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2016年10月17日 (月) 14:31時点における版

ハインツ・バート
Heinz Burt
出生名 Heinz Henry George Schwarz
生誕 (1942-07-24) 1942年7月24日
ドイツの旗 ドイツデトモルト
死没 (2000-04-07) 2000年4月7日(57歳没)
ジャンル ロック
活動期間 1962年 - 1970年代
レーベル デッカ・レコード
コロムビア・レコード
共同作業者 トルネイドース
ザ・アウトローズ

ハインツ・バート (Heinz Burt1942年7月24日 - 2000年4月7日)は、ドイツ生まれのイギリスの歌手。活動初期はトルネイドースのベーシストをしており、脱退後はソロ歌手としてイギリスの奇才、ジョー・ミークのプロデュースの下活動していた。1970年代初頭に引退。

白髪にほぼ近い髪の色を兼ね備えたルックスで人気を出す。

来歴

デビュー前

ドイツデトモルトの生まれだが、父親は第二次世界大戦で戦死し、7歳の時にハンプシャーに移り住む。エディ・コクランに影響を受け、1950年代には、ファルコンズというスキッフルのバンドを結成している。

ファルコンズはジョー・ミークのオーディションを受けたが、ハインツに強い魅力を受けたミークは、ハインツのみ合格させた。そしてハインツは、トルネイドースのベーシストとして、本格的なミュージシャンの道を進み始める。

同性愛者の兆候も見られたミークは、半ば強制的にハインツをソロ歌手として売り出す。1963年トルネイドースを辞めさせられたハインツは、「ドリームズ・ドゥ・カム・トゥルー」でシングル・デビューする。

ジャスト・ライク・エディの成功

1960年に交通事故でこの世を去ったエディ・コクランに追悼の意を表した2枚目の「ジャスト・ライク・エディ」がチャートの5位を記録し、ハインツの代表曲となった。ミークが、ハインツをエディ・コクランの様なロック歌手にプロデュースしようという企みとハインツがコクランから受けた影響が、この曲には表されている。

1964年、コクランの曲のカバーが大半を占めたハインツ唯一のアルバム、『トリビュート・トゥ・エディ』をリリース。「ジャスト・ライク・エディ」成功後も「カントリー・ボーイ」や「ユー・ワー・ゼア」をシングル・リリースするも、最高位5位を超える事もなく、デッカ・レコードを辞め、コロムビア・レコードに移籍。

コロムビア・レコードでは、デッカ・レコード時代よりはロック色の強いシングルを発表する。「クエスチョンズ・アイ・キャント・アンサー」や「ディギング・マイ・ポテトズ」等5枚のシングルを発表する。しかし、「ジャスト・ライク・エディ」を超えるヒットには結び付かなかった。

ハインツがコロムビアで活動していた頃、同じくミークが手掛けていたバンド、ザ・ハニーカムズも「ハヴ・アイ・ザ・ライト」の大ヒットを成功させたが、テルスターに代表されるスペーシーで時代を超えたジョー・ミーク・サウンドに、聴衆がついて行けなくなってきていた。そして公私共にミークが常にハインツに付き回っているため、ハインツにとっても負担となり、両者の関係が悪化していく。更にハインツのガールフレンドの存在が世間に知られ、ミークとの関係に決定的な溝を作る引き金ともなった。

引退

1967年2月3日、奇しくも1959年に飛行機事故で急逝した希代のロックンローラー、バディ・ホリーの命日に、アパートの大家を猟銃で殺害した後、ミークも猟銃自殺で死亡する。

ミークが殺害及び自殺に使用した猟銃は、ハインツが登録所持していたものだった。実際ハインツはその殺害現場には居合わせていなかったが、猟銃の登録所持が原因で、殺害容疑がかけられる。結果は無実であったが、この事件がきっかけで音楽界から引退する。

その後は、パントマイムで生計を立てる。1970年代のロックンロール・リバイバルにも参加する。トルネイドースの大ヒット作、「テルスター」の再録音にも参加する。

しかし晩年に運動ニューロン病を患い、車椅子で生活しなければいけない状況になった。生前最後のライヴでは、車椅子に乗った状態で3曲を歌い上げた[1]。2000年4月7日、脳梗塞のためこの世を去る。57歳だった。

ディスコグラフィー

シングル・ディスコグラフィー

発売年 レーベル A面 B面 全英シングルチャート

[2]

1963年 デッカ・レコード Dreams Do Come True Been Invited To A Party -
1963年 デッカ・レコード Just Like Eddie Don't You Knock At My Door 5位
1963年 デッカ・レコード Country Boy Long Tall Jack 26位
1964年 デッカ・レコード You Were There No Matter What They Say 26位
1964年 デッカ・レコード Please Little Girl For Loving Me This Way -
1964年 コロムビア・レコード Questions I Can't Answer The Beating Of My Heart 39位
1965年 コロムビア・レコード Diggin' My Potatoes She Ain't Comin' Back 49位
1965年 コロムビア・レコード End Of The World You Make Me Feel So Good -
1965年 コロムビア・レコード Heart Full Of Sorrow Don't Worry Baby -
1965年 コロムビア・レコード Don't Think Twice, It's All Right Big Fat Spider -
1966年 コロムビア・レコード Movin' In I'm Not A Bad Guy -

アルバム・ディスコグラフィー

脚注

関連項目