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{{Infobox 人物
{{出典の明記|date=2016年6月}}
|氏名 =黒澤 酉蔵
'''黒澤 酉蔵'''(くろさわ とりぞう、[[1885年]][[3月28日]] - [[1982年]][[2月6日]])は、[[茨城県]]出身の実業家、[[政治家]]、教育者、環境運動家。[[衆議院|衆議院議員]]。北海道製酪販売組合連合会(現在の[[雪印メグミルク]])、北海道酪農義塾(後の[[酪農学園大学]])の設立者。日本酪農の父と呼ばれる。
|ふりがな =くろさわ とりぞう
|画像 = Torizou Kurosawa1943.jpg
|画像サイズ = 200 px
|画像説明 = 『翼賛議員銘鑑』(議会新聞社、1943年)掲載の肖像写真。
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1885|3|28|なし}}
|生誕地 = {{JPN}} [[茨城県]][[久慈郡]][[世矢村]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1885|3|28|1982|2|6}}
|死没地 = {{JPN}} [[北海道]][[札幌市]]
|国籍 = {{JPN}}
|出身校 = [[京北中学校]]
|職業 = 実業家、[[酪農]]家、[[政治]]家、[[教育]]者
|配偶者 =
|子供 = 長男:力太郎(元酪農学園学園長)
|親戚 =
|著名な実績 = 日本の酪農業の発展と北海道開発に貢献
|宗教 = [[キリスト教]]
|影響を受けたもの = [[田中正造]]
|栄誉=[[勲三等旭日中綬章]](1964年)<br />[[北海道文化賞]](1966年)<br />[[勲二等旭日重光章]](1970年)<br />[[勲一等瑞宝章]](1981年)<br />[[キリスト教功労者]](第12回)(1981年)<br />[[従三位]](1982年 死後叙位)
|墓地=[[札幌市]]の[[円山墓地]]}}
'''黒澤 酉蔵'''(くろさわ とりぞう、[[1885年]]([[明治]]18年)[[3月28日]] - [[1982年]]([[昭和]]57年)[[2月6日]])は、[[茨城県]]出身の実業家、[[酪農]]家、[[政治]]家、[[教育]]者、[[環境運動]]家。[[衆議院|衆議院議員]]。北海道製酪販売組合連合会(現在の[[雪印メグミルク]])、北海道酪農義塾(現在の[[酪農学園大学]])の設立者。[[日本]]の酪農業の発展と[[北海道]]開発に功績を残し、"日本酪農の[[父]]"や"北海道開発の父"と呼ばれる<ref name="nitigai">[[#日外アソシエーツ2004|日外アソシエーツ2004]]、956頁</ref><ref name="tomakomaishinbun19820208">[[#苫小牧新聞1982年2月8日|苫小牧新聞1982年2月8日]]、1面</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 誕生、上京 ===
1885年、現在の茨城県[[常陸太田市]](旧[[久慈郡]][[世矢村]])で生まれるが、家は貧しかった。[[尋常小学校]]卒業後、[[水戸学]]の影響の強い近くの[[漢学]]塾に通う。
[[ファイル:Hitachiota yuwakan02.jpg|thumb|150px|left|生地跡に建つ酉和館脇の「黒澤酉蔵先生生誕之地」碑]]


[[1885年]](明治18年)[[3月28日]]、茨城県[[久慈郡]][[世矢村]]小目(現在の[[常陸太田市]]小目町)で貧しい[[農家]]の四人[[兄弟]]の[[長男]]として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父の飲[[酒]]癖がもとで負債までつくり家計は常に苦しかった。そんな家を母は、巡業などもして苦労して支えた。母は「お前は大酒飲みにならないように」と息子を戒め、黒澤はそれを守り生涯禁酒を通した<ref name="aoyama_2829">[[#青山1961|青山1961]]、28-39頁</ref>。
神田数学院という私塾で給仕生として生活しながら{{要出典範囲|[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を受験するが、身体検査で不合格となる|date=2010年3月}}。当時、[[1901年]]12月、[[田中正造]]が[[足尾鉱毒事件]]について直訴したことを新聞報道で知り、田中の下宿を訪れる。以後、田中の秘書として働き、'''小田中'''とも呼ばれる。鉱毒反対運動参加時に、自身とは反対派の家に説得に行ったところ、家宅侵入罪で逮捕されるが、田中が[[今村力三郎]]という有力な弁護士をつけてくれたおかげで無罪となり、その後も田中の秘書として働く。未決囚として収監中に田中の知人の潮田千勢子から差し入れられた[[聖書]]を読み、感化を受ける。後の[[1909年]]には洗礼を受けた。その後、田中が学問を修めるように説得。当時籍のあった旧制[[東洋大学京北中学高等学校|京北中学校]]に復学。田中の資金で勉学を続け、卒業する。


[[1895年]](明治28年)に修学年限が4年制の世矢村[[尋常小学校]]を卒業後<ref name="rakunou2015 21">[[#酪農学園2015|酪農学園2015]]、21頁</ref>、磯野壇という老人が開く[[水戸学]]の影響の強い近くの[[漢学]]塾に1年ほど通い、後、近くの村の涯水義塾という漢学の塾に通う<ref name="aoyama1961 30-31">[[#青山1961|青山1961]]、30-31頁</ref>。
卒業直前、母が死去。幼い弟妹を養うために働くことにし、卒業直後の[[1905年]]、[[北海道]]に渡り、宇都宮仙太郎牧場の牧夫となる。兵役を終えた後の[[1909年]]、宇都宮から独立する。


更なる勉学を積みたく、父母に[[東京]]行きを願い出て、父からは貧しさを理由に反対されたが、母に「どんな苦労や困難にも耐え抜く覚悟があるなら行ってよい」と送り出された。[[1899年]](明治32年)[[6月]]に14歳で東京へ行き、[[神田 (千代田区)|神田]]中猿楽町の上野清が校長の東京数学院(後の[[私立学校|私立]][[東京高等学校]])で給仕生として生活を始める。が、1年ほど後、東京数学院の[[教員|教師]]をしていた松本小七郎の誘いで彼の[[書生]]となり、神田の正則英語学校(後の[[正則学園高等学校]])に通うようになる<ref name="ataka2017_5">[[#安宅2017|安宅2017]]、5頁</ref>。この頃のことについて黒澤は、"[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入るつもりで勉強しており、上京の翌年に[[入学]][[試験]]も受けたが体格審査で落ちてしまった"、とのことを述べている<ref name="aoyama1961 33-34">[[#青山1961|青山1961]]、33-34頁</ref>。
[[関東大震災]]直後に、援助物質を非課税化するために乳製品の輸入が自由化されると、牛乳が買い叩かれるようになったため、宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに[[1925年]]、北海道製酪販売組合を設立。専務となる。その後組合はブランド名として名乗った雪印の母体となる。戦後、雪印が株式会社として発足すると相談役に就任した。


=== 鉱毒事件救済活動へ参加 ===
[[1941年]]、北海道興農公社設立時に社長に就任。[[1942年]]、[[衆議院|衆議院議員]]となるが戦後は[[公職追放]]となり、いったん政界を去る。公職追放解除後、[[北海道知事]]選に出馬するが落選し、以後政界を引退した。
[[1901年]](明治34年)12月、[[田中正造]]が[[足尾鉱毒事件]]について[[直訴]]したことを[[新聞]]報道で知り衝撃を受けた黒澤は、田中が宿にしていた[[東京市]]芝口二丁目(後の東京都[[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋]])にある「越中屋」という三等[[旅館]]を訪れ、田中と面会する。突然の来訪にもかかわらず快く自分を受け入れ、事件の事を丁寧に説く田中の人柄に感銘し、田中と一緒に農民救済に関わることを決意した<ref name="ataka2017_1011">[[#安宅2017|安宅2017]]、10-11頁</ref>。


まずは田中の勧めで[[内村鑑三]]率いる足尾銅山鉱毒災害地学生視察団に加わり現地を見て、更に独自での現地視察も行った。視察後「学生鉱毒救済会」が東京に作られると、これに参加し、街頭[[演説]]や[[募金]]活動を行った。だが、[[政府]]の圧力で学生運動が下火になるのを目のあたりにした黒澤は、被害地の[[青年]]達自らが立ち上がるべきではないかと考え、[[農民]]が自主的に団結し行動する「青年行動隊」の組織化を目論んだ。この実現のため、学業を放り出し被害地を回り、集会・[[演説]]会、中央の名士を招いての懇親会の開催などをして同士集めに奔走した<ref name="ataka2017_1213">[[#安宅2017|安宅2017]]、12-13頁</ref>。このような果敢な行動から黒澤は"'''小田中'''"とも呼ばれるようになった<ref name="hitatioota2014 49">[[#常陸太田市2014|常陸太田市2014]]、49頁</ref>。
[[1933年]]に設置された酪農義塾第2代理事長。酪農義塾を母体に、[[1950年]]、[[酪農学園大学|酪農学園大学短期大学部]]が創設されると、酪農学園初代理事長、初代学園長などになった。晩年は田中正造全集の編纂にも携わった。黒澤の言葉の「健土健民」は、田中正造の思想を黒澤なりにまとめたものだという。この言葉は酪農学園の建学の精神に含まれるほか、雪印の創業の精神にもなっている。


しかしながらこの活動を好ましく思わなかった[[警察]]は黒澤を要注意人物として監視した。遂に黒澤は、反対活動をするよりも[[示談]]にした方が良い、との自身とは異なる意見を持つ被害地内の農民の家に説得に上がり込んだところを、[[家宅侵入罪]]で[[1902年]](明治35年)[[3月5日]]に[[逮捕]]され、[[前橋刑務所|前橋監獄]]に勾留されてしまった。勾留は6カ月間に及んだが、田中が[[今村力三郎]]という有力な[[弁護士]]をつけてくれたおかげで[[無罪]]となる<ref name="ataka2017_1213"/><ref name="hitatioota2014 49"/>。この事件で未決囚として収監中に、田中の知人で[[キリスト教]][[布教]]団体「婦人矯風会」副会頭の潮田千勢子から差し入れられた[[聖書]]を読み、感化を受け、後の[[1909年]](明治42年)に[[洗礼]]を受ける契機となる<ref name="ataka2017_1213"/><ref name="aoyama1961 41-42">[[#青山1961|青山1961]]、41-42頁</ref><ref name="rakunou2015 283">[[#酪農学園2015|酪農学園2015]]、283頁</ref>。
その他[[北海タイムス]]会長、[[北海道開発庁]]の諮問機関の北海道開発審議会議長、[[札幌テレビ]]非常勤取締役(1958.3.31-1982.2.6)も歴任。


無罪となった後も活動に没入していたが、黒澤の将来を心配した田中から学問を修めるように説得され、当時籍のあった京北中学校(後の[[東洋大学京北中学高等学校]])に[[1903年]](明治36年)[[12月]]に復学し{{refnest|group=注釈|[[1901年]](明治34年)春に京北中学に入学していた<ref name="nikkei2004 161">[[#日本経済新聞社2004|日本経済新聞社2004]]、161頁</ref>。}}、[[1905年]](明治38年)3月に卒業した<ref name="hitatioota2014 49"/><ref name="aoyama1961 44-45">[[#青山1961|青山1961]]、44-45頁</ref>。なお修学資金は田中からの育英資金恵与の懇請を受けた[[栃木県]]の[[篤志家]]、[[蓼沼丈吉]]からのものであった<ref name="aoyama1961 49-54">[[#青山1961|青山1961]]、49-54頁</ref>{{refnest|group=注釈|当時、黒澤は修学資金は田中が出してくれていると思っていたが、昭和36年頃、田中の蓼沼に宛てた手紙から真実を知った<ref name="aoyama1961 49-54">[[#青山1961|青山1961]]、49-54頁</ref>。}}。
[[1981年]]、[[勲一等]]瑞宝章を受章。


卒業後、このまま社会活動を続けてゆこうかどうか迷っていた矢先、[[母]]の急死という不幸に見舞われる。幼い[[弟]][[妹]]を養う立場に立たされた20歳の黒澤は心機一転、[[北海道]]行きを決意する<ref name="aoyama1961 56-57">[[#青山1961|青山1961]]、56-57頁</ref>。
[[1982年]][[2月6日]]死去する。


=== 渡道し酪農業と北海道開発に尽くす ===
親族では、兄弟に[[黒澤亮助]](酪農学園大学・酪農学園短期大学の元副学長)や、子息に[[黒澤力太郎]](酪農学園大学元[[教授]]・学校法人酪農学園元学園長)がいる。
[[1905年]](明治38年)夏、[[北海道]]に渡った黒澤は、[[北海タイムス]]の[[阿部宇之八]]に[[白石村 (北海道)|白石村]](後、[[札幌市]][[白石区]])で酪農を営む宇都宮仙太郎を紹介され彼に逢いに行く。
出会った宇都宮から、[[牛]]飼いには三つの徳(得)がある、すなわち「[[役人]]に頭をさげなくてもよい」、「[[動物]]が相手だから[[嘘]]をつかなくてもよい」、「[[牛乳]]は[[日本人]]の体位を向上させ[[健康]]にする」と説かれた黒澤はその話を気に入り、宇都宮の[[牧場]]の牧夫となることを即決した。酪農の作業は辛いものがあったが、自作の道具で[[乳搾り]]の練習をしたりして熱心に取り組んだ<ref name="ataka2017_2021">[[#安宅2017|安宅2017]]、 20-21頁</ref>。

[[1906年]](明治39年)12月に[[徴兵]]され札幌市の[[歩兵]]連隊に入る。[[兵役]]を終えた後の[[1909年]](明治42年)4月、宇都宮から独立する。[[山鼻]]村東屯田(後の札幌市[[中央区 (札幌市)|中央区]]南10条西8丁目あたり)でエアシャー種1頭でのスタートであった。朝3時に起き牛の世話、搾乳をし、5時には牛乳を配達し、帰っては又牛の世話をするという作業を1人で行い、[[睡眠]]時間が3時間か4時間という奮闘の日々を送った。そのかいあって5年後には飼育する乳牛が10数頭にまでになる酪農家に成長していた<ref name="ataka2017_2122">[[#安宅2017|安宅2017]]、21-22頁</ref><ref name="aoyama_7073">[[#青山1961|青山1961]]、70-73頁</ref>。

この頃の私生活においては、[[1909年]](明治42年)[[1月]]に日本メソジスト札幌[[教会]](後の[[日本キリスト教団札幌教会]])で杉原成義[[牧師]]より受洗し<ref name="ataka2017_21">[[#安宅2017|安宅2017]]、21頁</ref>、また[[1915年]]([[大正]]4年)に[[結婚]]している<ref name="ataka2017_22">[[#安宅2017|安宅2017]]、22頁</ref>。夫婦の間に生まれた子供のうち、長男の力太郎は酪農学園[[大学]][[教授]]、酪農学園学園長等を勤めている<ref name="ikueikaidayori">[[#酪農育英会2015|酪農育英会2015]]、[http://ikueikai.rakuno.org.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/wp-content/uploads/2015/12/10010053/28275aa3faae7065d927f949fca676881.pdf#page=4 4頁]</ref><ref name="rakunougakuen2003">[[#酪農学園2003|酪農学園2003]]、140頁</ref>。

[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]直後に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から[[練乳]]が援助物資として大量に届けられ、また、[[乳製品]]の[[関税]]も撤廃され[[輸入]]品が増えると、道内の練乳会社による国産[[牛乳]]の買い叩きや受入制限がおき、国内の酪農家は苦難に陥った。この危機に際し、黒澤は宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに酪農家自身による乳製品製造機関の創設を図り、[[1925年]](大正14年)[[5月17日]]、「有限責任北海道製酪販売組合」を設立した。この組合で黒澤は専務理事になっている。組合は[[1926年]](大正15年)3月に組織改編し、名称を「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」に改めた。その後、酪連は戦時中の[[1940年]](昭和15年)に「北海道興農公社」<ref name="aoyama1961_480"/>、戦後の[[1947年]](昭和22年)に「北海道酪農協同株式会社(北酪社)」と変遷し、[[1950年]](昭和25年)にブランド名として名乗った「雪印」を社名とした「[[雪印乳業]]株式会社」となっている<ref name="ataka2017_3437">[[#安宅2017|安宅2017]]、34-37頁</ref><ref name="nhk1993_138140">[[#日本放送出版協会1993|日本放送出版協会1993]]、138-140頁</ref>。

酪連において黒澤は販路拡充、品質向上に取組み、初代会長の宇都宮が急病により会長を辞任すると、[[1935年]](昭和10年)5月に会長に就任し、後に[[大企業]]となる雪印乳業の基盤を築いた<ref name="aoyama1961_190">[[#青山1961|青山1961]]、190頁</ref><ref name="nhk1993_138140"/>。

北海道興農公社では、創設時に社長に就任<ref name="aoyama1961_480">[[#青山1961|青山1961]]、480頁</ref>。戦後発足した北酪社では[[取締役]]会長になったが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[占領]]政策により役員の退任を強要され、[[1949年]](昭和24年)に辞任した<ref name="aoyama1961_306-321">[[#青山1961|青山1961]]、306-321頁</ref><ref name="aoyama1961_488">[[#青山1961|青山1961]]、488頁</ref>。その後、北酪社が分割して[[1950年]](昭和25年)に誕生した雪印乳業株式会社では相談役に退いている<ref name="aoyama1961_489">[[#青山1961|青山1961]]、489頁</ref>。

黒澤はまた北海道開発の方面でも活躍しており、戦前においては、[[デンマーク]]式農業の紹介や、北海道議会憲政会の拓殖計画副委員長に就任し北海道第二期拓殖計画の策定で主導的な役割を果たす、などの事を成した。戦後は[[1952年]](昭和27年)[[6月]]に[[北海道開発庁]]の北海道開発審議会委員に任命され、[[1954年]](昭和29年)[[9月]]には同会会長に就任し以後8期16年会長職を務め、北海道開発計画の策定等で指導的役割を成した<ref name="hokkaitaimes">[[#北海タイムス1982年2月7日|北海タイムス1982年2月7日]]、6面</ref>。

その他の北海道産業界での経歴としては、[[北海タイムス]]において[[1960年]](昭和35年)[[12月]]に社長に、[[1966年]](昭和41年)5月に会長に就任、[[札幌テレビ]]において、[[1957年]](昭和32年)10月に設立発起人の一人となり設立後取締役に就任などがある<ref name="hokkaitaimes"/>。

=== 政治活動 ===
[[政治家]]としてのスタートは、[[1924年]]([[大正]]13年)8月に[[憲政会]]から[[北海道議会|北海道会]]議員に[[立候補]]し当選したことから始まる。[[1926年]](大正15年)10月には道会議員のまま[[札幌市議会|札幌市会]]議員に当選、副[[議長]]となる。[[1942年]](昭和17年)4月[[翼賛政治体制協議会]]の推薦を受け[[第21回衆議院議員総選挙|衆議院議員総選挙]]に出馬し、当選し、農林委員となる<ref name="hokkaitaimes"/><ref name="aoyama1961_482">[[#青山1961|青山1961]]、482頁</ref>。

この時の国政進出は本意では無かったと述べているが、戦後、自らの信条を実現する[[政党]]結成を決意し、[[1945年]](昭和20年)に[[日本協同党]]を[[千石興太郎]]達と共に結成し、同党の代表世話人となる。しかしながら[[1946年]](昭和21年)に[[公職追放]]となり{{refnest|group=注釈|黒澤自身は1947年(昭和22年)7月に公職追放になったと述べている<ref name="nikkei213">[[#日本経済新聞社2004|日本経済新聞社2004]]、213頁</ref>。}}、世話役を辞任した<ref name="hokkaitaimes"/><ref name="rakunou2015_177-185">[[#酪農学園2015|酪農学園2015]]、177-185頁</ref><ref name="ataka2017_73">[[#安宅2017|安宅2017]]、73頁</ref>。

[[1950年]](昭和25年)10月公職追放解除後<ref name="hokkaitaimes"/><ref name="kanpou1950">[[#官報1950-10-13|官報1950-10-13(号外第116号)]]</ref>、[[自由党]]ら[[保守]]勢力に推され、[[1951年]](昭和26年)4月[[北海道知事]]選挙に出馬する。現職[[知事]]の[[田中敏文]]に挑み、「[[大雪山]]系の電源を開発し諸産業をベルトにかけてまわす」「寒地[[住宅]]の建設」「[[教育]]の問題-働く者にも教育を」の3つを[[公約]]に掲げ戦ったが落選し、以後は[[政治]]活動に直接関わることはしなかった<ref name="hokkaitaimes"/><ref name="aoyama1961_422-429">[[#青山1961|青山1961]]、422-429頁</ref>。

=== 教育活動 ===
酪農業者への教育の必要性を感じていた黒澤は教育機関設置に向けて関係者へ働きかけを行った。この熱意に動かされ酪連は道内農村青年のための教育機関の設置を認め、[[1933年]](昭和8年)[[10月1日]]に「北海道酪農義塾」が設置された。黒澤はここで[[塾]]長を勤めた<ref name="rakunougakuen2003_47-48">[[#酪農学園2003|酪農学園2003]]、47-48頁</ref><ref name="rakunougakuen2013_3738">[[#酪農学園2013|酪農学園2013]]、37-38頁</ref>。

黒澤はこの酪農義塾で自身の主張する『農民道五則』で塾生達の農業人としての精神育成に努めた。『農民道五則』とは以下である<ref name="rakunougakuen2013_85-87">[[#酪農学園2013|酪農学園2013]]、85-87頁</ref>。
{{Quotation|
一、農民は誠そのものたれ(農民は正直であれ)
:相手を疑う前にまず自分の姿勢を正直一途にすること
一、農民は天地の経輪に従え(農民はその土地の役目を知れ)
:気候風土を十二分に活用した農業を実践すること
一、農民は土を愛せよ(農民は土を肥やせ)
:国土を豊かにする農業経営をなすこと
一、農民は勤労を尊び倹約を守れ(農民は無駄をせずうんと働け)
:独立自営民は如何なる時代でもこの心構えを持つこと
一、農民は協力一致せよ(農民は産業組合によって団結せよ
:農民は連帯心を持ち協力しあって大をなすこと
|酪農学園史3 85-87頁}}

やがて[[支那事変]]の勃発など日本が[[戦争]]に傾いて行くと、黒澤は食糧増産をするには指導者育成の為の甲種農業学校の設立が必要と考え、その構想を[[文部省]]高官へ訴えた。それは役人から賛同を得られ[[1942年]](昭和17年)に「財団法人興農義塾野幌機農学校」が開校の運びとなった<ref name="rakunougakuen2013_4243">[[#酪農学園2013|酪農学園2013]]、42-43頁</ref>。初代校長は黒澤である<ref name="rakunougakuen2013_103">[[#酪農学園2013|酪農学園2013]]、103頁</ref>。

戦後は自身が信仰するキリスト教の[[聖書]]を教育の柱とする「[[学校法人酪農学園]]」に組織改編をし、自らは[[1950年]](昭和25年)に初代学園長になり、酪農学園のもと開校した「[[酪農学園女子高等学校]]」「[[酪農学園短期大学]]」「[[酪農学園大学]]」の校長、学長を勤めた<ref name="rakunougakuen2013_49">[[#酪農学園2013|酪農学園2013]]、49頁</ref><ref name="rakunougakuen2003_139">[[#酪農学園2003|酪農学園2003]]、139頁</ref>。

=== 晩年 ===
[[1970年]](昭和45年)に北海道開発審議会会長を辞任した後は、ほとんどの公職から身を引いた<ref name="hokkaidoushinbun19820206">[[#北海道新聞1982年2月6日|北海道新聞1982年2月6日(夕刊)]]、1面</ref>。

88歳の頃、みずから"悲願"と言う田中正造の著作集の刊行を目指し動きを始め、資料の収集や、知り合いであった[[東畑精一]]に[[岩波書店]]への取次を依頼するなどし、遂に岩波書店からの『田中正造全集』の刊行にこぎ着けた。黒澤はこの全集に田中から託され、大切に保管していた田中の日記、[[手紙]]等の文書を提供し、自らは編纂会の顧問として編纂に尽力した。[[全集]]は[[1977年]](昭和52年)に第1回配本の第7巻が刊行され、[[1980年]](昭和55年)に全20巻の刊行完結が黒澤の存命中に成された<ref name="hokkaitaimes"/><ref name="tosyo1975">[[#林1975|林1975]]、55頁</ref><ref name="kurosawa1977">[[#黒澤1977|黒澤1977]]</ref><ref name="toubata">[[#東畑1982|東畑1982]]</ref><ref name="kurosawa1977.6">[[#黒澤1977.6|黒澤1977.6]]、4-10頁</ref><ref name="tanaka1980">[[#田中正造全集編纂会1980|田中正造全集編纂会1980]]、565頁</ref>。

[[1981年]][[春]]頃から衰弱著しくなり、[[11月]]に[[札幌医科大学附属病院]]に入院する。1982年(昭和57年)2月6日[[午前]]6時13分、同病院で[[心不全]]のため96歳で死去した<ref name="hokkaidoushinbun19820206"/>。

葬儀は[[密葬]]が[[2月8日]]・[[2月9日|9日]]に札幌霊堂で、本葬が「故黒澤酉蔵翁酪農葬」として[[2月26日]]に[[札幌市民会館]]で行われた<ref name="rakunou2003_396-398">[[#酪農学園2003|酪農学園2003]]、396-398頁</ref>。

== 思想・哲学 ==
黒澤は自身の思想・[[哲学]]を以下のような言葉で説いた<ref name="ataka2733">[[#安宅2017|安宅2017]]、27-33頁</ref>。

*健土健民
{{indent|
「健土健民」は黒澤の造語で、黒澤の言葉によれば、『'''[[健康]]と[[長寿]]を創造するには健康で豊じような国土を創造すべし'''』と要約されるものである<ref name="rakunougakuen2013_430">[[#酪農学園2013|酪農学園2013]]、430頁</ref>。この言葉の原点は田中正造の思想にあると考えられる<ref name="ataka_15">[[#安宅2017|安宅2017]]、15頁</ref>。この言葉は酪農学園の建学の精神に含まれるほか、雪印の創業の精神にもなっている<ref name="ataka_1">[[#安宅2017|安宅2017]]、1頁</ref><ref name="yukijirushi2001">[[#雪印乳業2001|雪印乳業2001]]、1頁</ref>。
}}
*三健論
{{indent|
「健土・健民・健産」、つまり、健康な国土、健康な国民、健康な[[産業]]の三つのバランスと連係が国の健康に繋がるとの考え。その中で黒澤は「健産」の基本に農業を据えた<ref name="ataka_3233">[[#安宅2017|安宅2017]]、32-33頁</ref>。
}}
*循環農法
{{indent|
「'''農業は天([[風土]]・[[自然]]条件)、地(その[[土地]]の持つ特性)、人(機をとらえた経営能力)の合作であり、地力の増進を基本とした適地適作でなければならない'''」、とする考えである。黒澤はこの考えを「循環農法図」というものに図式化して説いた<ref name="ataka_2829">[[#安宅2017|安宅2017]]、28-29頁</ref>。
}}

== 表彰・叙勲等 ==
*[[1939年]](昭和14年)北海道開拓の功労より、[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]長官表彰を受ける<ref name="hokkaitaimes"/>。
*[[1954年]](昭和29年)産業教育の功労より、[[文部大臣]]表彰を受ける<ref name="hokkaitaimes"/>。
*[[1957年]](昭和32年)[[褒章#藍綬褒章|藍綬褒章]]受賞<ref name="hokkaitaimes"/>。
*[[1964年]](昭和39年)酪農振興の功労より、[[勲三等旭日中綬章]]受賞<ref name="hokkaitaimes"/>。
*[[1966年]](昭和41年)[[北海道文化賞]]受賞<ref name="hokkaitaimes"/>。
*[[1968年]](昭和43年)[[北海道新聞文化賞]]受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://kk.hokkaido-np.co.jp/koken/doshin_bunka/ |title=北海道新聞文化賞 |publisher=北海道新聞社 |accessdate=2023-12-15}}</ref>。
*[[1970年]](昭和45年)『酪農畜産の父』として、北海道開発功労賞受賞。同年、北海道開発の功労より[[勲二等旭日重光章]]受賞<ref name="hokkaitaimes"/>。
*[[1981年]](昭和56年)『北海道開発の父』として[[勲一等瑞宝章]]受賞<ref name="hokkaitaimes"/>。同年、第12回[[キリスト教功労者]]受賞<ref name="nitigai"/>。
*[[1982年]](死後)贈従三位<ref name="kanppu19820220">[[#官報19820220|官報1982年2月20日]]、12頁</ref>。

== 著作 ==
*{{Cite book|和書
|title=農民道
|publisher=北海道酪農義塾
|date=1936
}}
*{{Cite book|和書
|title=日本産業人の道(産業報国講演集 其の7)
|publisher=産業報国聯盟
|date=1940
}}
*{{Cite book|和書
|title=大東亜建設の構想 南方経営に於ける北方の役割日本産業人の道
|publisher=綜合北方文化研究会
|date=1942
}}
*{{Cite book|和書
|title=健土政策と有畜機械農業(農村決戦態勢確立運動叢書 第2輯)
|publisher=産業組合中央会
|date=1943
}}
*{{Cite book|和書
|title=食糧必勝戦と畜力総動員
|publisher=北海道興農公社東京支店
|date=1944
}}
*{{Cite book|和書
|title=皇道農業
|publisher=育英出版
|date=1944
}}
*{{Cite book|和書
|title=農業国デンマーク
|publisher=河出書房
|date=1952
}}
*{{Cite book|和書
|title=健土と健民
|publisher=酪農学園通信教育出版部
|date=1954
}}
*{{Cite book|和書
|title=反芻自戒
|publisher=北海タイムス社
|date=1965
}}
*{{Cite book|和書
|title=国際収支と北海道開発
|publisher=酪農学園酪農大学
|date=1968
}}
*{{Cite book|和書
|title=酪農学園の歴史と使命 私はなぜ酪農学園をつくったか
|publisher=酪農学園
|date=1970
}}
*{{Cite book|和書
|title=健土健民新論
|publisher=酪農学園
|date=1974
}}
*{{Cite book|和書
|title=北海道開発回顧録
|publisher=北海タイムス社
|date=1975
}}
*{{Cite book|和書
|title=三愛の歌
|publisher=
|date=1977
}}
*{{Cite book|和書
|title=酪翁自伝 黒澤酉蔵翁生誕一三〇年・記念
|publisher=酪農学園
|date=2015
}}

== 関連施設 ==
*酪農学園大学
{{indent|北海道江別市文京台緑町582番地 {{ウィキ座標2段度分秒|43|04|23.9|N|141|30|39.6|E|display=inline|type:landmark_region:JP-08}}}}
{{indent|構内には[[北]]を指差して立つ黒澤の[[銅像]]がある<ref name="rakunou2003-382-383">[[#酪農学園2003|酪農学園2003]]、382-383頁</ref>。附属[[図書館]]では黒澤の明治期から50代後半からの資料の複製を所蔵している<ref name="rakunou2013-288">[[#酪農学園2013|酪農学園2013]]、288頁</ref>。}}
*酪農と乳の歴史館(旧雪印乳業史料館)
{{indent|北海道札幌市東区苗穂町6丁目1番1号 ){{ウィキ座標2段度分秒|43|04|21.0|N|141|23|07.2|E|display=inline|type:landmark_region:JP-08}}}}
{{indent|雪印メグミルクの企業[[博物館]]で、館内には黒澤ら創業者の歴史を紹介したコーナーがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meg-snow.com/fun/factory/museum.html|title=酪農と乳の歴史館・札幌工場|work=雪印メグミルク株式会社公式ホームページ|accessdate=2018-02-10}}</ref>。}}
*酉和館(ゆうわかん)
[[ファイル:Hitachiota yuwakan01.jpg|thumb|180px|酉和館]]

{{indent|茨城県常陸太田市小目町2478 ){{ウィキ座標2段度分秒|36|30|41.1|N|40|34|10.0|E|display=inline|type:landmark_region:JP-08}}}}
{{indent|黒澤の生地跡に建てられた集会施設で、[[1970年]](昭和45年)に黒澤とその弟が故郷の常陸太田市小目町に残していた土地に建造し、土地と一緒に地区に寄贈したもの。名称の由来は酉蔵の"酉"と弟の和雄の"和"を併せたものである。建物脇には「黒澤酉蔵先生生誕之地」の碑がある<ref>[[#安宅2017|安宅2012]]、4頁</ref><ref>[[#黒澤(力)1983|黒澤(力)1983]]、314-319頁</ref>。}}

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
*{{cite book
|title=20世紀日本人名事典 あ〜せ
|date=2004-7
|author=日外アソシエーツ
|publisher=日外アソシエーツ
|ref=日外アソシエーツ2004
}}
*{{cite news
|newspaper=苫小牧新聞
|date=1982-2-8
|title=苫小牧の開発に貢献、故黒沢氏 関係者ら別れ惜しむ
|page=1
|ref=苫小牧新聞1982年2月8日
}}
*{{Cite book|和書
|title=黒沢酉蔵
|author=青山永
|publisher=黒沢酉蔵伝刊行会
|date=1961-12
|ref=青山1961
}}
*{{Cite book|和書|title=酪農学園の創立 黒澤酉蔵と建学の精神
|author=安宅一夫ほか
|publisher=酪農学園大学
|date=2017-4-1
|ref=安宅2017
|edition=第7版
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180213135400/http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/www.rakuno.ac.jp/wp-content/uploads/2017/05/09200633/afd00c803a1b50f91daf3d3eba06ec82.pdf
|format=pdf
|year=|url=http://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/www.rakuno.ac.jp/wp-content/uploads/2017/05/09200633/afd00c803a1b50f91daf3d3eba06ec82.pdf|archivedate=2018-2-13|accessdate=2020-11-23}}
*{{cite journal|和書
|journal=酪農育英会だより
|title=黒澤力太郎先生を悼む
|date=2015-12-1
|volume=2015年版
|page=4
|publisher=酪農育英会
|url=http://ikueikai.rakuno.org.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/wp-content/uploads/2015/12/10010053/28275aa3faae7065d927f949fca676881.pdf
|format=pdf
|ref=酪農育英会2015
}}
*{{Cite book|和書|title=酪農学園史 2
|author=酪農学園
|publisher=酪農学園
|date=2003-10-1
|url=http://www.rakuno.ac.jp/wp-content/themes/SHZ001/pdf/history_pdf_2003.pdf
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180213195425/http://www.rakuno.ac.jp/wp-content/themes/SHZ001/pdf/history_pdf_2003.pdf
|format=pdf
|ref=酪農学園2003
|year=|accessdate=2020-11-23|archivedate=2018-2-13}}
*{{Cite book|和書
|title=酪翁自伝 黒沢酉蔵翁生誕一三〇年・記念
|author=酪農学園
|publisher=酪農学園
|date=2015-12
|ref=酪農学園2015
}}
*{{Cite book|和書
|title=常陸太田の礎を築いた人たちII
|chapter=黒澤酉蔵
|pages=47-52
|author=常陸太田市教育委員会指導室
|publisher=常陸太田市教育委員会
|date=2014-3
|ref=常陸太田市2014
}}
*{{Cite book|和書
|title=私の履歴書 経済人17
|edition=復刻版
|author=日本経済新聞社
|publisher=日本経済新聞社
|date=2004
|ref=日本経済新聞社2004
}}
*{{Cite book|和書
|title=日本の「創造力」:近代・現代を開花させた四七〇人 第12巻(戦地と銃後の時代)
|author=日本放送出版協会
|publisher=日本放送出版協会
|date=1993
|chapter=雪印乳業 酪農王国の礎を築いた黒澤酉蔵
|pages=131-144
|ref=日本放送出版協会1993
}}
*{{cite news
|newspaper=北海タイムス
|date=1982-2-7
|title=本道開発と黒沢翁の足跡、黒沢翁の主な経歴
|page=6
|ref=北海タイムス1982年2月7日
}}
*{{cite journal|和書
|journal=官報
|title=公職資格訴願審査結果公告
|date=1950-10-13
|issue=号外第116号
|ref=官報1950-10-13
}}
*{{Cite book|和書|title=酪農学園史 3
|author=酪農学園
|publisher=酪農学園
|date=2013-10-1
|url=http://www.rakuno.ac.jp/wp-content/themes/SHZ001/pdf/history_pdf_2013.pdf
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180213195314/http://www.rakuno.ac.jp/wp-content/themes/SHZ001/pdf/history_pdf_2013.pdf
|format=pdf
|ref=酪農学園2013
|year=|archivedate=2018-2-13|accessdate=2020-11-23}}
*{{cite journal|和書
|title=『田中正造全集』編纂の発足にあたって
|author=林茂
|journal=図書
|date=1975-1
|pages=55-63
|issue=315
|ref=林1975
}}
*{{cite journal|和書
|title=悲願『田中正造全集』の出版
|author=黒澤酉蔵
|journal=図書
|date=1977-6
|pages=2-6
|issue=334
|ref=黒澤1977
}}
*{{cite journal|和書
|title=黒澤酉蔵翁と「田中正造全集」
|author=東畑精一
|journal=図書
|date=1982-4
|pages=12-14
|issue=392
|ref=東畑1982
}}
*{{Cite book|和書
|title=田中正造全集 月報1
|author=黒澤酉蔵
|chapter=恩師田中正造先生(一)
|pages=4-10
|publisher=岩波書店
|date=1977-6
|ref=kurosawa1977-6
}}
*{{Cite book|和書
|title=田中正造全集 別巻
|author=田中正造全集編纂会
|publisher=岩波書店
|date=1980-8
|ref=tanaka1980
}}
*{{cite news
|newspaper=北海道新聞(夕刊)
|date=1982-2-6
|title=黒沢酉蔵翁死去 酪農の父、本道開拓に功労
|page=1
|ref=北海道新聞1982年2月6日
}}
*{{Cite book|和書
|title=環境報告書 2001
|author=雪印乳業
|date=2001-9
|url=http://www.meg-snow.com/csr/report/pdf/archive/snowbrand/2001.pdf
|ref=雪印乳業2001
}}
*{{Cite book|和書
|title=希望 黒澤酉蔵むめ江追悼記念誌
|author=黒澤力太郎、黒澤信次郎
|publisher=[[北海タイムス社]]
|date=1983-2
|ref=黒澤(力)1983
}}
*{{cite journal|和書
|journal=官報
|date=1982-2-20
|issue=第16517号
|page=12
|ref=官報19820220
}}

== 関連資料 ==
著作、参考文献にあげた以外の資料について。

図書
*{{Cite book|和書
|title=岸辺に果つ 田中正造をめぐる人々
|author=水樹涼子
|publisher=[[随想舎]]
|date=2016
|isbn=9784887483217}}
{{indent|田中正造を巡る三人の人物を描いた小説集で、その中の一編「北の大地の興亡 黒沢羊蔵の場合」(207-298頁)に黒澤が取り上げられている。}}
*{{Cite book|和書
|title=ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々
|author=STVラジオ|authorlink=STVラジオ
|publisher=中西出版
|date=2002-2
|chapter=黒沢酉蔵
|pages=242-251
|isbn=4891151072}}

雑誌記事
*{{cite journal|和書
|title=二人の協同組合主義者 黒澤酉蔵と賀川豊彦 :『乳と蜜の流るヽ郷』によせて
|author=松野尾裕
|journal=日本経済思想史研究
|issue=13
|date=2013-3
|pages=39-58
}}
*{{cite journal|和書
|title=近代日本キリスト教社会貢献論 : 小林富次郎・黒澤酉蔵・森永太一郎 (特集 実業家の社会貢献とその理念)
|author=峯岸英雄
|journal=大倉山論集
|issue=63
|date=2017-3
|pages=133-151
}}
*{{cite journal|和書
|title=田中正造の"ヴィジョン"は実現したのか(3) : 正造思想の後継者 黒澤酉蔵
|author=新藤泰男
|journal=産研・通信
|issue=40
|pages=28-30
|date=1996
}}
*{{cite journal|和書
|title=田中正造の"ヴィジョン"は実現したのか(4) : 正造思想の完成者 黒澤酉蔵
|author=新藤泰男
|journal=産研・通信
|issue=41
|pages=19-22
|date=1996
}}
録音資料
*{{cite book
|title=NHKわたしの自叙伝 25 (社会・実業 7)
|publisher=[[日本放送協会|NHK]]サービスセンター、大空社
|date=2012
|isbn=9784283010536
}}
{{indent|田中正造との出会いについて語っている黒澤の肉声を収録したCD。黒澤の他に東京モスリン会争議のころについて語っている[[山内みな]]の声も収めている。}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
28行目: 467行目:
* [[酪農学園大学]]
* [[酪農学園大学]]
* [[酪農学園大学短期大学部]]
* [[酪農学園大学短期大学部]]
* [[とわの森三愛高等学校]]
* [[酪農学園大学附属とわの森三愛高等学校]]
* [[田中正造]]
* [[将校志望を断念した日本の人物の一覧]]
* [[将校志望を断念した日本の人物の一覧]]


== 外部リンク ==
{{先代次代|[[学校法人酪農学園|酪農学園]][[理事長]]|初代: 1942年 ‐ 1946年| - |[[青山永]]}}
{{座標一覧}}
{{先代次代|[[学校法人酪農学園|酪農学園]][[理事長]]|第4代: 1957年 ‐ 1966年|[[佐藤善七]]|[[佐藤貢]]}}
*[https://www.google.co.jp/maps/@43.0736799,141.5107073,3a,75y,136.73h,90t/data=!3m6!1e1!3m4!1szPs2y-kAsssEQZKyi5u9hw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja Google ストリートビュー 酪農学園大学構内の黒澤酉蔵銅像]
{{先代次代|[[学校法人酪農学園|酪農学園]]学園長|初代: 1950年 ‐ 1982年| - |[[佐藤貢]]}}

{{先代次代|[[酪農学園短期大学]][[学長]]|第2代: 1963年 ‐ 1966年|[[樋浦誠]]|[[佐藤貢]]}}
{{先代次代|[[酪農学園学]][[長]]|第2代: 1964年 ‐ 1966年|[[樋浦誠]]|[[佐藤貢]]}}
{{先代次代|[[学校法人酪農学園|酪農]][[理事長]]|代: 1942年 ‐ 1946<br />(1942年から1949年までの名称は財団法人興農義塾野幌機農学校)| - |[[青山永]]}}
{{先代次代|酪農学園理事長|第4代<br />(野幌機農学校時から数えて)<br />: 1957年 ‐ 1966年|[[佐藤善七]]|[[佐藤貢]]}}
{{先代次代|酪農学園学園長|初代: 1950年 ‐ 1982年| - |佐藤貢}}
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[[Category:従三位受位者]]
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]
[[Category:勲二等旭日重光章受章者]]
[[Category:勲三等旭日中綬章受章者]]
[[Category:藍綬褒章受章者]]
[[Category:日本のメソジスト]]
[[Category:私の履歴書の登場人物]]
[[Category:東洋大学京北高等学校出身の人物]]
[[Category:茨城県出身の人物]]
[[Category:茨城県出身の人物]]
[[Category:北海道史の人物]]
[[Category:1885年生]]
[[Category:1885年生]]
[[Category:1982年没]]
[[Category:1982年没]]

2024年9月11日 (水) 12:52時点における最新版

くろさわ とりぞう

黒澤 酉蔵
『翼賛議員銘鑑』(議会新聞社、1943年)掲載の肖像写真。
生誕 (1885-03-28) 1885年3月28日
日本の旗 日本 茨城県久慈郡世矢村
死没 (1982-02-06) 1982年2月6日(96歳没)
日本の旗 日本 北海道札幌市
墓地 札幌市円山墓地
国籍 日本の旗 日本
出身校 京北中学校
職業 実業家、酪農家、政治家、教育
著名な実績 日本の酪農業の発展と北海道開発に貢献
影響を受けたもの 田中正造
宗教 キリスト教
子供 長男:力太郎(元酪農学園学園長)
栄誉 勲三等旭日中綬章(1964年)
北海道文化賞(1966年)
勲二等旭日重光章(1970年)
勲一等瑞宝章(1981年)
キリスト教功労者(第12回)(1981年)
従三位(1982年 死後叙位)
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黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年明治18年)3月28日 - 1982年昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、"日本酪農の"や"北海道開発の父"と呼ばれる[1][2]

生涯

[編集]

誕生、上京

[編集]
生地跡に建つ酉和館脇の「黒澤酉蔵先生生誕之地」碑

1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現在の常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父の飲癖がもとで負債までつくり家計は常に苦しかった。そんな家を母は、巡業などもして苦労して支えた。母は「お前は大酒飲みにならないように」と息子を戒め、黒澤はそれを守り生涯禁酒を通した[3]

1895年(明治28年)に修学年限が4年制の世矢村尋常小学校を卒業後[4]、磯野壇という老人が開く水戸学の影響の強い近くの漢学塾に1年ほど通い、後、近くの村の涯水義塾という漢学の塾に通う[5]

更なる勉学を積みたく、父母に東京行きを願い出て、父からは貧しさを理由に反対されたが、母に「どんな苦労や困難にも耐え抜く覚悟があるなら行ってよい」と送り出された。1899年(明治32年)6月に14歳で東京へ行き、神田中猿楽町の上野清が校長の東京数学院(後の私立東京高等学校)で給仕生として生活を始める。が、1年ほど後、東京数学院の教師をしていた松本小七郎の誘いで彼の書生となり、神田の正則英語学校(後の正則学園高等学校)に通うようになる[6]。この頃のことについて黒澤は、"海軍兵学校に入るつもりで勉強しており、上京の翌年に入学試験も受けたが体格審査で落ちてしまった"、とのことを述べている[7]

鉱毒事件救済活動へ参加

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1901年(明治34年)12月、田中正造足尾鉱毒事件について直訴したことを新聞報道で知り衝撃を受けた黒澤は、田中が宿にしていた東京市芝口二丁目(後の東京都港区新橋)にある「越中屋」という三等旅館を訪れ、田中と面会する。突然の来訪にもかかわらず快く自分を受け入れ、事件の事を丁寧に説く田中の人柄に感銘し、田中と一緒に農民救済に関わることを決意した[8]

まずは田中の勧めで内村鑑三率いる足尾銅山鉱毒災害地学生視察団に加わり現地を見て、更に独自での現地視察も行った。視察後「学生鉱毒救済会」が東京に作られると、これに参加し、街頭演説募金活動を行った。だが、政府の圧力で学生運動が下火になるのを目のあたりにした黒澤は、被害地の青年達自らが立ち上がるべきではないかと考え、農民が自主的に団結し行動する「青年行動隊」の組織化を目論んだ。この実現のため、学業を放り出し被害地を回り、集会・演説会、中央の名士を招いての懇親会の開催などをして同士集めに奔走した[9]。このような果敢な行動から黒澤は"小田中"とも呼ばれるようになった[10]

しかしながらこの活動を好ましく思わなかった警察は黒澤を要注意人物として監視した。遂に黒澤は、反対活動をするよりも示談にした方が良い、との自身とは異なる意見を持つ被害地内の農民の家に説得に上がり込んだところを、家宅侵入罪1902年(明治35年)3月5日逮捕され、前橋監獄に勾留されてしまった。勾留は6カ月間に及んだが、田中が今村力三郎という有力な弁護士をつけてくれたおかげで無罪となる[9][10]。この事件で未決囚として収監中に、田中の知人でキリスト教布教団体「婦人矯風会」副会頭の潮田千勢子から差し入れられた聖書を読み、感化を受け、後の1909年(明治42年)に洗礼を受ける契機となる[9][11][12]

無罪となった後も活動に没入していたが、黒澤の将来を心配した田中から学問を修めるように説得され、当時籍のあった京北中学校(後の東洋大学京北中学高等学校)に1903年(明治36年)12月に復学し[注釈 1]1905年(明治38年)3月に卒業した[10][14]。なお修学資金は田中からの育英資金恵与の懇請を受けた栃木県篤志家蓼沼丈吉からのものであった[15][注釈 2]

卒業後、このまま社会活動を続けてゆこうかどうか迷っていた矢先、の急死という不幸に見舞われる。幼いを養う立場に立たされた20歳の黒澤は心機一転、北海道行きを決意する[16]

渡道し酪農業と北海道開発に尽くす

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1905年(明治38年)夏、北海道に渡った黒澤は、北海タイムス阿部宇之八白石村(後、札幌市白石区)で酪農を営む宇都宮仙太郎を紹介され彼に逢いに行く。 出会った宇都宮から、飼いには三つの徳(得)がある、すなわち「役人に頭をさげなくてもよい」、「動物が相手だからをつかなくてもよい」、「牛乳日本人の体位を向上させ健康にする」と説かれた黒澤はその話を気に入り、宇都宮の牧場の牧夫となることを即決した。酪農の作業は辛いものがあったが、自作の道具で乳搾りの練習をしたりして熱心に取り組んだ[17]

1906年(明治39年)12月に徴兵され札幌市の歩兵連隊に入る。兵役を終えた後の1909年(明治42年)4月、宇都宮から独立する。山鼻村東屯田(後の札幌市中央区南10条西8丁目あたり)でエアシャー種1頭でのスタートであった。朝3時に起き牛の世話、搾乳をし、5時には牛乳を配達し、帰っては又牛の世話をするという作業を1人で行い、睡眠時間が3時間か4時間という奮闘の日々を送った。そのかいあって5年後には飼育する乳牛が10数頭にまでになる酪農家に成長していた[18][19]

この頃の私生活においては、1909年(明治42年)1月に日本メソジスト札幌教会(後の日本キリスト教団札幌教会)で杉原成義牧師より受洗し[20]、また1915年大正4年)に結婚している[21]。夫婦の間に生まれた子供のうち、長男の力太郎は酪農学園大学教授、酪農学園学園長等を勤めている[22][23]

1923年(大正12年)の関東大震災直後に、アメリカから練乳が援助物資として大量に届けられ、また、乳製品関税も撤廃され輸入品が増えると、道内の練乳会社による国産牛乳の買い叩きや受入制限がおき、国内の酪農家は苦難に陥った。この危機に際し、黒澤は宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに酪農家自身による乳製品製造機関の創設を図り、1925年(大正14年)5月17日、「有限責任北海道製酪販売組合」を設立した。この組合で黒澤は専務理事になっている。組合は1926年(大正15年)3月に組織改編し、名称を「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」に改めた。その後、酪連は戦時中の1940年(昭和15年)に「北海道興農公社」[24]、戦後の1947年(昭和22年)に「北海道酪農協同株式会社(北酪社)」と変遷し、1950年(昭和25年)にブランド名として名乗った「雪印」を社名とした「雪印乳業株式会社」となっている[25][26]

酪連において黒澤は販路拡充、品質向上に取組み、初代会長の宇都宮が急病により会長を辞任すると、1935年(昭和10年)5月に会長に就任し、後に大企業となる雪印乳業の基盤を築いた[27][26]

北海道興農公社では、創設時に社長に就任[24]。戦後発足した北酪社では取締役会長になったが、GHQ占領政策により役員の退任を強要され、1949年(昭和24年)に辞任した[28][29]。その後、北酪社が分割して1950年(昭和25年)に誕生した雪印乳業株式会社では相談役に退いている[30]

黒澤はまた北海道開発の方面でも活躍しており、戦前においては、デンマーク式農業の紹介や、北海道議会憲政会の拓殖計画副委員長に就任し北海道第二期拓殖計画の策定で主導的な役割を果たす、などの事を成した。戦後は1952年(昭和27年)6月北海道開発庁の北海道開発審議会委員に任命され、1954年(昭和29年)9月には同会会長に就任し以後8期16年会長職を務め、北海道開発計画の策定等で指導的役割を成した[31]

その他の北海道産業界での経歴としては、北海タイムスにおいて1960年(昭和35年)12月に社長に、1966年(昭和41年)5月に会長に就任、札幌テレビにおいて、1957年(昭和32年)10月に設立発起人の一人となり設立後取締役に就任などがある[31]

政治活動

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政治家としてのスタートは、1924年大正13年)8月に憲政会から北海道会議員に立候補し当選したことから始まる。1926年(大正15年)10月には道会議員のまま札幌市会議員に当選、副議長となる。1942年(昭和17年)4月翼賛政治体制協議会の推薦を受け衆議院議員総選挙に出馬し、当選し、農林委員となる[31][32]

この時の国政進出は本意では無かったと述べているが、戦後、自らの信条を実現する政党結成を決意し、1945年(昭和20年)に日本協同党千石興太郎達と共に結成し、同党の代表世話人となる。しかしながら1946年(昭和21年)に公職追放となり[注釈 3]、世話役を辞任した[31][34][35]

1950年(昭和25年)10月公職追放解除後[31][36]自由党保守勢力に推され、1951年(昭和26年)4月北海道知事選挙に出馬する。現職知事田中敏文に挑み、「大雪山系の電源を開発し諸産業をベルトにかけてまわす」「寒地住宅の建設」「教育の問題-働く者にも教育を」の3つを公約に掲げ戦ったが落選し、以後は政治活動に直接関わることはしなかった[31][37]

教育活動

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酪農業者への教育の必要性を感じていた黒澤は教育機関設置に向けて関係者へ働きかけを行った。この熱意に動かされ酪連は道内農村青年のための教育機関の設置を認め、1933年(昭和8年)10月1日に「北海道酪農義塾」が設置された。黒澤はここで長を勤めた[38][39]

黒澤はこの酪農義塾で自身の主張する『農民道五則』で塾生達の農業人としての精神育成に努めた。『農民道五則』とは以下である[40]

一、農民は誠そのものたれ(農民は正直であれ)

相手を疑う前にまず自分の姿勢を正直一途にすること

一、農民は天地の経輪に従え(農民はその土地の役目を知れ)

気候風土を十二分に活用した農業を実践すること

一、農民は土を愛せよ(農民は土を肥やせ)

国土を豊かにする農業経営をなすこと

一、農民は勤労を尊び倹約を守れ(農民は無駄をせずうんと働け)

独立自営民は如何なる時代でもこの心構えを持つこと

一、農民は協力一致せよ(農民は産業組合によって団結せよ

農民は連帯心を持ち協力しあって大をなすこと
— 酪農学園史3 85-87頁

やがて支那事変の勃発など日本が戦争に傾いて行くと、黒澤は食糧増産をするには指導者育成の為の甲種農業学校の設立が必要と考え、その構想を文部省高官へ訴えた。それは役人から賛同を得られ1942年(昭和17年)に「財団法人興農義塾野幌機農学校」が開校の運びとなった[41]。初代校長は黒澤である[42]

戦後は自身が信仰するキリスト教の聖書を教育の柱とする「学校法人酪農学園」に組織改編をし、自らは1950年(昭和25年)に初代学園長になり、酪農学園のもと開校した「酪農学園女子高等学校」「酪農学園短期大学」「酪農学園大学」の校長、学長を勤めた[43][44]

晩年

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1970年(昭和45年)に北海道開発審議会会長を辞任した後は、ほとんどの公職から身を引いた[45]

88歳の頃、みずから"悲願"と言う田中正造の著作集の刊行を目指し動きを始め、資料の収集や、知り合いであった東畑精一岩波書店への取次を依頼するなどし、遂に岩波書店からの『田中正造全集』の刊行にこぎ着けた。黒澤はこの全集に田中から託され、大切に保管していた田中の日記、手紙等の文書を提供し、自らは編纂会の顧問として編纂に尽力した。全集1977年(昭和52年)に第1回配本の第7巻が刊行され、1980年(昭和55年)に全20巻の刊行完結が黒澤の存命中に成された[31][46][47][48][49][50]

1981年頃から衰弱著しくなり、11月札幌医科大学附属病院に入院する。1982年(昭和57年)2月6日午前6時13分、同病院で心不全のため96歳で死去した[45]

葬儀は密葬2月8日9日に札幌霊堂で、本葬が「故黒澤酉蔵翁酪農葬」として2月26日札幌市民会館で行われた[51]

思想・哲学

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黒澤は自身の思想・哲学を以下のような言葉で説いた[52]

  • 健土健民

「健土健民」は黒澤の造語で、黒澤の言葉によれば、『健康長寿を創造するには健康で豊じような国土を創造すべし』と要約されるものである[53]。この言葉の原点は田中正造の思想にあると考えられる[54]。この言葉は酪農学園の建学の精神に含まれるほか、雪印の創業の精神にもなっている[55][56]

  • 三健論

「健土・健民・健産」、つまり、健康な国土、健康な国民、健康な産業の三つのバランスと連係が国の健康に繋がるとの考え。その中で黒澤は「健産」の基本に農業を据えた[57]

  • 循環農法

農業は天(風土自然条件)、地(その土地の持つ特性)、人(機をとらえた経営能力)の合作であり、地力の増進を基本とした適地適作でなければならない」、とする考えである。黒澤はこの考えを「循環農法図」というものに図式化して説いた[58]

表彰・叙勲等

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著作

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  • 『農民道』北海道酪農義塾、1936年。 
  • 『日本産業人の道(産業報国講演集 其の7)』産業報国聯盟、1940年。 
  • 『大東亜建設の構想 南方経営に於ける北方の役割日本産業人の道』綜合北方文化研究会、1942年。 
  • 『健土政策と有畜機械農業(農村決戦態勢確立運動叢書 第2輯)』産業組合中央会、1943年。 
  • 『食糧必勝戦と畜力総動員』北海道興農公社東京支店、1944年。 
  • 『皇道農業』育英出版、1944年。 
  • 『農業国デンマーク』河出書房、1952年。 
  • 『健土と健民』酪農学園通信教育出版部、1954年。 
  • 『反芻自戒』北海タイムス社、1965年。 
  • 『国際収支と北海道開発』酪農学園酪農大学、1968年。 
  • 『酪農学園の歴史と使命 私はなぜ酪農学園をつくったか』酪農学園、1970年。 
  • 『健土健民新論』酪農学園、1974年。 
  • 『北海道開発回顧録』北海タイムス社、1975年。 
  • 『三愛の歌』1977年。 
  • 『酪翁自伝 黒澤酉蔵翁生誕一三〇年・記念』酪農学園、2015年。 

関連施設

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  • 酪農学園大学

北海道江別市文京台緑町582番地 北緯43度04分23.9秒 東経141度30分39.6秒 / 北緯43.073306度 東経141.511000度 / 43.073306; 141.511000

構内にはを指差して立つ黒澤の銅像がある[61]。附属図書館では黒澤の明治期から50代後半からの資料の複製を所蔵している[62]

  • 酪農と乳の歴史館(旧雪印乳業史料館)

雪印メグミルクの企業博物館で、館内には黒澤ら創業者の歴史を紹介したコーナーがある[63]

  • 酉和館(ゆうわかん)
酉和館

黒澤の生地跡に建てられた集会施設で、1970年(昭和45年)に黒澤とその弟が故郷の常陸太田市小目町に残していた土地に建造し、土地と一緒に地区に寄贈したもの。名称の由来は酉蔵の"酉"と弟の和雄の"和"を併せたものである。建物脇には「黒澤酉蔵先生生誕之地」の碑がある[64][65]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1901年(明治34年)春に京北中学に入学していた[13]
  2. ^ 当時、黒澤は修学資金は田中が出してくれていると思っていたが、昭和36年頃、田中の蓼沼に宛てた手紙から真実を知った[15]
  3. ^ 黒澤自身は1947年(昭和22年)7月に公職追放になったと述べている[33]

出典

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  1. ^ a b 日外アソシエーツ2004、956頁
  2. ^ 苫小牧新聞1982年2月8日、1面
  3. ^ 青山1961、28-39頁
  4. ^ 酪農学園2015、21頁
  5. ^ 青山1961、30-31頁
  6. ^ 安宅2017、5頁
  7. ^ 青山1961、33-34頁
  8. ^ 安宅2017、10-11頁
  9. ^ a b c 安宅2017、12-13頁
  10. ^ a b c 常陸太田市2014、49頁
  11. ^ 青山1961、41-42頁
  12. ^ 酪農学園2015、283頁
  13. ^ 日本経済新聞社2004、161頁
  14. ^ 青山1961、44-45頁
  15. ^ a b 青山1961、49-54頁
  16. ^ 青山1961、56-57頁
  17. ^ 安宅2017、 20-21頁
  18. ^ 安宅2017、21-22頁
  19. ^ 青山1961、70-73頁
  20. ^ 安宅2017、21頁
  21. ^ 安宅2017、22頁
  22. ^ 酪農育英会20154頁
  23. ^ 酪農学園2003、140頁
  24. ^ a b 青山1961、480頁
  25. ^ 安宅2017、34-37頁
  26. ^ a b 日本放送出版協会1993、138-140頁
  27. ^ 青山1961、190頁
  28. ^ 青山1961、306-321頁
  29. ^ 青山1961、488頁
  30. ^ 青山1961、489頁
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n 北海タイムス1982年2月7日、6面
  32. ^ 青山1961、482頁
  33. ^ 日本経済新聞社2004、213頁
  34. ^ 酪農学園2015、177-185頁
  35. ^ 安宅2017、73頁
  36. ^ 官報1950-10-13(号外第116号)
  37. ^ 青山1961、422-429頁
  38. ^ 酪農学園2003、47-48頁
  39. ^ 酪農学園2013、37-38頁
  40. ^ 酪農学園2013、85-87頁
  41. ^ 酪農学園2013、42-43頁
  42. ^ 酪農学園2013、103頁
  43. ^ 酪農学園2013、49頁
  44. ^ 酪農学園2003、139頁
  45. ^ a b 北海道新聞1982年2月6日(夕刊)、1面
  46. ^ 林1975、55頁
  47. ^ 黒澤1977
  48. ^ 東畑1982
  49. ^ 黒澤1977.6、4-10頁
  50. ^ 田中正造全集編纂会1980、565頁
  51. ^ 酪農学園2003、396-398頁
  52. ^ 安宅2017、27-33頁
  53. ^ 酪農学園2013、430頁
  54. ^ 安宅2017、15頁
  55. ^ 安宅2017、1頁
  56. ^ 雪印乳業2001、1頁
  57. ^ 安宅2017、32-33頁
  58. ^ 安宅2017、28-29頁
  59. ^ 北海道新聞文化賞”. 北海道新聞社. 2023年12月15日閲覧。
  60. ^ 官報1982年2月20日、12頁
  61. ^ 酪農学園2003、382-383頁
  62. ^ 酪農学園2013、288頁
  63. ^ 酪農と乳の歴史館・札幌工場”. 雪印メグミルク株式会社公式ホームページ. 2018年2月10日閲覧。
  64. ^ 安宅2012、4頁
  65. ^ 黒澤(力)1983、314-319頁

参考文献

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関連資料

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著作、参考文献にあげた以外の資料について。

図書

  • 水樹涼子『岸辺に果つ 田中正造をめぐる人々』随想舎、2016年。ISBN 9784887483217 

田中正造を巡る三人の人物を描いた小説集で、その中の一編「北の大地の興亡 黒沢羊蔵の場合」(207-298頁)に黒澤が取り上げられている。

  • STVラジオ「黒沢酉蔵」『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々』中西出版、2002年2月、242-251頁。ISBN 4891151072 

雑誌記事

  • 松野尾裕「二人の協同組合主義者 黒澤酉蔵と賀川豊彦 :『乳と蜜の流るヽ郷』によせて」『日本経済思想史研究』第13号、2013年3月、39-58頁。 
  • 峯岸英雄「近代日本キリスト教社会貢献論 : 小林富次郎・黒澤酉蔵・森永太一郎 (特集 実業家の社会貢献とその理念)」『大倉山論集』第63号、2017年3月、133-151頁。 
  • 新藤泰男「田中正造の"ヴィジョン"は実現したのか(3) : 正造思想の後継者 黒澤酉蔵」『産研・通信』第40号、1996年、28-30頁。 
  • 新藤泰男「田中正造の"ヴィジョン"は実現したのか(4) : 正造思想の完成者 黒澤酉蔵」『産研・通信』第41号、1996年、19-22頁。 

録音資料

  • NHKわたしの自叙伝 25 (社会・実業 7). NHKサービスセンター、大空社. (2012). ISBN 9784283010536 

田中正造との出会いについて語っている黒澤の肉声を収録したCD。黒澤の他に東京モスリン会争議のころについて語っている山内みなの声も収めている。

関連項目

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外部リンク

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先代
-
酪農学園理事長
初代: 1942年 ‐ 1946年
(1942年から1949年までの名称は財団法人興農義塾野幌機農学校)
次代
青山永
先代
佐藤善七
酪農学園理事長
第4代
(野幌機農学校時から数えて)
: 1957年 ‐ 1966年
次代
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先代
-
酪農学園学園長
初代: 1950年 ‐ 1982年
次代
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先代
樋浦誠
酪農学園短期大学学長
第2代: 1963年 ‐ 1966年
次代
佐藤貢
先代
樋浦誠
酪農学園大学学長
第2代: 1964年 ‐ 1966年
次代
佐藤貢