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「バチェラー八重子」の版間の差分

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==関連書籍==
==関連書籍==
'''バチェラー八重子の著作'''
'''バチェラー八重子の著作'''
*『若きウタリに』 [[岩波現代文庫]] 2003年12月17日 ISBN-13: 978-4006020781
*『若きウタリに』 [[岩波現代文庫]] 2003年12月17日 ISBN 978-4006020781


'''伝記'''
'''伝記'''
*[[掛川源一郎]]『バチラー八重子の生涯』 [[北海道出版]]企画センター 1988年3月20日 ISBN-13: 978-4832888012
*[[掛川源一郎]]『バチラー八重子の生涯』 [[北海道出版]]企画センター 1988年3月20日 ISBN 978-4832888012


==脚注==
==脚注==

2016年11月15日 (火) 17:06時点における版

バチェラー八重子(バチェラーやえこ、1884年6月13日 - 1962年4月29日)は、アイヌ歌人キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも、表記される[1]

生涯

1884年明治17年)6月13日北海道伊達町有珠に、戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる[2]。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった[2]。母は、フッチセであった[2]。なお、弟に向井山雄がいる[2]。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師ジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が、11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌガールズスクール」に通う[2]。さらに、東京の香蘭聖書学校に通う[2]

1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となる[2]。22歳のことであった。なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となる[2]1908年(明治41年)、ジョン・バチェラーについてイギリスに行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命される[2]平取幌別の聖公会で伝道活動を展開する[2]1912年(明治45年)には、ジョン・バチェラーと共に、樺太に行き、伝道活動を行う[2]

1931年昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版される[2]。同年、養母のルイザ・バチェラーが死去し、札幌円山墓地に葬る[2]1944年には、養父のジョン・バチェラーが死去する。バチェラー八重子は、日本に残したジョン・バチェラーの蔵書250冊ほどとその他の遺品を、自宅に保管する[2]

1962年4月29日関西旅行中に、京都にて死去する[2]。77歳であった。

関連書籍

バチェラー八重子の著作

伝記

脚注

関連項目

外部リンク