「エリック・カルメン」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
76行目: | 76行目: | ||
{{DEFAULTSORT:かるめん えりつく}} |
{{DEFAULTSORT:かるめん えりつく}} |
||
[[Category:アメリカ合衆国の歌手]] |
[[Category:アメリカ合衆国のロック歌手]] |
||
[[Category:クリーブランド出身の人物]] |
[[Category:クリーブランド出身の人物]] |
||
[[Category:1949年生]] |
[[Category:1949年生]] |
2016年10月19日 (水) 11:03時点における版
エリック・カルメン | |
---|---|
生誕 | 1949年8月11日(75歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 |
ジャンル | ポップ・ロック |
担当楽器 |
ボーカル キーボード ギター |
活動期間 | 1967年 - |
レーベル |
エピック・レコード キャピトル・レコード アリスタ・レコード |
共同作業者 | ラズベリーズ |
公式サイト | Official Site |
エリック・カルメン(Eric Carmen、Eric Howard Carmen、1949年8月11日 - )はアメリカの歌手、ミュージシャン。
略歴
オハイオ州クリーブランド出身。幼少の頃から音楽に親しみ、3歳の時にはすでにクリーブランド研究所に登録された中で最も若い学生だった。6歳の時、叔母やクリーブランド・シンフォニー・オーケストラのバイオリニストからレッスンを受けた。11歳ころまで自身の歌を書きながら、ピアノを傍らにメロディ・メーカーとしての基礎を固める。また、ビートルズとローリング・ストーンズの影響でロックンロールにも目覚め、高校時代にバンドを結成。
ジョンキャロル大学に入学し、Cyrus Erie というバンドを結成。(エピック・レコードからシングルをリリース)。ギタリストのWally Bryson、友人の Dave Smalley と Jim Bonfantiと共に新たにラズベリーズを結成する。
ラズベリーズのボーカリストとしてメジャー・デビュー、クリーブランドでは早速ロックンロール・グループとして人気が出た。
1972年、セルフ・タイトル・アルバムをリリース。
キャピトル・レコードと契約後、"Go All The Way" がビルボード・シングル・チャートの5位まで上昇、以降「明日を生きよう」「レッツ・プリテンド」「エクスタシー」などもヒットさせる。しかし1974年、メンバー間の恋愛関係を原因に解散する。
1975年、アリスタ・レコードからソロ・デビュー・アルバム『オール・バイ・マイセルフ』をリリース。表題作を含む3作のシングルが上位にランクイン。
1976年、「オール・バイ・マイセルフ」が全米2位の大ヒットを記録した。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をモチーフにしたこの曲は、途中にピアノ協奏を挟んだ7分超のドラマチックな大曲。多くの歌手にカバーされたほか、日本では何度かCMに使われたことがある。 (トヨタ自動車「ソアラ」(1991年等)同年の「恋にノータッチ(Never Gonna Fall in Love Again)」もまた、ラフマニノフの交響曲第2番をモチーフにした佳曲である。
1978年に世界歌謡祭のゲストで来日。翌年には来日公演を行った。
映画『フットルース』のために書き下ろした“Almost Paradise”(愛のテーマ)」は、1984年に作曲家としての存在を改めて示し、1987年に再び映画『ダーティ・ダンシング』への書き下ろし『ハングリー・アイズ』『メイク・ミー・ルーズ・コントロール』でチャートインした。
2004年11月に、31年ぶりにラズベリーズがオリジナル・メンバーで再結成。ニューヨーク・デイリー・ニュースで、年間のベスト・コンサートにラズベリーズが選ばれた。
主なシングル
- オール・バイ・マイセルフ(1975年)
- すてきなロックンロール(1976年)
- 恋にノータッチ(1976年)
- サンライズ(1976年)
- 愛をくれたあの娘(1977年)
- 雄々しき翼(1977年)
- チェンジ・オブ・ハート(1978年)
- 二人のラブウェイ(1978年)
- 愛を求めて/ヘブン・キャン・ウエイト(1978年)
- 悲しみTOO MUCH(1980年)
- フーリン・マイセルフ(1980年)
主なアルバム
- エリック・カルメン(1975年)
- 雄々しき翼(1977年)
- チェンジ・オブ・ハート(1978年)
- ベスト・オブ・エリック・カルメン(1979年)※日本のみ発売
- トゥナイト・ユア・マイン(1980年)
- エリック・カルメン(1984年)
- 夢の面影(1998年)