「シーナ (歌手)」の版間の差分
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2016年10月17日 (月) 14:03時点における版
シーナ | |
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生誕 | 1953年11月23日 |
出身地 | 日本 福岡県北九州市若松区 |
死没 | 2015年2月14日(61歳没) |
ジャンル | ロック |
職業 | 歌手 |
担当楽器 |
ボーカル タンバリン |
活動期間 | 1978年 - 2015年 |
共同作業者 | シーナ&ザ・ロケッツ |
公式サイト | SHEENA & THE ROKKETS' OFFICIAL WEB SITE a.k.a. RokketWEB |
シーナ(SHEENA、1953年11月23日 - 2015年2月14日[1])は、日本の歌手。本名、鮎川 悦子(あゆかわ えつこ)旧姓、副田。夫でギタリストの鮎川誠と共に結成したロックバンド、シーナ&ザ・ロケッツにてボーカルを担当した。
概略
1978年にシーナ&ザ・ロケッツのヴォーカリストとしてデビュー。日本で最初にメジャーシーンに出てきた女性ロック・ヴォーカリストの第一人者。1978年の初ステージから晩年に至るまで一切のブランクなく活動した。「シーナ」という名は、夫・鮎川の祖母の名前が「鮎川シナ」であったことと、2人が好きなバンド・ラモーンズの「シーナはパンクロッカー」という曲が由来[2]。代表曲はデビューシングルの「涙のハイウェイ」をはじめ「ユー・メイ・ドリーム」「レモンティー」「ピンナップ・ベイビー・ブルース」「スイート・インスピレーション」、阿久悠作詞「ロックの好きなベイビー抱いて」など、2014年の『ROKKET RIDE』まで18枚のアルバムをはじめ、フランス盤をふくむ数多くのベスト盤を発表した。
デビュー当時から音楽分野のみならず、舞台芸術、現代アート、文芸メディアなど様々な芸術分野に影響を与え、テレビや広告媒体をはじめ各種メディアへの登場も数多い。トヨタ自動車、森永製菓、三菱電機、ヤクルト、レノマ、ユニクロなど数々のCMにも出演した。また、鮎川とのニューオリンズ、ミシシッピ旅行で、自らのカメラで撮影した夫やブルースマン・綿畑など魅力的な写真の数々を発表する個展をホームタウンである下北沢にて行った。
30年以上に渡る過酷なライブ・ツアーから喉を酷使したことにより、ポリープが声帯全部に広がり、ゼリー状に腫れ上がってしまうという喉の大病を患っていたが、2009年ライブ直後に呼吸困難となって、窒息死寸前という状態に陥り緊急手術を行った。名医と出会ったことで奇跡的に喉の大病を克服したエピソードを自身の著書『YOU MAY DREAM』の中で告白。鮎川と共に爆音の中ステージで歌える喜びを綴った。
人物
シーナは愛犬家であり、大のブラックコーヒー好き(夫の鮎川とともに)としても知られている。血液型はO型。
家族
夫である鮎川と結婚後3人の娘を産み育て、長女はモデルの鮎川陽子、次女はロックバンドDARKSIDE MIRRORSの鮎川純子で、陽子と純子は双子。三女に鮎川知慧子がいる。
経歴
シーナは1953年、福岡県若松市(現北九州市若松区)に生まれた。シーナの父はアメリカ軍基地のハウスボーイを経てダンスホールマネージャーになった後、洋装店を継いだ。シーナはそのひとり娘である。子供の頃から父の経営するダンスホールで様々なダンスを踊っていたという。幼い頃は虚弱児だったが、その後は体を鍛え、中学2年生の時に陸上部でNHK放送陸上の九州大会に出場、ハードル部門で予選1位通過するまでになる[3]。また、シーナの小学校の卒業アルバムの寄せ書きには「私は歌手になって世界中を回りたい」と書いていた。シーナは中学3年生の時に一人で福岡から東京まで行き2泊3日した最初の家出を皮切りに、中学 - 高校時代は自由と様々な音楽を求め家出を繰り返す「夢見る家出少女」だったという。
1971年、高校3年生の夏休みに家出して京都へ行った帰りに寄った博多のダンスホール“ヤング・キラー"にてロックバンドサンハウスで演奏する鮎川と出会い、ステージ終了後に意気投合、そのまますぐに同棲生活を始めた。4年ほどの同棲を経て妊娠を機に鮎川と結婚する。1978年にサンハウス解散後の鮎川と共に福岡から上京した。
上京後、シーナは鮎川の曲を女性シンガーが歌うというのでスタジオについて行ったところ、その女性シンガーから突然「この曲はアップテンポで大変だから、あなたの方が向いていると思う」と言われ、そこでチャック・ベリーの「カム・オン」を歌う事となる。それ以前にはシンガーとしての活動を行なった事はなかったが、幼い頃から「一枚でいいから自分で歌ったレコードを作りたい」という夢があったシーナは、それを歌い上げた後に「私、歌いたいの」と初めて鮎川に告白。それを受けた鮎川が「シーナがヴォーカルをとるバンドを作ろう!」と決意し、ヴォーカリスト・シーナの誕生及びシーナ&ザ・ロケッツの結成に至った。
1978年10月25日、シーナ&ザ・ロケッツのシンガーとして『涙のハイウェイ』でデビュー。ニュー・ウェーヴ、パンク旋風にあって、サウンド面、ビジュアル面での60'Sポップスからの大胆な引用、『真空パック』というタイトル命名に代表されるバンドの方向性づけにより、バンドをブレイクに導いた。ミニスカートにハイヒール、ワイルド・ヘアと網タイツなど、現在ではポピュラーな女性ロックファッションも、「ガールズロック」というレールを敷いたシーナの発明の数々であった。
1980年には渡米してロサンゼルスの大手、A&Mレコードから英語版を全世界に向けて発表、1982年には細野晴臣をはじめとするYMOチームのバックアップによるテクノ + ガールズ・ポップのソロアルバム『いつだってビューティフル』を発表する。 また、「ベイビー・メイビー」、「ハッピー・ハウス」、「キッチン・パニック」などキャッチーな言葉のセンスと飾らない自身の気質を活かした作詞でも定評を得た。
2004年、北九州若松の野外音楽堂を使用した初のロック・フェスティバル「高塔山ロックフェス」を発案、以降シーナ&ザ・ロケッツとして11年間参加。2009年に北九州市の観光大使に任命される。同年、ロックでハッピーに生きる術を語った 『YOU MAY DREAM〜ロックで輝きつづけるシーナの流儀〜』を上梓。2010年には、テレビ西日本のテレビドラマ 『ハートブレイク屋台』で女優に初挑戦した。また、出演者全員GIRL!にこだわったイベント「BAD GIRL ROCK」を発起した。
2015年2月14日、子宮頸癌のため東京都内の病院で死去した[1]。61歳没。通夜は2月18日、告別式は2月19日に東京・下北沢の葬祭場で営まれた。シーナの通夜には以前からシーナとはアマチュア時代から親交があった海援隊(武田鉄矢・中牟田俊男・千葉和臣)や内田裕也、石橋凌らが参列し、故人であるシーナの冥福を祈った。
著書
- 『YOU MAY DREAM ロックで輝きつづけるシーナの流儀』(2009年12月、じゃこめてい出版) ISBN 9784880434148