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2016年6月8日 (水) 04:58時点における版

MASAYA
出生名 倉渕 透(くらぶち とおる)[1]
生誕 (1957-12-13) 1957年12月13日(66歳)
出身地 日本の旗 日本,東京都港区元麻布
ジャンル ヒーリングミュージック
職業 音楽プロデューサー
作詞家作曲家
活動期間 1995年 - 現在
レーベル HEALING WORLD
共同作業者 David Campbell
Derek Nakamoto
吉田弥生
渡辺俊幸
朝川朋之
ダニエル・コビアルカ
鈴木智雄
公式サイト http://masaya.hw-ch.com/

MASAYA(マサヤ、1957年12月13日 - )は、東京都港区元麻布出身の作詞作曲家ヴォーカリストプロデューサー、実業家。

来歴

1957年12月13日東京都港区元麻布で、法務省(後、東京地検)勤務の父親の一人息子として生まれる[2]。小学四年生で芸能界に入り[2]、小学六年生のとき、アニメのイメージソング「荒野の少年イサム」(長嶋とおる・クラウン少年合唱隊名義)でデビュー[3]。その後、「高校一年生」等を歌うがヒットに恵まれず、「倉渕雅也」の名前で作詞家・作曲家として活動する[4][5]。在籍していた堀越学園芸能コース(現トレイトコース)を中退[6]し、明大付属中野高校に転入して卒業[7]

1970年代後半から80年代前半において、学生のイベント系サークル「六本木トッププレーヤーズコネクション」の代表として一世を風靡し、企業のイベント企画でディスコに大量動員するビジネスで利ざやを稼ぎ、大成功した[8]。さらに19歳の時に仲間と学生ツアー事業を始め、「ナッツベリー」「オレンジペコ」などの大手を合併する[9][4]。その後、日航ジャンボを3台借りて芸能人と学生を一緒にする旅行を計画するも人数が集まらず、ジャンボ1台のみの旅行となって失敗した[4]。しかしその企画力を日本航空に評価され、日本航空資本による会社「GYRO」(ジャイロ)を設立し、代表取締役となった[4]。次々と事業を立ち上げるが、ディスコと旅行代理店の複合店舗を企画したところ不謹慎と言われたのでGYROを離れる[4]。1984年2月、エヌ・エス・オージャパン(略称:NSOジャパン)を設立した[5]

1981年8月公開の映画『無力の王』(高樹澪柄沢次郎主演)に「倉渕雅也」名義で出演し、3番目にクレジットされた[10]

NSOジャパンでは六本木にディスコ「クレオパラッツィ」を営業し、特に外国人に人気のディスコとなった[11]。さらにカフェバーレストランなど合計8店舗を経営した[5]

1985年7月、約20億円をかけて与論島に療養型レジャーランドプリシアリゾートヨロンを設立した[5]。12月には施設を増強[12]

1986年1月、NSOジャパンはパスコ と提携し、倉渕はパスコ全額出資の新会社「パシフィックリゾート」の専務となり、新会社はプリシアリゾートヨロンの具体的な運営に参加した[13]

1986年春より六本木周辺で三店経営していたディスコ「クレオパラッツィ」をフランチャイズ化し[14]、パシフィックリゾートの出資によって1号店を那覇市に開店した[15][16]

1986年7月、日本航空が子会社の国内旅行開発を通じてエヌ・エス・オージャパンに資本参加し、業務提携する[17][18]

1987年2月、倉渕が社長を務め、与論島でリゾート開発を手掛ける倉渕開発計画にミサワホーム、日本航空などが資本提供し、資本金が9800万円から5億円に増強[19]。プリシアリゾートヨロンのコテージを増設するとともに、双発機を購入し、客の輸送を始めた[19]。またリゾート事業に力を入れるため、ディスコからは撤退した[19]

倉渕は同島を舞台にした映画『スターダストーリー 星砂物語』を企画制作し、1987年4月24日に劇場公開した[20][6]。しかし映画評論家の寺脇研は、全編加山雄三の詩が流れ、若大将シリーズを意識した懐古趣味の作品で、大時代的な古臭い作品と断じている[21]

プリシアリゾートは年商60億円の企業となった[2]が、過剰投資がたたって1987年8月、プリシアリゾートをミサワホームに約45億円で売却し、ミサワホームは買収したばかりの日本エタニットパイプに委譲するとともに倉渕は日本エタニットパイプのリゾート担当役員として迎えられた[22][23][9]。当時29歳で東証一部上場会社の役員に就任したのは史上最年少であり[2]、話題となった[3]。後に日本エタニットパイプはミサワリゾートと社名を変え、倉渕はリゾートプロデュースを行った[7]

老子の本を読んで、ようやく目が覚めた」と本人は自由に生きようと決め[24]、1990年、独立して癒やしをテーマにした事業を立ち上げた[6]。セラピーを受けた体験から、ヒーリングミュージックへの道を歩み始める[24]

1993年6月28日、実質的なオーナーとして鹿児島県屋久町にレムリアアイランドレコードを設立する[25][1]。後に屋久島に、エコロジカルヒーリングリゾートを創設した[6]

1995年5月、MASAYAとしてファーストアルバム『遥かなる道』をリリースした[24][6]。さらに8月には2枚目のアルバム『遙かなる命のうた』をリリースする[3]。音楽はテレビやラジオのBGMに多く使われ[24]、ヒーリングブームの先駆者となった[26]

1998年7月23日、前年にX JAPANを解散したTOSHIへシングル『君はいないか』を提供し、テイチクエンタテイメントから発売された[25]

1998年秋にレムリアアイランドレコードへ移籍したTOSHIの移籍第1段となり、1999年2月25日に発売されたシングル『愛の詩をうたいたい』のプロデュースを行った[27][28]。この移籍に伴い、TOSHIへ、癒やし系のヒーリングミュージックのプロデュースを行う[29][30]

2009年、TOSHIが肋間神経痛で長期療養したときは、代わりにコンサートや講演会を行った[31]

2010年1月、TOSHIは、MASAYAとの決別会見を行い、X JAPANに復帰する[32]

評価

ヒーリングミュージックの第一人者であるダニエル・コビアルカから「私が尊敬してやまない偉大なコンポーザーであり、プロデューサー」、「作家として、また、プロデューサーとしてその卓越した才能に触れ、天上の音楽の極意を知るものとして信頼している」、「MASAYAが歌を歌うのを聴き、非常に驚くとともに、その詩とメロディに秘められた深き想いにとても感動した」と述べ、「日本のヒーリングミュージック界を牽引してきたMASAYAという希有なアーティスト」と評価している[33]

ディスコグラフィー

シングル

  • 遥かなる道

アルバム

  • 遥かなる道
  • 愛しき生命の詩
  • 大いなる自然界の詩
  • 胸いっぱいの言えぬ想い
  • MASAYA Romantic Melodies
  • 虹はけせない
  • Requiem
  • ひまわりの詩
  • すべての中に君を見ている
  • Sweet Farawell Melodies for my Beloved
  • 美しき自然界の流れ
  • 愛は哀しみをこえて
  • 愛は哀しみをこえて Concert Live
  • 青空のように
  • 美しき風景
  • すべてはひとつなのに…
  • 空がすきです
  • Oneness
  • Purity of Heart
  • HANA
  • Poesy
  • Disapperring into Oneness 世界がひとつであれば(全30タイトル)
  • Never changing truth
  • Everlasting love
  • Wish for Happiness
  • Poesy for Life

デジタル配信

  • すきとおる空をみたい

タイアップ曲

  • 大地にて:フジテレビ「感動エクスプレス」テーマ曲
  • 風に吹かれて:テレビ朝日「人間ビジョンスペシャル- 流氷-」テーマ曲
  • 伝言:NHK「生中継にっぽんの夜」主題歌
  • 故国へ:NHK「にっぽんつけものがたり」主題歌
  • 奇跡の子:「農林中央金庫」CM イメージソング
  • 美しき町へ:NHK「生中継にっぽんの夜」主題歌
  • 空がすきです:スカイマークエアラインズ 機内BGM
  • いつまでも:友情~Friendship~秋桜のバラード エンディングイメージソング

※その他、皇室アルバムや「北の国から」特集番組の、「生きもの地球紀行」、「奇跡体験!アンビリバボー」のBGMとして使用された。

関連項目

脚注

  1. ^ a b 藤田庄市「教団・団体解説」『宗教事件の内側 精神を呪縛される人びと』岩波書店、2008年、23頁。ISBN 978-4-000-23457-3 
  2. ^ a b c d 堀絋一『脱皮できない蛇は死ぬ』プレジデント社、1998年、253-255頁。ISBN 978-4-8334-1325-6{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  3. ^ a b c 「コーヒータイムin福岡=MASAYA、新作発表」、西日本新聞 夕刊、1995年6月19日、9頁。
  4. ^ a b c d e 日野公三『快人20面相』ビジネス社、1989年、216-222頁。ISBN 4-8284-0408-2 
  5. ^ a b c d 「起業(中)ゆとり派“坊ちゃんVB(現場報告新企業人)」、日経産業新聞、1986年2月25日、1ページ。
  6. ^ a b c d e MASAYA History”. MASAYA オフィシャルサイト. 2015年9月20日閲覧。
  7. ^ a b 「ミサワリゾート取締役倉渕雅也氏―元アイドル歌手 リゾート事業と(ひと・ポスト)」、日経産業新聞、1989年11月1日、30ページ。
  8. ^ 「晩夏の特別警報 「骨肉の独立戦争」全情報 安室奈美恵に何が起きたか! 内幕スクープ」、サンデー毎日、第93巻第37号、2014年8月31日、16-27頁。
  9. ^ a b 「[明日の顔](110)倉渕雅也 リゾート事業に壮大な発想(連載)」、読売新聞 東京夕刊、1989年5月30日、1頁。
  10. ^ 無力の王”. 映画.com. 2015年11月16日閲覧。
  11. ^ 「ディスコFCを展開、エヌ・エス・オージャパン」、日本経済新聞、1986年4月14日、13ページ。
  12. ^ 「与論島のレジャーランド増強、エヌ・エス・オージャパン」、日経流通新聞、1985年12月9日、19ページ。
  13. ^ 「パスコレジャー開発事業へ新会社、NSOジャパンと提携、不動産伸び悩みで」、日経流通新聞、1986年1月30日、19ページ。
  14. ^ 「エヌ・エス・オージャパングループ、高級ディスコFCへ」、日経流通新聞、1986年2月10日、17ページ。
  15. ^ 「ディスコをFC展開、エヌ・エス・オージャパン」、日本経済新聞、1986年4月14日、13ページ。
  16. ^ 「エヌ・エス・オージャパン、那覇にディスコFC1号店―宅地販売にも進出」、日経流通新聞、1986年4月21日、19ページ。
  17. ^ 「日本航空、中高年向け保養地開発」、日本経済新聞 朝刊、1986年7月9日、13ページ。
  18. ^ 「NSOジャパン、日航と組み運営―与論島のレジャー開発」、日経流通新聞、1986年7月17日、19ページ。
  19. ^ a b c 「倉渕開発計画、与論島リゾートを充実」、日経産業新聞、1987年1月10日、8ページ。
  20. ^ スターダスト・ストーリー 星砂物語”. 映画.com. 2015年11月16日閲覧。
  21. ^ 寺脇研「日本映画批評 スターダスト・ストーリー 星砂物語」、『キネマ旬報』1987年6月下旬号、No.962、156-157頁、1987年
  22. ^ 「ミサワホーム、リゾート本格参入―与論島の施設を買収」、日本経済新聞 朝刊、1987年8月8日、9ページ。
  23. ^ 「ミサワホーム、M&Aで事業基盤拡大―新しい生活空間創る(戦略研究)」、日経産業新聞、1987年9月4日、26ページ。
  24. ^ a b c d 「元アイドル歌手から青年実業家、ヒーリングミュージシャン。来熊のMASAYAに聞く。「好きな道を」」、熊本日日新聞 夕刊、1995年8月18日、7頁。
  25. ^ a b 「元X JAPANのTOSHI 自己啓発セミナーに心酔1年 今の自分が本当」、日刊スポーツ、1998年9月16日、27頁
  26. ^ 「栃木の児相、子供5人を保護 ○○○○ 実質的主宰者は元アイドル」、産経新聞 東京朝刊、2004年4月9日、29頁。
  27. ^ 「Toshiがレムリアアイランドレコードに移籍、一から出直し」、スポーツ報知、1999年2月24日、27頁。
  28. ^ 「TOSHI あす発売の新曲「愛の詩をうたいたい」を発表会で熱唱」、日刊スポーツ、1999年2月24日、22頁。
  29. ^ 【衝撃事件の核心】“洗脳”から決別したTOSHI 失われた12年の驚くべき中身 3/5”. 産経新聞 (2010年5月15日). 2015年9月20日閲覧。
  30. ^ 【衝撃事件の核心】“洗脳”から決別したTOSHI 失われた12年の驚くべき中身 2/5”. 産経新聞 (2010年5月15日). 2015年9月20日閲覧。
  31. ^ 「X JAPANのTOSHIが肋間神経痛で声出ず長期療養」、スポーツ報知、2009年10月31日、27頁。
  32. ^ 【衝撃事件の核心】“洗脳”から決別したTOSHI 失われた12年の驚くべき中身 4/5”. 産経新聞 (2010年5月15日). 2015年9月20日閲覧。
  33. ^ DANIEL KOBIALKA Message”. oneworld-w.com. 2015年11月26日閲覧。

外部リンク