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「ガヴリロ・プリンツィプ」の版間の差分

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'''ガヴリロ・プリンツィプ'''({{lang-sr|Гаврило Принцип / Gavrilo Princip}}、 [[1894年]][[7月25日]] - [[1918年]][[4月28日]])は、「{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}} ({{lang|bos|Mlada Bosna}}, ムラダ・ボスナ)」の[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}民族主義者のテロリストで、[[1914年]][[6月28日]]、[[サラエヴォ]]で[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]を暗殺する[[サラエボ事件]]を起こした。
'''ガヴリロ・プリンツィプ'''({{lang-sr|Гаврило Принцип / Gavrilo Princip}}、 [[1894年]][[7月25日]] - [[1918年]][[4月28日]])は、[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}民族主義者で、[[1914年]][[6月28日]]、[[サラエヴォ]]で[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]を暗殺する[[サラエボ事件]]を起こした。「{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}} ({{lang|bos|Mlada Bosna}}, ムラダ・ボスナ)」の活動家


== 来歴 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[File:Gavrilo Princip's parents.jpg|thumb|left|240px|父ペータルと母マリア]]
[[File:Gavrilo Princip's parents.jpg|thumb|left|240px|父ペータルと母マリア]]
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[[1911年]]、プリンツィプはセルビアの分離独立を目指す革命組織「{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}」に参加{{sfn|Roider|2005|p=936}}し、メンバーたちと秘密裏に会合を重ね、文学・倫理・政治について語り合った{{sfn|Schlesser|2005|p=96}}。[[1912年]]には反[[オーストリア=ハンガリー帝国]]デモを主催したためギムナジウムから退学処分を受けた{{sfn|Kidner|Bucur|Mathisen|McKee|2013|p=756}}。デモを目撃した学生の証言によると、プリンツィプは教室を回り学生たちを[[ナックルダスター]]で脅して強制的にデモに参加させていたという{{sfn|Malcolm|1994|p=154}}。退学後、プリンツィプはサラエボを離れ[[ベオグラード]]に徒歩で向かった。記録によると、プリンツィプはセルビア国境を越えた際に跪いて地面にキスしたという。
[[1911年]]、プリンツィプはセルビアの分離独立を目指す革命組織「{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}」に参加{{sfn|Roider|2005|p=936}}し、メンバーたちと秘密裏に会合を重ね、文学・倫理・政治について語り合った{{sfn|Schlesser|2005|p=96}}。[[1912年]]には反[[オーストリア=ハンガリー帝国]]デモを主催したためギムナジウムから退学処分を受けた{{sfn|Kidner|Bucur|Mathisen|McKee|2013|p=756}}。デモを目撃した学生の証言によると、プリンツィプは教室を回り学生たちを[[ナックルダスター]]で脅して強制的にデモに参加させていたという{{sfn|Malcolm|1994|p=154}}。退学後、プリンツィプはサラエボを離れ[[ベオグラード]]に徒歩で向かった。記録によると、プリンツィプはセルビア国境を越えた際に跪いて地面にキスしたという。


ベオグラードに到着したプリンツィプは、[[黒手組]]のメンバーの{{仮リンク|ヴォジスラフ・タンコシッチ|en|Vojislav Tankosić}}少佐にオスマン帝国へのゲリラ運動に参加したいと志願したが、身長が基準に達していないとして拒否された{{sfn|Schlesser|2005|p=97}}。プリンツィプは失意のままサラエボに戻り、弟の家で数カ月間過ごした。その後、プリンツィプは反オスマン組織{{仮リンク|セルビア革命組織|en|Serbian Chetnik Organization}}メンバーの{{仮リンク|ツィカ・ラファエロヴィチ|en|Žika Rafajlović}}と接触し、青年セルビアのメンバー15人と共に[[ヴラニェ]]の訓練所に派遣される。プリンツィプは訓練所で暗殺や爆弾製造の訓練を受けた後、ベオグラードに戻った<ref name=blic>{{cite news|last=Irić|first=Radoman|title=Ovde je Gavrilo Princip učio da puca|url=http://www.blic.rs/Vesti/Reportaza/408974/Ovde-je-Gavrilo-Princip-ucio-da-puca|accessdate=2 October 2013|newspaper=[[Blic]]|date=2 October 2013|location=Belgrade|page=21|language=Serbian}}</ref>。
ベオグラードに到着したプリンツィプは、[[黒手組]]のメンバーの{{仮リンク|ヴォジスラフ・タンコシッチ|en|Vojislav Tankosić}}少佐にオスマン帝国へのゲリラ運動に参加したいと志願したが、身長が基準に達していないとして拒否された{{sfn|Schlesser|2005|p=97}}。プリンツィプは失意のままサラエボに戻り、弟の家で数カ月間過ごした。その後、プリンツィプは反オスマン組織{{仮リンク|セルビア革命組織|en|Serbian Chetnik Organization}}メンバーの{{仮リンク|ツィカ・ラファエロヴィチ|en|Žika Rafajlović}}と接触し、青年セルビアのメンバー15人と共に[[ヴラニェ]]の訓練所に派遣される。プリンツィプは訓練所で暗殺や爆弾製造の訓練を受けた後、ベオグラードに戻った<ref name=blic>{{cite news|last=Irić|first=Radoman|title=Ovde je Gavrilo Princip učio da puca|url=http://www.blic.rs/Vesti/Reportaza/408974/Ovde-je-Gavrilo-Princip-ucio-da-puca|accessdate=2 October 2013|newspaper=[[ブリツ]]|date=2 October 2013|location=Belgrade|page=21|language=Serbian}}</ref>。


== サラエボ事件 ==
=== サラエボ事件 ===
{{multiple image
=== 背景 ===
| align = right
| image1 = DC-1914-27-d-Sarajevo-cropped.jpg
| width1 = 200
| caption1 = サラエボ事件を描いた新聞の挿絵
| image2 = Franz Ferdinand's Jacket in Blood.jpg
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| caption2 = フランツ・フェルディナントの血染めの軍服
}}
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは[[正教会|セルビア正教]]のセルビア人、ムスリムの[[ボシュニャク人]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[クロアチア人]]住居地域が入り混じり、もともと[[オスマン帝国]]領であったが、[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]の決定に基づくオーストリア=ハンガリー帝国の占領の後、[[1908年]]には正式に併合される。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは[[正教会|セルビア正教]]のセルビア人、ムスリムの[[ボシュニャク人]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[クロアチア人]]住居地域が入り混じり、もともと[[オスマン帝国]]領であったが、[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]の決定に基づくオーストリア=ハンガリー帝国の占領の後、[[1908年]]には正式に併合される。


当時、[[バルカン]]では[[ロシア帝国]]を後ろ盾とする汎スラヴ主義とオーストリア帝国・[[ドイツ帝国]]の支援を受ける汎ゲルマン主義が対立し、ゲルマン民族であるオーストリアの占領下にありながら人口の大半がスラヴ系であるボスニアでは、すでにオスマン帝国から独立していた同じスラヴ系の[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]への併合を求める[[大セルビア]]主義が台頭していた。
当時、[[バルカン]]では[[ロシア帝国]]を後ろ盾とする汎スラヴ主義とオーストリア帝国・[[ドイツ帝国]]の支援を受ける汎ゲルマン主義が対立し、ゲルマン民族であるオーストリアの占領下にありながら人口の大半がスラヴ系であるボスニアでは、すでにオスマン帝国から独立していた同じスラヴ系の[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]への併合を求める[[大セルビア]]主義が台頭していた。
[[File:Ochrana-Kaffeehaus in Belgrad.jpg|thumb|240px|プリンツィプが立ち寄ったカフェ]]
[[File:Čabrinović, Ilić, Princip.jpg|thumb|240px|逮捕直後のプリンツィプ]]


[[サラエヴォ]]は{{仮リンク|共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|en|Austro-Hungarian rule in Bosnia and Herzegovina}}の首府であり、オーストリア帝国から派遣された総督が駐在していた。[[1914年]]6月に同地で[[軍事演習]]が行われることになり、[[オーストリア皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世]]の後継者で[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]が妃[[ゾフィー・ホテク]]([[チェコ]]貴族出身)とともに視察のためサラエヴォを訪問した。
=== サラエヴォ ===
[[File:Gavrilo Princip steps and plaque.jpg|thumb|180px|ガヴリロ・プリンツィプの足形(サラエヴォ市内)]]
[[サラエヴォ]]はボスニア・ヘルツェゴヴィナの首府であり、オーストリア帝国から派遣された総督が駐在していた。[[1914年]]6月この町で[[軍事演習]]が行われることになり、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の後継者であるフランツ・フェルディナント大公が妃[[ゾフィー・ホテク|ゾフィー]]([[チェコ]]貴族出身)とともに視察のためサラエヴォを訪問した。


大セルビア主義を掲げてセルビア軍将校[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]により組織された黒手組(ツルナ・ルーカ)は大公の暗殺を計画し、プリンツィプもこの暗殺団に加わった。
大セルビア主義を掲げてセルビア軍将校[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]により組織された黒手組(ツルナ・ルーカ)はフランツ・フェルディナントの暗殺を計画し、プリンツィプも計画に加わった。黒手組は1911年にフランツ・ヨーゼフ1世の暗殺を計画したが、失敗している<ref name=SJ>{{cite book|last=Stokesbury|first=James|title=A Short History of World War I|year=1981|publisher=HarperCollins|location=New York|pages=60–67}}</ref>


1914年6月28日午前10時、フランツ・フェルディナント夫妻を乗せた列車がサラエヴォに到着した<ref>{{cite web|last1=Burns|first1=Tracy|title='June 28, 1914: The first attempt'|url=https://www.private-prague-guide.com/article/archduke-franz-ferdinand-of-austria-and-his-assassination-june-28-1914/|website=www.private-prague-guide.com/|quote="On June 28, 1914 Archduke Franz Ferdinand ‘Este and his wife Duchess of Hohenberg arrived in Sarajevo by train shortly before 10 am"|accessdate=27 January 2015}}</ref>。フランツ・フェルディナント夫妻はセルビア駅から自動車に乗り込みサラエヴォに向かった。6台の車列の先頭にはサラエヴォ市長{{仮リンク|フェヒム・チュルツィヒ|en|Fehim Čurčić}}と警察長官エドムント・ゲラーデが乗り込み、夫妻は2列目の車にボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督{{仮リンク|オスカル・ポティオレク|en|Oskar Potiorek}}とフランツ・フォン・ハラッハ中佐と共に乗り込んでいた<ref name=Donnelley33>{{cite book|last1=Donnelley|first1=Paul|title=Assassination!|date=2012|isbn=9781908963031|pages=33|accessdate=27 January 2015}}</ref>。また、市民と触れ合うために車の屋根は折り畳まれていた<ref name=Donnelley33/>。
=== 暗殺 ===
[[6月28日]]、爆弾や拳銃をかかえた黒手組のセルビア人暗殺者達は大公一行が通過する道筋で待ち伏せていたが、暗殺計画が立てられている事を知らなかった大公一行は無防備のままサラエヴォの街中に入り、盟約団の1人が投げた爆弾の洗礼を受けたが、幸いにも爆弾は大公の車を外れ、周囲にいた人たちを傷つけただけで、他の5人の暗殺者達も待ち伏せていた場所に大公の車が来なかったために暗殺を決行できなかった。しかし、爆弾事件で警備を厳重にすべきだったのに、大公達の乗った車列は無防備状態のまま爆弾事件の負傷者を見舞うために病院へ向かい、途中で道を間違えて車をUターンさせた。ちょうどこの時、すでに暗殺を諦めてサンドウィッチを買おうとしていたプリンツィプに、Uターンした車に大公が乗っている事を知られてしまった。直ちに車に駆け寄った彼はオープンカーに乗っていた大公の妃ゾフィーの腹部に銃弾を命中させ、次いで大公フランツ・フェルディナントの首にも銃弾を撃ち込んだ。瀕死の夫妻を乗せたオープンカーは総督府官邸に駆け込んだが、夫妻は官邸で息を引き取った。


黒手組のメンバー7人はそれぞれ間隔をあけて街道に待機し、車列が目の前を通過する際に襲撃する算段となっていた。{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}が最初に車列と接触するが、彼は行動を起こさずに静観した(後年「背後に警官が立っていたので行動できなかった」と述べている)<ref name=SJ/>。10時15分、中央警察署の前で待機していた{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}がフランツ・フェルディナント夫妻の乗った車に爆弾を投げ付けたが、爆発まで10秒のタイムラグが生じ、4台目の車が通過した際に爆発し、4台目の車に乗っていたエリック・フォン・メリッツィとアレクサンデル・フォン・ボース=ヴァルデック伯爵と市民12人が負傷した{{sfn|Dedijer|1966|loc=ch. XIV, footnote 21}}。チャブリノヴィッチは服毒して川に飛び込んだが、毒は不良品で効果がなく、川も水深10センチメートルしかなかったため、すぐに引きずり出され逮捕された<ref>Malmberg, Ilkka: ''Tästä alkaa maailmansota''. "This is the beginning of World War I" 『''[[ヘルシンギン・サノマット]]''』, monthly supplement, June 2014, pp. 60-65.</ref>。爆発音を聞いた車列はスピードを上げて総督官邸に逃げ込み、プリンツィプら残り5人のメンバーは混乱する大勢の群衆に阻まれ暗殺を決行できなかった。
== プリンツィプのその後 ==
[[File:Proces w Sarajewie s.jpg|right|240px|thumb|1914年12月5日。プリンツィプは一番前の中央に着座している]]
プリンツィプは暗殺成功後、直ちに[[青酸]]を飲んで自殺を図ったが、苦痛に耐えきれず吐き出してしまった。さらに銃で自殺しようとしたが、取り押さえられたため果たせなかった。犯行当時20歳に達していなかったガヴリロは裁判で[[未成年者]]として死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。


総督官邸に逃げ込んだフランツ・フェルディナントは、爆弾で負傷した市民を見舞うため病院に向かった。ポティオレクは市内中心部を避け迂回するルートを選んだが、運転手の{{仮リンク|レオポルト・ローチャ|en|Leopold Lojka}}にルートの変更を伝えるのを忘れてしまった。そのため、ローチャは道を間違えてフランツ・ヨーゼフ通りに入ってしまい、カフェで食事をしていたプリンツィプと遭遇した。車は方向転換を行うが、プリンツィプは[[FN ブローニングM1910]]を取り出し車に近付き、1.5メートルの距離から発砲した<ref>{{cite book|last=Belfield|first=Richard|title=A Brief History of Hitmen and Assassinations|year=2011|publisher=Constable & Robinson, Ltd.|page=241}}</ref>。プリンツィプは1発目をゾフィーの腹部に、2発目をフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、車は総督官邸に逃げ込んだが、夫妻は午前11時前に死亡した。
しかし、第一次世界大戦末期の劣悪な刑務所環境のため持病の[[結核]]が悪化、1918年4月28日テレージエンシュタット要塞刑務所(現在のチェコ共和国[[テレジーン]])で死亡した。敗戦によりオーストリア帝国が降伏する数ヶ月前であった。プリンツィプは獄中で結核性脊椎症の悪化のために右腕を切断されており、死亡時の体重は40kgしかなかった。


=== 死去 ===
黒手組の指導者ディミトリエビッチは戦争を引き起こした張本人としてセルビア亡命政府の手により銃殺された。[[豊田穣]]の著書によると「彼が立っていた位置には、彼の靴の跡が刻まれ、その近くの建物の壁には彼の顔のレリーフが彫ってあり、その建物の中には、プリンシポフ記念館がある」<ref name="pkasne">{{Cite book|和書|author = [[豊田穣]]|year = 1993|title = 豊田穣文学・戦記全集|publisher = 光人社|volume = 14巻|chapter = 初代総理 伊藤博文|isbn = 4769805241}}</ref>と書かれているが、現在は記念碑だけがある。なお、この記念館のプレートは、[[第二次世界大戦]]中に奪われて[[アドルフ・ヒトラー]]の誕生記念日の贈り物とされた<ref>{{cite web| url=http://www.freedomfight.net/adolf-hitlers-birthday-gift-memorial-to-gavrilo-princip/ | author=Vladimir Bogićević | title=Adolf Hitler’s Birthday Gift – Memorial to Gavrilo Princip | publisher=FreedomFight.net | date=2013-11-02 | accessdate=2014-03-02}}</ref>。この簒奪は、ヒトラーにとっては、第一次世界大戦の敗北とドイツ帝国主義へのセルビア人の抵抗への報復の意味合いがあったという<ref>当時占領下のセルビアではドイツ兵1名の損害につき100名のセルビア人市民を殺害するようにと指令がだされていた。</ref>。
[[File:Proces w Sarajewie s.jpg|right|220px|thumb|1914年12月5日の黒手組の裁判(最前列中央がプリンツィプ)]]
暗殺に成功したプリンツィプは[[青酸]]を飲んで自殺を図るが、チャブリノヴィッチのものと同様に不良品だったため効果がなく拳銃自殺を試みようとするが、発砲前に群衆に取り押さえられた。プリンツィプは裁判にかけられハプスブルク家の法に基づき死刑を求刑されるが、犯行時20歳に達していなかったため死刑を免れ懲役20年の刑を宣告された<ref name="telegraph">{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/history/world-war-one/inside-first-world-war/part-one/10273752/gavrilo-princip.html |title=The man who started the First World War |publisher=Daily Telegraph |accessdate=7 November 2013}}</ref>。プリンツィプはテレージエンシュタット要塞刑務所(現在のチェコ共和国[[テレジーン]])に収監されるが、[[第一次世界大戦]]末期の劣悪な刑務所環境のため持病の[[結核]]が悪化し<ref name="johnson">{{cite book| title = Introducing Austria: A short history| first = Lonnie | last = Johnson| year = 1989| isbn = 0-929497-03-1| pages = 52–54}}</ref>、サラエボ事件から3年10か月後の1918年4月28日に獄中で病死した。プリンツィプは獄中で結核性脊椎症の悪化のために右腕を切断しており、また、栄養失調も重なり死亡時には体重が40キログラムしかなかった<ref name="telegraph"/>。


死後、遺体は民族主義者の聖地になることを避けるためサンメルコ墓地に秘密裏に埋葬された。しかし、埋葬に立ち会ったチェコ人兵士によって1920年に「セルビア人の永遠の英雄」と書かれた記念碑が墓地に立てられている。
なお、プリンツィプが暗殺に使用した[[FN ブローニングM1900|ブローニングM1900半自動ピストル]]と皇太子夫妻が乗っていた車両は、現在[[ウィーン軍事博物館]]に展示されている。フランツ・フェルディナント大公の首に命中した銃弾はチェコの博物館に保管されている。生家はしばらく現存していたが[[ユーゴ紛争]]で破壊された。


== 遺物・記念碑 ==
セルビアに於いては民族主義がしばしば台頭するが、事件での両名の行動の結果が[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の滅亡につながったため、必ずしも肯定的な評価とはなっていない。プリンツィプの評価は賛否が分かれる。ボスニア・ヘルツェゴビナでも、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。2014年6月27日に行われたプリンツィプの銅像の除幕式では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった<ref>{{Cite news |title=テロリストか英雄か サラエボ事件100年で暗殺者の銅像 |newspaper=CNN co jp |date=2014-06-30 |author= |url=http://www.cnn.co.jp/world/35050136.html |accessdate=2014-07-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=「サラエボ事件」あす100年 セルビア、オーストリア 歴史認識で対立 |newspaper=東京新聞 |date=2014-06-27 |author= |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014062702000126.html |accessdate=2014-07-14}}</ref>。
[[File:Gavrilo Princip steps and plaque.jpg|thumb|180px|ガヴリロ・プリンツィプの足形(サラエヴォ市内)]]
プリンツィプが使用した拳銃は押収され、フランツ・フェルディナントの血染めの軍服とともに大公の友人アントン・プンティガム司教に引き渡された。拳銃と軍服は長い間教会に保管されていたが、2004年にフランツ・フェルディナント夫妻が乗っていた車とともに[[ウィーン軍事史博物館]]に貸与され、常設展示されている<ref>{{cite news|last=Connolly |first=Kate |url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/austria/1465206/Found-the-gun-that-shook-the-world.html |title=Found: the gun that shook the world|newspaper=Daily Telegraph |date=22 June 2004 |accessdate=17 September 2010}}</ref>。また、フランツ・フェルディナントの首に命中した銃弾はチェコの博物館に保管されている。


生家は第一次世界大戦中に破壊されたが、戦後に[[ユーゴスラビア王国]]が再建して博物館として開放された。しかし、1941年にユーゴスラビア王国は[[ナチス・ドイツ]]に占領され、生家はサラエヴォが[[クロアチア独立国]]の一部となった際に再び破壊された。その後、1944年に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]によって博物館として再建され、これとは別にサラエヴォ市内にもプリンツィプを記念した博物館が建てられた。しかし、1990年代の[[ユーゴスラビア紛争]]の際に再び破壊され、以後は再建されていない。
== 参考文献 ==
* {{cite book
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| first = Tony
| year = 2010
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| publisher = University of Alberta
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| year = 2013
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| authorlink = Noel Malcolm
| year = 1994
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* {{cite book
| last = Roider
| first = Karl
| editor1-last = Tucker
| editor1-first = Spencer C.
| editor2-last = Roberts
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| year = 2005
| title = The Encyclopedia of World War I : A Political, Social, and Military History
| chapter = Princip, Gavrilo (1894–1918)
| publisher = ABC-CLIO
| location = [[Santa Barbara, California]]
| isbn = 978-1-85109-420-2
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* {{cite book
| last = Schlesser
| first = Steven
| year = 2005
| title = The Soldier, the Builder & the Diplomat
| publisher = Cune Press
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| isbn = 978-1-88594-207-4
| url = https://books.google.com/books?id=fB0qWH64ZhsC
| ref = harv
}}


[[豊田穣]]の著書によると「彼が立っていた位置には、彼の靴の跡が刻まれ、その近くの建物の壁には彼の顔のレリーフが彫ってあり、その建物の中には、プリンシポフ記念館がある」<ref name="pkasne">{{Cite book|和書|author = [[豊田穣]]|year = 1993|title = 豊田穣文学・戦記全集|publisher = 光人社|volume = 14巻|chapter = 初代総理 伊藤博文|isbn = 4769805241}}</ref>と書かれているが、靴の跡は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]の際に破壊され、現在は記念碑だけがある。なお、この記念館のプレートは[[第二次世界大戦]]中に奪われて[[アドルフ・ヒトラー]]の誕生記念日の贈り物とされた<ref>{{cite web| url=http://www.freedomfight.net/adolf-hitlers-birthday-gift-memorial-to-gavrilo-princip/ | author=Vladimir Bogićević | title=Adolf Hitler’s Birthday Gift – Memorial to Gavrilo Princip | publisher=FreedomFight.net | date=2013-11-02 | accessdate=2014-03-02}}</ref>。この簒奪は、ヒトラーにとっては、第一次世界大戦の敗北とドイツ帝国主義へのセルビア人の抵抗への報復の意味合いがあったという<ref group=注>当時占領下のセルビアではドイツ兵1名の損害につき100名のセルビア人市民を殺害するように指令が出されていた。</ref>。
== 脚注・出典 ==

== 後世の評価 ==
[[File:Bookstore Display for Gavrilo Princip - Assassin of Archduke Ferdinand (1914) - Belgrade - Serbia (15194901854).jpg|thumb|220px|left|プリンツィプ関連の書籍が並ぶベオグラードの書店]]
セルビアに於いては民族主義がしばしば台頭するが、事件の結果が[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の滅亡につながったため、必ずしも肯定的な評価とはなっておらず、プリンツィプの評価は賛否が分かれる。ボスニア・ヘルツェゴビナでも、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。

2014年4月21日に[[エミール・クストリッツァ]]と{{仮リンク|マティヤ・ベチコヴィッチ|en|Matija Bećković}}がプリンツィプの銅像を建てることを発表した<ref>{{cite news|title=''DA SE NE ZABORAVI: Meštani Tovariševa sami podigli spomenik Principu!''|trans-title=NOT FORGETTING: villagers themselves erected a monument to Princip! |newspaper=Telegraf |url=http://www.telegraf.rs/vesti/1039860-se-ne-zaboravi-mestani-tovariseva-sami-podigli-spomenik-principu}}</ref>。サラエボ事件から100周年を迎える6月27日に除幕式が行われ、会場では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった<ref>{{Cite news |title=テロリストか英雄か サラエボ事件100年で暗殺者の銅像 |newspaper=CNN co jp |date=2014-06-30 |author= |url=http://www.cnn.co.jp/world/35050136.html |accessdate=2014-07-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=「サラエボ事件」あす100年 セルビア、オーストリア 歴史認識で対立 |newspaper=東京新聞 |date=2014-06-27 |author= |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014062702000126.html |accessdate=2014-07-14}}</ref>。

2015年6月28日には[[ベオグラード]]にプリンツィプの像が建てられた。この像は[[スルプスカ共和国]]大統領{{仮リンク|ミロラド・ドディク|en|Milorad Dodik}}からセルビア大統領[[トミスラヴ・ニコリッチ]]に贈呈されたものだった<ref name=B92-1009490>{{cite news|title=''Ne dozvoljavam vređanje poklanih Srba'' |trans-title=I do not allow insults to slaughtered Serbs|newspaper=B92|date=2015-06-28|url=http://www.b92.net/info/vesti/index.php?yyyy=2015&mm=06&dd=28&nav_category=11&nav_id=1009490}}</ref>。ニコリッチは像を贈呈された際に「プリンツィプは英雄であり、ヨーロッパにまたがる暴君・殺人者による奴隷支配からの解放の象徴である」と声明を発表している<ref name=B92-1009490/>。

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{cite book|last=Fabijančić|first=Tony|year=2010|title= Bosnia: In the Footsteps of Gavrilo Princip|publisher=University of Alberta|location=Edmonton|isbn=9780888645197|ref=harv}}
* {{cite book|last=Fromkin|first=David|year=2007|title=Europe's Last Summer: Who Started the Great War in 1914?|publisher= Random House|location=New York|isbn=9780307425782|ref= harv}}
*{{cite book|last1=Kidner|first1=Frank|last2=Bucur|first2=Maria|last3=Mathisen|first3=Ralph|last4=McKee|first4=Sally|last5=Weeks|first5=Theodore|year=2013|title=Making Europe:The Story of the West Since 1550|volume=2|edition=2|publisher=Wadsworth Cengage|location=[[Boston]]|isbn=9781111841348|ref=harv}}
*{{cite book|last=Malcolm|first=Noel|year=1994|title=Bosnia:A Short History
|publisher=New York University Press|location=New York|isbn=9780814755204|ref=harv}}
*{{cite book|last=Roider|first=Karl|editor1-last=Tucker|editor1-first=Spencer C.|editor2-last=Roberts|editor2-first=PriscillaMary|year=2005|title=The Encyclopedia of World War I:A Political, Social, and Military History|chapter=Princip, Gavrilo (1894–1918)|publisher=ABC-CLIO|location=Santa Barbara, California|isbn=9781851094202|ref=harv}}
*{{citebook|last=Schlesser|first=Steven|year=2005|title=The Soldier, the Builder & the Diplomat|publisher=Cune Press|location=Seattle|isbn=9781885942074|ref=harv}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Gavrilo Princip}}
*[[第一次世界大戦]]
*[[黒手組]]
*[[サラエボ事件]]
*[[サラエボ事件]]
*[[黒手組]]
*[[大セルビア]]
*[[大セルビア]]


== 外部リンク ==
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* [http://ww1.m78.com/honbun/sarajevo%20assassination.html サラエボ事件]
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2016年10月25日 (火) 09:02時点における版

ガヴリロ・プリンツィプ

Gavrilo Princip
テレジーンの刑務所独房でのプリンツィプ
生誕 1894年7月25日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ オブリャイ
死没 (1918-04-28) 1918年4月28日(23歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ テレジーン
民族 ボスニア系セルビア人ボスニア語版
団体 青年ボスニア英語版
黒手組
影響を受けたもの ボグダーン・ツェラジッチ英語版
大セルビア主義
罪名 殺人罪
刑罰 懲役20年
署名
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ガヴリロ・プリンツィプセルビア語: Гаврило Принцип / Gavrilo Princip1894年7月25日 - 1918年4月28日)は、ボスニア出身のボスニア系セルビア人ボスニア語版の民族主義者で、1914年6月28日サラエヴォオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するサラエボ事件を起こした。「青年ボスニア英語版 (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」の活動家。

生涯

生い立ち

父ペータルと母マリア

1894年にボスニア・ヘルツェゴヴィナセルビア人農家ペータルとマリアの息子として生まれた。兄弟は9人いたが、その内6人が乳児期に病死している[1]。そのような家庭環境を鑑みたセルビア正教会主教の「病弱な子が育つのに役立つだろう」という提案により、大天使ガブリエルの名前から「ガヴリロ」と名付けられた[2]。両親はムスリムの大地主の下で働く貧農家庭で、父ペータルは青年期にはオスマン帝国に対するヘルツェゴヴィナ蜂起に加わった[2]。蜂起後、ペータルの暮らしは増々貧しくなり、家族を養うために村からダルマチアへ人々を運ぶ輸送業務に従事した[1]

1903年、プリンツィプは父の反対を押し切る形で小学校に進学した。入学後のプリンツィプは優秀な成績を挙げ、校長からセルビア叙事詩を授与された[2]。13歳の時、オーストリア=ハンガリー軍士官学校に入学させようとする兄ジョヴァンに誘われサラエボに移り住む[2]。しかし、友人に反対されたジョヴァンは弟を士官学校に入学させることを諦め、代わりに商業学校に入学させ、森林伐採工場で働いて得た収入で弟の授業料を支払っていた[3][4]。卒業後の1910年、プリンツィプは故郷に戻りギムナジウムに進学する[3]。また、同年にボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督暗殺未遂事件を起こし処刑されたボグダーン・ツェラジッチ英語版に強い影響を受け、大セルビア主義に傾倒するようになった[4]

民族運動

1911年、青年ボスニアのメンバー(本を所持している人物がプリンツィプ)

1911年、プリンツィプはセルビアの分離独立を目指す革命組織「青年ボスニア英語版」に参加[3]し、メンバーたちと秘密裏に会合を重ね、文学・倫理・政治について語り合った[4]1912年には反オーストリア=ハンガリー帝国デモを主催したためギムナジウムから退学処分を受けた[2]。デモを目撃した学生の証言によると、プリンツィプは教室を回り学生たちをナックルダスターで脅して強制的にデモに参加させていたという[5]。退学後、プリンツィプはサラエボを離れベオグラードに徒歩で向かった。記録によると、プリンツィプはセルビア国境を越えた際に跪いて地面にキスしたという。

ベオグラードに到着したプリンツィプは、黒手組のメンバーのヴォジスラフ・タンコシッチ英語版少佐にオスマン帝国へのゲリラ運動に参加したいと志願したが、身長が基準に達していないとして拒否された[6]。プリンツィプは失意のままサラエボに戻り、弟の家で数カ月間過ごした。その後、プリンツィプは反オスマン組織セルビア革命組織英語版メンバーのツィカ・ラファエロヴィチ英語版と接触し、青年セルビアのメンバー15人と共にヴラニェの訓練所に派遣される。プリンツィプは訓練所で暗殺や爆弾製造の訓練を受けた後、ベオグラードに戻った[7]

サラエボ事件

サラエボ事件を描いた新聞の挿絵
フランツ・フェルディナントの血染めの軍服

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはセルビア正教のセルビア人、ムスリムのボシュニャク人カトリッククロアチア人住居地域が入り混じり、もともとオスマン帝国領であったが、1878年ベルリン会議の決定に基づくオーストリア=ハンガリー帝国の占領の後、1908年には正式に併合される。

当時、バルカンではロシア帝国を後ろ盾とする汎スラヴ主義とオーストリア帝国・ドイツ帝国の支援を受ける汎ゲルマン主義が対立し、ゲルマン民族であるオーストリアの占領下にありながら人口の大半がスラヴ系であるボスニアでは、すでにオスマン帝国から独立していた同じスラヴ系のセルビア王国への併合を求める大セルビア主義が台頭していた。

プリンツィプが立ち寄ったカフェ
逮捕直後のプリンツィプ

サラエヴォ共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首府であり、オーストリア帝国から派遣された総督が駐在していた。1914年6月に同地で軍事演習が行われることになり、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の後継者でフランツ・フェルディナントが妃ゾフィー・ホテクチェコ貴族出身)とともに視察のためサラエヴォを訪問した。

大セルビア主義を掲げてセルビア軍将校ドラグーティン・ディミトリエビッチにより組織された黒手組(ツルナ・ルーカ)はフランツ・フェルディナントの暗殺を計画し、プリンツィプも計画に加わった。黒手組は1911年にフランツ・ヨーゼフ1世の暗殺を計画したが、失敗している[8]

1914年6月28日午前10時、フランツ・フェルディナント夫妻を乗せた列車がサラエヴォに到着した[9]。フランツ・フェルディナント夫妻はセルビア駅から自動車に乗り込みサラエヴォに向かった。6台の車列の先頭にはサラエヴォ市長フェヒム・チュルツィヒ英語版と警察長官エドムント・ゲラーデが乗り込み、夫妻は2列目の車にボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督オスカル・ポティオレク英語版とフランツ・フォン・ハラッハ中佐と共に乗り込んでいた[10]。また、市民と触れ合うために車の屋根は折り畳まれていた[10]

黒手組のメンバー7人はそれぞれ間隔をあけて街道に待機し、車列が目の前を通過する際に襲撃する算段となっていた。ムハメド・メフメドバシッチ英語版が最初に車列と接触するが、彼は行動を起こさずに静観した(後年「背後に警官が立っていたので行動できなかった」と述べている)[8]。10時15分、中央警察署の前で待機していたネデリュコ・チャブリノヴィッチ英語版がフランツ・フェルディナント夫妻の乗った車に爆弾を投げ付けたが、爆発まで10秒のタイムラグが生じ、4台目の車が通過した際に爆発し、4台目の車に乗っていたエリック・フォン・メリッツィとアレクサンデル・フォン・ボース=ヴァルデック伯爵と市民12人が負傷した[11]。チャブリノヴィッチは服毒して川に飛び込んだが、毒は不良品で効果がなく、川も水深10センチメートルしかなかったため、すぐに引きずり出され逮捕された[12]。爆発音を聞いた車列はスピードを上げて総督官邸に逃げ込み、プリンツィプら残り5人のメンバーは混乱する大勢の群衆に阻まれ暗殺を決行できなかった。

総督官邸に逃げ込んだフランツ・フェルディナントは、爆弾で負傷した市民を見舞うため病院に向かった。ポティオレクは市内中心部を避け迂回するルートを選んだが、運転手のレオポルト・ローチャ英語版にルートの変更を伝えるのを忘れてしまった。そのため、ローチャは道を間違えてフランツ・ヨーゼフ通りに入ってしまい、カフェで食事をしていたプリンツィプと遭遇した。車は方向転換を行うが、プリンツィプはFN ブローニングM1910を取り出し車に近付き、1.5メートルの距離から発砲した[13]。プリンツィプは1発目をゾフィーの腹部に、2発目をフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、車は総督官邸に逃げ込んだが、夫妻は午前11時前に死亡した。

死去

1914年12月5日の黒手組の裁判(最前列中央がプリンツィプ)

暗殺に成功したプリンツィプは青酸を飲んで自殺を図るが、チャブリノヴィッチのものと同様に不良品だったため効果がなく拳銃自殺を試みようとするが、発砲前に群衆に取り押さえられた。プリンツィプは裁判にかけられハプスブルク家の法に基づき死刑を求刑されるが、犯行時20歳に達していなかったため死刑を免れ懲役20年の刑を宣告された[14]。プリンツィプはテレージエンシュタット要塞刑務所(現在のチェコ共和国テレジーン)に収監されるが、第一次世界大戦末期の劣悪な刑務所環境のため持病の結核が悪化し[15]、サラエボ事件から3年10か月後の1918年4月28日に獄中で病死した。プリンツィプは獄中で結核性脊椎症の悪化のために右腕を切断しており、また、栄養失調も重なり死亡時には体重が40キログラムしかなかった[14]

死後、遺体は民族主義者の聖地になることを避けるためサンメルコ墓地に秘密裏に埋葬された。しかし、埋葬に立ち会ったチェコ人兵士によって1920年に「セルビア人の永遠の英雄」と書かれた記念碑が墓地に立てられている。

遺物・記念碑

ガヴリロ・プリンツィプの足形(サラエヴォ市内)

プリンツィプが使用した拳銃は押収され、フランツ・フェルディナントの血染めの軍服とともに大公の友人アントン・プンティガム司教に引き渡された。拳銃と軍服は長い間教会に保管されていたが、2004年にフランツ・フェルディナント夫妻が乗っていた車とともにウィーン軍事史博物館に貸与され、常設展示されている[16]。また、フランツ・フェルディナントの首に命中した銃弾はチェコの博物館に保管されている。

生家は第一次世界大戦中に破壊されたが、戦後にユーゴスラビア王国が再建して博物館として開放された。しかし、1941年にユーゴスラビア王国はナチス・ドイツに占領され、生家はサラエヴォがクロアチア独立国の一部となった際に再び破壊された。その後、1944年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国によって博物館として再建され、これとは別にサラエヴォ市内にもプリンツィプを記念した博物館が建てられた。しかし、1990年代のユーゴスラビア紛争の際に再び破壊され、以後は再建されていない。

豊田穣の著書によると「彼が立っていた位置には、彼の靴の跡が刻まれ、その近くの建物の壁には彼の顔のレリーフが彫ってあり、その建物の中には、プリンシポフ記念館がある」[17]と書かれているが、靴の跡はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際に破壊され、現在は記念碑だけがある。なお、この記念館のプレートは第二次世界大戦中に奪われてアドルフ・ヒトラーの誕生記念日の贈り物とされた[18]。この簒奪は、ヒトラーにとっては、第一次世界大戦の敗北とドイツ帝国主義へのセルビア人の抵抗への報復の意味合いがあったという[注 1]

後世の評価

プリンツィプ関連の書籍が並ぶベオグラードの書店

セルビアに於いては民族主義がしばしば台頭するが、事件の結果がセルビア王国の滅亡につながったため、必ずしも肯定的な評価とはなっておらず、プリンツィプの評価は賛否が分かれる。ボスニア・ヘルツェゴビナでも、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。

2014年4月21日にエミール・クストリッツァマティヤ・ベチコヴィッチ英語版がプリンツィプの銅像を建てることを発表した[19]。サラエボ事件から100周年を迎える6月27日に除幕式が行われ、会場では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった[20][21]

2015年6月28日にはベオグラードにプリンツィプの像が建てられた。この像はスルプスカ共和国大統領ミロラド・ドディクからセルビア大統領トミスラヴ・ニコリッチに贈呈されたものだった[22]。ニコリッチは像を贈呈された際に「プリンツィプは英雄であり、ヨーロッパにまたがる暴君・殺人者による奴隷支配からの解放の象徴である」と声明を発表している[22]

脚注

注釈

  1. ^ 当時占領下のセルビアではドイツ兵1名の損害につき100名のセルビア人市民を殺害するように指令が出されていた。

出典

  1. ^ a b Schlesser 2005, p. 95.
  2. ^ a b c d e Kidner et al. 2013, p. 756.
  3. ^ a b c Roider 2005, p. 936.
  4. ^ a b c Schlesser 2005, p. 96.
  5. ^ Malcolm 1994, p. 154.
  6. ^ Schlesser 2005, p. 97.
  7. ^ Irić, Radoman (2 October 2013). “Ovde je Gavrilo Princip učio da puca” (Serbian). ブリツ (Belgrade): p. 21. http://www.blic.rs/Vesti/Reportaza/408974/Ovde-je-Gavrilo-Princip-ucio-da-puca 2 October 2013閲覧。 
  8. ^ a b Stokesbury, James (1981). A Short History of World War I. New York: HarperCollins. pp. 60–67 
  9. ^ 'June 28, 1914: The first attempt'”. www.private-prague-guide.com/. 27 January 2015閲覧。 “"On June 28, 1914 Archduke Franz Ferdinand ‘Este and his wife Duchess of Hohenberg arrived in Sarajevo by train shortly before 10 am"”
  10. ^ a b Donnelley, Paul (2012). Assassination!. pp. 33. ISBN 9781908963031 
  11. ^ Dedijer 1966, ch. XIV, footnote 21.
  12. ^ Malmberg, Ilkka: Tästä alkaa maailmansota. "This is the beginning of World War I" 『ヘルシンギン・サノマット』, monthly supplement, June 2014, pp. 60-65.
  13. ^ Belfield, Richard (2011). A Brief History of Hitmen and Assassinations. Constable & Robinson, Ltd.. p. 241 
  14. ^ a b The man who started the First World War”. Daily Telegraph. 7 November 2013閲覧。
  15. ^ Johnson, Lonnie (1989). Introducing Austria: A short history. pp. 52–54. ISBN 0-929497-03-1 
  16. ^ Connolly, Kate (22 June 2004). “Found: the gun that shook the world”. Daily Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/austria/1465206/Found-the-gun-that-shook-the-world.html 17 September 2010閲覧。 
  17. ^ 豊田穣「初代総理 伊藤博文」『豊田穣文学・戦記全集』 14巻、光人社、1993年。ISBN 4769805241 
  18. ^ Vladimir Bogićević (2013年11月2日). “Adolf Hitler’s Birthday Gift – Memorial to Gavrilo Princip”. FreedomFight.net. 2014年3月2日閲覧。
  19. ^ DA SE NE ZABORAVI: Meštani Tovariševa sami podigli spomenik Principu! [NOT FORGETTING: villagers themselves erected a monument to Princip!]”. Telegraf. http://www.telegraf.rs/vesti/1039860-se-ne-zaboravi-mestani-tovariseva-sami-podigli-spomenik-principu 
  20. ^ “テロリストか英雄か サラエボ事件100年で暗殺者の銅像”. CNN co jp. (2014年6月30日). http://www.cnn.co.jp/world/35050136.html 2014年7月14日閲覧。 
  21. ^ “「サラエボ事件」あす100年 セルビア、オーストリア 歴史認識で対立”. 東京新聞. (2014年6月27日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014062702000126.html 2014年7月14日閲覧。 
  22. ^ a b Ne dozvoljavam vređanje poklanih Srba [I do not allow insults to slaughtered Serbs]”. B92. (2015年6月28日). http://www.b92.net/info/vesti/index.php?yyyy=2015&mm=06&dd=28&nav_category=11&nav_id=1009490 

参考文献

  • Fabijančić, Tony (2010). Bosnia: In the Footsteps of Gavrilo Princip. Edmonton: University of Alberta. ISBN 9780888645197 
  • Fromkin, David (2007). Europe's Last Summer: Who Started the Great War in 1914?. New York: Random House. ISBN 9780307425782 
  • Kidner, Frank; Bucur, Maria; Mathisen, Ralph; McKee, Sally; Weeks, Theodore (2013). Making Europe:The Story of the West Since 1550. 2 (2 ed.). Boston: Wadsworth Cengage. ISBN 9781111841348 
  • Malcolm, Noel (1994). Bosnia:A Short History. New York: New York University Press. ISBN 9780814755204 
  • Roider, Karl (2005). “Princip, Gavrilo (1894–1918)”. In Tucker, Spencer C.; Roberts, PriscillaMary. The Encyclopedia of World War I:A Political, Social, and Military History. Santa Barbara, California: ABC-CLIO. ISBN 9781851094202 
  • Schlesser, Steven (2005). The Soldier, the Builder & the Diplomat. Seattle: Cune Press. ISBN 9781885942074 

関連項目