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2016年11月15日 (火) 13:10時点における版
Mafersa (ポルトガル語 : Material Ferroviário S/A) は、ブラジルにかつて存在した鉄道車両メーカーの一つである。
創業と拡張期
マフェルサは1944年に設立された。当初は輪軸や貨車をブラジル国内向けに生産した。立地が近いサンパウロ鉄道向けの販売が主であった。1947年にサンパウロ鉄道が国有化され、サントス=ジュンジアイ鉄道 (EFSJ) に改称された。EFSJは1950年代にブラジルとアメリカとの技術協力協定により、鉄道の近代化の研究を開始した。1957年にはバッド社と技術移転の契約を結んだ。これによりマフェルサはラテンアメリカ初のステンレス鋼製の鉄道車両を製作できるメーカーとなった。同年にカサパヴァにも工場を開設し、無蓋貨車、輪軸、連結器の製造を担当させた。
国有化と好況期
1964年のブラジルの軍事クーデターの後に国有化されたマフェルサは、ソロカバナ鉄道とアララクアラ鉄道に向け、バッド社のパイオニアIIIを元にした800系客車の生産を開始した。1968年にはEFSJ向けに、バッド社のパイオニアIIIがベースの電車を製作した。
1970年代はマフェルサの絶頂期で、バッド社のライセンスでサンパウロ地下鉄向けに電車を作ったほか、1978年にはリオデジャネイロ地下鉄向け (Villares社との共同事業)、1976年と1976年にはブラジル連邦鉄道 (RFFSA) 向け、1980年にはパウリスタ鉄道 (FEPASA) 向け (Villares、ベルギーのACECとポルトガルのSorefameとの連合体で受注) 電車を製作した。
衰退期
1980年代には、マフェルサはバッド社の低迷の影響を受け、1983年から1987年にかけてのRFFSA向けの700系電車を最後に、アメリカの技術を使っての鉄道車両の生産ができなくなった。そこでフランスのフランコライユの技術を取り入れようとしたが、その方式で作られたのはサンパウロ地下鉄への増備車だけであった。また、経済危機を防ごうとするブラジル政府の車両購入政策により、競争相手のコブラスマ社とともに1985年にはバスやトロリーバスの生産が求められ、製品の多角化が図られた。
民営化と倒産
1990年代初期には、リオデジャネイロ地下鉄向けですでに実績のある新しい技術により、ブラジリアの地下鉄向けの車両が造られた。その頃マフェルサはアメリカのモリソン・クヌーセン社と手を結んだ。この協力関係はシカゴ高架鉄道へのステンレス鋼製電車256両とバージニア急行鉄道向けの客車38両受注の結果をもたらした。
1991年にマフェルサは民営化された。1994年にモリソン・クヌーセンとコンソーシアムを組んでアメリカのカルトランスの2階建て客車納入を落札した。しかしアメリカでの契約権を握るモリソン・クヌーセンの倒産により、1995年に契約は取り消された。このパートナーの倒産と、ブラジル政府が1990年代前半には車両を発注しなくなったことにより、マフェルサに新たな危機が訪れ、1995年には3ヶ月間生産が停止し、同年に従業員1820人は解雇され、マフェルサの負債は260万レアルにも及んだ。工場は1996年に従業員360人により再開し、車両の改装だけを引き受けることになり、EFSJ (現在のCPTM) の100系電車の修繕をおこなった。
カサパヴァ分工場では1998年に200万組目の車輪の生産を記録した。
サンパウロのラパ区にある母体の工場は、1997年にフランスの多国籍企業アルストムに買収された。1999年には、マフェルサの商標権と技術は、現在ドイツのGerman GMHグループの傘下にある、MWLブラジル輪軸に譲渡された。
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サンパウロ地下鉄 1号線向け電車、1972年製。
参考
- ブラジルのバッド・カー - その時代 (BUZELIN, José Emílio de Castro Horta)、2002年、リオデジャネイロ