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'''ミシェル・ミコンベロ'''(Michel Micombero、[[1940年]]-[[1983年]])は、[[ブルンジ]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[1966年]][[11月28日]]から[[1976年]][[11月1日]]までブルンジの初代[[大統領]]を務めた。
'''ミシェル・ミコンベロ'''(Michel Micombero、[[1940年]]-[[1983年]])は、[[ブルンジ]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[1966年]][[11月28日]]から[[1976年]][[11月1日]]までブルンジの初代[[大統領]]を務めた。


ミコンベロは[[ブルリ県]]の[[ルトヴ]]で生まれ、[[1965年]]に[[ベルギー]]の学校から帰国してすぐ国防長官に就任していた。独立後のブルンジは急速に無秩序へと向かっていた。国王[[ムワンブツァ4世]]は政権を何度も交代させ、反[[ツチ]]軍は同じく混乱している[[ルワンダ]]から攻撃を繰り返した。1965年10月18日、[[フツ]]人指導者ジャーヴェイス・ニャンゴマとフツ族の憲兵隊司令官アントニー・セルクワバが反乱を起こした。この反乱を鎮圧したのが国軍の司令官となっていたミコンベロ大尉だった<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 p159 ISBN4-7947-0523-9C3022</ref>。
ミコンベロは[[ブルリ県]]の[[ルトヴ]]で生まれ、[[1965年]]に[[ベルギー]]の学校から帰国してすぐ国防長官に就任していた。独立後のブルンジは急速に無秩序へと向かっていた。国王[[ムワンブツァ4世]]は政権を何度も交代させ、反[[ツチ]]軍は同じく混乱している[[ルワンダ]]から攻撃を繰り返した。1965年10月18日、[[フツ]]人指導者ジャーヴェイス・ニャンゴマとフツ族の憲兵隊司令官アントニー・セルクワバが反乱を起こした。この反乱を鎮圧したのが国軍の司令官となっていたミコンベロ大尉だった<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 p159 ISBN 4-7947-0523-9C3022</ref>。


これにより政治の実権を握ったミコンベロは[[1966年]]7月11日に首相となり、国外に[[亡命]]したムワンブツァ4世の代わりに子の[[ンタレ5世]]を即位させた。1966年11月28日、ミコンベロはヌタレを追放し、自らが大統領に就任した<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 p160 ISBN4-7947-0523-9C3022</ref>。
これにより政治の実権を握ったミコンベロは[[1966年]]7月11日に首相となり、国外に[[亡命]]したムワンブツァ4世の代わりに子の[[ンタレ5世]]を即位させた。1966年11月28日、ミコンベロはヌタレを追放し、自らが大統領に就任した<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 p160 ISBN 4-7947-0523-9C3022</ref>。


大統領となると、ミコンベロはツチ人政党の[[民族進歩連合]]による一党制を敷き、[[アフリカ社会主義]]者や[[中華人民共和国]]の支援を受けた。彼はツチ人を中心とした政府を作り、多数派のフツを鋭く[[弾圧]]した。[[1972年]]、国外に逃れていたフツ人難民がブルンジでの反乱を画策した。これは失敗し、ツチ人は15万人のフツ人を虐殺した。この動きをミコンベロは影で支援し、以後さらに抑圧的な体制を作っていった。これに対し、ツチ人中心の軍内部でも穏健派を中心に不満が高まり、[[1976年]]11月1日、ミコンベロの遠戚にあたる[[ジャン=バティスト・バガザ]]中佐が[[クーデター]]を起こし、ミコンベロは失脚した。
大統領となると、ミコンベロはツチ人政党の[[民族進歩連合]]による一党制を敷き、[[アフリカ社会主義]]者や[[中華人民共和国]]の支援を受けた。彼はツチ人を中心とした政府を作り、多数派のフツを鋭く[[弾圧]]した。[[1972年]]、国外に逃れていたフツ人難民がブルンジでの反乱を画策した。これは失敗し、ツチ人は15万人のフツ人を虐殺した。この動きをミコンベロは影で支援し、以後さらに抑圧的な体制を作っていった。これに対し、ツチ人中心の軍内部でも穏健派を中心に不満が高まり、[[1976年]]11月1日、ミコンベロの遠戚にあたる[[ジャン=バティスト・バガザ]]中佐が[[クーデター]]を起こし、ミコンベロは失脚した。

2016年11月15日 (火) 17:19時点における版

ミシェル・ミコンベロ(Michel Micombero、1940年-1983年)は、ブルンジ軍人政治家1966年11月28日から1976年11月1日までブルンジの初代大統領を務めた。

ミコンベロはブルリ県ルトヴで生まれ、1965年ベルギーの学校から帰国してすぐ国防長官に就任していた。独立後のブルンジは急速に無秩序へと向かっていた。国王ムワンブツァ4世は政権を何度も交代させ、反ツチ軍は同じく混乱しているルワンダから攻撃を繰り返した。1965年10月18日、フツ人指導者ジャーヴェイス・ニャンゴマとフツ族の憲兵隊司令官アントニー・セルクワバが反乱を起こした。この反乱を鎮圧したのが国軍の司令官となっていたミコンベロ大尉だった[1]

これにより政治の実権を握ったミコンベロは1966年7月11日に首相となり、国外に亡命したムワンブツァ4世の代わりに子のンタレ5世を即位させた。1966年11月28日、ミコンベロはヌタレを追放し、自らが大統領に就任した[2]

大統領となると、ミコンベロはツチ人政党の民族進歩連合による一党制を敷き、アフリカ社会主義者や中華人民共和国の支援を受けた。彼はツチ人を中心とした政府を作り、多数派のフツを鋭く弾圧した。1972年、国外に逃れていたフツ人難民がブルンジでの反乱を画策した。これは失敗し、ツチ人は15万人のフツ人を虐殺した。この動きをミコンベロは影で支援し、以後さらに抑圧的な体制を作っていった。これに対し、ツチ人中心の軍内部でも穏健派を中心に不満が高まり、1976年11月1日、ミコンベロの遠戚にあたるジャン=バティスト・バガザ中佐がクーデターを起こし、ミコンベロは失脚した。

その後ミコンベロはソマリアへと逃れ、1983年モガディシュで心臓発作のため死去した。

脚注

  1. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 p159 ISBN 4-7947-0523-9C3022
  2. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 p160 ISBN 4-7947-0523-9C3022