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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 大橋武夫「状況判断」マネジメント社 1978年 ISBN4-8378-0401-2
* 大橋武夫「状況判断」マネジメント社 1978年 ISBN 4-8378-0401-2
* 宮島敬一『浅井三代』[[吉川弘文館]]、2008年2月。ISBN 978-4-642-05244-3
* 宮島敬一『浅井三代』[[吉川弘文館]]、2008年2月。ISBN 978-4-642-05244-3
* [[谷口克広]]『織田信長合戦全録』[[中公新書]]、2002年1月。ISBN 4-12-101625-4
* [[谷口克広]]『織田信長合戦全録』[[中公新書]]、2002年1月。ISBN 4-12-101625-4

2016年11月15日 (火) 19:28時点における版

金ヶ崎の戦い
戦争戦国時代
年月日1570年
場所越前国敦賀郡金ヶ崎
結果:織田・徳川連合軍の撤退
交戦勢力
織田軍
徳川軍
朝倉軍
浅井軍
指導者・指揮官
織田信長
徳川家康
池田勝正
木下秀吉
明智光秀
松永久秀
朽木元綱
朝倉義景
浅井長政
朝倉景恒
戦力
30,000[1] 金ヶ崎城守備隊4,500
朝倉・浅井連合軍2万
損害
1300余 不明
織田信長の戦い

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である。

概要

織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。

敦賀口における金ヶ崎城敦賀市)攻略自体はすでに成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行った。

戦いの詳細

開戦前

永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)を率いて京を出陣。織田軍の武将のほか池田勝正松永久秀といった近畿の武将、公家である飛鳥井雅敦日野輝資も従軍している。なお、出陣中の4月23日(1570年5月27日)に元号が元亀と改元された。

結果から言えば越前遠征に向かったわけだが、「越前へ手遣い」(『多門院日記』)とする文面のほか、「若州へ罷り越す」(『言継卿記』4月20日)と言う史料もあり、信長から毛利元就に宛てた書状(『毛利家文書』)にも「若狭国武藤を成敗する」という文意の行りがあることからみても、出陣の口実は若狭攻めであった。

経過

4月25日(5月29日)、越前の朝倉義景領に侵攻した織田・徳川連合軍は、同日の手筒山城を皮切りに敦賀郡朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。それに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように戦線が狭く防御に向いた地形である木ノ芽峠一帯を強化し、防衛体制を整える。これには、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と、本家である朝倉義景や、同じ一門衆である朝倉景鏡朝倉景健らとの序列争いが背景にあり、景恒への援軍を故意に遅らせたとする説もある。

このように当初は織田方が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江浅井長政が裏切ったという情報が入った。はじめ信長は「虚説たるべき」(『信長公記』)と述べとりあわなかったが、次々に入る知らせに事実と認めざるをえなくなり、撤退を決意した。織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃を受ける危機にみまわれたからである。織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと『朝倉記』には記載があるが、信憑性に疑問が持たれており実際には不明。お市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話(『朝倉家記』)が知られているが、俗説というのが有力である。

撤退するにあたって、信長は金ヶ崎城に木下秀吉を入れておくことにした。通説ではこの時、秀吉が殿軍に自ら名乗りをあげたと言われているが、『武家雲箋』などによると、殿軍には秀吉より地位が高い摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたため、秀吉が殿軍の大将を務めたという説には疑問が残る。また、『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』などでは徳川家康もこれらに加わったとしているが、一次史料には家康の名は見られない。

織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めた。織田軍の被害については、「人数崩れけれども宗徒の者ども恙(つつが)なし」(「朝倉家記」)から、「人数二千余も損歟ノ由」という伝聞(『多聞院日記』)まで諸説ある。

戦後

信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。京への到着は4月30日(6月3日)。信長の供はわずか十人程度であったという(『継芥記』)。池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えた(他の武将の恩賞については伝わっていない)。

なお、朽木元綱は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が元綱を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたと『朝倉記』にはある。

またこの朽木越えの際、信長軍の殿(しんがり)を務めた秀吉は、3000人の盗賊団に襲われかけたという。この盗賊の頭領を猿飛仁助といい、説得で秀吉配下に入り、天下取りに功労したという(『清正実記』)。江戸期の講談や明治期の立川文庫などで登場する猿飛佐助は、この説話と、別に実在した伊賀忍者上月佐助にヒントに、仁助の子孫などと創作した忍者とされる。

信長京到着の翌5月1日、信長は改修中の御所を視察するなど窮地を脱してきた素振りも見せず平然と振舞って見せ、5月9日、岐阜へと戻り軍勢を立て直し長政討伐の準備にとりかかった。

総論

初期段階では織田軍の勇戦が目立つ戦いであった。しかし、まだ研究段階ではあるが、朝倉義景が近江六角氏からの養子であったとする説があり(朝倉義景の項を参照)、そのために朝倉家内部が必ずしも一枚岩ではなかった結果、もたらされた戦果である可能性も否定できない。

また信長が無事逃げ延びたのは池田勝正の統率力と明智光秀や木下秀吉らの命がけの戦いのおかげであったが、朝倉本隊・朝倉義景軍の追撃が鈍かったことも大きな要因になったと言われている。これに対し、朝倉軍の追撃はごく一般的な速さであったが、それ以上に信長軍の撤退が迅速であったために充分な追撃が行えなかったとの説や、織田軍の統率が取れていてつけいる隙がなかったという説、上記のような朝倉家内部の問題があったとする説などある。

また金ヶ崎の戦いの本質は、将軍足利義昭が企画したもので、朝倉氏が拉致軟禁していた武田元明の救出が目的であったとの説もある。[2]

関連作品

小説

注釈

脚注

  1. ^ 言継卿記
  2. ^ 高澤等『新・信長公記』によれば、武田元明救出のための兵船集結に幕府奉公衆の諏訪俊郷・松田頼隆、革島越前守が関わっていた(『革島文書』)。また『安芸毛利元就宛覚書』(毛利家文書)に「浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候」と記され、信長は撤退中に浅井氏の挙兵を知ったとする。

参考文献