コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「斎藤茂太」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
10行目: 10行目:
|死没地 =
|死没地 =
|職業 = 医師、随筆家
|職業 = 医師、随筆家
|出身校 = [[昭和大学|昭和医学専門学校]]、慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程
|出身校 = [[昭和大学|昭和医科大学]]、慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程
|父親      =  [[斎藤茂吉]]   
|父親      =  [[斎藤茂吉]]   
|母親 =
|母親 =
23行目: 23行目:
[[1916年]]([[大正]]5年)、[[歌人]]で精神科医の[[斎藤茂吉]]の長男として[[東京市]](当時)に生まれる。
[[1916年]]([[大正]]5年)、[[歌人]]で精神科医の[[斎藤茂吉]]の長男として[[東京市]](当時)に生まれる。


[[港区立青南小学校|青南小学校]]<!--http://www.cl.aoyama.ac.jp/japanese/bulliten/42-6.html-->、東京府立第八中学校(現在の[[東京都立小山台高等学校]])、[[明治大学]]文学部を経て、[[1942年]]([[昭和]]17年)9月に[[旧制]][[昭和大学|昭和医学専門学校]]を卒業し<ref>雑誌や書籍の経歴紹介で慶應義塾大学医学部卒と記されることもあるが、正確には[[昭和大学|昭和医学専門学校]]卒(12回生)である。</ref>、[[慶應義塾大学]]大学院医学研究科博士課程にて[[医学博士]]号を取得。
[[港区立青南小学校|青南小学校]]<!--http://www.cl.aoyama.ac.jp/japanese/bulliten/42-6.html-->、東京府立第八中学校(現在の[[東京都立小山台高等学校]])、[[明治大学|大学]]文学部を経て、[[1942年]]([[昭和]]17年)9月に[[旧制]][[昭和大学|昭和医科大学]]を卒業し<ref>雑誌や書籍の経歴紹介で慶應義塾大学医学部卒と記されることもあるが、正確には[[昭和大学|昭和医学専門学校]]卒(12回生)である。</ref>、[[慶應義塾大学]]大学院医学研究科博士課程にて[[医学博士]]号を取得。


[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])中に応召し、[[大日本帝国陸軍]][[軍医]][[大尉]]となる。
[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])中に応召し、[[大日本帝国陸軍]][[軍医]][[大尉]]となる。

2016年6月9日 (木) 01:09時点における版

さいとう しげた

斎藤 茂太
生誕 1916年3月21日
日本の旗 日本 東京
死没 (2006-11-20) 2006年11月20日(90歳没)
出身校 昭和医科大学、慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程
職業 医師、随筆家
テンプレートを表示

斎藤 茂太(さいとう しげた、1916年3月21日 - 2006年11月20日)は、日本精神科医随筆家である。愛称はモタさん

人物

生い立ち

1916年大正5年)、歌人で精神科医の斎藤茂吉の長男として東京市(当時)に生まれる。

青南小学校、東京府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)、大学文学部を経て、1942年昭和17年)9月に旧制昭和医科大学を卒業し[1]慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程にて医学博士号を取得。

大東亜戦争太平洋戦争)中に応召し、大日本帝国陸軍軍医大尉となる。

医師・作家

医師として斎藤病院名誉院長、日本精神病院協会(現在の日本精神科病院協会)名誉会長、アルコール健康医学協会会長を務める傍ら、作家としても活躍し、多数の著書を出版した。日本ペンクラブ理事、日本旅行作家協会会長を務めた。

晩年

最晩年、米寿を越えた頃から足を悪くし、講演や旅行は減ったが、作家活動に時間を費やすようになり、それまで以上に多数の著書を世に出した。2006年平成18年)11月20日心不全で死去。生涯現役を続け、死去時にも多くの仕事を抱えていたという。

逸話

  • 父親の茂吉同様、中学生になっても寝小便をすることがあった。
  • 少年時代よりアドルフ・ヒトラーの物まねが得意で、慶應義塾大学医学部の新年会での名物に、茂太がヒトラーに扮してドイツ語風の演説をやっていたという逸話がある。弟・北杜夫は兄にいつまでヒトラーの真似演説をしていたのかと尋ねると「今でもやってるよ」と返されたと自著で記している。

飛行機好き

旅行と飛行機好きとして知られ、弟の杜夫が斎藤家の歴史に取材して執筆した長編小説『楡家の人びと』でも、彼をモデルとする人物が少年時代から飛行機に熱中している様が活写された。旅行や旅客機、客船についての著書も多く、旅客機の専門誌や機内誌にもしばしば登場していた。さらに日本航空ファーストクラスのテレビCMに出演した経験もある。

航空会社の旅行バッグの収集家としても世界的に有名であり、また自宅に小型飛行機で実際に使っていたプロペラや日本航空のファーストクラスの座席を飾っていた。息子の章二も著名な飛行機マニアであり、航空自衛隊の「ブルーインパルス」の機体の塗装は公募で彼の作品が採用された。

アメリカに鹵獲・保存されていた旧日本海軍の大型飛行艇二式飛行艇(二式大艇)」の保存運動を、中心となって行ったことがあり、茂太らの尽力もあり、今日世界でただ一艇のみの現存機が鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に保管(野外展示)されている。

「モタさんの"言葉"」

2012年(平成24年)からNHKワンセグ2で茂太の著作を絵本の読み聞かせの形式によって紹介するミニ番組『モタさんの"言葉"』の放送が開始された[2]

著書(一部)

家族

祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は、婿養子(紀一の長女の夫)であった精神科医で歌人の斎藤茂吉。2人の姉、弟は作家の北杜夫、姪(弟・北の娘)に斎藤由香

注釈

  1. ^ 雑誌や書籍の経歴紹介で慶應義塾大学医学部卒と記されることもあるが、正確には昭和医学専門学校卒(12回生)である。
  2. ^ モタさんの"言葉"”. 日本放送協会. 2012年12月3日閲覧。

外部リンク