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'''ペイズリー''' ({{en|paisley}}) は、[[模様]]([[文様]])のデザインの一種。[[被服|衣類]]、[[壁紙]]、[[カーテン]]、[[ソファー]]、[[ネクタイ]]などの装飾に使われる。


[[19世紀]]に[[イギリス]]の[[ペイズリー (イギリス)|ペイズリー市]]でこ織物が量産されるようになり、模様は生産地の名前った「ペイズリー」と呼ばれるようになった。[[日本語]]では'''松毬'''(しょうきゅう)模様と訳され<ref>{{cite | title=田中千代 服飾事典 | author=[[田中千代]] | publisher=[[同文書院]] | chapter=ペーズリー | year=1973 | version=増補版 }}</ref>、[[勾玉]]模様とも言われる
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'''ペイズリー''' ({{en|paisley}}) は、[[ルシャ]]・[[ンド]]由来模様デザインまたは、その模様を使った[[毛織物]]'''松毬'''(しょうきゅう)模様と訳<ref>{{cite | title=田中千代 服飾事典 | author=[[田中千代]] | publisher=[[同文書院]] | chapter=ペーズリー | year=1973 | version=増補版 }}</ref>。


== 模様の特徴 ==
松かさ、[[菩提樹]]の葉、あるいは[[太極図]]に似た水滴状の模様。日本では[[勾玉]]模様とも言われる。派手な柄なので、ドレスアップしたときのアクセントづけに使われることが多い。
模様の優美な曲線、草花を元にしたモチーフが繰り返されるリズムは、人間の心理に安心感を与える効果があると考えられている<ref name="fuku94">福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、94頁</ref>。模様の向き、配置のパターンに変化を付けることができ、空間の構成の自由度が高いため、用途に応じたデザインをすることができる<ref name="fuku94"/>。ペイズリーの形は[[ゾウリムシ]]や[[ミドリムシ]]などの[[原生動物]]、植物の種子・胞子・果実、花弁、[[ボダイジュ]]などの葉、初期段階の胎児、尾を引いた生命の塊などに例えられ、生命力や霊魂と結び付けられることもある<ref>西上『世界文様事典』、138,140-141頁</ref>。ペイズリーの発祥の地として挙げられているイラン、インドでは本来模様が持っていた宗教的意味や象徴性は忘れられ、単純に装飾として使われている<ref>西上『世界文様事典』、142頁</ref>。

模様のモチーフはボダイジュ、[[ナツメヤシ]]、[[ザクロ]]、[[ヒマラヤ山脈]]から吹き付ける強風で曲がった[[イトスギ]]など諸説ある<ref>西上『世界文様事典』、138,141-142頁</ref>。ペイズリーの周辺に蔓を伸ばし、花を咲かせた構図が多く、ペイズリー自体に花や葉が描かれることもある<ref>西上『世界文様事典』、141頁</ref>。ペルシア風の花鳥文を交互に配置した文様がインドに影響を与え、やがて花の形が抽象的な文様に変化していったと考えられている<ref name="eu-mon">視覚デザイン研究所・編集室『ヨーロッパの文様事典』、290-291頁</ref>。19世紀末のヨーロッパで発生した[[アール・ヌーヴォー]]の潮流はペイズリーにも影響を与え、細長い葉が風に揺らぐ、水が流れるようなデザインが多く生み出された<ref name="fuku95">福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、95頁</ref>。

紋織物にデザインされたペイズリーは線が固く、同一の並びのパターンが連続するものになりがちだった<ref name="doumyo1999-40">道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、40頁</ref>。カシミア・ショールに使われる綴れ織、刺繍はモチーフの色や形を自由に調整することができるためにペイズリー模様は曲線的になり、複雑化した輪郭は布地に溶け込んでいくようになった<ref name="doumyo1999-40"/>。カシミール地方でカシミアに織り込まれたペイズリー模様には再現不可能とも言われる難解な技術が使われており<ref>道明『すぐわかる世界の染め・織りの見かた』、43頁</ref>、19世紀にカシミア・ショールの模造品が生産されていたイギリスでは[[カシミア]]と同質の[[羊毛]]が入手できず、羊毛に[[木綿]]や[[絹]]を織り込んで間に合わせていた<ref name="eu-mon"/>。初期のペイズリーには[[アイ (植物)|藍]]、[[アカネ]]の根、[[ブドウ]]の葉、[[クルミ]]の殻、[[ザクロ]]の皮から採取されたと思われる自然の染料が使用されていたが、イギリスで生産されるようになった後には化学染料が中心になる<ref name="fuku94"/>。

[[イタリア]]の[[アパレル]]企業である[[エトロ]]、{{仮リンク|アントニオ・ラッティ|it|Antonio Ratti}}が立ち上げた[[ラッティ]]はペイズリーをあしらった製品で知られている<ref name="doumyo1999-42"/>。

== 名称 ==
文様の名前はペイズリーをあしらったカシミア・ショールの模造品が大量に生産されていた[[スコットランド]]の[[ペイズリー (イギリス)|ペイズリー市]]に由来する<ref name="eu-mon"/><ref>西上『世界文様事典』、138頁</ref>。[[1840年]]頃からペイズリー市のショールは有名になり、ショールの模様にペイズリーと名付けられたとされている<ref name="fuku92">福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、92頁</ref>。ペイズリー市で生産されたショールの知名度が高まる前のヨーロッパでは模様は「スコットランドの[[スペード]]」と呼ばれており、当時の模様は小型のスペードが散らばっているようなデザインだった<ref name="fuku94"/>。[[フランス]]ではデザイナーの東洋趣味を反映した「カシミール(Cachemire)」の名前でも知られている<ref>福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、94-95頁</ref>。

「ペイズリー」の名称が定着する以前、インドでは「ブータ」「カルカ」<ref>道明『すぐわかる世界の染め・織りの見かた』、43,60頁</ref>、イランではペルシア語で「灌木」「茂み」を意味する言葉である「ボテ(Boteh)」と呼ばれていた<ref>道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、39頁</ref>。[[中国語]]では「豚の[[ハム]]」を意味する「火腿紋」と呼ばれている<ref name="fuku91">福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、91頁</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
ペイズリーの起源は判然とせず、諸説存在する<ref name="fuku91"/>。ヨーロッパの[[テキスタイルデザイナー]]の間では[[ネブカドネザル2世]]の時代の[[新バビロニア|新バビロニア王国]]でナツメヤシをモチーフとしたペイズリーの原形が既に使用されていたことが周知され、ペイズリー美術館ではパームツリー(ナツメヤシ)が模様の起源であると紹介されている<ref name="fuku90">福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、90頁</ref>。[[ロシア連邦]]南部の[[アルタイ共和国]]の[[パジリク古墳群]]から出土した紀元前500年頃の皮製の容器には、ペイズリーが描かれていたナツメヤシ、[[アカンサス]]の葉、[[パルメット]]の葉といった[[生命の木 (神話学)|生命の木]]をモチーフとする装飾は[[アッシリア]]、バビロニアの時代を経て[[ヘレニズム|ヘレニズム世界]]で完成される<ref name="fuku90"/>。ギリシア人の東方植民の中でヘレニズム文化が[[西アジア]]にもたらされた時に、ペイズリーも広まったという仮説がヨーロッパで立てられており<ref name="fuku90"/>、[[アレクサンドロス3世]]の遠征により東方にもたらされたとも言われている<ref name="tanaka2">{{cite | title=田中千代 服飾事典 | author=[[田中千代]] | publisher=[[同文書院]] | chapter=ペーズリー・クロース | year=1973 | version=増補版 }}</ref>。 また、[[ケルト人]]が使用していた模様をペイズリーの起源とする説も存在するが、独立した一つ一つの草花文が繰り返されるペイズリーと結合したモチーフが長く連続するケルト独特の模様の差異から、二つの模様の関連性を疑問視する意見もある<ref name="fuku90"/>。インド、イラン、中国といったアジアの地域に起源を置く立場からは、人間の生活に密接に結び付いた松かさをモチーフとする説が出されている<ref name="fuku91"/>。
原型は古代[[ペルシャ]]に見られ、[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシャ]] (224–651) で使われた。[[アレクサンドロス3世]]の遠征によりペルシャにもたらされたとも<ref name="tanaka2"/>。


現在の形になったのは、[[北インド|インド北部]][[カシミール]]地方で17世紀に起った図案で、[[カシミヤ]]の花もしくはマンドゥ・インディアンパインの図案化である<ref name="tanaka2">{{cite | title=田中千代 服飾事典 | author=[[田中千代]] | publisher=[[同文書院]] | chapter=ペーズリー・クロース | year=1973 | version=増補版 }}</ref>。手織りの[[ショール]]に使われた。
<!-- 現在の形になったのは、[[北インド|インド北部]][[カシミール]]地方で17世紀に起った図案で、[[カシミヤ]]の花もしくはマンドゥ・インディアンパインの図案化である<ref name="tanaka2">{{cite | title=田中千代 服飾事典 | author=[[田中千代]] | publisher=[[同文書院]] | chapter=ペーズリー・クロース | year=1973 | version=増補版 }}</ref>。 -->
[[9世紀]]頃に[[アフガニスタン]]の[[バルフ]]に建立された[[モスク]](寺院)にはペイズリーが見られるが、[[ペルシア絨毯]]にペイズリーが描かれるようになったのは時代が下った[[19世紀]]以降になる<ref name="fuku94"/>。カシミール地方では主に織物に用いられ、[[ラージャスターン州|ラージャスターン]]、[[グジャラート州|グジャラート]]では木版染めによって木綿にあしらわれていた<ref>西上『世界文様事典』、139-140頁</ref>。ペイズリー模様の木綿は[[日本]]に輸出され、「[[更紗]]」と呼ばれるようになる<ref>西上『世界文様事典』、140頁</ref>。17世紀のカシミア・ショールには細く根元まで描かれていた草花文が織り込まれ、このような[[ムガル帝国]]の自然主義とペルシア文化の優雅な特徴が合わさったモチーフはブータと呼ばれていた<ref>道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、39-40頁</ref>。


17世紀後半以降にヨーロッパにカシミア・ショールが輸出されるようになり、[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]から帰国した土産物として持ち帰られたカシミア・ショールは上流階級の婦人の間で人気を博した<ref name="doumyo1999-40"/>。また、[[19世紀]]に[[イギリス東インド会社]]の職員が故郷に持ち帰った土産物の中に含まれていたショールによって初めてヨーロッパにペイズリーが伝えられたとも言われている<!-- 福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、92頁では「19世紀半ば」 --><ref name="fuku92"/>。19世紀初頭のヨーロッパでは[[モスリン]]のドレスの上にカシミア・ショールを羽織るスタイルが流行しており、インドで生産されたショールだけでは供給が不十分な状態になっていた<ref name="eu-mon"/>。[[ノリッジ]]、[[エディンバラ]]などのイギリスの都市ではカシミア・ショールの模造品の生産が行われ<ref name="eu-mon"/>、1820年頃に生産が追い付かないエディンバラの工場はペイズリー市の職人にショールの生産を依頼した<ref name="fuku92"/>。ペイズリー市は安価な製品によって販路を開拓し、インドから伝えられた模様をより様式化した<ref name="eu-mon"/>。
[[イギリス領インド帝国|英領インド]]時代に兵士により[[イギリス]]にもたらされた。[[1800年]]頃、[[スコットランド]]の[[ペイズリー (イギリス)|ペイズリー市]]でこの柄の織物が量産されるようになり、こちらの名前が一般的に知られるようになった。


ペイズリー模様を好んだナポレオンはフランスのデザイナーを奨励して模様の改良を促し、フランスはペイズリー模様のデザインの先進地域となる<ref name="fuku95"/>。このためペイズリー市はフランスの模倣をしたと言われるようになり、デザインの特許を巡る問題が発生した<ref name="fuku95"/>。1870年代以降ヨーロッパでのショールの流行は下火になるが、ペイズリーは独立した装飾模様として使われ続けられる<ref name="doumyo1999-42">道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、42頁</ref>。
== 使用例 ==
* [[バンダナ]]
* [[ネクタイ]]
* [[ワイシャツ]]


1960年代の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ではペイズリーの流行が起き、流行は[[日本]]にも及んだ<ref name="doumyo1999-42"/>。[[1960年代]]の日本で流行した[[サイケデリック・ファッション]]では、[[サイケデリック]]の視覚イメージを表現するためにペイズリーが使われた<ref>城一夫、渡辺直樹『日本のファッション』(青幻舎, 2007年10月)、276頁</ref>。
== 出典 ==

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 視覚デザイン研究所・編集室『ヨーロッパの文様事典』(視覚デザイン研究所, 2000年1月)
* 道明三保子「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457収録(中東調査会, 1999年12月)
* 道明三保子監修『すぐわかる世界の染め・織りの見かた』(東京美術, 2004年8月)
* 西上ハルオ『世界文様事典』(創元社, 1994年10月)
* 福永幸子「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号収録(倉敷市立短期大学, 1995年)


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2016年2月10日 (水) 14:43時点における版

ファイル:Paisleymuster.jpg
ペイズリー柄
ファイル:Paisley.JPG
ペイズリー柄のネクタイ
ペイズリー柄のバンダナ

ペイズリー (paisley) は、模様文様)のデザインの一種。衣類壁紙カーテンソファーネクタイなどの装飾に使われる。

19世紀イギリスペイズリー市でこの柄の織物が量産されるようになり、模様は生産地の名前を取った「ペイズリー」と呼ばれるようになった。日本語では松毬(しょうきゅう)模様と訳され[1]勾玉模様とも言われる。

模様の特徴

模様の優美な曲線、草花を元にしたモチーフが繰り返されるリズムは、人間の心理に安心感を与える効果があると考えられている[2]。模様の向き、配置のパターンに変化を付けることができ、空間の構成の自由度が高いため、用途に応じたデザインをすることができる[2]。ペイズリーの形はゾウリムシミドリムシなどの原生動物、植物の種子・胞子・果実、花弁、ボダイジュなどの葉、初期段階の胎児、尾を引いた生命の塊などに例えられ、生命力や霊魂と結び付けられることもある[3]。ペイズリーの発祥の地として挙げられているイラン、インドでは本来模様が持っていた宗教的意味や象徴性は忘れられ、単純に装飾として使われている[4]

模様のモチーフはボダイジュ、ナツメヤシザクロヒマラヤ山脈から吹き付ける強風で曲がったイトスギなど諸説ある[5]。ペイズリーの周辺に蔓を伸ばし、花を咲かせた構図が多く、ペイズリー自体に花や葉が描かれることもある[6]。ペルシア風の花鳥文を交互に配置した文様がインドに影響を与え、やがて花の形が抽象的な文様に変化していったと考えられている[7]。19世紀末のヨーロッパで発生したアール・ヌーヴォーの潮流はペイズリーにも影響を与え、細長い葉が風に揺らぐ、水が流れるようなデザインが多く生み出された[8]

紋織物にデザインされたペイズリーは線が固く、同一の並びのパターンが連続するものになりがちだった[9]。カシミア・ショールに使われる綴れ織、刺繍はモチーフの色や形を自由に調整することができるためにペイズリー模様は曲線的になり、複雑化した輪郭は布地に溶け込んでいくようになった[9]。カシミール地方でカシミアに織り込まれたペイズリー模様には再現不可能とも言われる難解な技術が使われており[10]、19世紀にカシミア・ショールの模造品が生産されていたイギリスではカシミアと同質の羊毛が入手できず、羊毛に木綿を織り込んで間に合わせていた[7]。初期のペイズリーにはアカネの根、ブドウの葉、クルミの殻、ザクロの皮から採取されたと思われる自然の染料が使用されていたが、イギリスで生産されるようになった後には化学染料が中心になる[2]

イタリアアパレル企業であるエトロアントニオ・ラッティイタリア語版が立ち上げたラッティはペイズリーをあしらった製品で知られている[11]

名称

文様の名前はペイズリーをあしらったカシミア・ショールの模造品が大量に生産されていたスコットランドペイズリー市に由来する[7][12]1840年頃からペイズリー市のショールは有名になり、ショールの模様にペイズリーと名付けられたとされている[13]。ペイズリー市で生産されたショールの知名度が高まる前のヨーロッパでは模様は「スコットランドのスペード」と呼ばれており、当時の模様は小型のスペードが散らばっているようなデザインだった[2]フランスではデザイナーの東洋趣味を反映した「カシミール(Cachemire)」の名前でも知られている[14]

「ペイズリー」の名称が定着する以前、インドでは「ブータ」「カルカ」[15]、イランではペルシア語で「灌木」「茂み」を意味する言葉である「ボテ(Boteh)」と呼ばれていた[16]中国語では「豚のハム」を意味する「火腿紋」と呼ばれている[17]

歴史

ペイズリーの起源は判然とせず、諸説存在する[17]。ヨーロッパのテキスタイルデザイナーの間ではネブカドネザル2世の時代の新バビロニア王国でナツメヤシをモチーフとしたペイズリーの原形が既に使用されていたことが周知され、ペイズリー美術館ではパームツリー(ナツメヤシ)が模様の起源であると紹介されている[18]ロシア連邦南部のアルタイ共和国パジリク古墳群から出土した紀元前500年頃の皮製の容器には、ペイズリーが描かれていたナツメヤシ、アカンサスの葉、パルメットの葉といった生命の木をモチーフとする装飾はアッシリア、バビロニアの時代を経てヘレニズム世界で完成される[18]。ギリシア人の東方植民の中でヘレニズム文化が西アジアにもたらされた時に、ペイズリーも広まったという仮説がヨーロッパで立てられており[18]アレクサンドロス3世の遠征により東方にもたらされたとも言われている[19]。 また、ケルト人が使用していた模様をペイズリーの起源とする説も存在するが、独立した一つ一つの草花文が繰り返されるペイズリーと結合したモチーフが長く連続するケルト独特の模様の差異から、二つの模様の関連性を疑問視する意見もある[18]。インド、イラン、中国といったアジアの地域に起源を置く立場からは、人間の生活に密接に結び付いた松かさをモチーフとする説が出されている[17]

9世紀頃にアフガニスタンバルフに建立されたモスク(寺院)にはペイズリーが見られるが、ペルシア絨毯にペイズリーが描かれるようになったのは時代が下った19世紀以降になる[2]。カシミール地方では主に織物に用いられ、ラージャスターングジャラートでは木版染めによって木綿にあしらわれていた[20]。ペイズリー模様の木綿は日本に輸出され、「更紗」と呼ばれるようになる[21]。17世紀のカシミア・ショールには細く根元まで描かれていた草花文が織り込まれ、このようなムガル帝国の自然主義とペルシア文化の優雅な特徴が合わさったモチーフはブータと呼ばれていた[22]

17世紀後半以降にヨーロッパにカシミア・ショールが輸出されるようになり、ナポレオン・ボナパルトエジプト遠征から帰国した土産物として持ち帰られたカシミア・ショールは上流階級の婦人の間で人気を博した[9]。また、19世紀イギリス東インド会社の職員が故郷に持ち帰った土産物の中に含まれていたショールによって初めてヨーロッパにペイズリーが伝えられたとも言われている[13]。19世紀初頭のヨーロッパではモスリンのドレスの上にカシミア・ショールを羽織るスタイルが流行しており、インドで生産されたショールだけでは供給が不十分な状態になっていた[7]ノリッジエディンバラなどのイギリスの都市ではカシミア・ショールの模造品の生産が行われ[7]、1820年頃に生産が追い付かないエディンバラの工場はペイズリー市の職人にショールの生産を依頼した[13]。ペイズリー市は安価な製品によって販路を開拓し、インドから伝えられた模様をより様式化した[7]

ペイズリー模様を好んだナポレオンはフランスのデザイナーを奨励して模様の改良を促し、フランスはペイズリー模様のデザインの先進地域となる[8]。このためペイズリー市はフランスの模倣をしたと言われるようになり、デザインの特許を巡る問題が発生した[8]。1870年代以降ヨーロッパでのショールの流行は下火になるが、ペイズリーは独立した装飾模様として使われ続けられる[11]

1960年代のアメリカではペイズリーの流行が起き、流行は日本にも及んだ[11]1960年代の日本で流行したサイケデリック・ファッションでは、サイケデリックの視覚イメージを表現するためにペイズリーが使われた[23]

脚注

  1. ^ 田中千代 (1973), “ペーズリー”, 田中千代 服飾事典, 増補版, 同文書院 
  2. ^ a b c d e 福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、94頁
  3. ^ 西上『世界文様事典』、138,140-141頁
  4. ^ 西上『世界文様事典』、142頁
  5. ^ 西上『世界文様事典』、138,141-142頁
  6. ^ 西上『世界文様事典』、141頁
  7. ^ a b c d e f 視覚デザイン研究所・編集室『ヨーロッパの文様事典』、290-291頁
  8. ^ a b c 福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、95頁
  9. ^ a b c 道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、40頁
  10. ^ 道明『すぐわかる世界の染め・織りの見かた』、43頁
  11. ^ a b c 道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、42頁
  12. ^ 西上『世界文様事典』、138頁
  13. ^ a b c 福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、92頁
  14. ^ 福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、94-95頁
  15. ^ 道明『すぐわかる世界の染め・織りの見かた』、43,60頁
  16. ^ 道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、39頁
  17. ^ a b c 福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、91頁
  18. ^ a b c d 福永「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号、90頁
  19. ^ 田中千代 (1973), “ペーズリー・クロース”, 田中千代 服飾事典, 増補版, 同文書院 
  20. ^ 西上『世界文様事典』、139-140頁
  21. ^ 西上『世界文様事典』、140頁
  22. ^ 道明「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457、39-40頁
  23. ^ 城一夫、渡辺直樹『日本のファッション』(青幻舎, 2007年10月)、276頁

参考文献

  • 視覚デザイン研究所・編集室『ヨーロッパの文様事典』(視覚デザイン研究所, 2000年1月)
  • 道明三保子「ペイズリー文様の系譜」『中東研究』NO.457収録(中東調査会, 1999年12月)
  • 道明三保子監修『すぐわかる世界の染め・織りの見かた』(東京美術, 2004年8月)
  • 西上ハルオ『世界文様事典』(創元社, 1994年10月)
  • 福永幸子「ペズリー模様の起源と今日までのデザイン・プロセスについての研究」『倉敷市立短期大学研究紀要』25号収録(倉敷市立短期大学, 1995年)