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2016年11月12日 (土) 04:03時点における版
ビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | Joseph Vernon Turner |
別名 | ボス・オブ・ザ・ブルース |
生誕 |
1911年5月18日 アメリカ合衆国ミズーリ州カンザスシティ |
死没 | 1985年11月24日(74歳没) |
ジャンル |
ジャンプ・ブルース ロックンロール |
活動期間 | 1920年代 - 1980年代 |
レーベル |
アトランティック・レコード ナショナル・レコード ヴォカリオン・レコード |
共同作業者 |
ピート・ジョンソン カウント・ベイシー |
ビッグ・ジョー・ターナー(Big Joe Turner、1911年5月18日 - 1985年11月24日)は、アメリカのブルース・シンガー。身長182cm、体重136キロという巨漢を活かして叫ぶ様に歌う、シャウト・ブルースというジャンルのブルースを作り上げた一人でもある。
彼の代表作、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」はロックンロールの定番曲としてビル・ヘイリーを始め多数のアーティストにカバーされた。
来歴
デビュー前
ミズーリ州カンザスシティ生まれ。4歳の時に父親が電車事故で亡くなる。教会の聖歌隊に所属し、音楽に興味を持ち始める。
14歳の時に学校を中退し、カンザスシティのクラブで歌手として働き始める。やがて彼は「歌うバーテンダー」として知られ始める。ブギウギ・ピアノの名手、ピート・ジョンソンと出会い、タッグを組む。
1938年、二人の活動に注目したジョン・ハモンドが、ターナーとジョンソンをニューヨークに呼び、「フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング (From Spirituals to Swing)」に出演させた。そこで彼らは「ロール・エム・ピート」を演奏し、大きな反響を生んだ。
プロの道へ
1939年にはヴォカリオン・レコードと契約し、「チェリー・レッド」や「ウィー・ベイビー・ブルース」等を録音する。また、ビリー・ホリデイも出ていたニューヨークの「カフェ・ソサエティ」の常連出演者になる等、プロの道を歩み始める。
1940年、デッカ・レコードに移籍、「パイニー・ブラウン・ブルース」を録音する。ジョンソンとだけでなく、ウィリー・'ザ・ライオン'・スミスやフレディ・スラックス・トリオとも一緒にレコーディングした。
1945年に、ナショナル・レコードに移籍。「マイ・ギャルズ・ア・ジョッキー」「アラウンド・ザ・クロック」等を録音。また、アラディン・レコードから「ワイノニー・ハリス」とカップリングで「バトル・オブ・ザ・ブルース」が発売された。
アトランティック・レコードとの出会い
1951年、カウント・ベイシー・オーケストラとアポロ・シアターで演奏している所をネスヒ、アーメット両名のアーティガン兄弟に注目され、アトランティック・レコードと契約を結ぶ。そこで彼は数々のヒット[1]を飛ばす。
ヴァン・'ピアノ・マン'・ウォールズ・アンド・ヒズ・オーケストラとタッグを組み、アトランティックでのデビュー・シングル、「チェインズ・オブ・ラヴ」をリリース。R&Bチャートの2位というスマッシュ・ヒットを記録する。
1954年、チャールズ・カルホーン作の「シェイク・ラトル・アンド・ロール」がR&Bチャートの1位を記録する。黒人だけでなく、10代の白人にも受け入れられる大ヒットとなった。すぐさまビル・ヘイリーがカバーし[2]7位を記録する。
デビュー当時からスウィングしてブルースを歌うスタイルは一貫して変えていない。そしてそれはアトランティックにおいても同じだった。その後も「フリップ・フロップ・アンド・フライ」「ハイド・アンド・シーク」等をヒットさせている。1956年発売の「コリーニ・コリーナ」では、ポップチャートの41位を記録する。
しかし、1958年発売の「ジャンプ・フォー・ジョイ」を境に、ターナーはヒットが出せなくなる。
その後
ターナーは、アトランティックでの絶頂期を終えた後、1960年から1970年代までジャズ歌手に転向する。1966年、当時活動の拠点をアメリカ以外の国に移していたヘイリーが、ターナーをメキシコでスターにするために手助けもしている。
1983年、ターナーはブルースの殿堂入りを果たす。その2年後の1985年11月24日、心臓発作で死去する。74歳だった。
その2年後、ロックの殿堂のパフォーマー部門に認定される。
シングル・ディスコグラフィー
アトランティック・レコード在籍時のみ記す。
発売年 | A面 | B面 | ポップ・チャート[3] | R&Bチャート[4] |
---|---|---|---|---|
1951年 | Chains Of Love | After My Laughter Came Tears | - | 2位 |
1951年 | The Chill Is On | Bump, Miss Suzie | - | 3位 |
1952年 | Sweet Sixteen | I'll Never Stop Loving You | - | 3位 |
1952年 | Don't You Cry | Poor Lover's Blues | - | 5位 |
1953年 | Honey Hush | Crawdad Hole | - | 1位 |
1954年 | TV Mama | Oke-She-Moke-She-Pop | - | 6位 |
1954年 | Shake, Rattle And Roll | You Know I Love You | - | 1位 |
1954年 | Well, All Right | Married Woman | - | 9位 |
1955年 | Flip, Flop And Fly | Ti-Ri-Lee | - | 2位 |
1955年 | Hide And Seek | Midnight Cannonball | - | 3位 |
1956年 | The Chicken And The Hawk | Morning, Noon And Night[5] | - | 7位 |
1956年 | Corrine, Corrina | Boogie Woogie Country Girl | 41位 | 2位 |
1956年 | Lipstick, Powder And Paint | Rock A While[6] | - | 8位 |
1957年 | Midnight Special | Feeling Happy | - | - |
1957年 | Red Sails In The Sunset | After A While | - | - |
1957年 | Love Roller Coaster | A World Of Trouble | - | 12位 |
1957年 | I Need A Girl | Trouble In Mind | - | - |
1957年 | Teenage Letter | Wee Baby Blues | - | - |
1958年 | (I'm Gonna) Jump For Joy | Blues In The Night | - | 15位 |
1959年 | Got You On My Mind | Love, Oh, Careless Love | - | - |
1959年 | Honey Hush (re-recording) | Tomorrow Night | 53位 | - |
1960年 | Chains Of Love (re-recording) | My Little Honeydripper[7] | - | - |
1960年 | My Reason For Living | Sweet Sue | - | - |
脚注
- ^ ポップ・チャートでのヒットは数える程しか無いが、R&Bチャートでは常に上位にチャートインし、ヒットシンガーの仲間入りを果たしている。
- ^ ただし、原曲の内容がとても如何わしい物であるため、ヘイリーのヴァージョンは内容を薄めている。ヘイリー以後にカバーしたアーティストのヴァージョンは、ヘイリーの方を参考にしている。
- ^ http://www.musicvf.com/Joe+Turner.art
- ^ http://www.musicvf.com/Joe+Turner.art
- ^ B面でもあるこの曲も8位を記録している。
- ^ B面でありながら12位を記録。
- ^ B面でもあるこの曲も、ポップ・チャート102位を記録。