、1896年9月3日 - 1951年10月23日)は、落語家上方噺家)。本名は中濱 賢三(なかはま けんぞう)。出囃子は『羯鼓』。

生涯

生い立ち

大阪市中央区道頓堀二つ井戸の生まれ。生家は「中濱屋」という名の双糸織専門の反物屋。幼時に日本橋メソジスト教会でキリスト教徒として洗礼を受ける。1908年に小学校を卒業し、叔父の経営する鏡卸商の住込み店員となる。

3代目桂米團治に入門

1912年、16歳で3代目桂米團治に入門。2代目米之助を名乗り、堀江の賑江亭で初高座。以降主流の寄席には出演する機会がもらえず中国の巡業、神戸の寄席などに出演、1918年、中座(江戸落語における二つ目)に昇進。若手時代は伯父がやっていた鏡屋に勤め、夜は落語修業に精を出した。1922年、所属していた三友派吉本興業に吸収合併されるが、翌年春には吉本を脱退し、その後は暫く芸界を離れる。1930年、初代桂小春團治らと共に「桃源座」を組織するも、吉本側の妨害などもあり活動は振るわず、半年ほどで再び芸界を退く。

1936年8月、同じく吉本を退いた5代目笑福亭松鶴の主催する「楽語荘」に参加。上方落語の雑誌『上方はなし』同人となり、「中濱靜圃」の筆名で編集・執筆に携わり、健筆を振るった。また、2代目桂米之助として「上方はなしを聴く会」で高座に上がり、気を吐いた。

その一方、糊口をしのぐため、1938年に代書人(代書人規則(内務省令)に基づく職業で、現在の行政書士に相当する一般代書人。当時は資格制度がなく誰でも開業できた。)として大阪市東成区役所近隣(現在の区役所敷地内)の自宅にて「中濱代書事務所」を開き、その経験から新作落語代書』を創作した。

4代目桂米團治の襲名

1943年10月、4代目桂米團治を襲名。1946年10月13日大阪天満宮における「上方はなしを聴く会」にて正式に襲名披露を行い、口上には5代目笑福亭松鶴、初代桂春輔らが並んだ。戦後戎橋松竹などにも出演したが、1947年秋以降は寄席には出ず孤高の立場を貫く。1949年にはファンとともに「桂米團治後援会」を立ち上げ、大阪と京都で「米團治を聞く会」を亡くなるまで続けた。

また、この頃、家の2階に2代目桂あやめ(後の5代目桂文枝)や2代目笑福亭松之助[1]を下宿させるなど、弟子に限らず、公私に渡り若手落語家を育てた。1951年4月には関西学院大学古典芸能研究部の顧問に就任し、落語会を開くと共に、速記本を刊行した。

晩年

弟子の3代目桂米朝によると晩年は一般販売された覚醒剤・ヒロポンの副作用に悩まされていたという。

1951年10月22日、大阪赤川ホームにおける慰問奉仕に出演し、『無筆の犬』と『風呂敷丁稚』を演じた直後に脳溢血で倒れ、翌日死去した。

享年55。法名は、米樂院釋賢信。浄土真宗門徒として生涯を終えた。(キリスト教徒として洗礼を受けたのに、門徒として生涯を終えた為、後年噺家の間でネタになっていた。)

後年

2000年には、平成12年度・第5回上方演芸殿堂入りとなった。

「米團治」の名は2008年に孫弟子の3代目桂小米朝が襲名した。

2009年5月、自宅のあった東成区今里に5代目桂米團治等によって記念碑建立。

米團治は晩年の1940年(昭和15年)6月27日から1947年(昭和22年)11月15日にかけて、身辺の雑記や世相、政治、思想に関する事柄を「凡想禄」と題して、A5判大学ノートに書き記していた。死後、3代目桂米之助が所有していたのを米朝が譲り受け、2005年(平成17年)に岩波書店発行『桂米朝座談 1』で初公開された。そこには、「神は偉大である」などキリスト教の影響が見られたり、「軍人といふものは誠に卑劣なもの」と軍閥を批判する表現が散在し、米團治の知られざる一面が伺われる。

芸風

結び柏は、桂米団治一門の定紋である。

十八番は自作の『代書』や、『猫の忠信』『質屋蔵』『親子茶屋』『仔猫』『足あがり』など。その芸風は、選び抜いたネタを練り直し、熟考を繰り返しつつ磨きを掛けていくという、完璧主義の、知性的な、どちらかというと玄人受けするものであった。落語をひたすら愛し抜いて真剣に突き詰めていく態度は、『上方はなし』に連載された諸論文の筆致にもよく現れており、評論家などから「頭でっかち」と非難を受けることもあった。

研究熱心で、落語会で演じるときも、資料をもとに徹底的に調べ上げて短い噺を膨らませたり、長い噺を短くまとめるなどの腕に長けていた。橘ノ圓都はそんな無理が祟って死期を早めたのではないかと発言している[2]。また、桂米朝は、晩年、『吉野狐』を圓都のところに稽古に行った理由が、複数の師匠の高座から聞き覚えている噺を、一旦稽古をつけて筋を確認し、再構成するためであったと、その真摯な姿勢を評価している[3]

衰亡していた上方落語の伝承にも力を入れた[4]

なお、現在のところ確認されている4代目米團治の録音は、最晩年となる1951年録音の『親子茶屋』があるものの、雑音が多く保存状態も悪い。また、もう一つ残されているがこちらも録音の状態が悪いためにほとんど公開されていない。

「うまかった。大きい所で聞いたら伝わらないけど、狭い所で聞いたらほんまにうまい人やった。……ひとことでいうと芸の小さな人やったからね。それと声に力がなかった」(桂米朝・談[3]

若手との関わり

  • 門下には、3代目桂米之助3代目桂米朝桂米治郎、子供の2代目桂べかこらがいる。
  • 若手に稽古をつけるときは、きちんと丁寧に細部まで教えた[5]。松之助は「『なぜこうなるのか』、『なぜこう言うのか』てなことを細こう説明してくれはるねん」と回想している[1]
  • 入門当初の6代目松鶴と3代目米之助に膝を叩きながら、〆太鼓を熱心に教えたが、終わった二人が風呂屋に入ると膝が真っ赤な手の形で腫れ上がっていて、「リンチにおうたみたいや」と笑いあった[5]。一旦噺を教えた後、夜になって酒を飲みながら教えたネタに関する芸談を朝まで続けるなど、精力的に指導を続けた[4]

人物像

  • 若いころから学究肌で、前座時代、楽屋で「中央公論」などの固い雑誌を愛読していたので、噺家仲間から「あいつはアカ(共産党員)やで」と陰口を言われていた[5]
  • 噺家に入門後、しばらく教会に出入りし、教会関係者から「外人のお客さんが来たら『この人は罪けがれの多い芸界にありながら、きっちり通ってくるすばらしい信徒であります』言うて紹介されるほど優等生」(桂米朝談)だったが、教会の前の酒屋で飲んでくるので苦情を言われ、教会から足が遠のいた[3]。また、洗礼が気持ち良かったので、教会にもう一度洗礼してくれと頼んだが「うちは散髪屋とちゃうで」と断られた[6]
  • 私生活ではかなりのいい加減なところがあった。自宅のそばに区役所があるのにもかかわらず、自身の婚姻届すらも出さなかった。汚れるのも構わずに高座着のまま寝床に入ったり、食事を摂った。麻雀に凝りだし、しまいには夢中のあまり火のついた煙草を羽織の袖懐に入れたまま続けて大騒ぎになったこともあった[7]。到来物の礼状をきちんとした楷書で便箋に何枚も書き封筒におさめるほど律儀なところもあったが、よく出し忘れ、ひどいときは2か月もそのままにしておくこともあった[7]
  • 代書業を営んでいたこともあって、毛筆で字を書くのを得意とした。特に当時の上方の寄席看板の書き文字として主流だった勘亭流を得意とし、紙に好きな芸人の名前を思うままに書き並べ、架空の宣伝ビラを作るのを趣味としていた[1]
  • 当時ヒロポンは本人の印鑑さえあれば薬局で購入できた。代書業を営んでいたことから多くの印鑑を持っていた米團治は、買うたびに異なる印を用いて、購入制限を逃れていた[8]
  • 遺された写真で米團治は、見台を置き、左上見据え睨みを利かしたような顔をしている(項目右上参照)。弟子の米朝によると、落語をしている最中を写真に納めたのではなく、敢えてこういう写真を撮ったのだという(しかし、近年発見された写真の原本には、裏面に日付と「弱法師」というメモ書きが残されており、上記のエピソードは、おそらく米朝の記憶違いであると推察される)。
  • 現在よく口演される『つる』は、米團治が『絵根問』の一部から創作し、落語のエッセンスが全て詰まったものとして好んで高座にかけていた。ある時などは高座で『つる』しか演じず、しかも全く受けないので、友人の花月亭九里丸からやめるように再三忠告されても、依怙地になって演じ続けた[9]
  • 戦時中は隣組の班長になっていたが、自宅に暗幕がないので灯火管制下にも関わらず灯りがついていたり、空襲警報下でも素裸で鉄兜をかぶるだけで、退避もせずに逃げ惑う人々をスケッチし、警防団から避難するよう咎められると、「ほっときなはれ!」と無視するなど、終始醒めた態度を取り続けた[10]
  • 貧しいこともあって税金を払えなかった。ために税務署への申告はせず、ましてや納税の督促や差し押さえにも一切応じなかった。その頑ななスタンスは終始崩れることなく、終いには税務署の方から「納税能力不能」と判断された[9]
  • 3代目米朝の死後、武庫之荘の米朝宅から、米團治直筆の史料が多数発見されている。

語録

  • 「芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良いの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」(晩年に弟子の桂米朝へ語った[11]

脚注

  1. ^ a b c 林家染丸『笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』pp.59-60
  2. ^ 戸田学『上方落語の戦後史』p.145
  3. ^ a b c 上方芸能第93号「上方落語 高潮期への証言」pp.17-19
  4. ^ a b 桂米朝『桂米朝座談 1』p.108
  5. ^ a b c 戸田学『上方落語の戦後史』pp.71-72
  6. ^ 小佐田定雄『米朝らくごの舞台裏』p.112
  7. ^ a b 桂米朝『桂米朝座談 1』pp.104-106
  8. ^ 桂米朝『桂米朝座談 1』pp.98-99
  9. ^ a b 戸田学『上方落語の戦後史』p.120
  10. ^ 桂米朝『桂米朝座談 1』pp.101-102
  11. ^ 『落語と私』p.216

出典

関連項目