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IBM で[[パーソナルコンピュータ]] (PC) を開発するために集まったタスクフォースは、[[オペレーティングシステム]]を含む重要なコンポーネントを社外から導入することを決めた。全てを社内で開発するというIBMの伝統を打ち破ったこの方針は、後知恵として見れば、IBM PCが業界標準となり、次いでIBM自身の手から主導権が喪失したそもそもの原因となった重大な決定である。しかし、この決断は時間を節約する必要性から仕方なくなされたものだった。オペレーティングシステムの導入元として[[マイクロソフト]]が選ばれた。IBM はマイクロソフトが開発した[[ソフトウェア]]についてはマイクロソフトが所有権を保持すべきだと考え、若干の示唆を与える以外にマイクロソフトを助けるつもりもなかった。タスクフォースの一員だったジャック・サムズは「その理由は (IBM) 社内にあった。我々はある人々に彼らの所有物を盗んだとして訴えられるという問題を抱えていた。こちらの[[プログラマ]]が他者の[[ソースコード]]を見た場合、そのプログラマが IBM に戻ってきてそのソースコードを利用して儲けたと言われる可能性があり、結局非常に高くつくかもしれないと恐れた。我々はそのような一連の訴訟で負けており、他社が所有する製品の開発にIBMが手を貸すということをしたくなかった。だから我々はマイクロソフトに行き、彼らが自らの製品として開発してほしいという立場を明らかにした」と述べている。IBMは1980年7月に初めてマイクロソフトに接触し、調査した。翌月も交渉が続き、最終的に契約が結ばれたのは11月初めのことである。マイクロソフト社内の文献によれば、DOSの最初のバージョンはIBMに15,000ドルでライセンス供与された。マイクロソフトはライセンスの一部としてロイヤルティも受け取ったが、ロイヤルティの合意事項はいつも厳重に守られた秘密だった<ref name="Ref-1">Wallace, J. & Erickson, J. (1992). ''Hard Drive'', John Wiley & Sons. ISBN 0-471-56886-4.</ref>。 |
IBM で[[パーソナルコンピュータ]] (PC) を開発するために集まったタスクフォースは、[[オペレーティングシステム]]を含む重要なコンポーネントを社外から導入することを決めた。全てを社内で開発するというIBMの伝統を打ち破ったこの方針は、後知恵として見れば、IBM PCが業界標準となり、次いでIBM自身の手から主導権が喪失したそもそもの原因となった重大な決定である。しかし、この決断は時間を節約する必要性から仕方なくなされたものだった。オペレーティングシステムの導入元として[[マイクロソフト]]が選ばれた。IBM はマイクロソフトが開発した[[ソフトウェア]]についてはマイクロソフトが所有権を保持すべきだと考え、若干の示唆を与える以外にマイクロソフトを助けるつもりもなかった。タスクフォースの一員だったジャック・サムズは「その理由は (IBM) 社内にあった。我々はある人々に彼らの所有物を盗んだとして訴えられるという問題を抱えていた。こちらの[[プログラマ]]が他者の[[ソースコード]]を見た場合、そのプログラマが IBM に戻ってきてそのソースコードを利用して儲けたと言われる可能性があり、結局非常に高くつくかもしれないと恐れた。我々はそのような一連の訴訟で負けており、他社が所有する製品の開発にIBMが手を貸すということをしたくなかった。だから我々はマイクロソフトに行き、彼らが自らの製品として開発してほしいという立場を明らかにした」と述べている。IBMは1980年7月に初めてマイクロソフトに接触し、調査した。翌月も交渉が続き、最終的に契約が結ばれたのは11月初めのことである。マイクロソフト社内の文献によれば、DOSの最初のバージョンはIBMに15,000ドルでライセンス供与された。マイクロソフトはライセンスの一部としてロイヤルティも受け取ったが、ロイヤルティの合意事項はいつも厳重に守られた秘密だった<ref name="Ref-1">Wallace, J. & Erickson, J. (1992). ''Hard Drive'', John Wiley & Sons. ISBN 0-471-56886-4.</ref>。 |
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マイクロソフトは[[シアトル・コンピュータ・プロダクツ]] (SCP) から[[QDOS|86-DOS]]を当初はライセンス供与を受け、後に買い取った。それをマイクロソフトの従業員ボブ・オレアがSCP従業員(後にマイクロソフトに移籍)[[ティム・パターソン]]の助けを得てIBM PC向けに改造した。1981年2月、オレアは86-DOSをPCのプロトタイプ機上で動作させることに成功。86-DOSは8インチ[[フロッピーディスク]]から5.25インチフロッピーディスクに変換され、マイクロソフトの支援を受けてIBMが書いた[[Basic Input/Output System|BIOS]]と組み合わされた<ref name="Ref-2" />。IBMで[[要求仕様]]を書いた人数はマイクロソフトでコードを書いた人数よりも多い。オレアは[[ボカラトン]]のIBMエントリーシステム部門でやり取りしなければならない人数にしばしば圧倒された。86-DOSはIBM PC DOS 1.0とブランド名変更され、1981年8月にIBM PCと共にリリースされた。1981年末までパターソンは改良に取り組み、それがPC DOS 1.1と呼ばれるようになった。大きな改良点はフロッピーディスクを両面使えるようにした点で、記憶容量が160KBから320KBに倍増した。PC DOS 1.1は1982年3月に完成。その後マイクロソフトのプログラマ達(主なメンバーは[[ポール・アレン]]、[[マーク・ズビコウスキ]]、アーロン・レイノルズ)<ref name="Ref-2">Duncan, Ray (1988). 「The MS-DOS Encyclopedia」Microsoft Press. ISBN 1-55615-049-0.</ref>が |
マイクロソフトは[[シアトル・コンピュータ・プロダクツ]] (SCP) から[[QDOS|86-DOS]]を当初はライセンス供与を受け、後に買い取った。それをマイクロソフトの従業員ボブ・オレアがSCP従業員(後にマイクロソフトに移籍)[[ティム・パターソン]]の助けを得てIBM PC向けに改造した。1981年2月、オレアは86-DOSをPCのプロトタイプ機上で動作させることに成功。86-DOSは8インチ[[フロッピーディスク]]から5.25インチフロッピーディスクに変換され、マイクロソフトの支援を受けてIBMが書いた[[Basic Input/Output System|BIOS]]と組み合わされた<ref name="Ref-2" />。IBMで[[要求仕様]]を書いた人数はマイクロソフトでコードを書いた人数よりも多い。オレアは[[ボカラトン]]のIBMエントリーシステム部門でやり取りしなければならない人数にしばしば圧倒された。86-DOSはIBM PC DOS 1.0とブランド名変更され、1981年8月にIBM PCと共にリリースされた。1981年末までパターソンは改良に取り組み、それがPC DOS 1.1と呼ばれるようになった。大きな改良点はフロッピーディスクを両面使えるようにした点で、記憶容量が160KBから320KBに倍増した。PC DOS 1.1は1982年3月に完成。その後マイクロソフトのプログラマ達(主なメンバーは[[ポール・アレン]]、[[マーク・ズビコウスキ]]、アーロン・レイノルズ)<ref name="Ref-2">Duncan, Ray (1988). 「The MS-DOS Encyclopedia」Microsoft Press. ISBN 1-55615-049-0.</ref>が[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]に対応した[[PC/AT#PC XT|IBM PC/XT]]向けにPC DOS 2.0の開発を始めた。最初のPC DOS 1.0が[[アセンブリ言語]]で4,000行だったのに対して、2.0は20,000行になっている。2.0は1983年3月に正式発表された。1984年3月、[[PC/AT#PCjr|IBM PCjr]]が登場。PCjrの持つROMカートリッジと若干差異のあったディスクコントローラに対応したPC DOS 2.1が動作した<ref name="Ref-2"/>。1984年8月、[[インテル]]の[[Intel 80286|80286]]プロセッサを搭載した[[PC/AT|IBM PC/AT]]が登場。より大きな[[ハードディスクドライブ]]と高密度のフロッピーディスク (1.2MB) に対応したPC DOS 3.0が動作した<ref name="Ref-1"/>。 |
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1985年8月、IBMとマイクロソフトは新たに一からオペレーティングシステムを共同で開発する契約を結んだ。当初{{読み仮名|Advanced DOS|アドバンスト・ドス}}と呼ばれていたが、1987年4月2日、[[OS/2]]がその共同開発の最初の成果として発表された<ref>{{Cite web|title=Microsoft Operating System/2 With Windows Presentation Manager Provides Foundation for Next Generation of Personal Computer Industry|author=Michal Necasek|work=The History of OS/2|date=2004-06-24|url=http://pages.prodigy.net/michaln/history/pr/87apr_m3592.html|accessdate=2011-03-04}} — a copy of Microsoft's 1987-04-02 press release announcing OS/2</ref>。同時にIBMは次世代のパーソナルコンピュータ [[IBM PS/2|IBM Personal System/2]] をリリースした<ref name="Ref-1"/>。 |
1985年8月、IBMとマイクロソフトは新たに一からオペレーティングシステムを共同で開発する契約を結んだ。当初{{読み仮名|Advanced DOS|アドバンスト・ドス}}と呼ばれていたが、1987年4月2日、[[OS/2]]がその共同開発の最初の成果として発表された<ref>{{Cite web|title=Microsoft Operating System/2 With Windows Presentation Manager Provides Foundation for Next Generation of Personal Computer Industry|author=Michal Necasek|work=The History of OS/2|date=2004-06-24|url=http://pages.prodigy.net/michaln/history/pr/87apr_m3592.html|accessdate=2011-03-04}} — a copy of Microsoft's 1987-04-02 press release announcing OS/2</ref>。同時にIBMは次世代のパーソナルコンピュータ [[IBM PS/2|IBM Personal System/2]] をリリースした<ref name="Ref-1"/>。 |
2016年11月29日 (火) 00:17時点における版
開発者 | IBM、マイクロソフト |
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OSの系統 | MS-DOS |
開発状況 | 歴史上のオペレーティングシステム |
ソースモデル | クローズドソース |
最新安定版 | PC DOS 2000 / 1998年 |
既定のUI | コマンド行インタフェース |
ライセンス | プロプライエタリ |
IBM PC DOS(The IBM Personal Computer Disk Operating System)は、IBMが1980年代から2000年代初めにかけて供給していた、IBM PC 向けの「IBM公式版」MS-DOSである。元々はマイクロソフトのMS-DOSに、OEMでIBMブランドを付けたものであったが、徐々にIBMの開発による独自の部分が増えていった(システムファイルの名前等)。
歴史
IBM でパーソナルコンピュータ (PC) を開発するために集まったタスクフォースは、オペレーティングシステムを含む重要なコンポーネントを社外から導入することを決めた。全てを社内で開発するというIBMの伝統を打ち破ったこの方針は、後知恵として見れば、IBM PCが業界標準となり、次いでIBM自身の手から主導権が喪失したそもそもの原因となった重大な決定である。しかし、この決断は時間を節約する必要性から仕方なくなされたものだった。オペレーティングシステムの導入元としてマイクロソフトが選ばれた。IBM はマイクロソフトが開発したソフトウェアについてはマイクロソフトが所有権を保持すべきだと考え、若干の示唆を与える以外にマイクロソフトを助けるつもりもなかった。タスクフォースの一員だったジャック・サムズは「その理由は (IBM) 社内にあった。我々はある人々に彼らの所有物を盗んだとして訴えられるという問題を抱えていた。こちらのプログラマが他者のソースコードを見た場合、そのプログラマが IBM に戻ってきてそのソースコードを利用して儲けたと言われる可能性があり、結局非常に高くつくかもしれないと恐れた。我々はそのような一連の訴訟で負けており、他社が所有する製品の開発にIBMが手を貸すということをしたくなかった。だから我々はマイクロソフトに行き、彼らが自らの製品として開発してほしいという立場を明らかにした」と述べている。IBMは1980年7月に初めてマイクロソフトに接触し、調査した。翌月も交渉が続き、最終的に契約が結ばれたのは11月初めのことである。マイクロソフト社内の文献によれば、DOSの最初のバージョンはIBMに15,000ドルでライセンス供与された。マイクロソフトはライセンスの一部としてロイヤルティも受け取ったが、ロイヤルティの合意事項はいつも厳重に守られた秘密だった[1]。
マイクロソフトはシアトル・コンピュータ・プロダクツ (SCP) から86-DOSを当初はライセンス供与を受け、後に買い取った。それをマイクロソフトの従業員ボブ・オレアがSCP従業員(後にマイクロソフトに移籍)ティム・パターソンの助けを得てIBM PC向けに改造した。1981年2月、オレアは86-DOSをPCのプロトタイプ機上で動作させることに成功。86-DOSは8インチフロッピーディスクから5.25インチフロッピーディスクに変換され、マイクロソフトの支援を受けてIBMが書いたBIOSと組み合わされた[2]。IBMで要求仕様を書いた人数はマイクロソフトでコードを書いた人数よりも多い。オレアはボカラトンのIBMエントリーシステム部門でやり取りしなければならない人数にしばしば圧倒された。86-DOSはIBM PC DOS 1.0とブランド名変更され、1981年8月にIBM PCと共にリリースされた。1981年末までパターソンは改良に取り組み、それがPC DOS 1.1と呼ばれるようになった。大きな改良点はフロッピーディスクを両面使えるようにした点で、記憶容量が160KBから320KBに倍増した。PC DOS 1.1は1982年3月に完成。その後マイクロソフトのプログラマ達(主なメンバーはポール・アレン、マーク・ズビコウスキ、アーロン・レイノルズ)[2]がハードディスクに対応したIBM PC/XT向けにPC DOS 2.0の開発を始めた。最初のPC DOS 1.0がアセンブリ言語で4,000行だったのに対して、2.0は20,000行になっている。2.0は1983年3月に正式発表された。1984年3月、IBM PCjrが登場。PCjrの持つROMカートリッジと若干差異のあったディスクコントローラに対応したPC DOS 2.1が動作した[2]。1984年8月、インテルの80286プロセッサを搭載したIBM PC/ATが登場。より大きなハードディスクドライブと高密度のフロッピーディスク (1.2MB) に対応したPC DOS 3.0が動作した[1]。
1985年8月、IBMとマイクロソフトは新たに一からオペレーティングシステムを共同で開発する契約を結んだ。当初
1988年7月に出荷されたPC DOS 4.0はIBM社内で試作されたDOS 5をベースにしたものでバグが多く失敗に終った。その機能は後にOS/2に採用された[要出典]。
デジタルリサーチはDR DOS 5.0をリリースし、マイクロソフトに対抗しようとした。それに対してマイクロソフトはまだ存在しないPC DOS 5.0 (MS-DOS 5.0) を発表し、急ピッチで開発を進めて対抗した。PC DOS 5.0はIBMとマイクロソフトがコード全体を共有した最後のDOSであり、OS/2 2.0にも組み込まれ、後にWindows NTの仮想DOSマシンのベースとなった。
分裂の際の条件に基づき、IBMは自前のDOSを保持できることになり、(権利を買い取って)DOSの開発を続けた。また、OS/2上でWindowsアプリケーションが動作する機能も保持できることになった。マイクロソフトはDOSの範囲を限定し、OEM版ディスケットには「MS-DOS and Additional Tools」とふたつの製品が含まれていることを明示していた。IBMは、独自のエディタや各種ツールを同梱した自前のDOSをリリースした。
最終的な分裂はPC DOS 6.30以降である。PC DOS 6.30はPowerPC版OS/2にも使われた。ボカラトンが閉鎖される前にリリースされた最後のバージョンであるPC DOS 7.0はSAA準拠機能(REXX、IPF方式のヘルプ、unpack2など全てOS/2から導入された機能)を追加し、DOS版の古いツールの大半を削除した。
PC DOS 2000はオースティンで開発された。IBMはPC DOSのコードをサーバのブートディスク用に使い続けている。
マイクロソフトとの決別
1993年まで、PC DOSはMS-DOSのブランド名を付け替えただけのものだった。MS-DOS 6が同年3月にリリースされ、IBM独自開発のPC DOS 6.1が6月にリリースされ、両社は決別することになった。PC DOSからQBasicが無くなり、エディタも独自のEに置き換えられた。同年12月にはPC DOS 6.3がリリースされている。
1994年11月、PC DOS 7をリリース。プログラミング言語 REXX を追加し、フロッピーディスクの新フォーマット XDF をサポートし、1.44MBから1.86MBに容量を増やした。
商品としての最後のリリースはPC DOS 2000で組み込みシステム市場などで使われた。PC DOS 7をベースとして、2000年問題に対処している。
その後もFAT32対応などを行った7.1が開発されたが商品としてではなく、保守部品的な位置づけである。
ThinkPad製品では今もレスキュー及びリカバリー・パーティションのためにPC DOSの最新版を搭載している[要出典]。
日本における展開
1981年に米国で発売されたIBM PCは、その性能や画面解像度では日本語を扱うには不十分であった。そこで、日本IBMは日本国内ではIBM PCを発売せず、代わりに日本語表示に特化した独自のパソコン「マルチステーション5550」を開発・販売した。5550に対応する日本語DOSの開発は米マイクロソフトが担当した[4]。そのため、当初PC DOSは一部のパソコンショップで輸入品として販売されるのみだった[5]。1984年10月にIBM PCjr互換ではあるがIBM JX用にPC DOS 2.10 JX版が発売。その後、外資系企業などからの要望を受けて1985年11月より日本IBMからもPC/XTおよびPC/ATが発売された[6]。しかし、この時点ではまだ5550と日本語DOS、PC/ATとPC DOSというように、日本語環境と英語環境がハードウェアもソフトウェアも別々に存在していた。
1988年4月、日本IBMはPS/2と上位互換性を持たせたPS/55 モデル5550S/T/5570Tを発売。同じハードウェアで日本語DOSとPC DOSが動作するようになった。1989年4月にはDOS J4.0を発売。従来のPS/55高解像度ディスプレイで動作する日本語DOSとVGAで動作するPC DOSを統合し、各種メッセージは日本語と英語のバイリンガルに対応した。
1990年10月にIBM DOS J4.0/Vが発表された。これはPC DOS 4.0をベースにDOS標準の機能であるデバイスドライバによって日本語の処理を実現させたもので、それらのデバイスドライバを外せばシステムはPC DOSそのものであった[7]。また、従来の英語モードのみに対応していたVGAで日本語表示をソフトウェアで実現。日本語を表示するための特別なハードウェアが不要になり、結果的にはPC/AT互換機で日本語アプリケーションの動作を可能にした。
PC DOS 5.0からは英語版においてもOADG仕様の日本語106キーボードに対応した[8]。
PS/55高解像度ディスプレイに対応したバージョンは1991年に発売されたDOS J5.0が最後になった。その後はDOS/Vにて本家と同じバージョン体系で日本語版が発売された。
バージョン | 名称 | 特徴 |
---|---|---|
1.0 | (該当なし) | |
2.1 | PC DOS 2.10 JX版 | JX用の英語DOS。PCjrのPC DOS 2.1に相当。 |
3.0 | (該当なし) | |
4.0 | IBM DOS J4.0 | PS/55用。日本語と英語のバイリンガル環境を実現。 |
4.0 | IBM DOS J4.0/V | PS/55のVGAで日本語表示を可能にした。 |
5.0 | IBM DOS J5.0/V | PS/2で日本語モードをサポート (J5.02/V)。 |
5.0 | IBM DOS J5.0 | DOS J4.0互換のJ-DOSモードとDOS J5.0/V相当のDOS/Vモードを実装。 |
6.1 | PC DOS J6.1/V |
→詳細は「DOS/V」を参照
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6.3 | PC DOS J6.3/V | |
7 | PC DOS J7.0/V | |
2000 | PC DOS 2000 日本語版 |
脚注・出典
- ^ a b c Wallace, J. & Erickson, J. (1992). Hard Drive, John Wiley & Sons. ISBN 0-471-56886-4.
- ^ a b c Duncan, Ray (1988). 「The MS-DOS Encyclopedia」Microsoft Press. ISBN 1-55615-049-0.
- ^ Michal Necasek (2004年6月24日). “Microsoft Operating System/2 With Windows Presentation Manager Provides Foundation for Next Generation of Personal Computer Industry”. The History of OS/2. 2011年3月4日閲覧。 — a copy of Microsoft's 1987-04-02 press release announcing OS/2
- ^ 「日本IBM、16ビットパソコンに米マイクロ社製のOS採用を決定、開発を委託。」『日経産業新聞』 1982年12月2日、4面。
- ^ コンピュータランドジャパン「The IBMパーソナルコンピュータ コンピュータランド・ストアより発売」『情報科学』 1983-03、情報科学研究所、p.101。
- ^ 『日本アイ・ビー・エム50年史』、日本アイ・ビー・エム、1988年、p.456。
- ^ APIが日本語のファイル名を正常に処理できるように修正されているので、厳密には英語版PC DOSと同一ではない。
- ^ IBM Corporation (1991年6月11日) "IBM DOS Version 5.00 and Upgrade" 2016年5月28日閲覧。
参考文献
- IBM Corporation and Microsoft, Inc、「Dos 3.30: User's Guide」、IBM Corporation、1987年、Part number 80X0933.
- IBM Corporation and Microsoft, Inc、「Dos 3.30: Reference (Abridged)」、IBM Corporation、1987年、Part number 94X9575.
- IBM Corporation、「Getting Started with Disk Operating System Version 4.00」、IBM Corporation、1988年、Part number 15F1370.
- IBM Corporation、「Using Disk Operating System Version 4.00」、IBM Corporation、1988年、Part number 15F1371
- IBM Corporation、「IBM Disk Operating System Version 5.0. User Guide and Reference、IBM Corporation、1991年、Part number 07G4584.
- IBM Corporation、「PC DOS 7 User's Guide」、IBM、1995年
- IBM Corporation、「IBM PC DOS and Microsoft Windows User's Guide」インディアナポリス、Que Corporation、1995年、ISBN 0-7897-0276-2.
- 『IBM DOS バージョン J5.0 ユーザーズ・ガイド』、日本アイ・ビー・エム、1991年、Part number SC18-2493-00
- 『PC DOS J6.1/V カンタンDOS』、日本アイ・ビー・エム、1993年、Part number SC88-3049-00
外部リンク
- IBM ServerGuide Scripting toolkit - DOS Edition には PC DOS 7.1(June 2005)が含まれており、LBAとFAT32をサポートしている。