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2016年11月10日 (木) 18:51時点における版
平野 愛子(ひらの あいこ、1919年(大正8年)1月4日 - 1981年(昭和56年)11月22日)は、昭和期の歌手。シャンソン歌手の平野淑子は実娘。
経歴
東京都の新宿出身。歌手四家文子、作曲家大村能章の門下となり、日本歌謡学院を卒業。1945年(昭和20年)暮れにビクターが行った、全国歌手募集で3000人の中から7人という倍率の試験の中から選ばれ、ビクター専属作家東辰三らの歌手育成教育によって見出され、東曰く[いつ?]後年、「濡れたビロウド」と言わしめた[誰によって?]程である。
1947年(昭和22年)に戦後初のビクターレコード「港が見える丘」(4月発売)を発売する。これは大ヒットし、舞台の横浜には「港の見える丘公園」が作られた(作者の東は神戸の港町をイメージして作った)。その後は、「君待てども」[1]や「待ちわびて」などがヒット。「若きブルースの女王」と言われた[誰によって?]。
1950年(昭和25年)1月発売の「白い船のいる港」もヒットする。しかし、東が急逝してからは大きなヒット曲には恵まれなかった。後に[いつ?]公私共に親しかった竹山逸郎と共にテイチク、マーキュリーへ移籍する。
晩年は自宅で音楽教室を開く傍ら、『年忘れにっぽんの歌』に出場するなど歌手活動を行っていた。
1981年(昭和56年)11月22日、新宿の病院にて卵巣がんで死去。享年は62。
NHK紅白歌合戦出場歴
- 第2回(1952年1月3日、NHK東京放送会館第一スタジオ)『君待てども』
- 第3回(1953年1月2日、NHK東京放送会館第一スタジオ)『恋ひとたび』