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自己実現理論(じこじつげんりろん)とは、アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。また、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
概論
マズローが提唱した人間の基本的欲求を低次から並べる[1]。
- 生理的欲求 (Physiological needs)
- 安全の欲求 (Safety needs)
- 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
- 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
- 自己実現の欲求 (Self-actualization)
詳細
- 生理的欲求 (Physiological needs)
- 生命維持のための食事・睡眠・排泄等の本能的・根源的な欲求。
- 極端なまでに生活のあらゆるものを失った人間は、生理的欲求が他のどの欲求よりも最も主要な動機付けとなる。一般的な動物がこのレベルを超えることはほとんどない。しかし、人間にとってこの欲求しか見られないほどの状況は一般的ではないため、通常の健康な人間は即座に次のレベルである安全の欲求が出現する。
- 安全の欲求 (Safety needs)
- 安全性・経済的安定性・良い健康状態の維持・良い暮らしの水準、事故防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求。
- 病気や不慮の事故などに対するセーフティ・ネットなども、これを満たす要因に含まれる。
- この欲求が単純な形ではっきり見られるのは、脅威や危険に対する反応をまったく抑制しない幼児である。
- 一般的に健康な大人はこの反応を抑制することを教えられている上に、文化的で幸運な者はこの欲求に関して満足を得ている場合が多いので、真の意味で一般的な大人がこの安全欲求を実際の動機付けとして行動するということはあまりない。
- 社会欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
- 生理的欲求と安全欲求が十分に満たされると、この欲求が現れる。
- 自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚
- 情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚
- かつて飢餓状態に置かれていた時には欲することのなかった愛を求め、今や孤独・追放・拒否・無縁状態であることの痛恨をひどく感じるようになる。
- 不適応や重度の病理、孤独感や社会的不安、鬱状態になる原因の最たるものである。
- 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
- 自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。
- 尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。
- この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。
- 自己実現の欲求 (Self-actualization)
- 以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。
- 自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。
- これら5つの欲求全てを満たした「自己実現者」には、以下の15の特徴が見られる。
これらのうち、最初の4欲求を欠乏欲求 (Deficiency-needs) 、最後の1つを存在欲求 (Being-needs) としてまとめることもある。マズローは、欠乏欲求と存在欲求とを質的に異なるものと考えた。自己実現を果たした人は少なく、さらに自己超越に達する人は極めて少ない。数多くの人が階段を踏み外し、これまでその人にとって当然と思っていた事が当たり前でなくなるような状況に陥ってしまうとも述べている。 また、欠乏欲求を十分に満たした経験のある者は、欠乏欲求に対してある程度耐性を持つようになる。そして、成長欲求実現のため、欠乏欲求が満たされずとも活動できるようになるという(ex.一部の宗教者や哲学者、慈善活動家など)。 晩年には、「自己実現の欲求」のさらに高次に「自己超越の欲求」があるとした。この考えが、後のトランスパーソナル心理学の源流ともなる。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(Self-transcendence) の段階である。 自己超越者 (Transcenders) の特徴は
- 「在ること」 (Being) の世界について、よく知っている
- 「在ること」 (Being) のレベルにおいて生きている
- 統合された意識を持つ
- 落ち着いていて、瞑想的な認知をする
- 深い洞察を得た経験が、今までにある
- 他者の不幸に罪悪感を抱く
- 創造的である
- 謙虚である
- 聡明である
- 多視点的な思考ができる
- 外見は普通である (Very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
批判的意見
批判は大きく分けて2つあり、「実証」に関するものと「理論構造」に関するものである。
「実証」に関する批判は2つある。
- マズローは当時、神経症患者から得たデータを健康な人間に当てはめようとする心理学の傾向を批判していた。そこで「自己実現者」を調査するにあたり、300人の健康な大学生から面接調査で被験者を選ぼうとしたが、満足できる者は1名しかおらず、リンカーンやルーズベルト、アインシュタインやスピノザ、シュバイツァーなど、全被験者23名中9名の歴史上の人物をサンプリングに加えた。このような人選には恣意的なものが多分に介入し得るため、そのデータを一般化することは困難であると批判を受けている。
- 実証に関する批判の2つめは、ピラミッド状に構成されている階層が、はたして一般人の経験的なものとして本当に妥当かどうかというものだ。部分的に階層を支持するという実証結果もある反面、支持できないという実証結果も多数発表された。例えば、欲求の5階層化が妥当かどうかを因子分析を用いて検討したWater and Roachによれば、5つの階層は必ずしも相互に独立しておらず、入り交じっており、さらに階層の次元には個人差が見られるという。
「理論構造」に関する批判は3つある
- 1つは、親が子供に言語や規範といった文化を身につけさせるまでは好き勝手な行動をさせないという事実からあきらかなように、環境要因を無視した欲求の発展は考えにくく、生物学的にだれもがこの順序をたどるとは言えないという批判がある。さらに、生物学的に人間の欲求発展に違いがあるとすれば、発展の違いがもたらす社会的不平等は自然であり正しいという考えを許容する危険性があるという批判もある。
- 第2の批判は、マズローが普遍モデルを志向していたにもかかわらず、結局は個人主義に価値をおく西洋的人間観をモデル化したに過ぎないというものだ。従って、西洋以外の世界においては妥当性を持ち得ない。例えばRobbinsは、マズローの枠組みはアメリカの文化が前提であり、日本の場合は安全欲求が一番上になると述べている。さらに、マズロー理論は保守主義的イデオロギーに対抗する自由主義的イデオロギーの表出に過ぎず、西洋世界においても妥当ではないという議論もある。
- 第3の批判は、自己実現の段階に到達するためには欠乏欲求を乗り越える必要があるという、階層の順番に対する批判である。欠乏欲求を満たすには商品を購入する資力が必要だが、それでは結局自己実現は資力にかかっていることになってしまう。では反対に、資力があれば誰でも自己実現が可能かといえば、それも困難である。身の回りに商品を溢れかえらせることが自己実現であるとするならば、商品の集め方によってしか人間の個性が決まらないことになってしまう。
マズローの欲求階層説に対する誤解は3つある。
- 1つは、マズローはより高次の欲求に移行するためには現時点の欲求が完全に満たされる必要はないと述べている。マズローによると、生理的欲求では85%、安全欲求では70%、愛の欲求では50%、自尊心の欲求では40%、自己実現の欲求では10%の達成度で移行が充足されるという。
- 2つは、自己実現者は完璧人間ではなく、欠点も多数有している。長年の親交をあっさり切り捨てたり、愛していない男と結婚し離婚する女性、親しい人間の死から瞬時に立ち直る者、因習にとらわれる者に苛立って暴言を吐いた女性など、自己実現的人間がそうでない人間を傷つける場合が非常に多いとマズローは説明する。マズローは自己実現者を無条件に賞賛していたわけではない。こうした欠点はマズローが挙げた自己実現者の特徴と矛盾するが、その理由については説明されていない。
- 3つは、サンプルが全23人とごく少数であること。先述の欠点を考慮するならば、もしこうした人々が多数存在すれば、社会は秩序を失い、存続困難になるだろう。マズローは自己実現を達成する人間は、全人口のたかだか1%に過ぎないと考えていた。
「マズローの欲求段階説」は、人間性心理学や動機づけの理論を進展させたと評価され、マーケティングの分野においてはよく受容されたが、個人的見解あるいはごく限られた事例に基づいた人生哲学に過ぎず、普遍的な科学根拠や実証性を欠いているのではないかという疑問も呈されている。例えば、欠乏欲求が満たされていても、成長欲求の満足を求めず生活の安定を求める労働者の例がある。しかしこれは、欠乏欲求が十分に満たされていない(十分に自尊心が育まれていないなど)ために、自己実現の欲求が現れていないとも考えられる。
出典
関連項目
外部リンク