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2016年6月8日 (水) 03:04時点における版
蔦谷喜一 | |
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ペンネーム |
フジヲ キイチ/KIICHI きいち |
誕生 |
1914年2月18日 大日本帝国東京市京橋区 紙問屋「蔦谷音次郎商店」 |
死没 |
2005年2月24日(91歳没) 埼玉県春日部市 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 川端画学校 |
活動期間 | 1940年 - |
ジャンル | 塗り絵 |
蔦谷喜一(つたや きいち、1914年2月18日 - 2005年2月24日)は画家・塗り絵作家。東京都出身。[1]
生涯
大正3年(1914年) 京橋の紙問屋「蔦谷音次郎商店」の9人きょうだいの7番目(五男)として生まれる。
昭和6年 (1931年)、東京市立京橋商業学校を中退し、画家を志し川端画学校で学ぶ。
昭和15年 (1940年)、友人が持ち込んだ「ぬりえ」の仕事をフジヲの名で始める。フジヲは、夏目漱石の「虞美人草」の藤尾からとった。
昭和16年 (1941年)、太平洋戦争の勃発によりぬりえの仕事は休止。
昭和22年 (1947年)、キイチ/KIICHIの名でぬりえの制作と販売を始める。その後、石川松声堂と山海堂との共同経営となる。
昭和23年 (1948年) に「きいち」の名で、ぬりえを描くことに専念、大人気となる。昭和30年代後半にアニメブームが起こるまでぬりえ人気が続く。
昭和40年 (1965年)、リースや即売用の美人画を書き始める。
昭和53年 (1978年)、資生堂ザ・ギンザのギャラリーにて「きいちのぬりえ展」が開催され、第2次きいちブームの火付け役となる。
昭和60年 (1985年) 頃から、ひな祭りや羽根つき、七夕など、主に日本の文化や風習ななどを取り入れた童女の姿を描く「童女百態シリーズ」に取り組み始める。
戦後出版された「きいちのぬりえ」シリーズの塗り絵本は、当時の少女たちから絶大なる人気を誇り、2005年に老衰で没すまで(享年91)続刊され続け、今日も少女から中高年の特に女性の人気を集めているベストセラーとなった。
東京都荒川区町屋には「きいちのぬりえ」を中心としたコレクションを展示するぬりえ美術館がある。
脚注
外部リンク
- 読売オンライン・お品書きに於ける蔦谷喜一へのインタビュー記事
- NHK乙女屋雑貨店(2006年3月放映、6月再放映 この番組できいちのぬりえが紹介された)
- ぬりえ美術館
- 世界大百科事典『きいちのぬりえ』 - コトバンク
- “蔦谷喜一”. 東文研アーカイブデータベース. 東京文化財研究所 (2015年12月14日). 2016年3月16日 (水) 13:43 (UTC)閲覧。