「二又トンネル爆発事故」の版間の差分
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2006年5月30日 (火) 13:21時点における版
二又トンネル爆発事故とは、第二次世界大戦後の1945年11月12日に福岡県田川郡添田町落合の日田彦山線彦山駅西方にあった二又トンネル(未開通)のおいて、アメリカ軍が旧日本帝国陸軍が隠していた火薬を処理しようとして、大爆発を起こし山全体と多数の民家が吹き飛ばされ、死者147人、負傷者149人の惨事になった事故である。
二又トンネル
日田彦山線の二又トンネルは、丸山をくりぬいて作られたもので全長200mであったが、当時日田彦山線は小倉方面から彦山駅までは開通していたが、このトンネル前後の区間は未開通であった。また付近には多くの軍事施設があったが、そのうち陸軍小倉兵器補給廠山田填薬所(現在の北九州市小倉北区)にあった火薬倉庫の一棟が1944年8月20日の空襲により焼失したため、空襲の被害から安全であると思われる、当トンネルが適切な地下火薬庫であるとされ、1945年3月から搬入された。
事故直前の情況
1945年8月15日に日本が無条件全面降伏し戦争は終結した。そのため責任者の陸軍少佐は8月30日までに在庫確認したがそれによるとトンネルには533,185Kgの火薬が保管されていたという。また地元住民4名が軍属として火薬管理を行っていた。
11月8日に火薬類の管理は旧日本陸軍から連合国福岡地区占領軍(第130師団)に管理が引き渡されていた。それから4日後、占領軍のH・ユルトン・ユーイング少尉が下士官を連れて添田警察署に到着し、トンネルにある火薬を焼却処分するから作業員を差し出すように命令した。彼の話では火薬を焼却しても危険性がないとして、まず先に別のトンネルで保管していた火薬の導火線を点火(少尉自身が行ったかは不明)したあと、二又トンネルに一行は向かい午後3時ごろに導火線に点火した後占領軍兵士一行は帰宅した。トンネル付近に住民が近寄らないように警察官は見張りを立たさせていたが、その直後に悲劇が起きた。
事故発生
火薬を燃やす炎はトンネルから噴出し、対岸にあった民家に延焼した。そのため多くの住民が消火活動したが次の瞬間、山全体が吹き飛び彼らは土砂の下に埋もれ犠牲になった。午後5時20分(公式記録、地元では午後5時15分としている)のことであった。付近にあった民家は住民ごと吹き飛ばされ、どんぐり採集をしていた小学生29名も犠牲になった。トンネルを爆心地として被害は2Km内外に及び、多くの民家と田畑が埋没や全壊し、前述のように甚大な人的被害を出すに至った。
なお、このように大爆発になったのは最初に点火したトンネル(40日間も延焼したという)は、格納率が少なく空間に余裕があったが、二又トンネルには通路と上方を残してぎっしりと格納されていたため、閉鎖された空間とあいまって爆発したといわれている。なお、トンネルであるが丸山が吹くとんだために消滅し、現在、鉄道は掘割(オープンカット)のようになった路線を走るようになった。
事件以後の経過
現在ならば、このような大惨事は大々的に報道されるはずであるが、当初は報道管制が引かれた。24日になって占領軍小倉司令部の少佐が被害者へ慰問したことが九州地方の新聞でのみ報道され、他の地方では一切報道されなかったという。
また、被害者への被害救済であるが、占領軍からは補償が行われず、日本政府の特別調達庁から僅かな金銭と、佐世保援護局から被服4000点が支給されたのみであった。
そのため、被害者のうち16世帯が占領軍将校に危険を知らせなかった警察官の注意義務違反によって大惨事が起きたとして、国(当時の警察は内務省管轄の国家警察)に対して損害賠償請求の訴えを起こした。1審の東京地方裁判所では訴えは棄却されたが、2審の東京高等裁判所は1953年5月28日に原告の訴えを認める判決を下し、最高裁も国側の上告を棄却したため、住民の勝訴となった。
一方、この訴訟に裁判費用が工面できずに入れなかった、住民は遺族会を結成し、国に被害弁償を行うように陳情していた。しかし、国は占領軍による被害に対する同様の陳情が2000件以上も抱えていたため、安易に妥協できないとして、当事故の被害補償を民事調停の場で解決するとして、1957年1月25日に東京簡易裁判所で調停が成立した。また1961年に「連合国占領軍等の行為による被害に対する給付金」の支給に関する法律が施行され、救済の対象になったという。
なお、事故の原因となった火薬焼却の指示を出した少尉であるが、1946年2月に軍法会議にかけられ、免官降格のうえ本国への送還の処罰を受けたという。