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'''オルダ'''(Ūrda/Hurdū、? - ?)は、[[ジョチ・ウルス]]の王族。[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の長男[[ジョチ]]の長男。ジョチの正室で[[コンギラト|コンギラト部族]]出身のサルタクを母に持つ<ref name="shimo">志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、744頁</ref>。ジョチの死後、弟の[[バトゥ]]と父の直属の軍隊を二分し、ジョチ・ウルスの左翼(オルダ・ウルス)を形成した<ref>赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、128頁</ref>。
'''オルダ'''('''Орд''')は、13世紀の[[モンゴル帝国]]([[チャガタイ・ハン国]])の軍人。


== 概要 ==
== 生涯 ==
ジョチが没した後、オルダはジョチの本拠地である[[エルティシ川|イルティシュ川]]上流域を相続した<ref name="ks62">クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、62頁</ref>。オルダはバトゥをジョチ家の当主に推戴する[[クリルタイ]]を主宰し、以後も多くの場面でバトゥを支援する<ref name="akasaka144">赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、144頁</ref>。[[17世紀]]の歴史家で[[ヒヴァ・ハン国]]のハンでもある[[アブル=ガーズィー]]はチンギス・ハーンの命令によってバトゥが後継者とされたと述べ、[[16世紀]]の[[ホラズム]]地方で成立した史書『チンギス・ナーメ』にはチンギスがオルダとバトゥの争いを仲裁し、バトゥをジョチの後継者に指名したことが記されている<ref>クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、58-59頁</ref>。
オルダは[[1204年]]、[[ジョチ]]の長男([チンギス・ハン]]の初孫)として生まれた。また、その縁から白馬軍の設立者となった。


[[1235年]]のクリルタイで決定された[[ルーシ (地名)|ルーシ]]への[[モンゴルのルーシ侵攻|遠征]]には、他の兄弟とともに参加している<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、150頁</ref>。[[グユク]]の即位が決定されたクリルタイには欠席したバトゥの代理としてオルダが参加し、[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ・ウルス]]の当主を務める[[イェス・モンケ]]とともに王座に就くグユクの手を取った<ref name="akasaka144"/>。グユクが大ハーンの地位に就いた直後、大ハーンの地位をうかがった[[テムゲ・オッチギン]]の取り調べを[[モンケ]]とともに行った<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、218,228頁</ref>。1250年代半ばにオルダは次男のクリを[[フレグの西征]]に派遣し、その後史料に彼の動向は確認されない<ref>赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、145頁</ref>。
祖父と父の死後、オルダは父の所領の東部を相続した。しかし、オルダは弟・[[バトゥ]]が父の所領の大半を相続したこと([[ジョチ・ウルス]])に納得していなかった。


オルダの死後、四男のコングランがオルダ・ウルスの統治者となった。オルダはジョチの存命中から敬意を払われ、ジョチが没してバトゥがジョチ一門の当主となった後もそれは変わらなかった<ref>クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、61頁</ref>。オルダ・ウルスは名目上はバトゥの一族が当主を務めるジョチ宗家に従属していたが実質的には独立状態にあり、宗家の方針と異なる行動をとることもあった<ref>赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、136-137頁</ref>。
彼の所領は主に[[バルハシ湖]]から[[ヴォルガ川]]であり、彼の白馬軍の根拠地でもあった(ヴォルガ西部は弟・バトゥの領地)。


== 家族 ==
[[1246年]]に[[グユク]]は皇位簒奪を目論んだテムゲ・オッチギンの調査をオルダと[[モンケ]]に命じた。
『ムイーズ史選』には、オルダはコンギラト部族の女性を母とし、同母兄弟にはエセンがいたと記されている<ref>クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、58頁</ref>。『金帳汗国の没落』を著したサファルガリエフは、モンゴルの末子相続の習慣とジョチの本拠地を相続したことからオルダがジョチの末子である可能性を指摘したが、サファルガリエフの意見は多くの反論を生んだ<ref name="ks62"/>。サファルガリエフに否定的な態度を示した研究者の一人である[[テュルク系民族|テュルク]]学者のグリゴリエフはオルダの渾名である「エジェン」が通常四男に付けられる名前であることから、オルダはジョチの四男だと主張した<ref name="ks62"/>。


『[[集史]]』の著者[[ラシードゥッディーン]]はオルダにチュケ・ハトン、トバカネ・ハトンら3人のコンギラト部族出身の妃がいたことを記している<ref name="shimo"/>。オルダの子として、以下に挙げる7人の男子と2人の女子が史料で確認できる<ref>赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、12-14,145頁、付録11-12頁</ref>。
サブタイとバトゥが[[ハンガリー]]を攻めている間、オルダと[[バイダル]]、[[カダン]]は[[ポーランド]]にてハンガリー支援を防ぐためポーランド・[[チェコ]]軍と交戦していた。
* サルタクタイ
* クリ
* クルムシ
* コングラン
* チョルマカイ
* クトクイ
* フレグ(フラウ)


== 脚注 ==
オルダの軍勢は[[リトアニア]]の最南部の国境付近を制圧し、[[1241年]]4月には[[サンドミエシュ]]と[[クラクフ]]を陥落させた。しかし[[シレジア]]の中心部・[[ヴロツワフ]]の攻略には失敗した。
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
オルダがヴロツワフ攻めの準備をしている時、バイダルとカダンが「ボヘミア王・[[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ1世]]が50,000の手勢を率いて2日程で攻め寄せる」との急報を受け取った。オルダはヴロツワフ攻撃を中止してヴァーツラフ1世の軍勢とポーランド王・ヘンリク2世の軍勢の合流を阻止すべく[[ワールシュタット|レグニツァ]]へ引き返した。
* 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房, 2005年2月)
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年12月)
* S.G.クシャルトゥルヌ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会 2003年)


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[[Image:MongolCavalrymen.jpg|thumb|190px|モンゴルの弓騎兵]]
[[Category:不明]]

[[Category:没年不明]]
オルダが展開した20,000人の[[弓]]騎兵は戦闘に於いて、重い鎧を着た[[ヨーロッパ]]兵とは違い、スピード・機動性に優れていることを見せつけた。
[[Category:ジョチ]]

オルダらの攻撃によりポーランド軍はモンゴル騎兵の放つ弓の一斉射撃に対抗する体勢を崩し、モンゴル軍は[[マングダイ]]の撤退を隠すために[[煙幕]]を用いた。これにより、[[ヘンリク2世]]の軍に誤解が生じる。ポーランドの騎兵らはマングダイを追いかけたが、これによってモンゴル軍は騎兵の各個撃破が可能になり、それを実行していった。ヘンリク2世は戦場から離脱を試みたものの打ち取られた。

ヴァーツラフ1世は大幅に遅れて戦場に到着した時既に遅く、[[マイセン]]はモンゴル軍の一部隊に迅速に落とされ、[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]からの援軍を探していた。

一方、モンゴル軍は勢いよく東(中央シレジア方面)へ引き返し、[[クウォツコ]]を経由して[[ボヘミア]]攻撃を試みたが、突然中止してそこを国境と定めた。

後にオルダ率いるマングダイ(=モンゴルの騎馬隊)は[[オトムフフ]]に居た[[バイダル]]と[[カダン]]の軍勢に合流し、[[モラヴィア]]を通過して[[エステルゴム]]付近に居たモンゴル軍本隊(ハンガリー攻撃部隊)に合流した。

[[1251年]]、オルダは彼の領内を上手くまとめられないまま死去した。

== 関連項目 ==
*[[ジョチ]]
*[[バトゥ]]
*[[グユク]]
*[[バイダル]]
*[[モンゴルのポーランド侵攻]]
*[[ワールシュタットの戦い]]

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[[Category:中央ユーラシア史]]
[[Category:モンゴルの歴史]]
[[Category:1251]]
[[Category:モンゴル帝国の戦闘]]

2015年12月23日 (水) 08:19時点における版

オルダ(Ūrda/Hurdū、? - ?)は、ジョチ・ウルスの王族。チンギス・ハーンの長男ジョチの長男。ジョチの正室でコンギラト部族出身のサルタクを母に持つ[1]。ジョチの死後、弟のバトゥと父の直属の軍隊を二分し、ジョチ・ウルスの左翼(オルダ・ウルス)を形成した[2]

生涯

ジョチが没した後、オルダはジョチの本拠地であるイルティシュ川上流域を相続した[3]。オルダはバトゥをジョチ家の当主に推戴するクリルタイを主宰し、以後も多くの場面でバトゥを支援する[4]17世紀の歴史家でヒヴァ・ハン国のハンでもあるアブル=ガーズィーはチンギス・ハーンの命令によってバトゥが後継者とされたと述べ、16世紀ホラズム地方で成立した史書『チンギス・ナーメ』にはチンギスがオルダとバトゥの争いを仲裁し、バトゥをジョチの後継者に指名したことが記されている[5]

1235年のクリルタイで決定されたルーシへの遠征には、他の兄弟とともに参加している[6]グユクの即位が決定されたクリルタイには欠席したバトゥの代理としてオルダが参加し、チャガタイ・ウルスの当主を務めるイェス・モンケとともに王座に就くグユクの手を取った[4]。グユクが大ハーンの地位に就いた直後、大ハーンの地位をうかがったテムゲ・オッチギンの取り調べをモンケとともに行った[7]。1250年代半ばにオルダは次男のクリをフレグの西征に派遣し、その後史料に彼の動向は確認されない[8]

オルダの死後、四男のコングランがオルダ・ウルスの統治者となった。オルダはジョチの存命中から敬意を払われ、ジョチが没してバトゥがジョチ一門の当主となった後もそれは変わらなかった[9]。オルダ・ウルスは名目上はバトゥの一族が当主を務めるジョチ宗家に従属していたが実質的には独立状態にあり、宗家の方針と異なる行動をとることもあった[10]

家族

『ムイーズ史選』には、オルダはコンギラト部族の女性を母とし、同母兄弟にはエセンがいたと記されている[11]。『金帳汗国の没落』を著したサファルガリエフは、モンゴルの末子相続の習慣とジョチの本拠地を相続したことからオルダがジョチの末子である可能性を指摘したが、サファルガリエフの意見は多くの反論を生んだ[3]。サファルガリエフに否定的な態度を示した研究者の一人であるテュルク学者のグリゴリエフはオルダの渾名である「エジェン」が通常四男に付けられる名前であることから、オルダはジョチの四男だと主張した[3]

集史』の著者ラシードゥッディーンはオルダにチュケ・ハトン、トバカネ・ハトンら3人のコンギラト部族出身の妃がいたことを記している[1]。オルダの子として、以下に挙げる7人の男子と2人の女子が史料で確認できる[12]

  • サルタクタイ
  • クリ
  • クルムシ
  • コングラン
  • チョルマカイ
  • クトクイ
  • フレグ(フラウ)

脚注

  1. ^ a b 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、744頁
  2. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、128頁
  3. ^ a b c クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、62頁
  4. ^ a b 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、144頁
  5. ^ クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、58-59頁
  6. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、150頁
  7. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、218,228頁
  8. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、145頁
  9. ^ クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、61頁
  10. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、136-137頁
  11. ^ クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、58頁
  12. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、12-14,145頁、付録11-12頁

参考文献

  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房, 2005年2月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年12月)
  • S.G.クシャルトゥルヌ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会 2003年)