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「篠原弘道」の版間の差分

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{{基礎情報 軍人
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = 篠原 弘道
| 氏名 = 篠原 弘道
| 各国語表記 = しのはら こうどう
| 各国語表記 = しのはら ひろみち/しのはら こうどう
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'''篠原 弘道'''(しのはら こうどう、[[1913年]](大正2年)[[8月15日]] - [[1939年]](昭和14年)[[8月27日]])は、[[大日本帝国陸軍]]の[[軍人]]、[[戦闘機]][[パイロット (航空)|操縦者]]<ref name="arawashi1941">[[#arawashi|陸の荒鷲殊勲甲. 前篇]]、p.45</ref>。最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は[[少尉|陸軍少尉]]。通り名・異名は「'''東洋の[[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン|リヒトホーフェン]]'''」。
'''篠原 弘道'''(しのはら ひろみち/こうどう、[[1913年]](大正2年)[[8月15日]] - [[1939年]](昭和14年)[[8月27日]])は、[[大日本帝国陸軍]]の[[軍人]]、[[戦闘機]][[パイロット (航空)|操縦者]]<ref name="arawashi1941">[[#arawashi|陸の荒鷲殊勲甲. 前篇]]、p.45</ref>。最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]は[[少尉|陸軍少尉]]。通り名・異名は「'''東洋の[[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン|リヒトホーフェン]]'''」。名前の読み方については新聞や書物では全て「ひろみち」であるが、甥の話によれば「こうどう」が正しい読みであるという<ref>[http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/03/post-e10c.html 篠原弘道准尉 戦闘機パイロットデータベース] 南溟の桜 2015年3月30日</ref>


日本陸軍の[[エース・パイロット|トップ・エース]]の一人として総撃墜数58機を誇り、これは[[1939年]]5月27日の初陣から同年8月27日に[[戦死]]するまでのわずか3か月の間に達成された。また、1日で11機の敵機を撃墜した記録をもつ。
日本陸軍の[[エース・パイロット|トップ・エース]]の一人として総撃墜数58機を誇り、これは[[1939年]]5月27日の初陣から同年8月27日に[[戦死]]するまでのわずか3か月の間に達成された。また、1日で11機の敵機を撃墜した記録をもつ。
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* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10176697&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 国境大空中戦 -五十八機撃墜・篠原准尉の血戦手記] 大阪朝日新聞 1939.8.28-1939.9.3(昭和14), データ作成:2015.3 神戸大学附属図書館
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10176697&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 国境大空中戦 -五十八機撃墜・篠原准尉の血戦手記] 大阪朝日新聞 1939.8.28-1939.9.3(昭和14), データ作成:2015.3 神戸大学附属図書館


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[[Category:大日本帝国陸軍搭乗員]]
[[Category:大日本帝国陸軍搭乗員]]
[[Category:ノモンハン事件の人物]]
[[Category:ノモンハン事件の人物]]

2016年6月29日 (水) 18:10時点における版

篠原 弘道
しのはら ひろみち/しのはら こうどう
渾名 東洋のリヒトホーフェン
生誕 1913年8月15日
栃木県河内郡雀宮村(現在の宇都宮市雀の宮)
死没 (1939-08-27) 1939年8月27日(26歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1934 - 1939
最終階級 陸軍少尉
戦闘 日ソ国境紛争
ノモンハン事件
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篠原 弘道(しのはら ひろみち/こうどう、1913年(大正2年)8月15日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、大日本帝国陸軍軍人戦闘機操縦者[1]。最終階級陸軍少尉。通り名・異名は「東洋のリヒトホーフェン」。名前の読み方については新聞や書物では全て「ひろみち」であるが、甥の話によれば「こうどう」が正しい読みであるという[2]

日本陸軍のトップ・エースの一人として総撃墜数58機を誇り、これは1939年5月27日の初陣から同年8月27日に戦死するまでのわずか3か月の間に達成された。また、1日で11機の敵機を撃墜した記録をもつ。

生涯

1913年8月15日栃木県河内郡雀宮村(現在の宇都宮市雀の宮)生まれ。1931年(昭和6年)下野中学校卒業後、騎兵として徴兵され騎兵第27連隊に入営。のちに航空兵に転科し1933年(昭和8年)6月に所沢陸軍飛行学校に入校。翌1934年(昭和9年)1月に戦闘機操縦者として卒業し、部隊マークとして垂直尾翼稲妻を描き「稲妻部隊」と呼ばれた飛行第11戦隊第1中隊に配属され、満州ハルビンに赴任する。1938年(昭和13年)には陸軍航空兵准尉に昇進し、1939年5月にノモンハン事件が勃発したときには25歳で既に6年の飛行経験があった。

1939年5月27日、初めての敵戦闘機との交戦で九七式戦闘機に搭乗した篠原はソ連軍I-16単葉戦闘機4機を撃墜、翌28日にはRZ複葉偵察機1機とI-15複葉戦闘機5機を撃墜し、たった1日でエース・パイロットとなった。史上初陣から1日で10機の撃墜を記録したパイロットは篠原の他にいない。特筆すべきは同年6月27日、日本軍がモンゴルの後方基地タムスクに大規模な空襲を行った際に、11機の敵機を撃墜したことである[3][4]。この記録を上回るのはドイツ空軍エーリヒ・ハルトマン(1日に12機を撃墜)だけである。篠原は撃墜マークとして愛機の操縦席側面にを描いていた。

しかし武運は長くは続かず、1939年8月27日、爆撃機護衛の際に交戦となり敵機3機を撃墜したがI-16戦闘機に撃墜され戦死した[5]。死後、その功績によって准尉から少尉特進した。その活躍から「東洋のリヒトホーフェン」と呼ばれ[3][6]、またノモンハン航空戦における操縦者達の活躍は「ホロンバイルの荒鷲」としてマスメディア上でも大々的に取り上げられており、中でも篠原は屈指のエースとして国民の知るところとなった。また敵編隊に殴りこみをかけ撃墜するという、迫力ある空戦模様を記録した日記を残していたことでも知られる。

脚注

  1. ^ 陸の荒鷲殊勲甲. 前篇、p.45
  2. ^ 篠原弘道准尉 戦闘機パイロットデータベース 南溟の桜 2015年3月30日
  3. ^ a b Sakaida 1997, p. 16.
  4. ^ Wieliczko and Szeremeta 2004, p. 37.
  5. ^ Sakaida 1997, p. 17.
  6. ^ Wieliczko and Szeremeta 2004, p. 35.

参考文献

関連項目

外部リンク