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[[1949年]]に[[大阪市立大学]]理学部[[助教授]]に就任。[[1965年]]には、[[ドイツ]]の数学者[[パスカル・ヨルダン]]に乞われ、ヨルダン代数の共同研究のため[[ハンブルク大学]]客員教授、及び国立理論物理学研究所の客員研究員として渡欧し、[[1980年]]に帰国するまで、15年間にわたりドイツの[[ハンブルク]]に滞在。この時期は、欧米の現代音楽祭等で多くの著名な演奏家<ref>[[ピエール・ブーレーズ]]、[[ロヴロ・フォン・マタチッチ]]、[[イーヴォ・ペトリッチ]]、[[イヴォンヌ・ロリオ]]、[[ジグモント・サットマリー]]等</ref>により作品が演奏され、また当時の[[ヨーロッパ]]の前衛的な作曲家たち<ref>[[カールハインツ・シュトックハウゼン]]、[[クシシュトフ・ペンデレツキ]]、[[ルイジ・ノーノ]]、[[ジャコモ・マンツォーニ]]、[[ボー・ニルソン]]、等</ref>との交流を持った。
[[1949年]]に[[大阪市立大学]]理学部[[助教授]]に就任。[[1965年]]には、[[ドイツ]]の数学者[[パスカル・ヨルダン]]に乞われ、ヨルダン代数の共同研究のため[[ハンブルク大学]]客員教授、及び国立理論物理学研究所の客員研究員として渡欧し、[[1980年]]に帰国するまで、15年間にわたりドイツの[[ハンブルク]]に滞在。この時期は、欧米の現代音楽祭等で多くの著名な演奏家<ref>[[ピエール・ブーレーズ]]、[[ロヴロ・フォン・マタチッチ]]、[[イーヴォ・ペトリッチ]]、[[イヴォンヌ・ロリオ]]、[[ジグモント・サットマリー]]等</ref>により作品が演奏され、また当時の[[ヨーロッパ]]の前衛的な作曲家たち<ref>[[カールハインツ・シュトックハウゼン]]、[[クシシュトフ・ペンデレツキ]]、[[ルイジ・ノーノ]]、[[ジャコモ・マンツォーニ]]、[[ボー・ニルソン]]、等</ref>との交流を持った。


一方で、数学者として、[[エルランゲン大学]]で特別講義を行うなど、位相解析学の世界的権威<ref>音楽之友社ムック日本の作曲20世紀, pp230-231; ISBN4-276-96074-6. ただしこれは[[仲万美子]]の文章にそうあるだけで、松下の[[1960年]]から退職までの[[1980年]]までの期間、いかなる研究機関にも彼の単著の[[数学]]と[[物理学]]の[[論文]]は所蔵されていない。</ref><ref>[http://projecteuclid.org/search_result?type=index&q.a.author=Shin-ichi%20Matsushita 外部リンク]</ref><ref>projecteuclidには25件の論文が[[2016年]][[5月]]の時点で確認されるが、そのすべてがJournal Articleで[[1958年]]以前である。</ref>としても知られる。ただし[[1960年]]以降は数学の論文は残しておらず<ref>[http://ooipiano.exblog.jp/13734324/ 外部リンク]</ref>、彼が「転向した」と語った[[宇宙物理学]]の分野でも彼の論文は見つからない。帰国後は、[[宗教]]と[[哲学]]について、いくつかの雑誌に寄稿があるほか、若干の啓蒙書が執筆された。
一方で、数学者として、[[エルランゲン大学]]で特別講義を行うなど、位相解析学の世界的権威<ref>音楽之友社ムック日本の作曲20世紀, pp230-231; ISBN 4-276-96074-6. ただしこれは[[仲万美子]]の文章にそうあるだけで、松下の[[1960年]]から退職までの[[1980年]]までの期間、いかなる研究機関にも彼の単著の[[数学]]と[[物理学]]の[[論文]]は所蔵されていない。</ref><ref>[http://projecteuclid.org/search_result?type=index&q.a.author=Shin-ichi%20Matsushita 外部リンク]</ref><ref>projecteuclidには25件の論文が[[2016年]][[5月]]の時点で確認されるが、そのすべてがJournal Articleで[[1958年]]以前である。</ref>としても知られる。ただし[[1960年]]以降は数学の論文は残しておらず<ref>[http://ooipiano.exblog.jp/13734324/ 外部リンク]</ref>、彼が「転向した」と語った[[宇宙物理学]]の分野でも彼の論文は見つからない。帰国後は、[[宗教]]と[[哲学]]について、いくつかの雑誌に寄稿があるほか、若干の啓蒙書が執筆された。


== 作風 ==
== 作風 ==
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=== 後期(1980年 - 1990年) ===
=== 後期(1980年 - 1990年) ===
[[1980年]]に日本に帰国してからは、1970年代にわずらった病でほとんど自宅から動けなかった。しかし、この時期に作曲家[[松村禎三]]<ref>松村は数少ない友人の一人であり、死の直前にも「日本のエトス」・「第7交響曲」のフルスコアコピーを松村へ送っていた。松村禎三 作曲家の言葉ISBN-10: 4393935691;ISBN-13: 978-4393935699</ref>の元へ長電話を掛けており、再三にわたって現代音楽の復興を訴えた。松下の実子である[[芝池陽子]]の回想によると、1980年代に何らかの確執を生み、日本のみならず世界の楽壇からも遠ざかったとある。
[[1980年]]に日本に帰国してからは、1970年代にわずらった病でほとんど自宅から動けなかった。しかし、この時期に作曲家[[松村禎三]]<ref>松村は数少ない友人の一人であり、死の直前にも「日本のエトス」・「第7交響曲」のフルスコアコピーを松村へ送っていた。松村禎三 作曲家の言葉ISBN 4393935691;ISBN 978-4393935699</ref>の元へ長電話を掛けており、再三にわたって現代音楽の復興を訴えた。松下の実子である[[芝池陽子]]の回想によると、1980年代に何らかの確執を生み、日本のみならず世界の楽壇からも遠ざかったとある。


この時期は、[[宇宙論]]や[[時間論]]、[[宗教]]について述べた著書を執筆し、[[1979年]]からは、[[岩波書店]]の雑誌『思想』に「存在論的時間論(未完)」を連載しはじめるなど、宗教的・哲学的な思索を深めていった。[[1982年]](→[[1984年]],[[1987年]]改訂)には、「第7交響曲《オーケストラのための新しい歌 - 詩編98の1による》」を作曲し、[[日本放送協会|NHK]]より[[小松一彦]]の[[指揮]]で放送初演された<ref>現在は行われていないが、[[NHK]]による管弦楽作品放送初演プロジェクトというのが21世紀初頭まであり、松下の死後にこの枠で初演された。</ref>。この時期には、[[フルート]]独奏のための「三つの断章<ref>[[高崎芸術短期大学]]で初演</ref>」、「管弦楽のためのカプリチオ - 日本のエトス<ref>未初演</ref>」、「[[弦楽四重奏曲]]<ref>完成された作品ではこれが絶筆</ref>」、ピアノのための「スペクトラ第6番 -12のバガテル-<ref>完成したのは6曲だけ</ref>」が作曲されている。
この時期は、[[宇宙論]]や[[時間論]]、[[宗教]]について述べた著書を執筆し、[[1979年]]からは、[[岩波書店]]の雑誌『思想』に「存在論的時間論(未完)」を連載しはじめるなど、宗教的・哲学的な思索を深めていった。[[1982年]](→[[1984年]],[[1987年]]改訂)には、「第7交響曲《オーケストラのための新しい歌 - 詩編98の1による》」を作曲し、[[日本放送協会|NHK]]より[[小松一彦]]の[[指揮]]で放送初演された<ref>現在は行われていないが、[[NHK]]による管弦楽作品放送初演プロジェクトというのが21世紀初頭まであり、松下の死後にこの枠で初演された。</ref>。この時期には、[[フルート]]独奏のための「三つの断章<ref>[[高崎芸術短期大学]]で初演</ref>」、「管弦楽のためのカプリチオ - 日本のエトス<ref>未初演</ref>」、「[[弦楽四重奏曲]]<ref>完成された作品ではこれが絶筆</ref>」、ピアノのための「スペクトラ第6番 -12のバガテル-<ref>完成したのは6曲だけ</ref>」が作曲されている。

2016年11月15日 (火) 18:37時点における版

松下 眞一まつした しんいち Matsushita Shin-ichi[1]1922年10月1日 - 1990年12月25日)は、日本現代音楽作曲家数学者・物理学者・宗教学者・哲学者である。

略歴

大阪府茨木市生まれ。大阪府立旧制茨木中学校を経て、旧制第三高等学校(現・京都大学)に入学する。この間に、父・松下久一より作曲を、中村良治にピアノ和声、永井巴に作曲と和声、朝比奈隆指揮を師事したとされているが、実際には十二音技法以降の理論は、ほとんど独学で習得し学んだと思われる。根っからの虚弱体質のため、徴兵検査で不適とされ戦地に向かうことを免れた。[2]

幼少の頃より、音楽文学科学天文学に関心を抱く。中学時代より、ミヨードビュッシーオネゲルストラヴィンスキーバッハ等の楽曲に親しむとともに、十二音技法の始祖ヨーゼフ・マティアス・ハウアーの思想に傾倒し、13歳で最初の交響曲を作曲している。その頃に「フルートとオーケストラのためのセレナーデ」でモーツァルトを引用する[3][4]など早熟であった。その後、九州帝国大学(現・九州大学)理学部、同大学院へ進み、1945年修了。数学(位相解析学)専攻。

1949年大阪市立大学理学部助教授に就任。1965年には、ドイツの数学者パスカル・ヨルダンに乞われ、ヨルダン代数の共同研究のためハンブルク大学客員教授、及び国立理論物理学研究所の客員研究員として渡欧し、1980年に帰国するまで、15年間にわたりドイツのハンブルクに滞在。この時期は、欧米の現代音楽祭等で多くの著名な演奏家[5]により作品が演奏され、また当時のヨーロッパの前衛的な作曲家たち[6]との交流を持った。

一方で、数学者として、エルランゲン大学で特別講義を行うなど、位相解析学の世界的権威[7][8][9]としても知られる。ただし1960年以降は数学の論文は残しておらず[10]、彼が「転向した」と語った宇宙物理学の分野でも彼の論文は見つからない。帰国後は、宗教哲学について、いくつかの雑誌に寄稿があるほか、若干の啓蒙書が執筆された。

作風

彼の作曲家としての歩みは、おおよそ以下の3つの時期に分けられる。

初期(1949年 - 1964年)

大阪市立大学助教授として教鞭を執るかたわら、本格的に作曲活動に入り、日本で現代音楽作曲家としての地歩を築いた時期にあたる。この時期は、ヨーロッパの前衛音楽の影響下で創作をおこないながら、自身の作曲家としての「表現」を模索した時代であると言える。

関西にありながら松下が作曲家として日本の作曲界に認知されたのは、1958年に「二十世紀音楽研究所主催第2回現代音楽祭作曲コンクール」において「八人の奏者のための《室内コンポジション》」が第1位を獲得してからである。このとき同着の第1位が武満徹であった。

この時期の作風は、当時のヨーロッパ前衛音楽の傾向を反映し、厳格なセリーによる音楽の「時間」・「音色」・「音域」の構造化が行われているが、その響きは「音の濃度・濃淡」の移ろいが精緻に[11]描き出される。海外での音楽祭の入賞など、松下の名が国際的に認知され始めるのがこの時期である。著書には「リュク・フェラーリが僕の音響を聴いて、すぐスタジオを出て行った」[12]とあり、ケルン派の電子音に対するフェラーリの拒絶がすでに日本語で書かれているのは特筆される。

題名から注釈までフランス語で書かれた作品もあり、ブーレーズに見られたソノリティの純度を、沈黙により高めていったことは間違いがない。だが、厳格なセリエリストであったわけではなく、用いられる音列の順番が途中で変更されている例もある。「ソプラノと室内アンサンブルのための音楽」のソプラノパートは、意味を持たない母音と子音の組み合わせのみで書かれており、総数があらかじめ決定されている、などゴットフリート・ミヒャエル・ケーニヒのケルン楽派に肉薄する音響を示している。その傍らで打楽器パートに邦楽器を投入するなどの異国趣味も忘れられてはいない。ピアノの最高音域の弦楽器のハーモニクスは現在ほぼ常識のように扱われているが、この先駆者が松下である。

中期(1965年 - 1980年)

この時期は、ハンブルク国立理論物理学研究所の客員教授として、ヨーロッパで作曲活動を行った時期である。当時の著名な前衛作曲家や演奏家との交流を通して、自身の「音楽的語法」を推し進めるとともに、「日本の現代作曲家」としての自分の「存在の根源」と結びつく「音楽」を模索した時代とも言える。松下の創作のピークを形作る15年間である。

1965年に代表作「七楽器のための《フレスク・ソノール/音の壁画》」(ISCM音楽祭入選)が書かれる。この作品は、1965年の「ベルリン音楽週間」に、ブーレーズの指揮で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーによって演奏されているが、ザグレブ・ビエンナーレマドリッド世界音楽祭ケルンプラハブラチスラヴァトリエステでも演奏された。1966年には、マルティヌー弦楽四重奏団の委嘱による「ピアノ四重奏のための《結晶》」が書かれる。そして、1967年には「ピアノのための《スペクトラ第2番》」、1968年に「室内管弦楽のための《星達の息吹き》」(1969年にオーケストラ版に改訂される)、1969年には三枚の図形楽譜からなる「独奏楽器または合奏のための《精神集中-劫・虚・律/コンツェントラチオーン》」が書かれる。

その他、1970年の「《ゲシュタルト17》」、大阪四天王寺雅亮会によって初演された「雅楽のための《喚起/エヴォカシオン》」、楽譜の余白にシュレディンガー方程式アインシュタイン宇宙方程式ハイゼルベルクSマトリクスをちりばめた1971年の「 ピアノのための《スペクトラ第4番》[13]」、「無伴奏チェロのための《動標》第2番」、北ドイツ放送の委嘱による1972年の「 混声合唱のための《廻向》」、1973年の「オラトリオ《親鸞》」等大作が続く。1974年には、松下眞一の音楽の集大成とも言える「交響曲第6番《シンフォニア・サンガ》」、「大阪の秋」現代音楽祭で朝比奈隆によって初演された「ヴァイオリン協奏曲《田園詩》」が作曲される。1975年には、「交響幻想曲《淀川》」に至る。

「ヴァイオリン協奏曲《田園詩》」はセリー音楽を極限まで推し進めた世界にもかかわらず、ヴァイオリンパートには叙情性が半音階とともに強化され、結尾は四六の和音で終わる。また、一方では、《星達の息吹き》や《シンフォニア・サンガ》など、セリー音楽と新調性主義的傾向が同居している。この頃は新ロマン主義の傾向が明確になり、内容と様式が転換していった時期であった。オーケストレーションを含む楽器法が非常に分厚くなり、ユニゾンを要所で叩き込み堂々と反復語法[14]に訴えることでテンションを増していることはハンブルクで初演された「 混声合唱のための《廻向》」のみならず同時期のすべての作品で確認できる。

これ以後の作風は仏教音楽への傾斜が大きくなり、1975年から1977年の「法華経によるカンタータ《仏陀》三部作」では、一般信徒の理解も考慮してのこととはいえ、前衛的な要素が抑えられていった。この時期に体調を崩し、帰国する。

後期(1980年 - 1990年)

1980年に日本に帰国してからは、1970年代にわずらった病でほとんど自宅から動けなかった。しかし、この時期に作曲家松村禎三[15]の元へ長電話を掛けており、再三にわたって現代音楽の復興を訴えた。松下の実子である芝池陽子の回想によると、1980年代に何らかの確執を生み、日本のみならず世界の楽壇からも遠ざかったとある。

この時期は、宇宙論時間論宗教について述べた著書を執筆し、1979年からは、岩波書店の雑誌『思想』に「存在論的時間論(未完)」を連載しはじめるなど、宗教的・哲学的な思索を深めていった。1982年(→1984年,1987年改訂)には、「第7交響曲《オーケストラのための新しい歌 - 詩編98の1による》」を作曲し、NHKより小松一彦指揮で放送初演された[16]。この時期には、フルート独奏のための「三つの断章[17]」、「管弦楽のためのカプリチオ - 日本のエトス[18]」、「弦楽四重奏曲[19]」、ピアノのための「スペクトラ第6番 -12のバガテル-[20]」が作曲されている。

1960年代という比較的早い時期に、ヨーロッパの前衛作曲家達と交流し、またその作品の多くが数々の音楽祭で著名な演奏家により取り上げられている。主要作品が音源になるのも極めて早かったものの、武満徹が国際的な名声を得るのとは逆に[21]松下の作品は埋もれていった。音大で教鞭をとることもほとんどなかったので、彼の語法は継承されることがなかった。

主要作品

音盤

  • 「交響曲第6番《シンフォニア・サンガ》」(日本ビクター/2LP)
  • 「Ensemble Slavko Osterc 」 Ivo Petric指揮 / Ensemble Slavko Osterc (ユーゴスラヴィア RTV/LP)
  • 「Music Today of Japan/現代日本の音楽 - 12」 秋山和慶指揮/東京ゾリステン (DENON/CD)
  • 「雅楽 四天王寺聖霊会と現代雅楽」 大阪四天王寺雅亮会 (CBSソニー/4LP)
  • 「東京佼成ウィンド・オーケストラ・オリジナル・シリーズVol.8 The Lotus Sutra」 秋山和慶/佼成W.-O. (佼成出版社/LP)
  • 「交響幻想曲《淀川》」朝比奈隆指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団、他 (大阪青年会議所/LP)
  • 「交響幻想曲《淀川》」小野田宏之指揮 大阪音楽大学管弦楽団/大阪音楽大学合唱団 (CD)
  • 「交響幻想曲《淀川》」酒井睦雄指揮/相愛オーケストラ、他 (大阪市教育振興公社/CD)
  • 「星達の息ぶき / 松下真一の世界」平尾はるな、山岡重信、野平一郎、小林功、菅原淳、他 (日本ビクター/LP)
  • 「G.サットマリーによる大阪芸術大学《塚本英世記念館・芸術情報センター・オープニング》パイプオルガン演奏」(RCA/LP)
  • 「ピアノ・コスモス:現代日本ピアノ曲選 1960-69」本荘玲子、高橋アキ、他 (日本クラウン/2LP)
  • 「現代日本チェロ名曲体系」岩崎洸 (東芝EMI/5LP)
  • 「現代日本チェロ名曲体系-Ⅰ・Ⅱ」岩崎洸(TOWER RECORDS|EMIミュージック・ジャパン/4CD)
  • 「パーカッションの驚異/Percussion Fantastic」秋山和慶/高橋悠治/山口保宣 (CBSソニー/LP)
  • 「Music & Graphic」Zsigmund Szathmry (Wergo/CD)
  • 「現代日本音楽の古典(15) / ピアノの変換」高橋悠治 (DENON/CD)
  • 「Good composers extra 80年代ピアノ曲」平尾はるな、他 (Brain/CD)
  • 「現代チェロ名曲集」岩崎洸 (東芝EMI/CD)
  • 「福島和夫:鎮魂歌」秋山和慶/東京ゾリステン (DENON/CD)
  • 「Concert 20-21=日本の作曲・21世紀へのあゆみ:23」稲垣聡(p)/宮本典子/二ツ木由紀(perc)、他 (CD)
  • 「現代日本の作曲家シリーズ-30/松下眞一作品集」秋山和慶、読売日本S.O.、G.サットマリー (fontec/CD)
  • 「朝比奈隆指揮「大阪の秋」〜国際現代音楽祭から〜」朝比奈隆指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団/栗山智子(vn) (自主制作/CD)
  • 「音の始源を求めて8/稲村・徳尾野・佐々木・大津の仕事」徳尾野昌男/NHK大阪放送局(サウンド3/CD)
  • 「《音絵巻 茨木童子》」本山秀毅指揮/茨木市音楽芸術教会10周年記念混声合唱団、他 (CAMERATA/CD)
  • 「いばらき音絵巻」堤俊作指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団、市制60周年記念合唱団、他(CAMERATA/CD)
  • 「音楽法要(仏教ミサ)第1番」 (仏教音楽普及会/LP)
  • 「法華経によるカンタータ《沸陀》第1番」山田一雄指揮/東京佼成交響楽団 (立正佼成会/3LP)
  • 「法華経によるカンタータ《沸陀》第2番」山田一雄指揮/山本直純指揮 (立正佼成会/3LP)
  • 「法華経によるカンタータ《沸陀》第3番」山田一雄指揮/読売日本交響楽団/プロムジカ室内楽団 (立正佼成会/3LP)
  • 「頌讃曲(オラトリオ)《親鸞》」 (真宗教団連合、他/2LP)
  • 「音楽法要/親鸞賛仰」(ミノルフォン/7LP)

参考文献

  • 「レコード芸術1973年8月号/秋山邦晴:日本の作曲家たち23〈松下真一〉」(音楽之友社)
  • 「松下真一 歿後20周年 追悼演奏会(京都国際会館/2010年)パンフレット」(実行委員会)
  • 「音楽芸術1969年9月号/懸賞論文入選作『南喜久雄:松下真一論素描』」(音楽之友社)
  • 「音楽芸術1980年1月号付録/『日本を代表する作品50'80』」(音楽之友社)
  • 「20世紀音楽研究所 現代音楽祭・軽井沢(1957年)パンフレット」
  • 「20世紀音楽研究所 現代音楽祭・大阪(1961年)パンフレット」
  • 「第一回東京現代音楽祭(1960)パンフレット」
  • 「ニューグローブ音楽辞典 第2版(日本語版)」
  • 「日本の電子音楽」川崎弘二著(愛育社)
  • 「日本の作曲20世紀」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲1959」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲1960」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲1961→67」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲1969」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲1970」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲1971」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲1972-3」(音楽芸術別冊)
  • 「日本の作曲家/'83音楽の友・音楽芸術別冊」(音楽之友社)
  • 「星達の息ぶき/松下真一の世界」(日本ビクター)の曲目解説
  • 「岩崎洸 現代日本チェロ名曲集」(東芝EMI)の作曲者による解説
  • 「シンフォニア・サンガ/フレスク・ソノール」(日本ビクター)の作曲者による解説
  • 「パーカッションの驚異」(CBSソニー)の解説
  • 「ピアノ・コスモス」(日本クラウン)の作曲者による解説
  • 「ジグモンド・サットマリーによる大阪芸術大学《塚本英世記念館・芸術情報センター・オープニング》パイプオルガン演奏」(RCA/LP)の作曲者による解説
  • 「雅楽 四天王寺聖霊会と現代雅楽」(CBSソニー)の解説
  • 「最新版 名曲解説全集17 独奏曲IV『ピアノのためのスペクトラ第4番』」の解説(上野晃)
  • 「最新版 名曲解説全集7 管弦楽曲IV『星たちの息吹き』」の解説(上野晃)
  • 「最新版 名曲解説全集3 交響曲III『交響曲第三番《次元-交響的祈り》』」の解説(上野晃)
  • 「松下眞一作品集」(fontec)の解説(芝池陽子)

著書

  • 「西風にのって鐘は鳴る - ヨーロッパの中での眼、ヨーロッパからの眼」(音楽之友社)
  • 「天地有楽 - ある作曲家の遺言」(音楽之友社)
  • 「法華経と原子物理学―いのちの力よ、湧きあがれ (カッパ・ブックス)」(光文社, 1979年)
  • 「時間と宇宙への序説」(サイエンス社, 1980年)
  • 「般若心経とブラックホール―技術と人間性は調和できるか (カッパ・ブックス)」(光文社, 1985年)

脚注

  1. ^ 松下眞一が本名だが、常用漢字制限があった時代は松下真一の名を用いた。
  2. ^ 音楽之友社刊行音楽芸術1991年1月の追悼記事による松村禎三氏の覚えるところでは、「彼は錠剤の詰まった瓶を携帯しており、水も飲まずに数十錠も人前で飲み干した...」・「どうしてそういうことをするのか」と問いただすと『いつ死んでもおかしくないくらい内臓系が悪いんです』と答えたとある。
  3. ^ 音楽之友社音楽芸術・松下眞一氏の作品について - 松平頼暁, 1991年
  4. ^ その後「黒い僧院」でグレゴリオ聖歌を引用するなど、ヨーロッパの新ロマン主義の流行の20年先を予言した。
  5. ^ ピエール・ブーレーズロヴロ・フォン・マタチッチイーヴォ・ペトリッチイヴォンヌ・ロリオジグモント・サットマリー
  6. ^ カールハインツ・シュトックハウゼンクシシュトフ・ペンデレツキルイジ・ノーノジャコモ・マンツォーニボー・ニルソン、等
  7. ^ 音楽之友社ムック日本の作曲20世紀, pp230-231; ISBN 4-276-96074-6. ただしこれは仲万美子の文章にそうあるだけで、松下の1960年から退職までの1980年までの期間、いかなる研究機関にも彼の単著の数学物理学論文は所蔵されていない。
  8. ^ 外部リンク
  9. ^ projecteuclidには25件の論文が2016年5月の時点で確認されるが、そのすべてがJournal Articleで1958年以前である。
  10. ^ 外部リンク
  11. ^ 外部リンク
  12. ^ 著書・天地有楽から
  13. ^ これ以外の残りの式は松下が自作したものだが、何を表しているのかは不明。
  14. ^ 混声合唱のための《廻向》pp. 32-33
  15. ^ 松村は数少ない友人の一人であり、死の直前にも「日本のエトス」・「第7交響曲」のフルスコアコピーを松村へ送っていた。松村禎三 作曲家の言葉ISBN 4393935691;ISBN 978-4393935699
  16. ^ 現在は行われていないが、NHKによる管弦楽作品放送初演プロジェクトというのが21世紀初頭まであり、松下の死後にこの枠で初演された。
  17. ^ 高崎芸術短期大学で初演
  18. ^ 未初演
  19. ^ 完成された作品ではこれが絶筆
  20. ^ 完成したのは6曲だけ
  21. ^ 外部リンク

エピソード

  • ハプニング全盛だった前衛の時代に彼はピアノのためのスペクトラ第四番を書き下ろした。そこには「大地震にあった後は…」とのインストラクションがある。阪神淡路大震災が起きたのは彼の死の4年1か月後である。
  • 「片山杜秀の本(2) 音盤博物誌」には、若き日の松下が投稿少年であったことを指摘するページがある。
  • 天地有楽では「大阪万博に大量の現代音楽の作曲家を呼ぶことに僕は反対した...もっとほかにやることがある」と言い、前衛作曲家では数少ない万博反対派だった。

外部リンク