「真珠湾攻撃陰謀説」の版間の差分
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このように真珠湾攻撃は、軍事的には破格であり、かつ政治面や精神面に大きな転換をもたらした大事件であったため、様々な憶測が生まれた。中でも「ルーズベルトは日本の攻撃を[[諜報局]]から知らされていた(ただし、諜報局も攻撃目標がどこであるかまでは確信していなかった、との説あり)にも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」とする真珠湾攻撃陰謀説は開戦後70年以上たっても、繰り返し論議される。しかもそれを信じる多くの人々が、日本とアメリカ双方にいて、論争が起こっている。 |
このように真珠湾攻撃は、軍事的には破格であり、かつ政治面や精神面に大きな転換をもたらした大事件であったため、様々な憶測が生まれた。中でも「ルーズベルトは日本の攻撃を[[諜報局]]から知らされていた(ただし、諜報局も攻撃目標がどこであるかまでは確信していなかった、との説あり)にも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」とする真珠湾攻撃陰謀説は開戦後70年以上たっても、繰り返し論議される。しかもそれを信じる多くの人々が、日本とアメリカ双方にいて、論争が起こっている。 |
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歴史家のチャールズ・ピアードは戦争責任はルーズベルトにあるとして『ルーズベルトが引き起こした戦争1941』を発表し、日本でも大鷹正次郎の『第二次大戦責任論』がある。ロバート・セオボルド『真珠湾の審判』、ジェームス・バーンズ『ルーズベルト』、ロベルタ・ウォールステッター『パール・ハーバー』が出版された。ジョン・トーランド『真珠湾攻撃』が大きな話題を呼び、ロバート・B・スティネット<ref>ロバート・B・スティネット(Robert B. Stinnett、1924年 - )、[[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]出生。真珠湾攻撃時は高校在学中だった。翌1942年卒業と同時に[[アメリカ海軍|海軍]]に入隊し、1946年まで元大統領の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]の元で[[太平洋]]、[[大西洋]]の両洋の戦場に従軍。その軍功に対し青銅従軍星章10個並びに大統領感謝状を授与した。戦後オークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者を勤めたのち、「真珠湾の真実」執筆のため退社する。同書はアメリカの他、イギリス、[[イタリア]]でも出版された。[[英国放送協会|BBC]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[テレビ朝日]]の太平洋戦争顧問{{要出典|date=2008年6月}}でもある。</ref>『真珠湾の真実』が最近の書である。歴史家が真珠湾に関するもので比較的信頼されるものはゴードン・プランゲ『真珠湾は眠っていたか』である。20世紀末の「機密文書情報公開法」で事前察知を記した公式文書が色々明らかになっているが、これには諸説あり、評価が定まっていない。『[[月刊現代]]』最終号の2009年1月号では、徳本栄一郎が「真珠湾攻撃「改竄された米公文書」バリー・プロジェクト」として、責任追及を恐れた政府幹部が外交文書の改竄に手を染めた件を詳述した。日独伊三国同盟の自動参戦条項があり、対独参戦をするため意図的に戦争回避の努力を図らなかったと主張する者もいる。フランク・シューラーとロビン・ムーアによる『パールハーバーカバーアップ』([[仲晃]]訳、グロビュー社、1981年。原著は"The Pearl Harbor Cover-up"(Robin Moore, Frank Schuler, Publisher: Pinnacle Books; Second Printing edition (January 1977)、ISBN |
歴史家のチャールズ・ピアードは戦争責任はルーズベルトにあるとして『ルーズベルトが引き起こした戦争1941』を発表し、日本でも大鷹正次郎の『第二次大戦責任論』がある。ロバート・セオボルド『真珠湾の審判』、ジェームス・バーンズ『ルーズベルト』、ロベルタ・ウォールステッター『パール・ハーバー』が出版された。ジョン・トーランド『真珠湾攻撃』が大きな話題を呼び、ロバート・B・スティネット<ref>ロバート・B・スティネット(Robert B. Stinnett、1924年 - )、[[カリフォルニア州]][[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]出生。真珠湾攻撃時は高校在学中だった。翌1942年卒業と同時に[[アメリカ海軍|海軍]]に入隊し、1946年まで元大統領の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]の元で[[太平洋]]、[[大西洋]]の両洋の戦場に従軍。その軍功に対し青銅従軍星章10個並びに大統領感謝状を授与した。戦後オークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者を勤めたのち、「真珠湾の真実」執筆のため退社する。同書はアメリカの他、イギリス、[[イタリア]]でも出版された。[[英国放送協会|BBC]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[テレビ朝日]]の太平洋戦争顧問{{要出典|date=2008年6月}}でもある。</ref>『真珠湾の真実』が最近の書である。歴史家が真珠湾に関するもので比較的信頼されるものはゴードン・プランゲ『真珠湾は眠っていたか』である。20世紀末の「機密文書情報公開法」で事前察知を記した公式文書が色々明らかになっているが、これには諸説あり、評価が定まっていない。『[[月刊現代]]』最終号の2009年1月号では、徳本栄一郎が「真珠湾攻撃「改竄された米公文書」バリー・プロジェクト」として、責任追及を恐れた政府幹部が外交文書の改竄に手を染めた件を詳述した。日独伊三国同盟の自動参戦条項があり、対独参戦をするため意図的に戦争回避の努力を図らなかったと主張する者もいる。フランク・シューラーとロビン・ムーアによる『パールハーバーカバーアップ』([[仲晃]]訳、グロビュー社、1981年。原著は"The Pearl Harbor Cover-up"(Robin Moore, Frank Schuler, Publisher: Pinnacle Books; Second Printing edition (January 1977)、ISBN 0523009836 ISBN-13: 978-0523009834)には、バリー・プロジェクトとほぼ同一の内容が記されている。 |
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== ABCD包囲網 == |
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2016年11月15日 (火) 19:08時点における版
真珠湾攻撃陰謀説(しんじゅわんこうげきいんぼうせつ)は、1941年12月8日(現地時間は7日)の大日本帝国海軍の真珠湾攻撃を、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説である。この説は戦時中の日本や、終戦後のアメリカでも唱えられていた。現代では前任者フーヴァーやマッカーサーなどのルーズベルト非難が明らかになっている[1]。
背景と出版物
日本海軍が択捉島のヒトカップ湾からハワイの真珠湾(パールハーバー)まで、31隻からなる艦隊で北太平洋を横断する大遠征を行った上で、戦艦や駆逐艦が駐留している軍港を奇襲し、しかも成功したという事実は、アメリカに大きな衝撃をもたらした。
当時アメリカにはモンロー主義に代表される孤立主義の伝統があり、他国の戦争に巻き込まれることを嫌う傾向があった。また、ルーズベルトは選挙戦において「あなたたちの子供を戦場には出さない」ということを公約にしていた。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まっても、レンドリース法による兵器・物資の供与は行ったものの、アメリカは中立の立場を取っていた。そこに起こった真珠湾攻撃は、アメリカが連合国に加わって第二次世界大戦・太平洋戦争に参戦するきっかけを作り出した。
2度の原爆投下を経て太平洋戦争に完全勝利し、半世紀以上経った2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した際には、このテロを真珠湾攻撃と同様のものだと強調する言論が多く見られるなど、アメリカ人の精神に拭い切れないものを残した。
このように真珠湾攻撃は、軍事的には破格であり、かつ政治面や精神面に大きな転換をもたらした大事件であったため、様々な憶測が生まれた。中でも「ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていた(ただし、諜報局も攻撃目標がどこであるかまでは確信していなかった、との説あり)にも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」とする真珠湾攻撃陰謀説は開戦後70年以上たっても、繰り返し論議される。しかもそれを信じる多くの人々が、日本とアメリカ双方にいて、論争が起こっている。
歴史家のチャールズ・ピアードは戦争責任はルーズベルトにあるとして『ルーズベルトが引き起こした戦争1941』を発表し、日本でも大鷹正次郎の『第二次大戦責任論』がある。ロバート・セオボルド『真珠湾の審判』、ジェームス・バーンズ『ルーズベルト』、ロベルタ・ウォールステッター『パール・ハーバー』が出版された。ジョン・トーランド『真珠湾攻撃』が大きな話題を呼び、ロバート・B・スティネット[2]『真珠湾の真実』が最近の書である。歴史家が真珠湾に関するもので比較的信頼されるものはゴードン・プランゲ『真珠湾は眠っていたか』である。20世紀末の「機密文書情報公開法」で事前察知を記した公式文書が色々明らかになっているが、これには諸説あり、評価が定まっていない。『月刊現代』最終号の2009年1月号では、徳本栄一郎が「真珠湾攻撃「改竄された米公文書」バリー・プロジェクト」として、責任追及を恐れた政府幹部が外交文書の改竄に手を染めた件を詳述した。日独伊三国同盟の自動参戦条項があり、対独参戦をするため意図的に戦争回避の努力を図らなかったと主張する者もいる。フランク・シューラーとロビン・ムーアによる『パールハーバーカバーアップ』(仲晃訳、グロビュー社、1981年。原著は"The Pearl Harbor Cover-up"(Robin Moore, Frank Schuler, Publisher: Pinnacle Books; Second Printing edition (January 1977)、ISBN 0523009836 ISBN-13: 978-0523009834)には、バリー・プロジェクトとほぼ同一の内容が記されている。
ABCD包囲網
ABCD包囲網とはA(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)による軍事的、経済的封鎖の包囲網が作られたとする当時の日本国政府による呼称であるが、これによって「やむを得ず」戦争を起こさせられたのかどうかは歴史の検証における焦点のひとつであり、ルーズベルトの陰謀説もこの議論の一部を形成する。
- 秦郁彦によれば、ABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。米政府は日本軍の南部仏印に進駐するをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国、蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油・ゴム・スズ・屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國国策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかった。(検証・真珠湾の謎と真実)
- 須藤眞志は、大統領が承認していないので米政府を縛る拘束力もなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。
- ジョージ・モーゲンスターン[3]は、両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。
チャーチルとの密約はあったか
1940年6月22日、フランスが降伏してナチス・ドイツがヨーロッパ大陸を制覇した。ドイツはイギリス上陸作戦を準備し、9月から連日空爆を加えた(ザ・ブリッツ)。ルーズベルト大統領はイギリスを救うために、参戦することを強く願っていたが、攻撃を受けた場合を除いて、アメリカ国外の戦闘に、陸海空軍を派遣しないと公約していたので、すぐに参戦はできなかった。
当時アメリカはイギリスと同盟は組んでいなかった。アメリカの懸念は日本が南進したときにアメリカはどうすべきかということだった。ルーズベルトは日本に警告文[4]を発したが、これは陰謀説を唱える者の証拠とされる。
ただし、アメリカと日本の戦争が始まったからといって米独戦が自動的に発生することはない。日独伊三国同盟の規定では「更二三締結國中何レカ一國カ、現二欧州戦争又ハ日支紛争二参入シ居ラサル一國二依リ攻撃セラレタル時」に政治的・経済的・軍事的援助の義務が発生するのであり、日本からの先制攻撃はこれにあたらない(ドイツが独ソ戦を開始しても日本がソビエト連邦に宣戦しなかったのはこのためである)。米独戦の宣戦布告は、真珠湾攻撃後にドイツ側からなされたものである。
加瀬英明による密約があったとする主張
1940年9月3日には米英防衛協定が調印され、アメリカはイギリス領のニューファンドランドと、北大西洋のイギリス空軍、海軍基地を使用することと引き換えに、イギリスに50隻の旧型駆逐艦と、大量の小銃、機関銃、砲、弾薬を貸与した。1940年9月27日、日独伊三国同盟条約が調印されたことを聞いて、ルーズベルト大統領は側近に「これで、日本をわれわれとの戦争に誘いこめる」と語った。1940年10月7日、アメリカ海軍情報部極東課長のアーサー・マッコラムによる、
などの項目からなる、日本を対米戦争に追い詰めるための提案書が提出され、ルーズベルト大統領はただちに承認した[5]。
1941年8月9日からルーズベルトとウィンストン・チャーチルはニューファンドランド島の沖合のアルジェンチアで会談を行った。チャーチルは何としてもアメリカをヨーロッパ戦争に参加させ、ナチス・ドイツとの戦争に勝利しなければならなかったのである。チャーチルはルーズベルトに、アメリカがドイツに対して即刻宣戦を布告することを求めたが、ルーズベルトは国内世論の制約があったので、「まだ、それはできない」と答えた。しかし、「あと数カ月は、日本という赤児をあやすつもりだ」としばらく待つよう語って、チャーチルを喜ばせた[5]。
1941年2月3日、ルーズベルト大統領は国務省内に、日本と戦って屈服させた後に、日本をどのように処理するかを研究する特別研究部を発足させた。7月18日、日本の南部仏印進駐の10日前、ルーズベルト大統領は、蒋介石政権に爆撃機を供与し、青天白日マークを塗って中華民国空軍機に偽装し、アメリカ義勇兵(フライング・タイガース)に操縦させて中国の航空基地から発進し、東京、横浜、大阪、京都、神戸を爆撃するという、日本本土爆撃作戦計画を承認した[5]。
ハル・ノートは開戦を誘発する目的だったか
日米交渉の最終段階にあたる1941年11月26日午後(アメリカ東部標準時)に、アメリカの国務長官コーデル・ハルが日本側全権大使(野村吉三郎・来栖三郎)に手交したハル・ノートには、妥結条件として中国および仏印からの撤兵、日独伊三国同盟の実質的廃棄、汪兆銘政権の否認が含まれていた。ハル・ノートを見た外務大臣の東郷茂徳は「目もくらむような衝撃に打たれた」『時代の一面』(原書房、1989年)と回顧しており、当時の日本にとっては受け入れられない内容であった。開戦後日本はアメリカの最後通牒であったと発表した。ハル・ノートは開戦派と和戦派の争いに決着をつけ、対米戦に一丸となって行くことを決意させた。一方、手交日にはすでに南雲忠一中将率いる第一航空艦隊は択捉島のヒトカップ湾を出航していた(ただし攻撃か引き返すかの最終命令は12月2日まで出されていない)。
この時期、アメリカが日本の外交暗号(パープル暗号)を解読して得られた情報(「マジック」)はルーズベルト以下の政府および軍の要人に伝えられていた。日本が対米戦争を本格的に準備している(11月22日の外務省から駐米大使館への訓電で日米交渉の期限を11月29日に変更し、「この期限は絶対に変更できない。それから後の事態は自動的に進展する」とした)ことを知ったルーズベルトは11月25日に最高軍事会議を開き、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが「敵が攻撃してくるとわかっている場合に、手をこまねいて待っているというのも、あまり賢明なやり方じゃない」と述べたのに対し、「たしかに、日本軍に最初の一発を撃たせるということには危険がある。しかし、アメリカ国民の全幅の支持を得るには、日本軍に先に攻撃させて、誰が考えてもどっちが侵略者であるか、一遍の疑念もなく解らせるようにした方がいいのではないか」と返答した[6]。
スティムソンは11月26日の朝に、30-50隻の日本の輸送船団が台湾南方海上を南進しているとルーズベルトに電話で報告し、その際にルーズベルトが「ショックを受け、日本側のさらなる不誠実の証拠と受け止めた」「これで事態は一変した」と話したと記している[7]。スティムソンはこれがルーズベルトを日本に対する「最後通牒」を出す要因になった推測した[7]。これに対して太平洋艦隊の情報将校だったエドウィン・レートンは、日本軍が馬公(澎湖諸島)や三亜(海南島)に集結していることはこの時点で知られており、この程度の情報で態度を変えるのはおかしいと指摘した上で、日本の攻撃意図を伝える秘密情報があったのではないかと推測した[7]。今野勉は、11月27日付でマニラのイギリス秘密情報部から打たれた「12月1日に日本軍がクラ地峡を攻撃する可能性あり」という極秘電報(時差の関係で、ワシントンには11月26日に届いたと推察される)の存在を指摘している[8]。
現場責任者の名誉回復問題
1995年に真珠湾攻撃時の米太平洋艦隊司令長官であったハズバンド・キンメルとハワイ駐留の陸軍司令長官だったウォルター・ショートの遺族らが、名誉を回復せよという訴えを起こした。
1995年に国防次官のドーン委員長とする真珠湾調査委員会が50年ぶりに組織された。そして1999年4月に、共和党のウィリアム上院議員らによって二人の名誉回復を大統領に求める共同決議案が提出された。この問題はニューヨークタイムズ[9]でも取り上げられた。しかし、内容をみると「ワシントンD.C.の軍の司令官たちは日本がすぐにでも攻撃してくるかもしれないと示唆する諜報当局の報告を知っていた。 」と言う表現であり、場所も時間も特定されておらず、事前察知とは言いにくい。
内容は「その票決(2890億ドルの軍事支出議案への改正に関する52~47)は、1941年12月7日に攻撃されたハワイへの日本の衝撃的な忌々しい攻撃を、予想することができなかったことで非難された米軍の指揮官キンメル海軍大将と、ショート陸軍中将を赦免することを目的とした。上院は、今日、1941年に真珠湾の爆破の結果として、職務怠慢で訴えられた2人の上級将校の名前を取り除くために、投票を行った。投票は、第二次大戦後、上院からベテランが退職して数が少なくなる中、感情的な議論の末行われた。」というもので、議論の末に僅差で2回とも議決議案を通過したが、ビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュとも署名をせず、ロス議員も落選してしまった。しかし、議会の公式見解では二人の名誉回復は成ったということになっている。
情報源に関わる諸説
陰謀説を構成する上で、アメリカが(日本が対米戦を開始するというだけではなく)「真珠湾を日本が攻撃する」という情報をどのようにして察知したか、という点については様々な説が存在する。アメリカが日本海軍の作戦暗号を解読していたという主張については後節に譲り、ここではそれ以外の説について紹介する。
駐日ペルー公使からの情報(1941年1月)
当時駐日アメリカ大使館員だったフランク・シューラーの追想によると、ペルーの特命全権公使リカルド・シュライバーが「真珠湾攻撃を至急米政府に通報してほしい」と述べたあと、話を聞き終わったグルーが「あなたは、米国と世界に偉大な貢献をされました。すぐに国務省に電報を打ちましょう」と感極まった口調で言ったものの、本国に通知をするのを意図的に避けたという[10]。『パールハーバーカバーアップ』で翻訳者の仲晃は「あとがき」において、ハル国務長官の回顧録(1948年、マクミラン社刊、下巻)から「グルー大使が東京から(1941年)1月27日、次のように打電してきた。それによると、駐日ペルー公使が『日本とアメリカの間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃をかけることが、日本の軍部によって計画されている』と云う話を、日本人を含む多数の筋から聞いたと語ったという。この攻撃には、.....。ペルー公使は、グルーに対して、自分としては日本側のこのような計画は奇想天外だと思うが、たくさんの筋から聞いたのでお伝えしようと思ったのだ、と告げた。われわれ(国務省)は翌日、この公電の内容を陸軍省と海軍省に伝達した(下略)」という箇所を引いている。
今野勉はこの内容は、シュライバーから「一日本人を含む複数の情報」として「万一日本がアメリカと紛争になった場合、全軍事力を使用して真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ」という話を駐日アメリカ大使館員(一等書記官クロッカー)が聞き、それを伝えられたグルーが電報を打ったとしている[11]。今野は「一日本人」はペルー公使館の日本人通訳であったという、ジョーン・D・ポッター著『太平洋の提督』の記述を紹介している[11]。グルーの電報内容はアメリカ海軍にも伝えられたが、海軍作戦部長のハロルド・スタークは太平洋艦隊司令長官のキンメルに対して「海軍情報部としてはこの流言は信じられないと考える」「予測できる将来において、こうした行動が計画されているとは考えられない」という内容の電報を2月1日付で送っている[11]。日本海軍内部でもまだハワイ攻撃の案を知る者がほとんどいなかった時点でこの発言があったことについて、今野は松尾樹明(en)という人物が1940年に出版した『三国同盟と日米戦』(霞ヶ関書房)が、日米戦争は不可避でその場合日本は開戦劈頭に奇襲艦隊で真珠湾を攻撃してハワイを占領するべきだと記していた影響をあげている[11]。
スパイによる通報説
別個に活動していた二人のスパイの情報から、ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃を事前察知した、という説である。
ゾルゲ通報説
日本でスパイ活動を行っていたリヒャルト・ゾルゲから真珠湾攻撃の情報がソ連に伝えられ、スターリンによってルーズベルトに知らされたというもの(ゾルゲ通報説・ゾルゲ事件)。1951年5月17日に、ニューヨーク・「デイリーニューズ」に、政治記者のジョン・オドンネルが、モスクワからワシントンに真珠湾攻撃の情報が伝えられたことがゾルゲの告白文に記されているという暴露記事を載せたのがこの説の初出である。そこからルーズベルト陰謀論が再燃した。オドンネルの記事によると、戦後GHQに押収された日本の特別高等警察の機密文書の中にゾルゲの告白文があり、ワシントンの連邦議事堂内に厳重な監視下で保管されているという。それは「1941年10月に日本は60日以内に真珠湾攻撃を行うという計画を持っている、とモスクワに報告した。モスクワからはそれに対する謝状とともに、情報がワシントンに通報されたと知らされていた」というもの。この内容は、文書が送られてきた際に、国防省の誰かが見たものだとオドンネルは記述した[12]。ゾルゲは10月18日に逮捕されているので、その報告は10月の何日のものかはっきりしない。
不自然なことは国防省の「誰か」以外に誰もその資料を見たことがないということと、日本側に資料が存在しないことである。ゾルゲは確かに特高警察の取調べを受けているが、真珠湾攻撃を予め知っていたという調書は存在しない[13][14][15]。ゾルゲには獄中の手記もあり、全て公表されているが、日本での資料を見る限り、ゾルゲが予め知ってそれをソ連に伝えたという告白文はない。また、ソ連側に残ったゾルゲ事件にまつわる記録も数多く公開されているが、その中にも真珠湾攻撃に関するものはない。またゾルゲが接触していた人物もそのような証言をしていない。
オドンネルの記事は、赤狩りをおこなう議会の非米活動委員会に関する報道の一環としてなされたものであった。記事の主旨は、この文書が国務省がかつて真珠湾攻撃の情報と引き替えにソ連と取り引きをしたことを裏付け、国務省内に共産主義者がいたことや、取り引きを隠蔽するために真珠湾攻撃の情報が隠されていたことを暴くという点にあった[16]。記事では非米活動委員会がこの文書を調査するだろうと書かれているが、実際の調査ではそのような文書は発見されなかった。
- ゾルゲが関係するもうひとつの説に「アメリカからロシアに帰るソ連船が機動部隊と遭遇することを予め日本側に知らせていたのではないか」というものがある。機動部隊の行動をソ連が知ったのはゾルゲの報告に違いないという推理である。(エドウィン・レートンの『太平洋戦争暗号作戦』)11月29日に「サンフランシスコを出て極東に向かったソ連船に遭遇する虞れがあるとの情報が着たが今日まで何もなかった。」(『戦史業書ハワイ作戦』)レートンは日本の機動部隊に遭遇するかもしれないことを、ソ連が予め知らせたのではないかと推理を打ち出した。だとすれば機動部隊の任務は真珠湾攻撃であることをスターリンは知っていたということになる。レートンはこの船をサンフランシスコを出港したウリツキー号であったと特定している。アメリカ側から積み出された貴重な兵器を積んでおり、スターリンは日本と揉めて貴重な兵器を失いたくなかったのではないか。また米からもたらされた、41年6月のドイツの攻撃の情報の返礼として、真珠湾に向かう日本機動部隊の情報を教えたのではないだろうか、という説である。阿川弘之の『山本五十六』に「南雲艦隊は12月6日、第三国の行逢船を認めた。(中略)もし、何処かへ、無電で機動部隊の動向を通報するような徴を見せたら、この船はおそらく、二、三分後に海底へ消し去さられてしまったに違いない。」と言う文がある。
今野勉はこのレートンの説に対して、遭遇を回避するのであれば船の出航を遅らせるか、航路を変えるか引き返せばよく、武器貸与法で支援を受けていたアメリカではなく日本に情報を流すのは不合理とした[17]。
ウリツキーとの遭遇の有無や日本側が遭遇する可能性を知っていた点については、北沢法隆が1991年に検証をおこない、以下のような結論を導いた[18]。- 日本海軍は、米西海岸から総領事経由で船舶の動静を含む情報を収集しており、それを機動部隊に伝えていた。
- 機動部隊が警戒していたソ連船はサンフランシスコを現地時間11月14日と11月29日に出港したもの(それぞれ11月29日、12月7日頃の遭遇を予想)で、11月28日に出港したというウリツキーとは一致しない。
- 第八戦隊参謀・藤田菊一中佐の12月8日の日誌に「夜来最も恐れ、且警戒せる行遭船もなし、天佑により隠密接敵 完全に成り待望の朝を迎う」とある。
- 米太平洋時間の11月28日以降にサンフランシスコを出港したウリツキーが、日本時間12月6日に機動部隊と遭遇するのは航路と速度から困難である。
- 機動部隊は前方に警戒駆逐艦を配備していたが、その視程は32~33kmにおよび、貨物船よりも早く相手を発見可能である。仮に発見した場合には探知情報が前衛艦→旗艦→列艦の順に伝達され、緊急一斉回頭と速力上昇による確認防止のための避航動作をおこなうはずだが、関係者の当時の日誌類にはそうした記述がない。
- 北沢は阿川に記述の出所を確認したところ、元連合艦隊司令部の参謀だった渡辺安次との対談で直接得たとのことであった。渡辺元参謀はこの時点で故人で確認はとれなかったが、北沢は11月末のソ連船警報や12月6日の「敵潜水艦らしきものあり」という緊急電などの情報が交錯して「遭遇した」と記憶したのではないかと推定した。また、『山本五十六』は1979年にアメリカで出版されたことからこの記述が伝わり、1983年に海軍歴史シンポジウムでソ連船が取り上げられたことがレートンの記述の背景にあったとしている。
ポポヴ(ポポフ)通報説
ドゥシャン・ポポヴ[19]というドイツとイギリスの二重スパイがニューヨークのFBIにいき真珠湾攻撃を教えた、という説。ポポヴの回顧録によれば、当時ポルトガルのリスボンにあったドイツ情報部から情報収集とスパイ網を作るように指令されて米に渡るが、その中に日本からドイツへの「ハワイのオアフ島にある、軍事施設、真珠湾の米艦船の停泊状況、湾内の水深などを調べて報告するように」との依頼があった。ポポヴは米につくなり、ニューヨークのFBIにこの真珠湾の件を話して、日本の真珠湾攻撃の可能性を強く主張した。FBIのフーヴァー長官は、二重スパイであり、プレイボーイであるこのポポフの話を真ともに聞こうとせず、そのままにした。
問題はこの内容が事実かどうか、事実であるとすればフーヴァーはルーズベルトに伝えたかどうかである。ポポヴが提出したとする書類は国務省やナショナル・アーカイブスでも発見されていなかったが、1982年の「アメリカン・ヒストリカル・レビュー」にミシガン州立大学歴史学部のジョン・F・ブラッツェルとレスリー・B・ラウトの二人がFBIファイルのなかで発見したと発表した。ポポヴは明らかにFBIに真珠湾の調査を依頼されていたことを報告した証拠がある、とした。
今野勉は『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』の中で、ポポヴの情報を元にフーヴァーが1941年9月に大統領秘書官に提出した報告書を紹介しているが、そこにはドイツの諜報員が情報を伝達する手段について記されているだけである[20]。さらに、今野はポポヴに対するドイツからの調査項目を紹介し、その中には確かに真珠湾が含まれているものの、イギリスがアメリカからどの程度の援助を受けているかがメインで、真珠湾の扱いはそれほど緊急性を与えられていないとする[21]。FBI側の内部文書には、ドイツに偽の情報を渡してポポヴを利用していることは記されていたが、真珠湾に関しては何も触れていない。また日本海軍はそれ以前の段階からハワイの情報を各種のルートでつかんでおり、ドイツを経由して諜報活動をする必然性にも乏しかった[22]。今野はこれらを総合して、ポポヴが日本の真珠湾攻撃の企図をフーヴァーに伝えたとするのは、回顧録で「でっちあげをやった可能性がきわめて大きい」と結論づけている[23]。
フーヴァー長官とケッチャム証言
今野勉は『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』の中で、フーヴァーが一度だけ真珠湾攻撃について証言した内容を紹介している。この証言は1945年11月13日に上下両院の「真珠湾攻撃に対する合同調査委員会」メンバーがおこなった非公開の予備聴取で、聴取をおこなった議員が発表したものである。その一節には、
- 1945年11月26日に太平洋の諜報部員が入手した情報を受け取ったとき、フーヴァーは「非常に明確なメッセージ」を太平洋地域の全捜査官に発した。
とある[24]。
フーヴァーの公式の発言はこの一度だけであったが、今野は1982年にカールトン・ケッチャムという元空軍大佐に聞き取りをおこない、以下のような証言を得た[25]。
- 1942年2月にワシントンD.Cでの特別な集まりで、フーヴァー長官が次のように話した。
- 1941年9月に極東の秘密情報部員および香港かシンガポールのイギリス人ビジネスマンから「日本がパールハーバーか、フィリピンのクラークフィールドを攻撃する予定である」と警告を受けた。ビジネスマンらは、この話を東京にいるアメリカ政府代表者から聞き、政府代表者は日本人の友人から聞いたという。攻撃の危険を感じたフーヴァーはこのことを、キンメルやショートに知らせるべきだと進言したが、大統領はそれを拒絶して「誰にも言うな」と話した。大統領特別顧問のハリー・ホプキンスやノックス海軍長官はこの件を知っていたようだ。マーシャル将軍も知っていたかもしれない。
- その後も警告は5、6回あり、最後のものは攻撃の一週間前に極東の誰かからあり、非常に詳細だった。パールハーバーを指揮する将官にそのことを知らせるよう懇請したが、大統領はこの件は自分に任せろと言った。
- 攻撃の2、3日前に日本艦隊が太平洋をハワイに向かっているのが発見された。それは一般市民(またはアマチュア無線士)から無線をキャッチしたという通報が軍にあったためだ。パールハーバーが3日くらい後に攻撃されることが位置からわかった。東インド諸島のオランダ人スパイからは、場所の情報はないが攻撃がおこなわれるという警告があった。フーヴァーは再度大統領にハワイの指揮官に伝えるよう求めたが、自分が行動するまで待て、FBI関係者には一切漏らすなという返事だった。
今野は、9月の情報は、前記のグルーが打った電報がその源であるとしている[11]。
アメリカは暗号を解読していたか
スティネットの『真珠湾の真実』は、アメリカにおいては「初めからお終いまで間違いだらけ」として顧みられなかった[26]が、日本の一部では「精緻をきわめた手法」で「ぼう大な新資料」を「発掘」して真珠湾攻撃にまつわる陰謀を「暴露し、証明した」ものとして扱われた[26]。
スティネット『真珠湾の真実』における主張
- アメリカの暗号解読班は暗号を知り尽くしていた。それは、アメリカが初めてこの暗号を破ったのは、1920年代のことだったからである。1941年頃日本はアメリカの暗号を出し抜こうと、この暗号に三ヶ月毎に細かい変更を加えていた。Jシリーズ暗号の三つの各々が1941年に使用されたが、一日も経たないうちに破られてしまった。アメリカの解読班の裏をかく事はできなかったのである。Jシリーズは元々皮肉を込めて暗号関係者の専門語で「直接法」と言われている方法で解読された。直接的と言われる所以は、日本外務省の急使の手荷物を盗むなどの手段が用いられたからである。たとえば福田急使がサンフランシスコの税関を通過しようとするとき、米海軍が税関吏を装って暗号書の入っている箱を開け暗号書の内容を急いで写真に撮って返し、通関を許可したりもしくは公然と買うこともあった[27]。『真珠湾の真実-欺瞞の日』。
- 10月になると太平洋艦隊通信解析主任ホーマー・キスナー米軍暗号解読者が、“親鶏”(第三艦隊)、“子鶏”(侵攻部隊)の正体を知ることができた、と記している[28]。日本の艦艇は基本的な通信機密保全を守ることを怠ったため、傍受局Hの暗号解読班は、第三艦隊の編成を知ることができた。米軍暗号解読者によると、第一艦隊の六隻のどの空母[29]も連絡を取ることはなく、東南アジアではなく、常に太平洋を横断して当方ハワイに向かう行動に関連しているように思えた[30]。9月が終わり日本は中国から主要な艦船と航空部隊の大半を引き上げさせた。マッカラムの覚書に「戦争を企図している国は武力行為に出る前に、船舶が拿捕されたり、破壊されたりする地域から、商船と派遣中の海軍部隊を引き上げさせると思われる」[31]とある。ワシントンは戦争の序曲と理解した。米情報部は商船を中心に無線を傍受していたのが分かる。日本商船にはJAPANからJで始まる記号を割り当てていた。龍田丸は「JFYC」であった。軍艦と海軍基地は仮名文字二字と数字一字だった。空母赤城は「8ユナ」だった。『真珠湾の真実-欺瞞の日』。
- 日本無線傍受電報の原本記録はすべて機密暗号グループに分類され、現在でもほとんど公開されていない。 『真珠湾の真実-欺瞞の日』。
批判
スティネットの『真珠湾の真実』に対して秦郁彦は以下の反論を展開している。
- 序章と後方の記述が違い過ぎ、原書ページで5ページと324ページでまるで正反対である。
- 1999年3月メリーランド州カレッジパークの国立公文書館でJN-25bの解読作業に関する文書OP-20-Gを発見、1941年12月1日の時点ではJN-25bのほんのわずかな暗号を、解明できずただの一通も解読できなかった、というのが事実であり、JN-25bが解読されていたという主張を論破するものである(『検証・真珠湾の謎と真実』)。
- 日本外務省は九七式欧文印字機という暗号機(アメリカのコード名パープル、パープル暗号機)を使用していたが、アメリカはこれを複製することに成功していた。パープルや領事用の解読情報はマジックと呼ばれた。パープル電報の傍受はベインブリッジ(ワシントン州)とサンフランシスコ傍受所で米軍は97%から98%解読できた。日本外務省はこの暗号機に自信をもち、解読されているとは知らなかった。(『検証・真珠湾の謎と真実』)。連合軍は沿岸監視員、フィリピン・ゲリラ、オシントとしては市販の書籍、雑誌、新聞、または公刊資料などから、理論的に解析、敵の暗号書に近い物を作り上げるが、真珠湾攻撃前に日本外務省の主暗号を真珠湾攻撃前に解読した。(『検証・真珠湾の謎と真実』)。外務省の主暗号は解読されていたが、日本海軍の暗号が解けるようになったのは1942年春以降である[32]。
- 艦船の位置を特定する「方位測定」は敵電波の方位を測定することであるが、長距離で二箇所以上で同時に測定しなければならない。(以下ジャスパーホルムズの著書)[33]当時の方位測定機の多くは実際の方向と逆の方向(180度真反対)のいずれかは識別することが出来なかった。12月7日(攻撃当日)1100(午前11時)オアフ島のアルアレイの方位測定機が357度方向に日本空母を測定したが、それまでのキンメル太平洋艦隊司令長官の情報はすべて南方にあるというものであった。(『検証・真珠湾の謎と真実』)。
- スティネットが原著57ページで例示した、11月18日から20日付の日本軍の電報の写真に見える解読日付が1946年4月となっている[34]。
スティネットの著作について秦は、「類書のなかでも最低レベル」で「功の側面があるとすれば、真珠湾陰謀論は成り立たないこと」を立証したことと評している[34]。
マッカラムの覚書
マッカラム・メモは開戦の呼水になったのか
アーサー・マッカラム(マコーラム)[35]の1940年10月7日付のメモ。スティネットによると、彼が国立公文書館(ナショナル・アーカイブス)で1995年1月24日に発見したもので、直属上司の海軍情報部長(ウォルター・S・アンダーソン大佐)にあてたもので、「太平洋地域の情勢評価と米国がとるべき行動についての勧告」とタイトルがある。
- 太平洋、特にシンガポールなど、太平洋における英軍基地を利用するため英国と同盟ないし、協定を結ぶ。
- 蘭印にある基地の使用、補給物資の調達についてオランダ政府と協定を結ぶ。
- 中国(蒋介石政権)にたいし、可能な限りの援助を与える。
- 航続能力の高い重巡洋艦の一個隊を極東、フィリピン、シンガポールに派遣する。
- 潜水艦二個隊を極東に派遣する。
- 合衆国ハワイ艦隊の主力を引き続き駐留させる。
- 英国と共同し、日本に対し全面禁輸し、米国内の日本資産凍結を実施する。
これらの行動を実施すれば日本は対米戦に突入するだろうと結論しているが、これには米国が日本に対して絶対優位にあり、その気になれば日本を完膚なきまでに叩き潰せるだろうという、思い上がりがあった。
マッカラム・メモの送付先は、大統領直属の2名の軍事顧問(上記アンダーソン大佐、ノック大佐)であり、そのうちのノック大佐は明確に「貴官の行動方針に同意する」と裏書して、アンダーソン大佐に回覧したとスティネットは言う。なおマッカラムの献策は歴史的には何らかの形ですべて実行に移された。
このスティネットの主張に対して、秦郁彦は「改めて検証すればレヴェルの高い文書でもなく、「ルーズベルト政権によって裁可された『対日開戦促進計画』の文書」(『欺瞞の日』に対する中西輝政評)でもない。しかも彼は中間管理職であり、上に作戦部次長、作戦部長、情報部長、戦争計画部長もいて、ルーズベルトまでこのメモがいくなど、普通では考えられないことである。スティネットがいうような確実な証拠はない」と反論している。
無線封止は守られていたか
スティネット
ハワイ作戦に向かった機動部隊が、とくに司令長官である南雲忠一が60回も無線封止を破ったとスティネットは書いている。真珠湾攻撃に関与した日本海軍将校は第一、第五航空戦隊空母は完全な無線封じを行っていたと主張し、米側がキャッチした電報は空母赤城やその他の軍艦になりすまして発信した偽電を傍受したものであるという。キンメル司令官の情報参謀エドウィン・レートン(前出のソ連船通報説の論者)は1985年に刊行した著書(前出『太平洋戦争暗号作戦』)の中で「日本は偽電を打っていない」と証言し、「偽電はこれまでに発見されていないし、もし日本が偽電を実施していたらそれは馬鹿げたことで、見破られていた」と言っている(『真珠湾の真実-欺瞞の日』)。
須藤眞志
須藤眞志は無線封止は守られていたとする。出発した機動部隊が途中で見つかれば全ては水泡に帰すから、天候上の理由から非常に危険な北方ルートを決断せねばならなかった。大遠征で航海中、給油をせねばならぬが、海上が荒れていれば不可能である。海軍では軍令部が中心となって、連合艦隊、第一航空隊との間で通信計画が作成された。「電波戦闘管制」は最厳重な管制の場合で作戦上、緊急電報送信のほか、一切を電波発信禁止し、最高司令長官のみ命ずることが出来る。「60回も命令違反をした」というスティネットの主張について、監訳者の妹尾作太男は「機動部隊は11月末から12月初めにかけ、最大風速35Mの台風にやられ、散り散りになった、艦隊を呼び集めるため、発光信号は頼りにならず、止む無く『禁断の電鍵』を叩いた」と証言している(『諸君!』2002年6月号)。ところが逆の証言が多く、「北太平洋が思ったより穏やかで海霧が視程を低下してくれて助かり、洋上補給もうまくいった」と源田実は述べている(『真珠湾作戦回顧録』)。
当時の海軍のモラルについて。無線封止が本当に守られていないならば南雲中将は愚将であり、日本海軍軍人のモラルとは一体なんだったのか問わざるを得ないが、かくのごとく、無線封止は、命をかけてまで守るほどの重要なことであり、命令違反ではないにせよ、部下が命をかけて守ろうとしていた無線封止を上官である南雲や長谷川が簡単に破ったとは到底信じられない。スティネットが発見したとしている傍受電波の記録の信憑性であるが、何ひとつとして公開されておらず、米公文書館に所蔵されているとのことであるが、スティネット以外、誰も目にしていない。
伊号二三潜水艦が一時行方不明になり、その捜索のため、淵田美津雄が一度だけ電波を出したことがあると発言した(半藤一利『真珠湾の日』)。
秦郁彦
秦郁彦も無線封止は守られていたとする。
- スティネットは真珠湾直前の21日間(10月15日~12月6日)に米海軍通信諜報班(フィリピンのコレヒドール島のステーションC,ハワイのステーションH)がインターセプトした129通りの日本軍電波の内訳表を揚げている。そして無電封止の命令を無視し、「平均すれば一日当り3.8通」も電波を出し、おまけに「南雲長官がもっともおしゃべりだった」とコメントしている。これが本当なら機動部隊はハワイまでの12日間、北太平洋をガラガラ蛇のような大音響を立てながら進んだことになり、米側が「手に取るように」機動部隊の動きを掴んでいた事になるが、この主張のトリックは単純なものである。
- すなわち、スティネットは傍受 [interception] と「解読」[decoding] を取り違えている。スティネットはハワイ通信諜報班(ステーションH)のH・キスナーとキャビア班(ステーションC)のD・ホイットロックに何回もインタビューして結論を得たと証言を得ているが、二人の手記も文書資料もない。NSA(国家通信保安局)の解読史専門家F.D.パーカーが暗号専門誌『クリプトロジア』に書いた論文によると、戦後明らかにされた真珠湾攻撃関連の電報は188通である。前記の129通との差分はスティネットが見落とした可能性がある。ヒトカップ湾からの11月18日に関連する電報三通と、連合艦隊司令長官が指揮下の全艦隊へむけて発電した「ニイタカヤマノボレ」を除くと11月26日以降の電文はないので、機動部隊は無線を発信しながら、ハワイへはむかっていないといえる。しかも内容は解読されていないので、役には立っていない。
参考文献
- ジョン・コールマン(太田龍 監訳)『真珠湾 日本を騙した悪魔』(成甲書房、2002年) ISBN 4-88086-131-6
- フランク・シューラー/ロビン・ムーア(仲晃 訳)『パールハーバーカバーアップ』グロビュー社、1981年
- ロバート・B・スティネット(妹尾作太男 監訳\荒井稔・丸田知美 訳)『真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々』(文藝春秋、2001年) ISBN 4-16-357530-8
- ジョージ・モーゲンスターン (渡邉明 訳)『真珠湾 日米開戦の真相とルーズベルトの責任』(錦正社、1999年) ISBN 4-7646-0312-8
- 今野勉『真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか』(PHP文庫、2001年) ISBN 4-569-57573-0
- 須藤真志『真珠湾〈奇襲〉論争 陰謀論・通告遅延・開戦外交』(講談社選書メチエ、2004年) ISBN 4-06-258306-2
- 太平洋戦争研究会『太平洋戦争がよく分かる本 20ポイントで理解する』(PHP文庫、2002年) ISBN 4-569-57674-5
- 徳本栄一郎「スクープ証言と発掘資料が明かす67年目の真実 真珠湾攻撃「改竄された米公文書(バリー・プロジェクト)」『現代』2009年1月号、講談社
- 秦郁彦 編『検証・真珠湾の謎と真実 ルーズベルトは知っていたか』(PHP研究所、2001年) ISBN 4-569-61586-4
- 半藤一利『〈真珠湾〉の日』(文春文庫、2003年) ISBN 4-16-748312-2
- 星亮一『淵田美津雄 真珠湾攻撃を成功させた名指揮官』(PHP文庫、2000年) ISBN 4-569-57391-6
脚注
- ^ 「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判産経新聞2011年12月7日記事
- ^ ロバート・B・スティネット(Robert B. Stinnett、1924年 - )、カリフォルニア州オークランド出生。真珠湾攻撃時は高校在学中だった。翌1942年卒業と同時に海軍に入隊し、1946年まで元大統領のジョージ・H・W・ブッシュの元で太平洋、大西洋の両洋の戦場に従軍。その軍功に対し青銅従軍星章10個並びに大統領感謝状を授与した。戦後オークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者を勤めたのち、「真珠湾の真実」執筆のため退社する。同書はアメリカの他、イギリス、イタリアでも出版された。BBC、NHK、テレビ朝日の太平洋戦争顧問[要出典]でもある。
- ^ ジョージ・モーゲンスターン(George Morgenstern)、1906-1988年、米国・シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学専攻後、25年新聞界で働く。シカゴトリビューン紙の外交問題と国際問題の論説委員だった。第二次世界大戦中は海兵隊大尉として海兵隊総司令部広報部付ニュース班長だった。海兵少佐で退官。
- ^ 野村吉三郎大使に渡した覚書「日本政府が隣国諸国を武力、若しくは武力威嚇による軍事的支配の政策、もしくはプログラム遂行のため、さらに何らかの措置を執るについては合衆国政府は時を移さず合衆国及び米国民の合法なる権利防衛のため、及び合衆国の安全保障を確保する為同政府が必要と認める一切の手段を講ずるを余儀なくせらるべき旨言明することを必要なりと思考す。」外交文書に見る日米交渉(外交史料館)
- ^ a b c 加瀬英明/ヘンリー・S・ストークス『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社新書
- ^ 今野、pp.357 - 358
- ^ a b c 今野、pp.363 - 364
- ^ 今野、p.365
- ^ Senate Clears 2 Pearl Harbor 'Scapegoats' ニューヨークタイムズ1999年5月26日記事(英文)
- ^ 徳本、2009年
- ^ a b c d e 今野、P277 - 278、308 - 310
- ^ 今野、2001年、P176 - 178
- ^ ゾルゲは独ソ、日ソに対しての諜報活動を行い、ソ連に関してのドイツと日本の軍事行動について調べていた。ゾルゲはソ連人でありながら、ドイツナチス党に偽装入党した上で、「フランクフルター・ツァイトゥング」の記者として入国し、駐日ドイツ大使のオイゲン・オットの信頼を得て、情報を収集していた。その情報は詳細かつ正確で六月のソ連侵攻も伝えていたほどである。日本については尾崎秀実(ほつみ)から情報を得て、それを元に分析してソ連に送っていた。米英については「日華事変と日独同盟政策に加え、日本が南方政策を打ち出したことにより、日本と米英の関係は悪化し、この両国は日本の敵となった。」ソ連に対しては「1941年の夏、または秋に日本がソ連攻撃に出ることはない、少なくとも翌春までにはない。」と『ゾルゲの獄中記』(山手書房新社)で書いている。
- ^ ゾルゲは「尾崎が持っていた重要な情報源は近衛公爵を取り巻く、側近たちで、風見章、西園寺公一、犬養健、後藤隆之助、尾崎秀実らによる情報源を得ていた。」と述べている。近衛側近とソ連へ報告していた彼らは、「昭和研究会」のメンバーでもあり、その情報の中身は軍事的、および政治的情報は少なかったといわれる。御前会議で南方作戦を執り米英との戦争も辞さずと日本がしたのはゾルゲにとって歓迎すべき情報であった。
- ^ ゾルゲは尾崎秀実らの密告の情報の中身を分析し、10月から年末にかけて、日米開戦があるだろうとモスクワに報告した。ゾルゲの情報はかなり当っていたが、スターリンは彼の情報を余り信じていなかったようで、それをルーズベルトに知らせたという証拠は今のところない。また、彼の報告には日本の攻撃目標地点がどこかという情報は存在しない。
- ^ 今野、2001年、P178 - p179
- ^ 今野、2001年、P188 - 189
- ^ 「機動部隊とソ連船遭遇説を検証する」(軍事史学会編『軍事史学』通巻106・107合併号、錦正社、1991年)。筆者は当時防衛研修所戦史室勤務。この内容については、今野勉の著書にも要約が紹介されている(同書P189 - 191)。
- ^ ドシュコ・ポポフとも。ユーゴスラビア人でドイツのスパイであったが、イギリスに寝返って、今度はイギリスの諜報員として行動した。二重スパイ。MI6にいたイアン・フレミングが小説「007」のモデルとして描き、映画にもなったことで有名になった。「トライシクル・三輪車」という暗号名でプレイボーイで乱れた生活を送っていた。『スパイ/カウンタースパイ』という回顧録(邦訳は早川書房、1976年)がある。1981年死去。
- ^ 今野、P212 - 213。ポポヴはドイツ側からマイクロドットという微細な点で情報を印刷したフィルムを渡されていた。
- ^ 今野、P214 - 220。
- ^ 日本側では海軍士官の吉川猛夫を、森村正という名前でスパイとして送り込み必要な情報は送られていた。また、1939年の時点で広島文理科大学の大坪政吉に詳細な真珠湾の地形図を作らせている。
- ^ 今野、P226 - 229。ドイツが真珠湾の情報を求めた理由として今野は、アメリカと開戦した場合のUボートによる攻撃のための情報収集ではないかと推定している。
- ^ 今野、P230。この内容は聴取翌日のニューヨーク・タイムス記事からの引用。「それは、全員に、その時点から、真珠湾爆撃のまさにそのときまで、絶対的な警戒態勢を敷かせるものだった。」と続くが、1941年11月26日の時点で「真珠湾を爆撃する」と知っていたと証言しているわけではない。
- ^ 今野、P271 - 276
- ^ a b 秦郁彦『陰謀史観』新潮社、2012年、185頁。
- ^ 桑港の諜報員は八幡丸の無線局長T・ハラダから日本商船暗号「辛」(海軍暗号書)を四万ドルで買った(『真珠湾の真実-欺瞞の日』)。
- ^ ロシュホートの「広範な航空作戦」については1941年??月22日の通信概要より、RG80,PHLO,BOX41,第二公文書館参照。著者のファイルにコピーがある。
- ^ 実際に真珠湾攻撃に参加した6隻の空母が所属していたのは第一航空艦隊である。
- ^ 9月の早い時期にシアトルの第13海軍区(COM13)司令官チャールズ・フリーマン少将は「敵の潜水艦の脅威」について言及、北太平洋とアラスカの偵察機の飛行を実施して、「奇襲を予防する」許可を海軍作戦部長のスターク大将に求めた。フリーマンに許可はなかった。RG187,COM13,Confidential通し番号121129,1941年9月17日付、シアトル国立公文書館参照。著者のファイルにコピーがある。
- ^ ロシュホートのハワイ方面へ先行する日本の潜水艦の追跡証言は1941年1月24日、25日、26日の通信概要日報参照。第二公文館。
- ^ 秦郁彦『陰謀史観』新潮社、2012年、179頁。
- ^ 当時ハワイの通信情報班ステーションHにいたジャスパーホルムズ(後大佐)1979年の著書の内容
- ^ a b 秦郁彦『陰謀史観』新潮社、2012年、186、187頁。
- ^ アーサー・マッカラム少佐(Arthur H.McCollum)は海軍情報部極東班長。牧師の子として1898年、長崎で生まれる。1921年アナポリス海軍士官学校卒業生で、知日派であり日本語に堪能だったことから、少中尉時代(大正末期)に日本語の語学将校として日本に駐在し、以降情報部の任務に携わる。1904年から1941年は海軍情報部(ONI)極東班長の職にある。皇太子時代の昭和天皇にダンスを教えたことがある。知日派ではあっても親日派と言うことはなく、むしろ反日傾向がある。(1970年米海軍協会のオーラル・ヒストリー事業の回想録)