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==参考文献==
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*[[奈良修一]]『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN-13: 978-4634350427、ISBN 4-634-35042-4
*[[奈良修一]]『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN 978-4634350427、ISBN 4-634-35042-4


==関連項目==
==関連項目==

2016年11月15日 (火) 18:44時点における版

施琅(しろう、施琅、1621年 - 1696年)は、末期から初期の軍人。特に台湾鄭氏政権の攻略など、水軍の運用に優れた提督として知られる。

生涯

福建晋江に生まれた。鄭芝龍の部下であったが、1646年順治3年)鄭芝龍が清に投降すると、それに従った[1]鄭成功による南明への誘いを断り、家族が捕らわれるも、帰順を拒否した。この際、家族は皆殺しにされている[1]

1656年(順治13年)定遠大将軍済度の麾下で鄭成功の北伐を迎撃、撃退に貢献した功で同安副将となった。その3年後には台湾に拠った鄭成功に対する同安総兵の地位に就いている[1]1662年康熙元年)水師提督となり、鄭経に相対した。海澄をうかがう鄭経の軍を破り、耿精忠の蜂起(三藩の乱)にあっては、厦門にて戦闘を行い、オランダ人水兵を募ってこれに勝利し、反攻して金門島を含む2島を奪った。この功績で右都督となり、2年後には靖海将軍の地位が加えられた[1]

1668年(康熙7年)には台湾侵攻を提案するがこれは通らず、内大臣となり鑲黄旗に属した。1681年(康熙20年)鄭経が死亡すると台湾侵攻の責任者として推薦され、福建水師提督と太子少保の地位を得た。翌年侵攻が決定すると1683年には鄭経の子鄭克爽を降し、靖海侯となった。また、鄭一族の毒殺を進言された事もあったが、これを退けている[1]

1696年(康熙35年)、75歳で死去。は襄壮、太子少傅追贈された[1]

出典

  1. ^ a b c d e f 清史稿、260巻

参考文献

関連項目

  • 遼寧 (空母) - 中国国外のメディアで当初報道されていた艦名が施琅であった。