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「猊鼻渓」の版間の差分

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[[東北地方|東北]]の[[耶馬渓]]と謳われる。船頭が謡う猊鼻追分を堪能しながらの舟下りを楽しめることから、観光地として人気がある。[[紅葉]]の他、[[フジ (植物)|藤]]の名所としても名高い。観光客が乗船するのは手漕ぎ船である。
[[東北地方|東北]]の[[耶馬渓]]と謳われる。船頭が謡う猊鼻追分を堪能しながらの舟下りを楽しめることから、観光地として人気がある。[[紅葉]]の他、[[フジ (植物)|藤]]の名所としても名高い。観光客が乗船するのは手漕ぎ船である。


船は川を遡る方向に出発する(船着場を下った先には砂防ダムがあり、船では下れない)が、日本国内の河川観光地では珍しい、<b>乗客が手漕ぎ船で川を上る</b>観光地でもある([[長瀞渓谷|長瀞ライン下り]]は下りのみ、[[最上川|最上川舟下り]]は近距離のコースのみが川を上るが[[船外機]]付きの船)。船頭がこのくだりを解説し、団体客などの多人数乗船で船頭2名で運行する際は「1人で船を漕いで歌うのはとても疲れるから船頭2人体制です」と笑いを誘うのが定番である。
船は川を遡る方向に出発する(船着場を下った先には砂防ダムがあり、船では下れない)が、日本国内の河川観光地では珍しい、'''乗客が手漕ぎ船で川を上る'''観光地でもある([[長瀞渓谷|長瀞ライン下り]]は下りのみ、[[最上川|最上川舟下り]]は近距離のコースのみが川を上るが[[船外機]]付きの船)。船頭がこのくだりを解説し、団体客などの多人数乗船で船頭2名で運行する際は「1人で船を漕いで歌うのはとても疲れるから船頭2人体制です」と笑いを誘うのが定番である。


ほとんどの箇所では水面下が大人の膝丈~股下ほどと水深が浅く、流れも非常に緩やかではあるが、他のイベント乗船同様、[[救命胴衣]]の着用が必要となった。
ほとんどの箇所では水面下が大人の膝丈~股下ほどと水深が浅く、流れも非常に緩やかではあるが、他のイベント乗船同様、[[救命胴衣]]の着用が必要となった。

2016年11月15日 (火) 16:22時点における版

猊鼻渓の位置(日本内)
猊鼻渓
猊鼻渓
猊鼻渓の舟下り
猊鼻渓の舟下り、雨天時は舟に屋根がある
猊鼻渓周辺の空中写真。画像右側(東)より左方向(西)へ流れる砂鉄川が、カルスト台地を東西に貫いて侵食し、深い谷が形成されている様子が分かる。1977年撮影の2枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

猊鼻渓げいびけい)は、岩手県一関市東山町にある砂鉄川沿いの渓谷

概要

岩手県で最初(1923年10月8日)に、国の名勝に指定された。全長2キロメートルで、高さ50メートルを超える石灰岩の岸壁が連続、至る所に奇岩や流れ落ちる滝が点在し、付近と同様に鍾乳洞も見られる。名称の由来は峡谷出口近くに位置する、侵食された鍾乳石が獅子の鼻に似ていることから名付けられた。(とは獅子のこと)

東北耶馬渓と謳われる。船頭が謡う猊鼻追分を堪能しながらの舟下りを楽しめることから、観光地として人気がある。紅葉の他、の名所としても名高い。観光客が乗船するのは手漕ぎ船である。

船は川を遡る方向に出発する(船着場を下った先には砂防ダムがあり、船では下れない)が、日本国内の河川観光地では珍しい、乗客が手漕ぎ船で川を上る観光地でもある(長瀞ライン下りは下りのみ、最上川舟下りは近距離のコースのみが川を上るが船外機付きの船)。船頭がこのくだりを解説し、団体客などの多人数乗船で船頭2名で運行する際は「1人で船を漕いで歌うのはとても疲れるから船頭2人体制です」と笑いを誘うのが定番である。

ほとんどの箇所では水面下が大人の膝丈~股下ほどと水深が浅く、流れも非常に緩やかではあるが、他のイベント乗船同様、救命胴衣の着用が必要となった。

なお同市内の西部、磐井川沿いには名称が類似した厳美渓という景勝地があり、こちらも国の名勝及び天然記念物に指定されている。

交通

歴史

猊鼻渓が、名勝保存の指定を受けたのは1924年(大正14年)である。明治以前は、絶対の秘境とされていた。同じ村に住んでいて、その処を知らぬ人さえ、かなりあったと伝えられている。

この仙境を隠したのは、旧藩時代、たまたま藩吏などが探勝に来る度に、いつも地方民は多大の労力を強いられたので、人々はその負担に堪えかねて、風土記にも、絵画図にも表さなかった。1775年(安永4年)安永風土記の「長坂村お書上げ」には、砂鉄川が「大原川」と記載されているが、肝心の猊鼻渓については、長坂村、同村・本郷のどちらの「お書上げ」にも記載されていない。一関市大東町渋民の芦東山ですら足を運んでいない。

佐藤猊巌(さとう げいがん)は父佐藤洞潭(さとう どうたん)の志を継ぎ、師の岡鹿門を招くとともに、猊鼻渓の開発を唱え、下記の文人墨客を招いた。

猊鼻渓を訪れた文人墨客

猊鼻渓開発の成就

猊鼻渓を構成する砂鉄川の渓口に発電所の設置が地元から出願されて実現が濃くなり、この徴候に対し猊巌は、渓峡の保存は、法によるしかないと決意し、三好学博士に訴えて踏査を請い、開発運動を展開した。この期から前後50年を経て、ようやく内務大臣の名勝保存法による指定が発表された。かくして佐藤洞潭を先人に、猊鼻渓開発は、猊巌に至る親子二代の念願がここにかなった。猊巌は、この機に際し、今後この保存の責任は自治体にあるも、なお指導につとめ保存の実をあげたい。また、遊覧の案内も村営として完璧な探勝地にしたいと述べている。

猊鼻渓の名称はいつ頃つけたのか

最初に猊鼻渓を世に知らしめたのは関養軒だということ、全国的に宣伝したのは蓑虫山人(みのむし さんじん)である。1834年(天保5年)関養軒が「陸奥郡郷考・下巻」の史跡吟詠では「東山大夫岩」となっている。1846年(弘化3年)森中和「図巻引」に「獅鼻状者故世俗総称獅鼻岩」とある。1898年(明治31年)より1902年(35年)頃まで、須田古龍「猊鼻岩」・岡鹿門「獅鼻岩」、松本凌雲「翠雲記獅鼻」、瀬野旭東「獅こく」星氷揚「猊岩」等が、磐井郷土史等に見られる猊鼻渓の呼び方になっている。1909年(明治42年)の「鹿山遺稿」に名を連ねた詩人、1909年(明治43年)「芦東山135年祭」に来遊した詩人、前後合わせて20数名が来遊している。この人達は名称を付けられたあとの来遊で、猊鼻渓内の景勝一つ一つに詩歌を詠じている。これを見ると猊鼻渓という名称を付けたのは、明治35年から同40年までの間と推測される。

参考文献

関連項目

外部リンク

座標: 北緯38度59分24秒 東経141度15分4秒 / 北緯38.99000度 東経141.25111度 / 38.99000; 141.25111