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「古曽部」の版間の差分

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=== 小中学校 ===
=== 小中学校 ===
<b>古曽部町</b>を校区に含む公立の小中学校は以下の通り
'''古曽部町'''を校区に含む公立の小中学校は以下の通り
*[[高槻市立奥坂小学校]](別所本町)(1977年-現在)
*[[高槻市立奥坂小学校]](別所本町)(1977年-現在)
*[[高槻市立第八中学校]](紅茸町)(1971年-現在)
*[[高槻市立第八中学校]](紅茸町)(1971年-現在)
古曽部五丁目から分離して成立した美しが丘、旧村域(大字域)の一部をふくむ宮が谷町、別所本町も、両校の校区の一部を構成している。
古曽部五丁目から分離して成立した美しが丘、旧村域(大字域)の一部をふくむ宮が谷町、別所本町も、両校の校区の一部を構成している。


かつて旧<b>古曽部村</b>(大字<b>古曽部</b>)、現<b>古曽部町</b>を校区に含んでいた公立の小中学校は以下の通り
かつて旧'''古曽部村'''(大字'''古曽部''')、現'''古曽部町'''を校区に含んでいた公立の小中学校は以下の通り
*[[高槻市立磐手小学校]](安満西の町)(1876年-1977年)
*[[高槻市立磐手小学校]](安満西の町)(1876年-1977年)
*[[高槻市立第一中学校]](城内町)(1947年-1949年)
*[[高槻市立第一中学校]](城内町)(1947年-1949年)
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<b>古曽部の旧村域(大字域)の一部</b>を校区とする公立の小中学校は以下の通り<br>
'''古曽部の旧村域(大字域)の一部'''を校区とする公立の小中学校は以下の通り<br>
天神町・奥天神町・白梅町
天神町・奥天神町・白梅町
*[[高槻市立第二中学校]](郡家本町)
*[[高槻市立第二中学校]](郡家本町)

2016年11月15日 (火) 15:24時点における版

古曽部(こそべ)は、現大阪府高槻市内の地域。

高槻市の丘陵部と平野部の境界の中央部に位置する。

平安時代伊勢姫能因法師隠棲の地であり、江戸時代から大正時代末期にかけての古曽部焼の生産地として知られる。

概要

地理

旧古曽部村(磐手村大字古曽部)は、西は真上村(芥川村大字真上)、西南部は上田辺村(高槻村/高槻町大字上田辺)、南は高槻村(高槻町)、東は別所村(磐手村大字別所)・安満村(磐手村大字安満)、北は成合村(磐手村大字成合)と接していた[1]

古曽部の旧村域(旧大字域)は、現在、古曽部町(一〜五丁目)のほか、西隣の奥天神一丁目(全域)、天神町一丁目(15,16,17番地の部分)・二丁目(23,24番地の部分)、東隣の別所本町(32,33,34番地の部分)、北隣の美しが丘(全域)、宮が谷町(55番地の部分)、南方の白梅町(4番地の西部[注釈 1]を除く全域[注釈 2])・八丁西町(全域)、高槻町(9,10番地以北の部分)、北園町(10,11,13番地以北の部分)、大学町(全域)、城北町(7番地の部分)などに区分されている。[1]


歴史

古曽部村は、古くから開けた農村[注釈 3][2][3]で、旧村域の中央部から南部にかけての耕地(大部分が水田)は条里制にもとづく地割がおこなわれている。1889年の町村合併により磐手村に組み込まれ(同村の西南部に位置した)、1931年、他の4ヶ村ともに高槻町と合併した(1943年市政施行)。

主たる作物はで、酒米として伏見へ移出された[4]。副業として、ケシタバコ菜種除虫菊ジキタリスなどが栽培されていた[4]

旧村域南部の水田地帯(現:白梅町・高槻町・北園町・大学町など)は国鉄(現JR)高槻駅阪急高槻市駅の中間に位置し、旧高槻町(1931-1943)期の阪急電鉄による宅地開発をきっかけとして、市内中心部の繁華街に組み込まれていった。高度経済成長期以降には、旧村域の西縁および北部を占める丘陵地(古曽部四丁目・五丁目、奥天神町一丁目・美しが丘)などで大規模な宅地開発がおこなわれ、また、旧村域の全域で市街地化が進んでいる。

寺社

教育

大学

高等学校

小中学校

古曽部町を校区に含む公立の小中学校は以下の通り

古曽部五丁目から分離して成立した美しが丘、旧村域(大字域)の一部をふくむ宮が谷町、別所本町も、両校の校区の一部を構成している。

かつて旧古曽部村(大字古曽部)、現古曽部町を校区に含んでいた公立の小中学校は以下の通り


古曽部の旧村域(大字域)の一部を校区とする公立の小中学校は以下の通り
天神町・奥天神町・白梅町

八丁西町・高槻町・北園町・大学町・城北町

古曽部焼

江戸期から大正期にいたる古曽部焼は、五十嵐家以外に窯も陶工もなく、「古曽部」の名称は、他の焼き物のような陶工集団や窯の所在地をいうのではなく、五十嵐窯の屋号のような役割を果たしていた[5]

古曽部焼窯元の五十嵐家は、旧別所村(現別所本町)との境に近い平野部と丘陵部の境界に居をかまえ(現古曽部三丁目)、登り窯は、五十嵐邸の裏手から東北方にかけての丘陵部に築かれ、五代窯元五十嵐信平(本名:栄次郎)の大正末年(1926年)まで作陶がつづけられた[6][7]。登り窯の本体は、昭和11年(1936年)までは作陶可能な状態で維持され[8]、昭和二十年代( ~1954年)まで[9]存在していた。五十嵐邸の門前に、「古曽部竈跡」の石碑や、同市教育委員会による「古曽部窯跡」の案内板が設置されている。

昭和後期に入り、寒川義崇によって1978年に新たに開窯された「茶陶 古曽部焼(義崇窯)」は、川久保の地(旧磐手村北部、高槻市の東北部を占める大字)で開設されている[10]


古曽部ゆかりの有名人

行政区画の変遷

  • 1889年明治22年)以前 摂津国嶋上郡古曽部村
  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、嶋上郡の安満村・下村・別所村・成合村・川久保村とともに磐手村を形成。「嶋上郡磐手村大字古曽部
  • 明治29年(1896年4月1日 - 郡制の施行のため、島上郡・島下郡が合併して三島郡となる。「三島郡磐手村大字古曽部」。
  • 1931年昭和6年)1月1日 - 高槻町および大冠村清水村芥川町と合併し、改めて高槻町が発足。「三島郡高槻町大字古曽部」。
  • 1943年(昭和18年)1月1日 - 高槻町、市制施行により高槻市となる。「高槻市大字古曽部」。
  • 1963年(昭和38年):大字古曽部のうち、旧国鉄東海道線(現JR京都線)より南側の部分に区画整理による住居表示の「町」が成立。
    • 紺屋町(7月1日西荒毛・鳥ヶ目の一部と大字上田部の一部)
    • 高槻町(7月1日東荒毛・門鳥の全域と西洗毛・鳥ヶ目の一部、大字高槻・上田部の一部)
    • 北園町(7月1日飯田・越ヶ本・堂田・荷田・領見・鯰、大字高槻の一部)
    • 大学町(7月1日荒田・箕田・宮田・北伊賀本の全域、飛騨ヶ森・南伊賀本の一部、大字高槻の一部)
    • 八丁西町(7月1日哉里・竜ノ後・東葛ヶ本・三田)
    • 城北町 2丁目(7月1日飛騨ヶ森・南伊賀本の一部、大字高槻の一部)
  • 1964年(昭和39年):大字古曽部のうち、旧国鉄東海道線(現JR京都線)より北側の、北部の丘陵部を除く市街地・耕地・西部丘陵地(上宮天満宮加賀山乾性寺伊勢寺などの境内が連なる地域)の部分を再編
    • 古曽部町1 -3丁目(6月1日) 大字古曽部の中枢部分に設定
    • 天神町1丁目(6月1日加賀山・車塚の全域と菩提谷・門前・冷月の一部、大字上田部・真上・芥川の一部)
    • 天神町2丁目(6月1日菩提谷・肥後谷の一部、大字上田部・真上の一部)
    • 白梅町(6月1日宇津輪・大正田・五反田、大字上田部の一部)
  • 1968年(昭和43年):宅地開発にともない、大字古曽部のうち、北部丘陵地を再編。「大字古曽部」の消滅。
    • 奥天神町1 丁目(6月1日長谷・肥後谷・伊勢寺山・鷺塚の全域と大谷・大谷口・山田善稔・土取・菩提谷・門前・横道・中山の一部、大字真上の一部)
    • 奥天神町3丁目(6月1日ケタガ谷・平尾・西狐谷・狐谷・東狐の全域と大谷・大谷口・山田善稔・モスガ谷・大久保・慈善寺の一部)
    • 別所本町(6月1日慈善寺・歓喜寺・池ノ上の一部と大字別所の中心部。)
  • 1975年(昭和50年):宅地開発にともない、北部の丘陵部を再編。
    • 古曽部町4 -5丁目(6月1日, 1968年に奥天神3丁目および別所本町に分配されていた旧大字域に加え、旧大字別所・成合の一部)
  • 1994年(平成6年)
    • 美しが丘1 - 2丁目(11月1日、旧古曽部五丁目を中心に奥天神町1丁目、3丁目・古曽部町4 丁目・別所本町の一部を再編)

脚注

注釈

  1. ^ 4番地の1(西部高槻店)、4番地の13(三菱東京UFJ銀行高槻支店)など
  2. ^ 西国街道に面した天神町一丁目と古曽部町一丁目の境界線と、紺屋町と高槻町の境界線を結んだ線上の東側が古曽部の旧村(大字)域、西側が上田辺の旧村(大字)域に属した。
  3. ^ 享和三年(1803年)の全戸数87軒(男子186人,女子187人)すべてが農業(農業のほか渡世人なし)

出典

  1. ^ a b 入江唯信 1981, p. 49,見返し裏地図.
  2. ^ 入江唯信 1981, p. 11.
  3. ^ 入江唯信 1981, p. 49.
  4. ^ a b 入江唯信 1981, p. 18.
  5. ^ 高槻市史編纂委員会 1984, p. 375.
  6. ^ 杉本捷雄 1936, p. 28-29,33-34.
  7. ^ 入江唯信 1981, p. 34.
  8. ^ 杉本捷雄 1936, p. 53.
  9. ^ 橋本久和 2002, p. 14.
  10. ^ 寒川義崇 1989, p. 8.

参考文献

  • 杉本捷雄『古曽部窯研究』学芸書院、1936年。 
  • 入江唯信『わがふるさと古曽部』光月山文庫、1981年。 
  • 第一節 古曽部焼とその周辺” (PDF). 高槻市史編纂委員会 (1984年). 2015年11月15日閲覧。(高槻市史編纂委員会 編集 『高槻市史』第2巻(高槻市役所,1984年),第五章 庶民生活と文化 第一節,pp.369-381)
  • 寒川義崇『古曽部焼茶陶展〜平成元年六月十五日〜六月二十日/大丸心斎橋店五階美術画廊』株式会社市田朝芳庵、1989年。 
  • 橋本久和「古曽部焼窯跡の調査」(鎌ケ江一朗・高橋公一編『高槻市文化財年報 平成12年』高槻市教育委員会,2002年3月29日,pp.12-17,図版第4-図版第6)

関連項目

外部リンク