「ノーキー・エドワーズ」の版間の差分
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2016年11月18日 (金) 07:53時点における版
ノーキー・エドワーズ | |
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基本情報 | |
出生名 | Noel Floyd Edwards |
生誕 | 1935年5月9日(89歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 オクラホマ州ラホマ |
ジャンル |
インストゥルメンタル サーフ・ミュージック カントリー・ミュージック |
職業 | ギタリスト |
担当楽器 |
エレクトリックギター ベース |
共同作業者 | ザ・ベンチャーズ |
公式サイト | [www.nokieedwards.com] |
著名使用楽器 | |
本文参照 |
ノエル・フロイド「ノーキー」エドワーズ(Noel Floyd "Nokie" Edwards, 1935年5月9日 - )は、アメリカ合衆国のギタリスト。オクラホマ州ラホマ出身。ザ・ベンチャーズの2代目リードギター。
略歴
チェロキー族の血を引く家系の大家族の1人として生まれたノーキーは、家族や親族の大多数が何かしら楽器を演奏出来たという恵まれた環境の中、5歳からギターを手にするようになる。最初の頃はバンジョーやマンドリンなど様々な楽器を手にするが、更なる上達を目指すために11歳の頃にギターに専念するようになる。当初はカントリーミュージックやブルーグラスから独学でギターを学び、レス・ポール、チェット・アトキンス、マール・トラヴィスが彼にとってのギターヒーローであった。それからは当時流行していたロックンロールを深く知るために、様々なレコードを次々と手に入れ、それを聴くことにより吸収して行く。これらの原体験がノーキーの音楽性の礎となっている。17歳の頃にはナイトクラブに出演するようになり、1957年にはタコマにツアーで訪れたバック・オウエンスのサポートメンバーのギタリストとして参加する。そしてその後、ドン・ウィルソン、ボブ・ボーグルと出会い、ベンチャーズに当初はベース担当で加入する(最初はサポートメンバーの1人であり、「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」でベースを弾いたのがノーキーである)。その後ボブ・ボーグルの申し出により、ボブとパートが交代することになり、ベンチャーズの快進撃が始まる。
1968年、ノーキーは牧場を手に入れ、かねてからの念願であった競馬界に馬主として進出することとなり、ツアーに同行することが難しくなったためベンチャーズを一旦離れる。それ以降の音楽活動はナイトクラブの出演やスタジオレコーディングの参加など散発的なものとなるが、当時はレオン・ラッセル、グレン・キャンベル、デラニー&ボニーなどと音楽活動を行っていた。その後1972年にノーキーと入れ替わりに加入したジェリー・マギーがベンチャーズを離れ、ノーキーが復帰する。その後1985年に再びノーキーが脱退するまでベンチャーズに参加していた。ちなみに、当時のメンバーチェンジにありがちなメンバー間のいざこざなどは全くなく、実に友好的なものであったという。またジェリー・マギーはボブ・ボーグルのピンチヒッターとして1984年の日本ツアーに参加するまで、ノーキーと一度も会ったことがなく、面識がなかったという。
その後は自身の音楽活動を展開し、カントリーミュージックに深く根ざした活動を行うが、1999年より夏と冬のツアーをベンチャーズとして行うことが決まり、ノーキーはスケジュールの都合で冬のツアーに参加することが難しいジェリー・マギーに代わり、冬のツアーに参加している。その他にも単発でノーキーが参加することもあるが、日本ではノーキーとジェリーの二つのベンチャーズを楽しむことができた。
2016年、自身の高齢と体力低下により、同年の来日ツアーが最後の来日となることを表明した。なお、前年にはベンチャーズのリーダーであるドン・ウィルソンが高齢を理由に日本ツアーから引退している。
音楽性
ノーキーの音楽的バックグラウンドはカントリーミュージックに深く根ざしており、演奏中に取り込むフィンガーピッキングなどにその影響がうかがえる。シンプルでありながら高度なカントリーリックを盛り込んだテクニックは、エレキブームを巻き起こした日本において、絶大な人気と憧れを呼んだ。特に「キャラバン→デューク・エリントン楽団がオリジナル」で披露する速弾きフレーズは、当時の日本のギターキッズから最高の難易度の技巧といわれた。
フィンガリングは弦と平行にポジション移動することが多い。また、モズライトなどのトレモロ・ユニットのあるギターと、テレキャスターのトレモロ・ユニットの無いギターでは、チョーキングを織り交ぜたフレーズを弾く際に弾き方を変えている。アームのあるギターの場合、チョーキングした際に他の弦が同時に引っ張られると同時に、ベンドしていない弦のチューニングが下がってしまい、ピッチが合わなくなってしまう。それを避けるためにアーム付きのギターではハンマリングやグリッサンドなどで対処している。そのため、モズライトを使用していた頃と微妙に弾き方が変わっている。
使用するピックは、かつてはフラットピックが主体であったが、カントリーミュージックへの傾倒を深めるにつれ、1970年代からサムピックを併用することが多くなっている。現在ではほとんどの曲をサムピックで演奏する。また近年、フィンガーピッキングの際の爪の保護のために、薄いグラスファイバーを爪に貼って演奏している。
ギター・サウンドも、主に初期のクリーンだが硬質なトーン、モズライトを使い出した頃のファズとブリッジ・ピックアップ・ポジションのみによるサウンド・メイクが生み出す金属的なサウンドやナチュラル・ディストーション・サウンド、そして近年のソフトなクリーン・トーンと各年代毎に変化している。
主な使用機材
- モズライト・ザ・ベンチャーズモデル
- モズライトノーキー・エドワーズモデル
- フェンダー・テレキャスター
- フェンダー・ジャパンテレキャスター・ノーキーモデル
- カーヴィン
- トニー・ハント・ノーキー・エドワーズモデル
- ヒッチハイカー・ギターズ
- フェンダー・ジャズベース
- エレクトリック・シタール
- アリア・ベンチャーズモデルベース
- フェンダー・バンドマスターアンプ
- PEAVEYアンプ
1970年代にはワウペダルを使用したこともあるが、基本的にエフェクト・ペダル類は多用しない。スティールギター奏者のレッド・ローズが彼の為に特別製作したファズやコンプレッサーを使用する程度で、ほとんどはアンプで音作りをするスタイルである。レッド・ローズ製作のコンプレッサーは現在でも使用しているという。
エピソード
- ある日のシカゴの空港で、たまたま乗り換え待ちをしていたノーキーをエリック・クラプトンが見つけ、ノーキーのところに歩み寄り、握手を求めてきたという。
- あまり知られていないが、彼は実は1960年代初期に一度ベンチャーズを離れている。その時にモズライト社に勤務していたクラフツマンでもありギタリストであったジーン・モールス(バック・オウエンスを通じて知り合ったという)などと共に「マークスメン」なるバンドを結成し、活動をしたが、レコード会社の広報担当者が急逝するなどゴタゴタが続き、長くは続けられなかったという。そしてすぐにベンチャーズへ戻る事となる。そのため、同時期にリリースされたベンチャーズのアルバム"Colorful Ventures"には、ノーキーが参加していない音源が存在しているのだが、何分50年以上も昔のことであり、事実は有耶無耶、支離滅裂になってしまっている部分が多い。マークスメンの活動についてはベンチャーズ側との間に契約上の問題は特になく、「サイドプロジェクト」的な面が強く友好的な関係はあったという。
- かつてのギター弦には「ライトゲージ」が存在せず、彼は2弦にも1弦と同じ弦を張ったり、1弦にバンジョーの弦を張って1〜5弦を張るなどの工夫をしていたが、後にノーキーの要望にこたえる形でアーニー・ボールがライトゲージの弦を製作したという。ベンチャーズの来日時、共演した寺内タケシや加瀬邦彦が、ノーキーがあまりに簡単にチョーキングをやっているのを見て不思議に思っていたところ、ノーキーがリハーサル時に席を外した際にノーキーのモズライトを弾いてみたら、あまりにも弦が細かったことに驚愕し、「こりゃこんなに弦が細ければグリス(注:当時はチョーキングをこう呼んでいた)が楽に出来る訳だ」、「指で腕立て伏せしたりしてあんなに必死になって握力を鍛えていた俺達は何だったんだ?」と思わず爆笑したという。
関連項目
- 寺内タケシ - 初期の来日時に同じステージを踏んで以来親友となり、コンサート、および複数のアルバムで共演している。1966年の来日ツアー中、ドン・ウィルソンの息子が落馬事故によって他界してしまうアクシデントに見舞われ、急遽帰国を余儀されなくなったため、ピンチヒッターとしてごく短期間、寺内タケシがツアーに参加したことがある。
- モズライト - 1963年に所有していたテレキャスターのネックを削り直してもらえる工房を探していたところ、友人を通じてモズライトのセミー・モズレーを紹介され、試作品の[ジョー・メイフィス・モデル]ギターを借りてレコーディングしたところ、そのパワフルな音質と弾きやすさにほれ込み、ジョー・メイフィス・モデルを半ば強引に「ザ・ベンチャーズ・モデル」として改め製作するきっかけとなった。しかしノーキーもネック・グリップの細さにはいまいち不満があったようである。その後モズライトとの契約が切れて約20年後に、高谷企画(現:高谷プランニング)のプロデュースによる「ノーキー・モデル」を開発するが、現在は再びモズライトからは離れている。なお、自らがARIAなどの協力でプロデュースして使用している「ヒッチハイカー」ギターはボディがモズライトに非常によく似たデザインになっているのが特徴。現在はナシュビルのノーキーエドワーズ工房で製作されている。
参考文献
シンコーミュージック「エレキ・ギター・ブック」各巻