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*[[森禮子|森礼子]]『献身-萩原タケの生涯 』(1995/05)白水社 ISBN 4560028834 ISBN-13: 978-4560028834 |
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*[[江刺昭子]] (編集) ・史の会 (編集)『時代を拓いた女たち―かながわの131人 』(2005/04)神奈川新聞社ISBN |
*[[江刺昭子]] (編集) ・史の会 (編集)『時代を拓いた女たち―かながわの131人 』(2005/04)神奈川新聞社ISBN 4876453586 ISBN-13: 978-4876453580 |
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*あきる野市デジタルアーカイブ・あきる野市ゆかりの人々・萩原タケ[http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hagiwara.html] |
*あきる野市デジタルアーカイブ・あきる野市ゆかりの人々・萩原タケ[http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hagiwara.html] |
2016年11月15日 (火) 19:43時点における版
萩原タケ(はぎわらたけ、1873年2月7日 – 1936年5月27日)は、日本の看護婦。日本赤十字社病院救護看護婦監督。日本看護婦協会初代会長。第一回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した。
略歴
1873年2月7日 、神奈川県西多摩郡五日市村 (現・東京都あきる野市) で、藁屋を営む喜左衛門・ちよの長女として生まれる。下には5人の弟がおり家計は苦しかった。
- 5歳で勧能学校(小学校)に入り、成績優秀だったが、3年ほどで退学した。
- 1890年から「女学雑誌」の通信教育「通信女学」を受けはじめる。1891年に通信女学部の全17教科を終了して卒業証書をもらった。
- その後、両国屋ノ倉の桜井産婆学校に入学したが、1年足らずで退学。
- 1893年、日本赤十字社病院救護看護婦養成所の第七回生となる。
- 日清・日露戦争などに従軍。皇族の海外渡航に随行。
- 1910年、日本赤十字社病院看護婦監督に就任。
- 1920年、第一回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章。
- 1936年5月27日、日本赤十字社病院で死去。享年63。
文献
- 森礼子『献身-萩原タケの生涯 』(1995/05)白水社 ISBN 4560028834 ISBN-13: 978-4560028834
- 江刺昭子 (編集) ・史の会 (編集)『時代を拓いた女たち―かながわの131人 』(2005/04)神奈川新聞社ISBN 4876453586 ISBN-13: 978-4876453580
外部リンク
- あきる野市デジタルアーカイブ・あきる野市ゆかりの人々・萩原タケ[1]