「奥田良三 (歌手)」の版間の差分
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2016年11月11日 (金) 01:47時点における版
奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1993年1月27日)は、日本のテノール歌手。
経歴
1903年(明治36年)6月12日に北海道札幌市で生まれる。旧制札幌一中を経て東京音楽学校中退。その後は、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア[1]、ベルリン音楽大学で声楽を学ぶ。帰国後、1934年(昭和9年)ポリドールレコードから映画「狂乱のモンテカルロ」主題歌「モンテカルロの一夜」「これぞマドロスの恋」や、映画「会議は踊る」主題歌「命かけて只一度」を吹き込む。国民歌謡の始まりと共に、「夜明けの唄」や「防人のうた」などをヒットさせている。その後も戦時歌謡中心に「愛国行進曲」、「戦陣訓の歌」、「空の勇士」、「紀元二千六百年」、「出せ一億の底力」などを吹き込む。
戦後は、昭和音楽大学の初代学長を務める。90歳の誕生日にシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を歌い引退する予定だったが、その直前、1993年(平成5年)1月27日、心不全で死去。享年89。
略歴
- 1924年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)中退。
- 1929年、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア卒。
- 1932年、ウィーンで開催の第1回国際音楽コンクールで銀賞受賞。(金賞受賞者なし)
- 1933年、ベルリン音楽大学卒。
- お茶の水女子大学、横浜国立大学などの教授を歴任。
- 1971年、神奈川文化賞受賞。
- 1973年、勲三等瑞宝章受章。
- 1980年、昭和音楽大学学長、東京声専音楽学校校長、日伊音楽協会会長に就任。
- 1985年、イタリア文化勲章受章。
・1992年 市川東学院 三愛幼稚園園長
- 死の寸前までステージに立った。
- 業績を記念する奥田良三賞基金が設立される。
関連項目
出典
- ^ 小野七郎 (1932年6月7日). “ファッショの本国に「軍国日本」大歓迎”. 大阪毎日新聞 2015年2月21日閲覧。