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2016年10月19日 (水) 12:09時点における版

ケイト・ブッシュ
Kate Bush

CBE
ファイル:Kate Bush sand.jpg
砂のクリップ
基本情報
出生名 Catherine Bush
生誕 (1958-07-30) 1958年7月30日(66歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド
ロンドン
ジャンル ロック
アート・ロック
プログレッシブ・ロック
オルタナティヴ・ロック
バロック・ポップ
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカルピアノ
活動期間 1977年 - 現在
レーベル EMI
コロムビア・レコード
共同作業者 デヴィッド・ギルモア
ピーター・ガブリエル
公式サイト katebush.com
ビリー・ホリデイ
ジョニ・ミッチェル

ケイト・ブッシュKate BushCBE1958年7月30日 - )は、イングランド出身の女性シンガーソングライター

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第19位[1]

人物

[2]ピンク・フロイドデヴィッド・ギルモアに見出されレコード・デビューに至った。それ以前に自分で売り込んだ際には、レコード会社から見向きもされなかった。

デビュー当時は19歳ということもありアイドル的な見方もされたが、高い歌唱力をベースに高音から低音まで様々な声質を使い分け、トータルで独自の世界を展開するアーティストとして確固たる評価を得た。英国音楽メディアのNMEやMOJOが「ロック史上、誰よりも大きな影響を与えてきた女性アーティスト」と評するなど、現在に至るまでイギリスを代表する女性アーティストとして活動を続けている。

ステージで歌唱する際はダンスパントマイムなどの体技を交え、一種のパフォーマンスを展開することが多い(シャイな性格のためと言われる)。早い時期から凝った内容のプロモーション・ビデオも制作しており、音楽とビジュアルの融合にも意欲を見せていた。一方で、完成度の高い作品を志向しているためか、割合に寡作なミュージシャンである。

レコード・ジャケットに東洋風の絵柄を用いるなど、東洋の文化への興味が強いと言われる。1978年東京音楽祭に出演するため日本を訪れたが、それ以降は来日の経験はない。諸説あるが飛行機による長旅を嫌っているのが一因らしい。

日本ではかつて放送されていた日本テレビのバラエティ番組『恋のから騒ぎ』のオープニング・テーマ曲に彼女の楽曲「嵐が丘」が長年使われていたことから、その歌声は広く知られている[3]

デビュー前

ファイル:Kate Bush by David Gerrard (12966878834).jpg
活動初期 (1978年)

ケイト・ブッシュ(本名:キャサリン・ブッシュ)は1958年7月30日に英・大ロンドン(Greater London)ベクスレー区のベクスリーヒース(Bexleyheath)の比較的裕福な家庭に生まれた。父親ロバートは医師で、母親ハンナはアイルランド系の元看護師ピアノが堪能な父、アイリッシュフォークの元ダンサーである母、詩人でありカメラマンでもある長兄ジョン、楽器メーカーに勤めていた次兄パディという音楽一家の中で育つ。兄たちは地元のフォークミュージックシーンに関与していた。なおパディは後にケイトのアルバムにも参加している。

ケイトが音楽に興味を持ち始めたのは1968年頃のこと。1年間のオーストラリア移住から英国に戻ったケイトは、その頃から父ロバートにピアノを習い始める。やがてカトリック系の女子校であるグラマー・スクールに通う頃になると、ケイトは多くの楽曲やを書き始め、同時にヴァイオリン聖歌隊のレッスンにも励み、自らの芸術的な感性を磨いていった。

1970年代頃のデイヴ・ギルモア

1974年、本格的に音楽の道へ進むことを決意したケイトは学校を中退し、ビリー・ホリデイジョニ・ミッチェルなど自分のアイドルに憧れながら音楽作りに専念。1975年には兄パディ達と共に「KT Bush Band」というバンドを結成し、パブにも出演するようになった。この時期に制作したデモテープが、やがてデヴィッド・ギルモアピンク・フロイド)に見出されることとなる。

1976年ロンドン郊外のフラットに移り住んだケイトは、アダム・デューリアスによるマイムを教えるクラスへ入り、更にはリンゼイ・ケンプのもとに弟子入り。デビューの準備期間ともいえるこの時期をケイトは約1年に渡って過ごし、1977年に満を持してアーティストとして初の本格的なレコーディングに入った。なお、この時期にマイムのスクールでザイン・グリフデヴィッド・ボウイらと交流し、その後グリフのアルバムにも参加している。

デビューから1990年代まで

ファイル:Kate Bush.png
活動初期 (1978年)
ベスト・アルバム発表当時 (1986年)

1977年11月、エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』のTVドラマを見て作ったシングル「嵐が丘」 (Wuthering Heights)”でデビュー。いきなり全英4週連続一位を記録、同曲を収録したデビュー・アルバム『天使と小悪魔』 (The Kick Inside)も40万枚というセールスとなり、一躍大きな注目を集めた。

その後1978年に2ndアルバム『ライオンハート』 (Lionheart)を発表するも1枚目と同じく満足のいく仕上がりにはならなかったことから、自らも裏方の仕事であるプロデュースをしなければと決心する。この後、西ヨーロッパでツアーを行い(映像ソフトがその後1981年に発売)、1980年の3rdアルバム『魔物語』 (Never For Ever)では共同プロデュース、1982年に『ドリーミング』では録り直しをして膨大なレコーディング費用が掛かり、レコード会社から煙たがられた事もあったが単独プロデュース、1985年『愛のかたち』 (Hounds Of Love)も自らがプロデュースを行った。

1986年には初のベスト・アルバム『ケイト・ブッシュ・ストーリー』 (The Whole Story)を発表。またこの間にはピーター・ガブリエルロイ・ハーパーなど英国の奇才ミュージシャンたちとの交流もあった。ベスト盤という区切りの後に彼女の新章を告げた作品が1989年発表の『センシュアル・ワールド』。これで初めてUSAでメジャーになった。ここでケイトはブルガリアン・ヴォイスの一員だった女性アンカ・ラプキーナ率いるトリオ・ブルガルカと共演。ボックス・セットの発売やエルトン・ジョンのトリビュート盤『トゥー・ルームス〜エルトン・ソングス』への参加を経て、次の彼女自身のオリジナル・アルバム『レッド・シューズ』が発表されたのが1993年のこと。ジェフ・ベックエリック・クラプトンプリンス(同い年のミュージシャン)などが参加した話題作だったが、母の死によってリリースが1年延びたものでもあった。アルバムは全英2位と好セールスを記録し、シングル・カットされた楽曲もそれぞれヒットした。

しかし、このアルバム以降のケイトはトリビュート作やチャリティ・アルバムへの参加、他アーティストの作品へのゲスト参加などはあるが、自身の作品をリリースすることなく90年代を終えた。

2000年代以降

オランダ・ザーンダム公演 (2008年2月)

『レッド・シューズ』以降、オリジナルの新作が発表されないまま長い時間が経過し、ファンが待ち望む中で幾度か新作発表の情報が流れては消えた。ようやく新作の2枚組アルバム『エアリアル』が店頭に並んだのは、前作から12年ぶりとなる2005年11月7日(日本発売は11月2日)のことである。第一弾シングル「キング・オブ・ザ・マウンテン」も英チャート4位にランクイン。新作では休止期間中の1998年に生まれた息子アルバート(ケイト達はバーティと呼んでいる)のアートワークをフィーチャーする一方で、これまでになくやわらかい空気にあふれた世界を作り上げている。

2011年5月(日本では7月)には過去のアルバム『センシュアル・ワールド』『レッド・シューズ』の楽曲をセルフカバーした『ディレクターズ・カット』をリリース。前作より6年のブランクがあったものの、本国イギリスではチャート上で2位にランクインを果たした。同年11月23日には、6年ぶりとなる全新曲のアルバム『雪のための50の言葉』をリリース。10枚目のアルバムとなる本作は、全7曲、収録時間は約65分という大作となっている。

2013年4月、大英帝国勲章 CBEを受章する[4]

2014年8月 - 10月に、ロンドンで22日間に渡るコンサート「Before the Dawn」を開催[5]。過去のアルバム11枚が同時に、全英アルバムチャートでTOP50入りする快挙を成し遂げる(女性アーティスト初)[6]

ディスコグラフィー

  1. THE KICK INSIDE(天使と小悪魔)(1978年)
  2. LIONHEART(ライオンハート)(1978年)
  3. NEVER FOR EVER(魔物語)(1980年)
  4. THE DREAMING(ドリーミング)(1982年)
  5. HOUNDS OF LOVE(愛のかたち)(1985年)
  6. THE WHOLE STORY(ケイト・ブッシュ・ストーリー) - ベストアルバム
  7. THE SENSUAL WORLD(センシュアル・ワールド)(1989年)
  8. THIS WOMAN'S WORKS(ディス・ウーマンズ・ワークス) - ベストアルバム(1990年)(8枚組)
  9. THE RED SHOES(レッド・シューズ)(1993年)
  10. AERIAL(エアリアル)(2005年)(2枚組)
  11. DIRECTOR'S CUT(ディレクターズ・カット)(2011年)
  12. 50 Words For Snow(雪のための50の言葉)(2011年)

脚注

外部リンク