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「アン・マリア・ラウジー・デマルス」の版間の差分

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==人物==
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柔道は12歳の時に[[キリスト教青年会|YMCA]]で始めた。[[ワシントン大学 (セントルイス) |ワシントン大学]]に入学後は[[早稲田大学]]に交換留学を果たして、そこで[[大沢慶巳]]の指導を受けた。その後[[経営学修士 |MBA]]を取得するために一時期柔道から離れていたが、1983年の[[パンアメリカン競技大会]]ではベネズエラの[[ナターサ・エルナンデス]]を破って優勝した。1984年には[[1984年世界柔道選手権大会|世界選手権]]でも優勝を果たして、男女を通してアメリカの選手として初めて世界大会での[[金メダル]]を獲得した。その後、2001年頃には[[インディアン居留地]]の生活改善及び向上を目的とした会社を始めた。2006年にはアメリカ柔道連盟の副会長となった。
柔道は12歳の時に[[キリスト教青年会|YMCA]]で始めた。[[セントルイスワシントン大学]]に入学後は[[早稲田大学]]に交換留学を果たして、そこで[[大沢慶巳]]の指導を受けた。その後[[経営学修士 |MBA]]を取得するために一時期柔道から離れていたが、1983年の[[パンアメリカン競技大会]]ではベネズエラの[[ナターサ・エルナンデス]]を破って優勝した。1984年には[[1984年世界柔道選手権大会|世界選手権]]でも優勝を果たして、男女を通してアメリカの選手として初めて世界大会での[[金メダル]]を獲得した。その後、2001年頃には[[インディアン居留地]]の生活改善及び向上を目的とした会社を始めた。2006年にはアメリカ柔道連盟の副会長となった。


娘の[[ロンダ・ラウジー]]は、2004年に[[2004年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]63kg級で優勝すると、2007年の[[2007年世界柔道選手権大会|世界選手権]]70kg級では2位となり、翌年の[[北京オリンピック]]では[[銅メダル]]を獲得した。その後、[[総合格闘技]]に転向して、[[Strikeforce]]、[[UFC]]のバンタム級チャンピオンとなった<ref>[http://www.ftmma.com/fighters/ronda-rousey/ Ronda Rousey]</ref>。
娘の[[ロンダ・ラウジー]]は、2004年に[[2004年世界ジュニア柔道選手権大会|世界ジュニア]]63kg級で優勝すると、2007年の[[2007年世界柔道選手権大会|世界選手権]]70kg級では2位となり、翌年の[[北京オリンピック]]では[[銅メダル]]を獲得した。その後、[[総合格闘技]]に転向して、[[Strikeforce]]、[[UFC]]のバンタム級チャンピオンとなった<ref>[http://www.ftmma.com/fighters/ronda-rousey/ Ronda Rousey]</ref>。

2016年6月28日 (火) 13:27時点における版

獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
柔道
世界柔道選手権
1984 ウィーン 56kg級

アン・マリア・ラウジー・デマルスAnn Maria Rousey DeMars、女性、1958年8月15日- )は、アメリカ合衆国柔道家イリノイ州出身。柔道六段。階級は56kg級。

人物

柔道は12歳の時にYMCAで始めた。セントルイス・ワシントン大学に入学後は早稲田大学に交換留学を果たして、そこで大沢慶巳の指導を受けた。その後MBAを取得するために一時期柔道から離れていたが、1983年のパンアメリカン競技大会ではベネズエラのナターサ・エルナンデスを破って優勝した。1984年には世界選手権でも優勝を果たして、男女を通してアメリカの選手として初めて世界大会での金メダルを獲得した。その後、2001年頃にはインディアン居留地の生活改善及び向上を目的とした会社を始めた。2006年にはアメリカ柔道連盟の副会長となった。

娘のロンダ・ラウジーは、2004年に世界ジュニア63kg級で優勝すると、2007年の世界選手権70kg級では2位となり、翌年の北京オリンピックでは銅メダルを獲得した。その後、総合格闘技に転向して、StrikeforceUFCのバンタム級チャンピオンとなった[1]

主な戦績

脚注

関連項目

外部リンク