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2016年11月29日 (火) 00:04時点における版
ダイナマイト・キッド | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ダイナマイト・キッド トミー・ビリントン[1] |
本名 |
トーマス・ビリントン (トム・ビリントン) |
ニックネーム |
爆弾小僧 爆弾貴公子 剃刀戦士 ブリティッシュ・ブルドッグ |
身長 | 173cm - 178cm |
体重 | 98kg - 105kg |
誕生日 | 1958年12月5日(66歳) |
出身地 |
イギリス イングランド ランカシャー州ゴルボーン |
トレーナー | テッド・ベトレー |
デビュー | 1975年[1] |
ザ・ダイナマイト・キッド(The Dynamite Kid)のリングネームで知られるトム・ビリントン(Tom Billington、本名:Thomas Billington、1958年12月5日 - )は、イギリス出身の元プロレスラー。日本ではリングネームをそのまま直訳し「爆弾小僧」などの異名を持った。
英国マットを経てカナダのカルガリーで頭角を現し、1980年代後半はWWFでも活躍。日本マットにおいてはタイガーマスクと抗争を展開し、「肉体の表面張力の限界」とまで言われた鍛え抜かれた筋肉を備え人気を博した。
過剰なまでの受身で対戦相手の攻撃を引き出す一方で、スピーディかつ直線的、自らの危険すら顧みない妥協なき攻撃スタイルから「剃刀戦士(カミソリファイター)」とも形容された。このスタイルは後世のレスラーらにも多大な影響を与え、彼を目標に掲げるレスラーは今なお多い[2]。
来歴
元プロレスラーのテッド・ベトレーに師事し、彼の紹介でビリー・ライレー・ジムにも出稽古に行くなどしてシュート・レスリングを学び[3]、1975年に17歳でデビュー。ビッグ・ダディらクラブトリー3兄弟の主宰するジョイント・プロモーションズを活動拠点に、1977年はローラーボール・マーク・ロコと抗争[4]、1978年1月25日にはジム・ブリークスからブリティッシュ・ウェルター級王座を奪取した[5]。同年4月にカナダのカルガリーへ渡り、スチュ・ハートのスタンピード・レスリングに定着、7月に英連邦ミッドヘビー級王座の初代王者に認定されている[6]。以降ブレット・ハートと同王座を争い[6]、元NWA世界ジュニアヘビー級王者のネルソン・ロイヤルとも対戦した[7]。
1979年7月、「英連邦ジュニアヘビー級王者」として国際プロレスの「'79ビッグ・サマー・シリーズ」に初来日。7月19日の北海道木古内町大会での初戦では、寺西勇を相手に30分時間切れ引き分け[8]。7月20日には秋田県大館市で阿修羅・原が保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦しダブル・カウントアウト、翌7月21日には新潟県村上市で原と国際プロレス初のラウンド制のダブル・タイトルマッチを行い、4分7ラウンドの時間切れで引き分けている[8][9](この3試合は東京12チャンネル『国際プロレスアワー』で録画中継された[10])。国際プロレス来日時のギャラは、カルガリーにおけるギャラの週400ドルを上回る週1000ドルだったとされる[11]。しかし、同時期に国際プロレスと提携していた新日本プロレスもスタンピード・レスリングに急接近し、初来日直後の同年8月にアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳のカルガリー遠征を実施、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』の90分特番において、8月18日に行われた藤波VSキッドのWWFジュニアヘビー級王座戦を録画中継した。翌1980年1月、国際プロレスはキッドの再来日を予定していたものの、最終的には新日本プロレスへの移籍が決定する[11]。以降、新日本のジュニアヘビー級戦線にて、藤波辰巳や初代タイガーマスクのライバルとなって活躍。1984年1月に開催されたWWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦では、従兄弟のデイビーボーイ・スミスおよびザ・コブラとの三つ巴決勝戦を制してチャンピオンに輝いている。
この間、北米ではカルガリーを主戦場にしつつアメリカ合衆国本土にも進出。1982年8月30日には新日本のブッキングでニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初登場し、初代タイガーマスクと対戦している[12]。1983年はオレゴン州ポートランドを拠点とする太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)で活動、9月7日にカート・ヘニングを破りNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を獲得し[13]、11月12日にはジ・アサシン(デビッド・シェラ)と組んでヘニング&バディ・ローズから同タッグ王座を奪取した[14]。本拠地のスタンピード・レスリングでは、1984年3月9日にキラー・カーンを破りフラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得している[15]。
1984年11月、全日本プロレスへデイビーボーイ・スミスと共に移籍。新日本の「第4回MSGタッグ・リーグ戦」に出場が予定されていたキッド&スミスが全日本の「'84世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦するという衝撃的な移籍劇だった。キッド&スミスは、この移籍は当時新日本が提携していたWWFのカルガリー侵攻に対する反発であり、全日本サイドもアメリカでのNWA対WWFのレスリング・ウォーが原因であるとして、引き抜きではないことを主張していた[16]。この事態を受け、MSGタッグリーグ戦の立会人として来日していたWWFの総帥ビンス・マクマホン・ジュニアは、新日本の坂口征二副社長の橋渡しでジャイアント馬場とトップ会談。選手引き抜き問題に関して話し合ったとされるが[11]、翌1985年もキッド&スミスは日本では全日本プロレス、アメリカではWWFを主戦場に活動しており、実際は単なる表敬訪問に終わっている[16]。なお、キッドはこの時期にスミスと共にウエイトアップを図りヘビー級へ転向した。当時の公称として108kgまでビルドアップしたとされている。当時はテレビ朝日との契約問題がクリアされておらず、キッドの「'84世界最強タッグ決定リーグ戦」における試合は『全日本プロレス中継』では放送されなかった[11]。
1985年よりWWFに本格参戦し、スミスとのタッグチーム "ブリティッシュ・ブルドッグス" で活躍。1986年4月7日にはレッスルマニア2のロサンゼルス大会に出場し、ドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)からWWF世界タッグ王座を奪取した[17]。シングルでは、 1985年11月7日のPPV "ザ・レスリング・クラシック" で行われた16人参加のワンナイト・トーナメントに出場[18]、1回戦でニコライ・ボルコフ、2回戦でアドリアン・アドニスを破り勝ち進んだが、準決勝でランディ・サベージに敗退した[19][20]。また、ブリティッシュ・ブルドッグスのライバルチームだったルージョー・ブラザーズのジャック・ルージョーとは犬猿の仲で、バックステージでの私闘騒ぎを起こしている[21]。
1986年12月13日、カナダのハミルトンでのタッグマッチ(ブリティッシュ・ブルドッグスvsカウボーイ・ボブ・オートン&マグニフィセント・ムラコ)において、試合中のアクシデントにより椎間板に重傷を負った[22]。この負傷は、キッドのその後の選手生命に大きな影響を与えることとなった[23]。
1988年末にWWFを離脱し、1989年からは再びスタンピード・レスリングおよび全日本プロレスへ復帰。1990年にデイビーボーイ・スミスとのコンビを解散してからはジョニー・スミスとニュー・ブリティッシュ・ブルドッグス(ブリティッシュ・ブルーザーズ)を結成し、1991年4月6日に小橋健太&菊地毅を破りアジアタッグ王座を獲得した[24]。スタンピード・レスリングではブッカー業務も手掛け、スモー・ハラこと北原光騎をカルガリーにブッキングしている[25]。
1991年の世界最強タッグ決定リーグ戦最終日に現役引退を表明したが、1993年7月に復帰。1996年10月にはみちのくプロレスの両国国技館大会に来日。ドス・カラス&小林邦昭とタッグを組み、初代タイガーマスク、ミル・マスカラス、ザ・グレート・サスケ組との対戦で久々に日本のファンの前へ姿を現したが、かつて誇った肉体美は面影もなく痩せ細り、体調の悪化が歴然としていた[26]。
全盛期の鍛え上げられた肉体、スピードとパワーを兼ね備えたダイナミックなレスリングスタイルは後世の数多のレスラーらに大きな影響を与えた。特にタイガーマスクとの一連の試合を見てレスラーを志した者は多く、WWEや新日本プロレスで活躍したクリス・ベノワもその一人であった。そして今なお、憧れの、あるいは影響を受けた人物として挙げるレスラーは数多い。
私生活、および引退後
現役時代に結婚した夫人とはキッドの家庭内暴力を理由に離婚。元夫人は自分の喉元へショットガンを突きつけられたと主張しており、キッド本人もこれを認めている。その一方でキッドは「当時自宅には弾丸が無く、弾が入っていない銃で脅してみせただけ」と弁明しており、真相は明らかになっていない。
現在は現役時代のステロイド剤を始めとする多種の薬物群の投与や、1986年に負った椎間板の大怪我(上述)等の影響で車椅子生活を余儀なくされている[2][27]。
クリス・ベノワが死去した2007年には、CNNの取材によって、現役時代のステロイドと鎮痛剤の使用について語った[28]。
2013年、ドキュメンタリー映画 "Dynamite Kid - A Matter of Pride" が完成。2月24日にマンチェスターのヒルトン・ホテルで行われたイベント試写会において、公の場へ久々に姿を見せた[29]。
2016年10月5日、NHK BSプレミアムで放送された『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』に出演。脳卒中に倒れ介護施設に滞在中であったが、タイガーマスクのことなら話したいと特別に取材を受け入れた[30]。
得意技
- ダイビング・ヘッドバット
- キッドの代表的なフィニッシュ技。マット上に寝ている相手に向かって、トップロープからジャンプして倒れ込み、自らの頭部を相手にぶつける技。コーナーから離れた相手に対して非常に長い飛行距離で放つ一方、コーナーのほぼ真下に寝ている相手への、飛行距離の短い「直下式」も使用していた。キッドの場合、相手の頭部を狙って繰り出している点が最大の特長であった[31]。
- ツームストーン・パイルドライバー
- 1983年4月の初代タイガーマスク戦で佐山聡に頸椎損傷の重傷を負わせ、欠場に追い込んだ技。
- 高速ブレーンバスター
- 実況アナウンサーの若林健治は「名刀村雨」と呼んでいたこともある。一度両足で大きく踏み込んでから、一気に高速で反り投げるもので、そのイメージがナイフで切り裂くようであったから「剃刀ブレーンバスター」とも呼ばれた。クリス・ベノワや菊地毅が影響を受けて、ほぼ同じ形のブレーンバスターを使用。
- ショルダー・ブロック
- 自身がウェイトに恵まれなかった故からパワーファイターとは違い、スピードを重視したタックル。相手が倒れなければ2発、3発、4発と倒れるまで見舞い続ける。自分よりも大きい相手に見舞っていくことが多い、キッド独特のムーブの一つ。
- バックドロップ
- バックドロップ・ホールド
- 全日本プロレスで主にヘビー級戦線における奥の手として使用された。相手の片足を抱え込む形で使用。相手を持ち上げた後、大きく溜めをつくって投げるのが特徴で、高角度で繰り出すこともあった。
また、現在でこそコーナーポスト上での技の攻防は試合中の見せ場の一つになっているが、キッドはその先駆者的存在の一人であり、トップロープからの雪崩式ブレーンバスター(スーパープレックス)やサイド・スープレックス、バックドロップなども得意としていた。
獲得タイトル
- ジョイント・プロモーションズ
- ブリティッシュ・ライト級王座 : 1回
- ブリティッシュ・ウェルター級王座 : 1回
- ヨーロピアン・ウェルター級王座 : 1回
- 英連邦ミッドヘビー級王座 : 5回
- スタンピード世界ミッドヘビー級王座 : 4回
- スタンピード北米ヘビー級王座 : 1回
- スタンピード・インターナショナル・タッグ王座 : 6回(w / セキガワ、ロック・ネス・モンスター、Kasavudo、デューク・マイヤース、デイビーボーイ・スミス×2)
- パシフィック・ノースウエスト・レスリング
- NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座 : 1回
- NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座 : 1回(w / ジ・アサシン)
- WWFジュニアヘビー級王座 : 1回
- WWF世界タッグ王座 : 1回(w / デイビーボーイ・スミス)
- NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座 : 1回
- アジアタッグ王座 : 1回(w / ジョニー・スミス)
- AGPWインターナショナル・ヘビー級王座 : 1回[32]
著作
- 『PURE DYNAMITE - ダイナマイト・キッド自伝』 BLOODY FIGHTING BOOKS(2001年、エンターブレイン、ISBN 4757706391)
入場曲
参考文献
- 『Gスピリッツ Vol.28』辰巳出版、2013年。ISBN 4777811743。
- 『忘れじの国際プロレス』ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583620800。
- 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622699。
脚注
- ^ a b “Dynamite Kid”. Wrestlingdata.com. 2015年9月4日閲覧。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.28』、P11。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.28』、P51。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.16』P26(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808017)
- ^ “British Welterweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月25日閲覧。
- ^ a b “British Commonwealth Mid-Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月25日閲覧。
- ^ DVD-BOX『国際プロレスクロニクル 上巻』DISC.4(2010年、クエスト)
- ^ a b “IWE 1979 Big Summer Series”. Puroresu.com. 2016年5月27日閲覧。
- ^ 『忘れじの国際プロレス』P103
- ^ 『忘れじの国際プロレス』P99
- ^ a b c d 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol8 』P53 - P56
- ^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1980-1989”. The History of WWE. 2010年7月17日閲覧。
- ^ “NWA Pacific Northwest Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年7月17日閲覧。
- ^ “NWA Pacific Northwest Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年7月17日閲覧。
- ^ “North American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月25日閲覧。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.28』、P28-30。
- ^ “WWF World Tag Team Championships”. WWE.com. 2010年7月17日閲覧。
- ^ “The Wrestling Classic Results at OWW”. Online World of Wrestling. 2010年7月17日閲覧。
- ^ “The Wrestling Classic Results at PWH”. Pro Wrestling History. 2010年7月17日閲覧。
- ^ “The Wrestling Classic Results at pWw”. pWw Everything Wrestling. 2010年7月17日閲覧。
- ^ “Backstage Heat: Jacques Rougeau & The Dynamite Kid”. Online World of Wrestling. 2010年8月25日閲覧。
- ^ “Dynamite Kid severely injures his back”. Wrestling Gone Wrong.com. 2010年1月28日閲覧。
- ^ “Canadian Hall of Fame: The Dynamite Kid”. SLAM! Sports. 2010年8月25日閲覧。
- ^ “All Asia Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年7月7日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.28』、P38。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.28』、P47。
- ^ “Wrestler Profiles: Dynamite Kid”. Online World of Wrestling. 2010年8月25日閲覧。
- ^ “Death Grip Inside Pro Wrestling: November 10, 2007”. CNN.com. 2011年5月4日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.28』、P6。
- ^ “君は「タイガーマスク伝説」を見たか 覆面レスラーの知られざる「友情物語」に感動の涙!”. 産経ニュース (2016年10月16日). 2016年11月12日閲覧。
- ^ 参考文献『週刊プロレス』2014年11月12日号(通刊1764号) pp55 - pp77, 掲載『「プロレス スポーツアルバムシリーズ」第50回 ダイナマイト・キッド』内 pp74 - 75,「爆弾技5連発」より
- ^ “AGPW International Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年7月27日閲覧。