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*[[奈良修一]]、『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN |
*[[奈良修一]]、『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN 978-4634350427、ISBN 4-634-35042-4 |
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2016年11月15日 (火) 19:42時点における版
鄭克塽 | |
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生誕 |
1670年(永暦24年) 台湾 |
死没 |
1717年(康煕56年) 北京 |
職業 | 延平郡王、海澄公 |
配偶者 | 馮錫範の娘 |
鄭 克塽(てい こくそう、Zhèng Kè shuǎng, 1670年8月13日-1717年9月22日)は鄭成功の孫、鄭経の次男である。 幼名は秦と言い、人は秦舍と呼んだ。字は実弘で、晦堂と号した。
生涯
1681年、鄭経と陳永華が相次いで死去すると、重臣の馮錫範が鄭経の従兄弟達と組んでクーデターを起こし、監国の鄭克𡒉を殺し、わずか十二歲の鄭克塽を延平郡王とした。
1683年、清朝の水師提督施琅が澎湖海戦において大いに鄭軍の艦隊を破り,澎湖諸島を占領すると、鄭軍の主将劉国軒は、台湾に逃げ戻った。馮錫範は遂に鄭克塽に清に降ることを勧めた。7月5日、馮錫範は鄭徳瀟に命じて、降表を書かせた。7月15日、馮錫範は、将である鄭克塽を施琅の元に送った。8月13日、施琅は台湾に入り、降伏を受け入れた。その後、鄭克塽は、北京に赴き、漢軍正紅旗に組み入れられ、海澄公[1]に封じられた。康熙四十六年(1717年),鄭克塽は病没した。爵位を継ぐ者はいなかった。
鄭克塽は、馮錫範の娘を娶り、鄭安福をもうけた。弟は鄭克挙である。鄭克塽の死後,その母の黄氏は、清朝に鄭家の財産を戻すことを要求したが,受け入れられなかった。
台湾の著名な詩人である鄭愁予は、鄭克塽の子孫である。
『鹿鼎記』の中の鄭克塽
鄭克塽はまた、金庸の武侠小説である『鹿鼎記』の中にも出てくる。小説の中では、鄭克塽の年齢は10歳多くされている。また、李自成と陳円円の娘の阿珂と相思相愛とされている。後に、阿珂は韋小宝と結婚することになり、鄭克塽とは別れた。『鹿鼎記』の中では、かなり、悪役にされている。
注釋
- ^ 『清史稿』では、「漢軍公」とあるが、「諸臣封爵世表」では「海澄公」としてあり、これが正しい。
參考文献
- 『清史稿』.卷二百二十四.列傳十一
- 奈良修一、『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN 978-4634350427、ISBN 4-634-35042-4