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*「私の履歴書」(日本経済新聞[[2006年]]10月連載) |
*「私の履歴書」(日本経済新聞[[2006年]]10月連載) |
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*「行天豊雄が語る国際金融道」(朝日新聞社、1995年、東銀リサーチインターナショナル編 |
*「行天豊雄が語る国際金融道」(朝日新聞社、1995年、東銀リサーチインターナショナル編 ISBN 4-02-273064-1) |
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*「富の興亡 円とドルの歴史」([[ポール・ボルカー]]共著、江澤雄一監訳、1992年、東洋経済新報社 |
*「富の興亡 円とドルの歴史」([[ポール・ボルカー]]共著、江澤雄一監訳、1992年、東洋経済新報社 ISBN 4-492-44152-2) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2016年11月15日 (火) 19:33時点における版
ぎょうてん とよお 行天 豊雄 | |
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生誕 |
1931年1月2日(93歳) 日本 神奈川県 |
出身校 | 東京大学 |
職業 | 大蔵官僚、経済学者 |
行天 豊雄(ぎょうてん とよお、1931年1月2日 - )は、日本の経済学者。大蔵官僚、財務官。
人物
生い立ち
神奈川県出身。1943年(昭和18年)に間門国民学校卒業、1948年(昭和23年)には神奈川県立横浜第一中学校卒業した。
同年には第一高等学校に入学したが、同校文科乙類(ドイツ語)のクラスメートには、本間長世(東大名誉教授、アメリカ史)、芳賀徹(東大教授、比較文化史)、高階秀爾(東大教授、美術史)らがいた。翌年、学制改革に伴い新制東京大学を受験するも不合格となり、1950年(昭和25年)に早稲田大学政治経済学部新聞学科に入学した。
早稲田大学政治経済学部新聞学科のクラスメートには、早坂茂三(田中角栄秘書)、岡村喬生(オペラ歌手)、越智勝幸(日本経済新聞政治部長)らがいた。
翌1951年(昭和26年)、東京大学を再受験して入学した。1955年(昭和30年)に同大学経済学部を卒業したが、学部時代には今野源八郎ゼミ(アメリカ経済論)に所属していた。
大蔵官僚
大学を卒業した1955年(昭和30年)、大蔵省(当時)に入省、主税局税関部業務課に配属された。同期の入省者には、平澤貞昭(後の大蔵次官)、宍倉宗夫(後の防衛次官)、岸田俊輔(後の証券局長)、松岡宏(後の関東信越不服審判所長)、水野勝(後の国税庁長官)、古橋源六郎(行管次官)らがいた。
入省翌年の1956年(昭和31年)9月からは、アメリカ合衆国のプリンストン大学大学院社会経済学部に留学した。2年後に留学から帰国すると、為替局に務めた。
1984年(昭和59年)には国際金融局長に就任し、翌年のプラザ合意に立会い、日本を代表する「通貨マフィア」として知られるようになった。さらに翌年6月から1989年(平成元年)7月までは財務官を務め、ルーブル合意にも関与した。また、行天は同年、早稲田大学の同級生で、当時野村證券副社長だった寺澤芳男を、同年に発足した多国間投資保証機関(MIGA)の初代長官として推薦している[1]。
同年、行天は大蔵省顧問となり、翌1990年(平成2年)に退官となった。
大蔵省における経歴
- 1958年 - 為替局
- 1960年 - 国際通貨基金研修
- 盛岡税務署長
- 渡辺武アジア開発銀行総裁補佐官
- 1969年 - 銀行局銀行課課長補佐
- 1971年 - 財務官室長
- 1972年 - 羽田税関支署長
- 1973年 - 国際金融局国際機構課長
- 1975年 - 理財局資金第二課長
- 1977年 - 国際金融局調査課長
- 1978年 - 副財務官(大臣官房参事官)
- 1980年 - 国際金融局審議官
- 1983年6月 - 銀行局審議官
- 1984年6月 - 国際金融局長
- 1986年6月 - 財務官
- 1989年7月 - 大蔵省顧問
- 1990年 - 退官
退官後
退官後の1991年(平成3年)7月には東京銀行に顧問として天下りし、翌年6月には同行会長に就任した。また、ハーバード大学客員教授、プリンストン大学客員教授なども歴任、1995年(平成7年)12月には財団法人国際通貨研究所理事長となった。さらに、1998年(平成10年)7月から12月までは内閣特別顧問を務めた。
第1回緊急首脳会議(金融サミット)を前にした2008年(平成20年)11月4日には、野上義二とともに内閣官房参与(国際金融問題担当)に任命された。さらに翌年9月17日には、財務大臣(当時)藤井裕久が大臣就任記者会見において、行天を財務省の特別顧問に迎えることを明らかにした。
2016年(平成28年)10月、公益財団法人国際通貨研究所理事長を退任し、名誉顧問に就任[2]。
私生活
特技は水泳。仏ブルゴーニュのChevalier de Tate-vinという称号を持っており、以来ワインはブルゴーニュ派である。
友人に中野好之(エドモンド・バーク研究、父は英文学者中野好夫)、赤木昭夫(NHK解説委員)らがいる。
家族
兄は千葉医学専門学校を卒業し、NHK解説委員を経て評論家となった行天良雄。
エピソード
- 1956年にフルブライト留学生としてプリンストン大学に留学した際、シアトルのカフェで、ウエートレスに「ダーク・オア・ホワイト」と聞かれて、人種を尋ねられたと思い「イエロー」と答えたら、黒パンと白パンのどちらがいいか、ということだった[3]。
参考文献
- 「私の履歴書」(日本経済新聞2006年10月連載)
- 「行天豊雄が語る国際金融道」(朝日新聞社、1995年、東銀リサーチインターナショナル編 ISBN 4-02-273064-1)
- 「富の興亡 円とドルの歴史」(ポール・ボルカー共著、江澤雄一監訳、1992年、東洋経済新報社 ISBN 4-492-44152-2)
脚注
- ^ 「私の履歴書 寺澤芳男(17)」『日本経済新聞』 平成23年11月18日朝刊文化面
- ^ 国際通貨研究所理事長にJBIC前総裁の渡辺博史氏
- ^ 差別化という模倣―明治期洋行エリートの身体の“西洋化”と人種的限界眞嶋亜有、国際日本文化研究センター, 2007.12.20.