「スライ・ストーン」の版間の差分
Ichiromiami (会話 | 投稿記録) |
|||
121行目: | 121行目: | ||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{DEFAULTSORT:すとおん すらい}} |
{{DEFAULTSORT:すとおん すらい}} |
||
[[Category:アメリカ合衆国の歌手]] |
[[Category:アメリカ合衆国のロック歌手]] |
||
[[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]] |
[[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]] |
||
[[Category:アメリカ合衆国のシンガーソングライター]] |
[[Category:アメリカ合衆国のシンガーソングライター]] |
2016年10月18日 (火) 10:21時点における版
スライ・ストーン | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | シルヴェスター・スチュアート |
生誕 |
1943年3月15日(81歳) アメリカ合衆国テキサス州デントン |
出身地 | アメリカ合衆国カリフォルニア州ヴァレーホ |
ジャンル | ファンク, ロック, ソウル, R&B |
職業 | 歌手, 作曲家, プロデューサー |
活動期間 | 1965年 - 現在 |
共同作業者 | スライ&ザ・ファミリー・ストーン |
公式サイト | www.slystonebook.com |
スライ・ストーン(Sly Stone、1943年3月15日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州デントン生まれのミュージシャン、作曲家、レコードプロデューサー。スライ&ザ・ファミリー・ストーンのリーダーとして有名。1960年代から1970年代にかけて、ソウル・ファンク・サイケデリック音楽の発展に決定的な貢献を果たした。本名シルヴェスター・スチュアート(Sylvester Stewart)。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第78位[1]。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第69位[2]。
生涯
少年時代
シルヴェスター・スチュアートは5人兄弟姉妹の第2子としてテキサス州デントンに生まれ、カリフォルニア州ヴァレーホに育った。ヴァレーホに移ってから、彼は弟フレディや妹ローズ(ロージー)、妹ヴィエタ(ヴェット)と共にザ・スチュアート・フォーというバンドを結成して教会でゴスペルを歌い、1952年にはシングルレコードをリリースした。姉ロレッタを除き、スチュアート家の子供は後に全員「ストーン」という苗字を名乗り、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのメンバーとなった。
やがて彼は複数の楽器(主としてギター)を演奏するようになり、高校時代には複数のバンドに参加した。それらのバンドの一つがドゥーワップグループのザ・ヴィスケインズであり、メンバーはシルヴェスターとフィリピン系の友人フランク・アレラーノを除いては全員が白人だった。人種混合バンドであることがザ・ヴィスケインズを「いかした」ものにした。そして、この時の経験に基づいて彼は後にスライ&ザ・ファミリー・ストーンを結成することとなる。ザ・ヴィスケインズは"Yellow Moon"や"Stop What You Are Doing"など少数のローカルシングルを出した。同じ時期、彼はダニー・スチュアートという芸名で少数のソロシングルを録音してもいる。
1960年代中期、スライはカリフォルニア州オークランドのラジオ局KSOLで(のちにはKDIAで)DJを務め、その傍らオータムレコードでレコードプロデューサーを務めた。このとき彼が手がけたバンドには、ザ・ボー・ブランメルズやザ・モジョ・メン、ザ・グレイト・ソサエティがある。スライ・ストーンという芸名を名乗り、1966年にはトランペット奏者のシンシア・ロビンソンを含めてザ・ストーナーズというバンドを結成した。このシンシアは、フレディ・ストーン(ギターとヴォーカル)やラリー・グラハム(ベースとヴォーカル)やグレッグ・エリコ(ドラム)やジェリー・マーティーニ(サックス)と共に1966年末のスライ&ザ・ファミリー・ストーン結成にも参加している。スライ自身はギターとピアノとハーモニカなどを演奏した。スライ&ザ・ファミリー・ストーンの最初のレコーディングには、ヴェット・ストーンとメアリー・マクリアリーとエルヴァ・ムートンから成るリトル・シスターがバックヴォーカルとして参加している。1968年にはロージー・ストーン(ピアノとヴォーカル)がスライ&ザ・ファミリー・ストーンの一員となった。
スライはKSOL-AMをソウルミュージックの専門局に育てた。KSOLをK-SOULと呼ぶようになったのはスライが最初である。
スライ&ザ・ファミリー・ストーンの成功
デビューアルバム『新しい世界』(1967年)がひそやかに受け止められた後、スライ&ザ・ファミリー・ストーンはシングル「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」で初のヒットを飛ばした。この曲は、後にアルバム『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』に収録されることとなる。3枚目のアルバム『ライフ』(1968年)も売れ行きは芳しくなかったものの、1968年11月に発表したシングル「エヴリデイ・ピープル」は翌1969年にビルボードHot100チャートとHot R&B Singlesチャートの両方で1位を獲得した。
同年5月、4枚目のアルバム『スタンド!』を発表。同アルバムは300万枚以上の大成功を収め、これに続いて夏までには「ホット・ファン・イン・ザ・サマータイム」「サンキュー(フォレッティンミー・ビー・マイス・エルフ・アギン)」「エブリボディ・イズ・ア・スター」の3つのシングルが5位以内に食い込んでおり、スライ&ザ・ファミリー・ストーンは音楽界最大級のビッグネームとなっていた。そして同年8月のウッドストック・フェスティヴァルに出演し、グループの演奏場面は映画『ウッドストック』にも収められた。
個人的問題と没落
同年秋、スライはサンフランシスコからロサンゼルスに転居した。転居後まもなく、彼は複数の理由によるストレスで押しつぶされてしまったことに気がついた。売れ行きをさらに伸ばすようにというレコード会社からの圧力。スライの音楽をもっと戦闘的にして、ブラックパワー運動の影響の濃いものにしたい(さらには白人のエリコやマーティーニをスライ&ザ・ファミリー・ストーンから追放したい)というブラックパンサー党やその他の黒人解放運動家からの圧力。そして、ザ・ファミリー・ストーンのメンバーたちとの個人的軋轢などである。
5枚目のアルバム『暴動』(1971年)には、こうした混乱が影を落としていると言われている。ザ・ファミリー・ストーンのメンバーたちが全員、同時に演奏することを拒んだため、このアルバムに収められた曲の大半はオーバーダビングで録音されている。このときスライは大半の楽器を自身で演奏し、通常よりも多くのリードヴォーカルを担当した。
バンドが徐々に解体するにつれて、売り上げと人気にも翳りが見え始めた。1971年にはエリコが脱退し、アンディ・ニューマークがドラマーとなった。ラリー・グラハムとスライはもはや友人ではなくなり、1972年初頭にラリーは解雇され、ラスティ・アレンがベーシストとなった。これ以後のアルバム『フレッシュ』(1973年)と『スモール・トーク』(1974年)ではスライの出番が多くなった一方、残りのメンバーの出番は少なくなった。コンサートではドタキャンを繰り返すようになったため、プロモーターから見放されるようになった。そして1975年1月、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演が大失敗に終わった後、ザ・ファミリー・ストーンは完全に解散してしまった。
その後の日々
ソロ活動に入ったスライは、この後さらに4枚のアルバムを出した。(1975年の『ハイ・オン・ユー』だけが彼のみの名義でリリースされている。残りの3枚はスライ&ザ・ファミリー・ストーン名義である。)『エレクトリック・スパンキング・オブ・ウォー・ベイビーズ』(1981年)ではファンカデリックと共演したものの、傾いたキャリアを立て直すことはできなかった。
1984年夏、スライはボビー・ウーマックと短期のツアーを開始した。そしてコンピレーションアルバムや他の複数アーティストたちのレコードに時々登場することもあった。1986年、スライはザ・タイムのメンバーのジェシー・ジョンソンによるソロアルバム『ショッカデリカ』の中に収められた1曲「クレイジー」に登場した。この曲のミュージックビデオではキーボードとヴォーカルを担当し、ブラック・エンターテインメント・テレビジョンの音楽番組でオンエアーされた。
1987年、スライはシングル「イーク=ア=ブー・スタティック・オートマティック」をリリースした。映画『ソウル・マン』のサウンドトラックに提供した曲である。1989年にはバーケイズのアルバムのために「ジャスト・ライク・ア・ティーター=トッター」を共同で作曲し、共同でプロデュースしている。
同じ1987年、スライはコカイン所持によりイリノイ州ディケーターで逮捕された。釈放後、彼は半引退状態となり、隠遁生活に入った。1990年、スライはアース・ウィンド・アンド・ファイアーの「グッド・タイム」に参加し、力強い歌声を披露している。1991年、彼は日本のバンドの13キャッツによる「サンキュー(フォレッティンミー・ビー・マイス・エルフ・アギン)」のカバーに登場した。1993年、ボビー・ウーマックのアルバム『アイ・スティル・ラブ・ユー』に収められた1曲「ウェン・ザ・ウィークエンド・カムズ」でウーマックと共にリードヴォーカルを担当している。1993年にはスライ&ザ・ファミリー・ストーンがロックの殿堂入りを果たした際のセレモニーに登場し、ザ・ファミリー・ストーンの他のメンバーたちと共にステージに立って皆を驚かせた。2003年、ザ・ファミリー・ストーンの初代メンバーたち6人が新しいアルバムを録音しようとしてスタジオに集まったときにはスライも参加を求められたが、拒絶している。
2007年現在、スライは2名の女性アシスタントと共にナパヴァレーで暮らしている。ホームスタジオで録音することもあれば、趣味でオートバイに乗ることもある。自宅で録音された曲のいくつか(1980年代後期の作品と考えられている)はスライの歌とキーボードとドラムの演奏が入った形でブートレグとして出回っている。スライ作のデモ曲「カミング・バック・フォー・モア」は自伝的作品であり、次のような一節がある。「俺は高みに登りつめ、そして空に触れた。すると空はこう言ったんだ。『スライ、なんで通り過ぎようとするんだ?』カミング・バック・フォー・モア」。息子シルヴェスター・ジュニアが1997年『ピープル』誌の取材に応えたところによると、スライはアルバムが出せるほどの新曲を作り続けているという。その中には、マイルス・デイヴィスに捧げた「マイルス・アンド・マイルス」という曲も含まれている。
2005年8月15日、スライは妹ヴェットをオートバイに乗せてロサンゼルスのミュージッククラブ"ニッティング・ファクトリー"に送った。ヴェットはこのクラブでスライ&ザ・ファミリー・ストーンのトリビュートバンド"ファンク・ファミリー・アフェア"と共演することになっていたのである。このときスライもステージに立ったが、始終ヘルメットをかぶったままで、ブーツィー・コリンズのように見えたという。スライ&ザ・ファミリー・ストーンのドキュメンタリーを撮っているフィルムクルーも居合わせており、この歴史的瞬間を撮影している様子だった。スライのウェブサイトによると、スライはファンク・ファミリー・アフェアのために新曲を書いてプロデュースしているところだという。スライはこのバンドをファミリー・ストーンと改名した。
友人や家族によると、スライは作曲活動とホームスタジオでの録音活動を続行中である。ファミリー・ストーンのドラマーのグレッグ・エリコが『ローリング・ストーン』2006年3月号で語ったところによると、「最近スライは一日に二度も三度も電話をかけてきて、電話口で歌うんだ」という。
新しいスライの演奏はスライの個人サイトで聴くことができる。スライの妹ヴェットが最近のラジオインタビューで語ったところによると、新曲はヴォーカル入りで録音されるだろうとのことである。
2000年代中期のトリビュート
2005年7月12日、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのトリビュートアルバム『リ・スライ〜ディファレント・ストロークス・バイ・ディファレント・フォークス』がスターバックスのヒアーミュージックレーベルから出た(エピックレコーズからのリリースは2006年2月7日。ヒアーミュージックレーベル版に「ドント・コール・ミー・ニガー、ホワイティ」「サンキュー(フォレッティンミー・ビー・マイス・エルフ・アギン)」の2曲が加わっている)。このアルバムの内容は原曲のカバーとサンプリング作品であり、スティーヴン・タイラー、ジョン・レジェンド、ヴァン・ハント、ロバート・ランドルフなどが参加している。
2006年2月8日、このアルバムに参加したミュージシャンたちが2006年度グラミー賞授賞式の会場に集まってスライの曲を演奏した。このときスライも会場に現れて「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイヤー」の演奏に参加した。彼がライブをおこなったのは、1987年以来初めてのことである。短い時間ではあったが、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのオリジナルメンバー(ただしラリーを除く)が共に集まって演奏した。このときのスライは金色に染め上げた巨大なモヒカン刈りで、分厚いサングラスをかけ、SLYと書いたベルトバックルを付け、銀ラメのスーツを着ていた。背を丸めてキーボードを演奏し、右手には最近のオートバイ事故のためにギプスを装着していた。背を丸めていたため会場を見下ろしているように見えた。声は力強かったものの、演奏中ほとんど聴こえなかった。演奏の終盤にステージの前方へ足を向けると一小節を歌い上げ、聴衆に向かって手を振ると曲が終わる前に悠然と退場した。「彼は(会場の外の)坂道を上ると、オートバイに乗って去った」とケン・アーリック(グラミー賞授賞式の上級プロデューサー)は『シカゴ・サンタイムズ』紙に語った。「そう…オートバイがそこにあったんだ」
アーリックによると、スライは授賞式会場への護衛の警官が来るまでホテルの自室を去ろうとしなかった。そして会場に到着すると、演奏が始まるまで自分の自動車の車内で待っていたという。
そして、復活
2007年1月14日日曜日、スライは彼のサポートバンド"ザ・ニュー・ファミリー・ストーン"のハウス・オブ・ブルーズ公演に短時間出演した。
2007年4月1日、スライはザ・ファミリー・ストーンのメンバーと共にフラミンゴ・ラス・ヴェガス・ショールームに出演した。前座はジョージ・ウォレスの漫談だった([1])。
2007年7月7日、スライはザ・ファミリー・ストーンと共にサンノゼにおけるカリフォルニアサマーフェストに短時間出演した。彼は「シング・ア・シンプル・ソング」と「イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ」を歌い、「ハイヤー」を歌い終える前に舞台から降りた。彼は野球帽をかぶり、黒いサングラスを付け、白いフードのついたスウェットシャツを着て、バギーパンツを穿き、金の鎖をぶら下げていた。特に「イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ」では全盛期と変わらぬ力強い歌声を披露した。
個人生活
スライは1974年に女優キャスリーン・シルヴァと結婚し、5か月後に離婚した。二人の結婚式は1974年6月5日、マディソン・スクエア・ガーデンにおけるスライ&ザ・ファミリー・ストーンのコンサートの間、2万人を超える聴衆の前でおこなわれた。1974年10月30日に離婚したのは、スライの飼い犬のピットブル"ガン"が息子シルヴェスター・ババ・アリ・スチュアート・ジュニアを襲ったためである。スライとシルヴァとジュニアは1974年のアルバム『スモール・トーク』のジャケットに登場している。このほかスライには、シンシア・ロビンソンとの間に娘シルヴェット・ファン・ロビンソンがいる。シルヴェットが生まれたのはジュニアが生まれたのと同じ時期である。
さらにノヴィ(ポルトガル語で9を意味する)という娘もいる。ノヴィはノヴィーナ・カーメル(Novena Carmel)名義で音楽活動を行い、BabyStoneというバンドで歌っている他、ザ・ファミリー・ストーンのツアーでピアノを弾くことがある。
2009年には、スライの私生活に迫るドキュメンタリー映画"Coming Back For More"が完成、同年秋にはヨーロッパで封切られた。この映画によると、スライは1980年代にマネージャーと「楽曲の権利を譲る代わりに一定額の給与と経費を支払い続ける」という契約を結んだものの一方的に権利を奪われたまま契約を無視されたために収入源を失い、65歳となった今でも生活保護を受けながらホテルを転々として暮らしており、訴訟を起こすために弁護士を雇う費用も稼げず、ひたすら貧しい生活を送っているという。[3]また、「惜しくも未完となってしまった故マイケル・ジャクソンのニュー・アルバムのために、スライが作曲を行っていた」ことも明らかにされている。[3]
2010年1月、スライはこの元マネージャーのジェリー・ゴールドスタインをロサンゼルス高等裁判所に提訴、20年間以上にわたる詐欺・契約不履行・横領などの行為に対し、懲罰的損害賠償を含む5000万ドルの損害賠償を請求している[4]。スライの代理人であるロバート・J・アラン弁護士によると、ゴールドスタインはスライ個人から搾取するだけでは飽き足らず、スライに無断で「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」の商標名を自分の会社の名義で米国特許商標庁に登録し、スライのもとに入るべき数百万ドルの収入を横取りしたという[4]。一方、ゴールドスタインも2010年8月、コーチェラ・フェスティバルのステージ上でスライから中傷を受けたと主張し、名誉毀損でスライを訴えた[5]。
2011年8月にニューアルバム"I'm Back! Family & Friends"をリリース。しかし2011年9月、スライは浪費により再びホームレスとなり、白いキャンピングカーで生活し、支援者から食事とシャワーの世話を受けていることを報じられた[6]。
関連項目
参考文献
- Aswad, Jem (Feb 10, 2006). "Who, Exactly, Is Sly Stone? (That Weird Guy With The Mohawk At The Grammys)". MTV.com. Retrieved February 11, 2006.
- Coyle, Jake (Feb 8, 2006). "Reclusive Sly Stone Steps Out at Grammys". Yahoonews.com. Retrieved February 11, 2006.
- Lewis, Miles Marshall (2006). There's a Riot Goin' On. New York: Continuum International Publishing Group. ISBN 0-826-41744-2.
- Selvin, Joel (1998). For the Record: Sly and the Family Stone: An Oral History. New York: Quill Publishing. ISBN 0-380-79377-6.
- Edwin & Arno Konings www.slystonebook.com
- ジェフ・カリス『スライ&ザ・ファミリーストーンの伝説 人生はサーカス』村上敦夫訳(2009年、P‐Vine BOOKs)
外部リンク
- Family Stone xPerience - including founding Sly & The Family Stone members Jerry Martini, Cynthia Robinson & Rose Stone
- Sly's personal website - PhattaDatta.com
- www.slystonebook.com
- Yahoo! News: After 25 years, Sly Stone speaks out
- Outsideleft.com: Sly Stone, Live in London review by Joe Ambrose
脚注
- ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Sly Stone”. 2013年5月26日閲覧。
- ^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
- ^ a b SLY STONEの窮状に迫ったドキュメンタリー映画が完成
- ^ a b allbusiness.com January 28 2010 "Sly Stone Sues Former Manager Jerry Goldstein for Damages of $50 Million for Converting or..."
- ^ Sly Stone: Homeless in L.A. is only part of the funk icon's story September 27, 2011 | 8:53 pm
- ^ L.A. NOW Southern California -- this just in "Sly Stone homeless: Soul music star living in camper in L.A." September 26, 2011 | 8:33 am