「カール・コリ」の版間の差分
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カールは[[グラーツ]]に招かれ、[[オットー・レーヴィ]]とともに心臓の[[迷走神経]]の研究を行い、レーヴィはこの研究によって1936年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。カールがグラーツにいる間もゲルティーはウィーンに留まり、1年後にカールが[[ニューヨーク]]のロズウェルパーク・癌センターで職を得た時に、共にバッファローに移住した。 |
カールは[[グラーツ]]に招かれ、[[オットー・レーヴィ]]とともに心臓の[[迷走神経]]の研究を行い、レーヴィはこの研究によって1936年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。カールがグラーツにいる間もゲルティーはウィーンに留まり、1年後にカールが[[ニューヨーク]]のロズウェルパーク・癌センターで職を得た時に、共にバッファローに移住した。 |
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バッファローでは彼は1929年に[[コリ回路]]と呼ばれる炭水化物代謝系の研究を行い、1947年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。また1928年に夫妻はアメリカに帰化し、1931年にカールは[[ミズーリ州]][[セントルイス |
バッファローでは彼は1929年に[[コリ回路]]と呼ばれる炭水化物代謝系の研究を行い、1947年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。また1928年に夫妻はアメリカに帰化し、1931年にカールは[[ミズーリ州]][[セントルイス・ワシントン大学]]に職を得た。カールは1942年に生理学、生化学の教授となった。1946年には[[アルバート・ラスカー基礎医学研究賞]]を受賞した。 |
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1957年にゲルティーが死去すると、カールは1960年にアン・フィッツ・ジェラルド・ジョーンズと再婚した。カールは1966年までワシントン大学に在籍し、退職後は[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]にある[[ハーバード大学]]に研究室を構え、遺伝子学の研究を行った。 |
1957年にゲルティーが死去すると、カールは1960年にアン・フィッツ・ジェラルド・ジョーンズと再婚した。カールは1966年までワシントン大学に在籍し、退職後は[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]にある[[ハーバード大学]]に研究室を構え、遺伝子学の研究を行った。 |
2016年6月28日 (火) 13:19時点における版
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カール・コリ(Carl Ferdinand Cori、1896年12月5日 - 1984年10月20日)はプラハ(当時のオーストリア・ハンガリー帝国、現在のチェコ)出身のアメリカ合衆国の生化学者。エネルギーの貯蔵や消費におけるグリコーゲンの分解・再生成の機構を解明したことにより、ゲルティー・コリ、バーナード・ウッセイとともに1947年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。炭水化物の代謝を解明した彼らの研究は2004年に、アメリカ化学会が制定する科学における歴史的ランドマークに選ばれた。
来歴
カールは内科医のカール・コリとマーサ・リピッチの息子として、父親が海洋生物学研究所で働いていたトリエステで育った。1914年、一家はプラハに移住し、カールはプラハ・カレル大学の医学部に入学し、ゲルティー・コリと出会った。彼はオーストリア・ハンガリー帝国軍に徴兵され、最初にスキー部隊、後に衛生部隊に属した。戦後、彼は研究に戻り、ゲルティーとともに1920年に卒業した。カールとゲルティーはその年に結婚し、ウィーンの病院で一緒に働いた。
カールはグラーツに招かれ、オットー・レーヴィとともに心臓の迷走神経の研究を行い、レーヴィはこの研究によって1936年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。カールがグラーツにいる間もゲルティーはウィーンに留まり、1年後にカールがニューヨークのロズウェルパーク・癌センターで職を得た時に、共にバッファローに移住した。
バッファローでは彼は1929年にコリ回路と呼ばれる炭水化物代謝系の研究を行い、1947年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。また1928年に夫妻はアメリカに帰化し、1931年にカールはミズーリ州セントルイス・ワシントン大学に職を得た。カールは1942年に生理学、生化学の教授となった。1946年にはアルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞した。
1957年にゲルティーが死去すると、カールは1960年にアン・フィッツ・ジェラルド・ジョーンズと再婚した。カールは1966年までワシントン大学に在籍し、退職後はマサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学に研究室を構え、遺伝子学の研究を行った。