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'''シャフレ・レイ'''({{rtl翻字併記|fa|شهر رِیْ|shahr-e rey}})は、[[イラン|イラン・イスラム共和国]]の首都[[テヘラン]]の南方10キロメートルの場所に位置する[[テヘラン州|テヘラーン州]]の[[シャフレスターン]]である。カージャール朝が18世紀にテヘランを建設するよりもずっと古く、紀元前から人の集住する町があった<ref name="mazandaran1989" />。 |
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レイは、かつて、『[[アヴェスター]]』においては'''ラガー'''(Ragâ)、[[聖書]]([[トビト記]])においては'''ラゲス'''(Ragès)<ref>[https://fr.wikisource.org/wiki/Livre de Tobie - Crampon#Chapitre_1 Tobie 1,16]</ref>の名前で言及されていた。[[アレクサンドロス大王]]の時代にも、やはり'''ラゲス'''(Ῥάγες [Rhagès]<ref name="strabon">[[ストラボン|Strabon]]<span>,</span><nowiki> </nowiki>''Géographie''<nowiki> </nowiki><small>[détail des éditions]</small><nowiki> </nowiki><small> |
レイは、かつて、『[[アヴェスター]]』においては'''ラガー'''(Ragâ)、[[聖書]]([[トビト記]])においては'''ラゲス'''(Ragès)<ref>[https://fr.wikisource.org/wiki/Livre de Tobie - Crampon#Chapitre_1 Tobie 1,16]</ref>の名前で言及されていた。[[アレクサンドロス大王]]の時代にも、やはり'''ラゲス'''(Ῥάγες [Rhagès]<ref name="strabon">[[ストラボン|Strabon]]<span>,</span><nowiki> </nowiki>''Géographie''<nowiki> </nowiki><small>[détail des éditions]</small><nowiki> </nowiki><small>[http://www.mediterranees.net/geographie/strabon/XI-13.htm lire en ligne]</small>, XI, 13 - La Médie, 6</ref>)と呼ばれていたが、[[セレウコス朝]]の時代には'''エウローポス'''(ευρωπος [Eurōpos]<ref>Nommée ainsi par [[セレウコス1世|Séleucos I{{Er}} Nicator]] ; ''cf.'' </ref>、「だだっ広い」の意)と呼ばれ、[[パルティア|アルシャク朝パルティア]]の時代に'''アルサキア'''(Arsacia Ἀρσακία [Arsakia]<ref name="strabon">[[ストラボン|Strabon]]<span>,</span><nowiki> </nowiki>''Géographie''<nowiki> </nowiki><small>[détail des éditions]</small><nowiki> </nowiki><small>[http://www.mediterranees.net/geographie/strabon/XI-13.htm lire en ligne]</small>, XI, 13 - La Médie, 6</ref>)に改名された。 |
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== 歴史 == |
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2016年12月11日 (日) 01:16時点における版
シャフレ・レイ(ペルシア語: شهر رِیْ, ラテン文字転写: shahr-e rey)は、イラン・イスラム共和国の首都テヘランの南方10キロメートルの場所に位置するテヘラーン州のシャフレスターンである。カージャール朝が18世紀にテヘランを建設するよりもずっと古く、紀元前から人の集住する町があった[1]。
レイは、かつて、『アヴェスター』においてはラガー(Ragâ)、聖書(トビト記)においてはラゲス(Ragès)[2]の名前で言及されていた。アレクサンドロス大王の時代にも、やはりラゲス(Ῥάγες [Rhagès][3])と呼ばれていたが、セレウコス朝の時代にはエウローポス(ευρωπος [Eurōpos][4]、「だだっ広い」の意)と呼ばれ、アルシャク朝パルティアの時代にアルサキア(Arsacia Ἀρσακία [Arsakia][3])に改名された。
歴史
レイの歴史はアーリヤ人の王制国家時代にさかのぼると見られ、メディア帝国(マーダイ帝国)時代には帝国の他のどの町よりも人口が多かった[1]。
ザラスシュトラは紀元前626年に当地で生誕したとされる。5世紀からアーリヤ系のスキタイであるダイラム人がカスピ海の北方からラガーに移り住むようになった。ダイラム人の間にはゾロアスター教が深く浸透していたので、彼らはアラブの征服に強く抵抗した。西暦640年に町はアラブ人により一度破壊された。その後、町には極端な思想に反対する者たちの考え方が浸透し、民主的な話し合いによる論争が活発に行われるようになった[5]。
アッバース朝時代、シャフレ・レイはバグダードに次ぐ、帝国第二の都市であった。アッバース朝の第三代カリフ、ムハンマド・アル=マフディーは、カリフになる前、シャフレ・レイのアミールであった。彼は町を再建し、町の名前をアル=ムハンマディーヤに改めた。のちに第五代カリフとなるハールーン・アッ=ラシードは西暦766年にこの町で生まれた。
西暦860年には、この町でアブー・バクル・ムハンマド・イブン・ザカリヤー・アッ=ラーズィー(医学・哲学者のラーゼス)が生誕している。アッ=ラーズィーは医学や哲学の分野で業績を残したペルシア人であるが、理性主義者であったため専制に反対し、彼の不可知論は激しい論争を引き起こした。またその呼び名、「アッ=ラーズィー」は「ラーズ生まれの」を意味するニスバである。アッバース朝時代を通して、この町は反体制派の巣窟となった。ムゥタズィラ学派にシーア派、その他にも多くのセクトが、この町に避難場所を見出した。
10世紀の終わり頃には当地にブワイフ朝の首都が置かれた。しかし1042年にはセルジューク朝の手に落ちた。1149年には詩人、哲学者、神学者のファフルッディーン・アッ=ラーズィーが当地にて生まれた。
紀元前以来の古都、ラーズの町は1220年のモンゴルの西アジア侵入の際、徹底的に破壊され、それ以降と断絶がある。
1786年にカージャール朝が首都をティヒラーン(テヘラン)に建設したのち、レイは長年にわたってティヒラーンに従属する郊外の町となり、今に至る。
歴史的建造物
- シャー・アブドルアズィーム廟(ハサン・イブン・アリーの5世孫でイマーム・アリー・リダーの弟、イマーム・ムハンマド・タキーの同盟者であった人物の霊廟)
- サーサーン朝時代の要塞跡
- セルジューク朝の君主、トゥグリル・ベクの霊廟塔
脚注
- ^ a b نیکطبع, پروانه (1989年9月). “ری در زمان طبری” (PDF). دانشگاه مازندران. 2016年11月27日閲覧。
- ^ Tobie 1,16
- ^ a b Strabon, Géographie [détail des éditions] lire en ligne, XI, 13 - La Médie, 6
- ^ Nommée ainsi par Séleucos Ier Nicator ; cf.
- ^ Aly Mazahéri, La Vie des musulmans au Moyen-Âge aux Xe-XIIIe siècle, Paris, Hachette, 6e éd. 1951, pp.102 sq