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今枝 仁(いまえだ じん、1970年(昭和45年)9月14日 - )は日本の弁護士。広島弁護士会所属。
経歴
出生から学生時代まで
1983年(昭和58年)3月、広島市立神崎小学校卒業。同年4月、地元の中高一貫校である私立広島学院中学校・高等学校に入学するが、1988年(昭和63年)3月、中途退学する(引きこもり、不登校による)[1]。
1990年(平成2年)10月、大検を取得。翌1991年(平成3年)4月、北九州市立大学商学部経営学科に入学するも、1992年(平成4年)9月、中途退学。[1]。
1993年(平成5年)4月、上智大学法学部法律学科入学。1997年(平成9年)3月、同校卒業[1]。
大学時代の専攻は、憲法、刑法。刑事法・犯罪学・被害者学の研究者を目指すも、経済的理由から大学院進学を断念、司法試験を受験することを決意する。
検事任官
1998年(平成10年)10月、司法試験合格。1999年(平成11年)4月、司法修習生[1]。
2000年(平成12年)10月、東京地方検察庁検察官検事として任官するが体調を崩し、半年後の2001年(平成13年)3月をもって退官[1]。
今枝によれば「検察を辞めた理由は、体調を崩したのと、父親が60歳前に退職し長男だから広島に帰ろうと思ったのと、18歳の女子高生が飲酒運転の車にはねられ顔を複雑骨折したというせい惨な事件の公判立ち会いで泣いてしまったことから検察官として失格と思ったこと等です。」という[2]。
弁護士として
2001年(平成13年)9月、広島弁護士会所属弁護士として弁護士登録[1]。
弁護士会の役職は、日弁連接見交通権確立実行委員会、同取調べの可視化実現本部委員、広島弁護士会法科大学院運営委員会委員長、同会刑事弁護センター副委員長、同会こどもの権利委員会少年司法部会、人権擁護委員会被害者支援部会委員、民暴対策委員会委員等[1]。
2008年(平成20年)4月、光市母子殺害事件差戻控訴審に関与した経験を基に、『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』を執筆。[1]。
政治活動
2011年(平成23年)4月実施の広島市議会議員選挙において、中区選挙区より出馬したが落選。
2012年(平成24年)12月実施の衆議院議員総選挙において、日本維新の会が実施した公認候補公募に応募するも、公認は得られなかった。
2013年(平成25年)7月実施の参議院議員選挙では、日本維新の会の公募に対し「弁護士業と参議院議員選挙の両立困難」を理由に応募せず。
2013年(平成25年)11月実施の広島県議会議員補欠選挙(広島市安佐北区選挙区)に日本維新の会の公認候補として出馬したが、自由民主党公認候補に約6,000票の大差を付けられ、次点で落選した。
弁護士として関与した主な事件
- 広島小1女児殺害事件1審
- 光市母子殺害事件差戻控訴審(中途解任)
過去の選挙結果
投票日 | 選挙内容 | 定数 | 候補 | 所属 | 得票数 | 得票率 | 順位 | 当落 | 詳細 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011年 | 4月10日広島市議会議員選挙(中区) | 6名 | 13名 | 無所属 | 2,114票 | 4.5% | 8位 | 落選 | [3] |
2013年11月10日 | 広島県議会議員補欠選挙(広島市安佐北区) | 1名 | 4名 | 日本維新の会 | 12,656票 | 32.1% | 2位 | 落選 | [4] |