「信州そば」の版間の差分
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現在食べられている麺線状のそば(そば切り)は信州から始まったといわれ、それ以前は団子状の「そばがき」や「すいとん」、薄く焼いた「お焼き」、「煎餅」などとして食べられていた。そば切りの最古の記録は天正2年([[1574年]])、信州木曽にある定勝寺の記録にみられ(落成祝いにそば切りを振る舞ったというもの)、その発祥は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以前にさかのぼると思われる。 |
現在食べられている麺線状のそば(そば切り)は信州から始まったといわれ、それ以前は団子状の「そばがき」や「すいとん」、薄く焼いた「お焼き」、「煎餅」などとして食べられていた。そば切りの最古の記録は天正2年([[1574年]])、信州木曽にある定勝寺の記録にみられ(落成祝いにそば切りを振る舞ったというもの)、その発祥は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以前にさかのぼると思われる。 |
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<ref> 佐久史学会発行「佐久48.49合併号」</ref>なお、信州佐久の篠澤家には次の3種類のそば料理に関する古文書が現存している。 |
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・慶安元年(1648)文献名「青山因幡守様御献立」…信州佐久岩村田篠澤佐五右衛門が小諸城主に蕎麦切献上。 |
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・寛延3年(1750)文献名「内藤美濃守様御法要献立」…信州佐久岩村田篠澤佐五右衛門が岩村田藩主の法要に蕎麦切献上。 |
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・宝暦13年(1763)文献名「伊勢町奉行依田金十郎様御献立」…信州佐久岩村田篠澤佐五右衛門が依田金十郎伊勢町奉行に蕎麦切献上。 |
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伝統的には山間の救荒食であった蕎麦だが、そば切りに関してはもともとハレの日のごちそうという性格が強く、江戸時代中期以降、江戸の庶民文化の中で嗜好品として花開いた。また、[[出石そば]]、[[出雲そば]]、[[越前そば]]や、京都の[[にしんそば]]など各地のご当地そばのルーツも元をたどれば信州にあるといわれている。 |
伝統的には山間の救荒食であった蕎麦だが、そば切りに関してはもともとハレの日のごちそうという性格が強く、江戸時代中期以降、江戸の庶民文化の中で嗜好品として花開いた。また、[[出石そば]]、[[出雲そば]]、[[越前そば]]や、京都の[[にしんそば]]など各地のご当地そばのルーツも元をたどれば信州にあるといわれている。 |
2015年9月15日 (火) 04:27時点における版
信州そば(しんしゅうそば)は、一般的には長野県で作られるそばの総称である。と考えられている。中でも、長野県信州そば協同組合(長野県内業者21社で構成)において、組合に申請のある製品に対し、そば粉を40%以上配合した良質の干しそばを商標登録した信州そばとして認定してロゴマーク使用の許可をする。 特に松本市内の蕎麦処は有名店が集中しており、天ぷらや馬刺しなどを一緒に食す場合が多い。蕎麦焼酎の蕎麦茶割などは、通好みの酒の飲み方として今も愛されている。
よもやま話
現在食べられている麺線状のそば(そば切り)は信州から始まったといわれ、それ以前は団子状の「そばがき」や「すいとん」、薄く焼いた「お焼き」、「煎餅」などとして食べられていた。そば切りの最古の記録は天正2年(1574年)、信州木曽にある定勝寺の記録にみられ(落成祝いにそば切りを振る舞ったというもの)、その発祥は戦国時代以前にさかのぼると思われる。
[1]なお、信州佐久の篠澤家には次の3種類のそば料理に関する古文書が現存している。
・慶安元年(1648)文献名「青山因幡守様御献立」…信州佐久岩村田篠澤佐五右衛門が小諸城主に蕎麦切献上。
・寛延3年(1750)文献名「内藤美濃守様御法要献立」…信州佐久岩村田篠澤佐五右衛門が岩村田藩主の法要に蕎麦切献上。
・宝暦13年(1763)文献名「伊勢町奉行依田金十郎様御献立」…信州佐久岩村田篠澤佐五右衛門が依田金十郎伊勢町奉行に蕎麦切献上。
伝統的には山間の救荒食であった蕎麦だが、そば切りに関してはもともとハレの日のごちそうという性格が強く、江戸時代中期以降、江戸の庶民文化の中で嗜好品として花開いた。また、出石そば、出雲そば、越前そばや、京都のにしんそばなど各地のご当地そばのルーツも元をたどれば信州にあるといわれている。
そばは高冷地の土地を好むことから、信州の風土が合致し比較的多く栽培され、各地域で自家製料理として多様なそばうちが存在している。しかしながら、農業先進県で耕地面積の多い長野県だが、先進ゆえ他の優良作物の栽培が多く、そばの製造量をまかなえるだけの作付けがなく、輸入も含めた県外産のソバを使用しているのが実情である。
外部リンク
- ^ 佐久史学会発行「佐久48.49合併号」