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「佐原の町並み」の版間の差分

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== 町並みの形成とその発展 ==
== 町並みの形成とその発展 ==
[[File:Sawara district Katori city Aerial photograph.1984.jpg|thumb|270px|佐原周辺の空中写真。画像中央部の市街地が佐原地区。古い街路区画の残る家屋の密集する市街地の中央を[[小野川 (千葉県)|小野川]]が南から北へ流れる。画像上方の大きな河川は[[利根川]]。街路や建造物と比較すると利根川の大きさがよく分かる。<br/>1984年撮影の6枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
[[File:Sawara district Katori city Aerial photograph.1984.jpg|thumb|270px|佐原周辺の空中写真。画像中央部の市街地が佐原地区。古い街路区画の残る家屋の密集する市街地の中央を[[小野川 (千葉県)|小野川]]が南から北へ流れる。画像上方の大きな河川は[[利根川]]。街路や建造物と比較すると利根川の大きさがよく分かる。<br/>1984年撮影の6枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
小野川沿いの商業都市としての町並みは、遅くとも南北朝時代に作られたとされる<ref name="keikakuka">香取市都市計画課(2008)</ref>。佐原の地は[[香取神宮]]領内にあった村落の1つ<ref>小森(2008)p175</ref>であるが、元々は小野川と[[香取海]]の間に形成された砂州の堆積によって形成された[[無主地]]であったとみられ、香取神宮の支配も限定的であったことがその後の町の発展に影響を与えたと考えられる<ref>小森(2008)p176-177</ref>。1374年頃に作成された「海夫注文」と呼ばれる文書にはこの地域の主要な津(港)の名前が記されており、その中に「さわらの津 中村」という表記があり、これは[[千葉氏]]の被官である中村氏が佐原の地頭であったことを示しているとみられる<ref>小森(2008)p176-177</ref>。また、1388年にこの中村氏によるものとみられる「嘉慶二年一二月一一日付中村胤幹還付状(写)」によって当時の佐原に市場や宿が形成されていたことが判明する<ref>小森(2008)p175-177、232</ref>。はじめは小野川の東側が中心であったが、江戸時代に入る頃には西側まで範囲が拡大した。そしてこの時期から、東側を「本宿」、西側を「新宿」と呼ぶようになった。
小野川沿いの商業都市としての町並みは、遅くとも南北朝時代に作られたとされる<ref name="keikakuka">[[#香取市都市計画課(2008)|香取市都市計画課(2008)]]</ref>。佐原の地は[[香取神宮]]領内にあった村落の1つ<ref>[[#小森(2008)|小森(2008)]] p.175</ref>であるが、元々は小野川と[[香取海]]の間に形成された砂州の堆積によって形成された[[無主地]]であったとみられ、香取神宮の支配も限定的であったことがその後の町の発展に影響を与えたと考えられる<ref name="komori176-177">[[#小森(2008)|小森(2008)]]pp.176-177</ref>。1374年頃に作成された「海夫注文」と呼ばれる文書にはこの地域の主要な津(港)の名前が記されており、その中に「さわらの津 中村」という表記があり、これは[[千葉氏]]の被官である中村氏が佐原の地頭であったことを示しているとみられる<ref name="komori176-177"/>。また、1388年にこの中村氏によるものとみられる「嘉慶二年一二月一一日付中村胤幹還付状(写)」によって当時の佐原に市場や宿が形成されていたことが判明する<ref>[[#小森(2008)|小森(2008)]]pp.175-177、232</ref>。はじめは小野川の東側が中心であったが、江戸時代に入る頃には西側まで範囲が拡大した。そしてこの時期から、東側を「本宿」、西側を「新宿」と呼ぶようになった。


[[利根川東遷事業]]が完了し、小野川が利根川と繋がると、東北地方などから物資が利根川を経由し江戸へ至るルートが確立されたため、佐原はその舟運の拠点となった。新宿では定期市(六斎市)が開かれにぎわった。さらに、醤油や酒の醸造業が盛んとなった。江戸中期には35軒もの造酒屋が存在し<ref>島田(1998)p63</ref>、関東灘とも呼ばれた。佐原は香取街道のほか銚子方面、成田方面への街道も通じ、陸上交通の要衝でもあった。
[[利根川東遷事業]]が完了し、小野川が利根川と繋がると、東北地方などから物資が利根川を経由し江戸へ至るルートが確立されたため、佐原はその舟運の拠点となった。新宿では定期市(六斎市)が開かれにぎわった。さらに、醤油や酒の醸造業が盛んとなった。江戸中期には35軒もの造酒屋が存在し<ref>[[#島田(1998)|島田(1998)]]p.63</ref>、関東灘とも呼ばれた。佐原は香取街道のほか銚子方面、成田方面への街道も通じ、陸上交通の要衝でもあった。


江戸時代後期の1838年には、人口が5647人を数えた<ref>島田(1998)p42</ref>。この江戸後期から明治時代にかけてが、佐原の最も栄えた時代である。その繁栄の様子は、1855年の「[[利根川図志]]」にも取り上げられている。同書によると、小野川を利用する商人や旅人は両岸の狭いことをうらみ、往来する舟や人は昼夜止むことがなかったという。
江戸時代後期の1838年には、人口が5647人を数えた<ref>[[#島田(1998)|島田(1998)]]p.42</ref>。この江戸後期から明治時代にかけてが、佐原の最も栄えた時代である。その繁栄の様子は、1855年の「[[利根川図志]]」にも取り上げられている。同書によると、小野川を利用する商人や旅人は両岸の狭いことをうらみ、往来する舟や人は昼夜止むことがなかったという<ref>[[#赤松(1938)|赤松(1938)]] p.313</ref>


また、他の地方から佐原に店を出す商人もあった。たとえば京都の2代目杉本新右衛門は、1786年、佐原に呉服屋「[[奈良屋 (百貨店)|奈良屋]]」を出店し、佐原を代表する商店となった(佐原で成功した奈良屋はその後千葉にも支店を出し。現在の千葉三越である。また、佐倉にも出店している)。こういった経済的な繁栄は文化にも影響を与え、[[楫取魚彦]]、[[伊能忠敬]]を輩出することとなった。
また、他の地方から佐原に店を出す商人もあった。たとえば京都の2代目杉本新右衛門は、「日本国中、正月の元日から商売の出来るのは、伊勢の山田と下総の佐原である」<ref>[[#小堀(1999)|小堀(1999)]] p.23</ref>として、1786年、佐原に呉服屋「[[奈良屋 (百貨店)|奈良屋]]」を出店し、佐原を代表する商店となった。こういった経済的な繁栄は文化にも影響を与え、[[楫取魚彦]]、[[伊能忠敬]]を輩出することとなった<ref name="sakou">[[#『佐原高等学校百年史』(2001)|『佐原高等学校百年史』(2001)]] pp.56-57</ref>


1898年、佐原に鉄道が開通すると、東京までの物資の輸送としての舟運は下火になるが、代わりに、周辺の鉄道が通じていない農村から米などの物資を佐原駅まで舟で運搬し、それを鉄道で他地域に運ぶというルートが確立したため、その後も繁栄は続いた。1920年の国勢調査では、佐原の人口は15299人で、これは千葉県内では千葉、銚子に次ぐ数字であった。
1898年、佐原に鉄道が開通すると、東京までの物資の輸送としての舟運は下火になるが、代わりに、周辺の鉄道が通じていない農村から米などの物資を佐原駅まで舟で運搬し、それを鉄道で他地域に運ぶというルートが確立したため、その後も繁栄は続いた<ref name="kobori24">[[#小堀(1999)|小堀(1999)]] p.24</ref>。1920年の国勢調査では、佐原の人口は15299人で、これは千葉県内では千葉、銚子に次ぐ数字であった<ref name="sakou"/>


== 町並み保存 ==
== 町並み保存活動の歴史 ==
=== 中心市街地の衰退 ===
1933年、成田線が松岸まで延伸されると、鉄道における佐原の優位性は薄まった。その3年後には[[水郷大橋]]が開通し、佐原地区の交通にも変化が見られるようになり、舟運は衰退していった。
1933年、[[成田線]]が[[松岸駅]]まで延伸されると、鉄道における佐原の優位性は薄まった。その3年後には[[水郷大橋]]が開通し、佐原地区の交通にも変化が見られるようになり、舟運は衰退していった<ref name="kobori24"/>。


第二次大戦後になると、佐原の中心部も[[佐原駅]]周辺へと移動し、さらは佐原自体の商業都市としの地位も低下していった。これには、周辺自治体発展や、交通手段自動車へと変化したこと大きく影響している
第二次世界大戦後になると、佐原の中心部も[[佐原駅]]周辺へと移動し、駅前大型デパートが建られた。そして、小野川周辺のかつて市街地は商業活動衰え、伝統的建造物残された<ref name="kobori24"/>


=== 1974年の調査 ===
そのため、小野川周辺の市街地には伝統的な建造物が残された。
[[1974年]]、文化庁は、市街地の開発によって全国的に破壊されつつある伝統的な景観を保護するため、「伝統的建造物群保存地区保存対策のための調査および計画策定」と銘打って、いくつかの地区を対象に調査を計画した<ref name="1975-1">[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]] p.1</ref>。佐原は、河港商業都市としての景観を良く残しているとしてこの調査の対象に選ばれ、佐原市が主体となり、国や県の補助を受けて調査がおこなわれた<ref name="1975-1"/>。調査結果は[[大河直躬]]らの手により翌年に報告書としてまとめられた。


調査によって、佐原の町は小野川沿いと香取街道沿いを中心に、町屋や土蔵といった古い建築物が残り、町並みは江戸時代から昭和まで幅広い年代の建材物が混在していることが明らかになった<ref>[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]] pp.17-22,36</ref>。建築物以外では、小野川両岸の石垣や荷揚用階段(だし)が景観上重要で、これらも含めて町並み保存の対象にした<ref>[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]] pp.37-38</ref><ref>[[#観光資源保護財団(1983)|観光資源保護財団(1983)]] p.30</ref>。
町並みの保存に関しては、1974年に初の調査が行われた。しかし、この時は保存運動は活発ではなかった。当時の佐原は今までの繁栄していた雰囲気を残しており、保存より再開発を望む声も多かったのである。一部には、小野川を塞いで駐車場にしようという意見があったほどである<ref name="keikakuka"/>。護岸工事のため「だし」はほとんどが取り壊された。建造物も、特に小野川沿いは舟運に依存した店が多かったこともあり、廃業し現代的な建物の住宅地となった区域が多く見られた<ref>小堀(1999)</ref>。香取街道沿いでも、先述の奈良屋(建物は大正時代に改築された木造2階建て)が閉店後取り壊されている。


しかし、この時期の主な取り組みは、町屋2棟を県の文化財に指定したことにとどまり、積極的な保存活動は見られなかった<ref name="1983-hajimeni">[[#観光資源保護財団(1983)|観光資源保護財団(1983)]] 「はじめに」</ref><ref>[[#窪田(2014)|窪田(2014)]] p.2444</ref>。当時の佐原は今までの繁栄していた雰囲気を残しており、保存より再開発を望む声も多かった<ref name="keikakuka13">[[#香取市都市計画課(2008)|香取市都市計画課(2008)]] p.13</ref>。小野川沿いに植えられていた柳や[[プラタナス]]の並木は多くが切られ<ref>「週刊平凡」1975年6月5日号「江戸まさりの"関東の柳川"」 p.89</ref>、だしもその後に護岸工事のためほとんどが取り壊された。さらには、小野川に蓋をして、その上を駐車場にする案まであった<ref name="keikakuka13"/>。
1982年にも財団法人観光資源保護財団により調査が行われたが、そこでは、「佐原の歴史的町並みは、正直にいって、すばらしいとはいいがたい。現代風に改装、新築した家も多く、町並みとしてはいわゆる"歯抜け"の状況が目立つ。」と、厳しい意見も出されている。また、この調査では地域住民にアンケートを取っているが、そこでは今後について、「道路を拡幅して近代的な商店街をかたちづくる(53%)」「伝統的な町並みを生かした商店街をつくる(29%)」「住宅地としての良好な環境の維持・形成に努める(25%)」と、再開発を望む声がいまだ多かった。ちなみに小野川に関しては、「きたないので暗きょにし、上は駐車場等に利用する」が35%、「きたないので浄化する」が60%という結果であった<ref>小野川駐車場案の背景には、小野川の水質悪化のほかに、路上駐車の問題もあった。当時の小野川沿いの道は「格好の駐車場となっており、車が停められるとあとは通過する車のための余地がようやく残されるだけ」(1983年の調査報告より)という状態だったのである。現在は駐車禁止となっている。</ref>。


=== 1982年の調査 ===
しかし、1988年の[[ふるさと創生事業]]の使い道として、町並み保存の案が出されたあたりから、風向きが変わってきた。この時期はモータリゼーション化や、周辺自治体の発展([[成田空港]]の開港、[[鹿島臨海工業地帯|鹿島・神栖の工業地域]]の形成)の影響がさらに強まっており、佐原は地域における商業の中心地としての機能を失っていたため、新たな打開策を見出そうという意見が出てきたのである<ref>白井他(2009年) p96</ref>。
[[1982年]]、財団法人観光資源保護財団の手により、佐原の町並みに関する2度目の調査がおこなわれた。この調査は、「前回の調査を受けて、町並み保存についてより具体的な、一歩すすんだ方針を得ようとする<ref name="1983-hajimeni"/>」ことを目的とした。調査報告書は千葉大学の福川裕一らの手によって、1983年に「佐原の町並み よみがえれ、水郷の商都」としてまとめられた。


この報告書には、調査員からの意見や感想がいくつか見られるが、たとえば全国町並み保存連盟顧問の石川忠臣は、「佐原の歴史的町並みは、正直にいって、すばらしいとはいいがたい。小野川沿いにしろ、香取街道沿いにしろ、現代風に改造、新築した家も多く、町並みとしてはいわゆる"歯抜け"の状況が目立つ<ref name="1983-16>[[#観光資源保護財団(1983)|観光資源保護財団(1983)]] p.16</ref>」と評したうえで、しかし、[[妻籠宿|妻籠]]の町並みが保存活動によって観光資源としてよみがえったように、佐原も"やる気"があれば再生可能だと述べた<ref name="1983-16/>。
この流れにのって、1991年には「佐原の町並みを考える会」(現:NPO小野川と佐原の町並みを考える会、以下「考える会」)が発足した。考える会は町並み保存のための基本計画を作成し佐原市(当時)市長に提出。市でもこれを受け、1994年に「佐原市歴史的景観条例」を制定し、翌々年に保存地区を決定した。また「考える会」は説明活動を通して、町並み保存に関して地域住民の理解を求めた<ref>白井他(2009年) p96</ref>。


しかし、この調査後も町並み保存についての進展は少なく、先進地の視察研修程度にとどまった<ref name="10years-5">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.5</ref>。住民の意識も、前回調査時と比べると変わりつつあった<ref name="10years-3">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.3</ref>ものの、伝統的な町並みを生かすという考えをとる人は一部にとどまった<ref group="注釈">たとえば、地域住民へのアンケートでは、町を良くする方法として「道路を拡幅して近代的な商店街をかたちづくる(53%)」を選択した住人が最も多く、「伝統的な町並みを生かした商店街をつくる(29%)」を大きく上回っている。小野川に関しては、「きたないので暗きょにし、上は駐車場等に利用する」が35.4%、「きたないので浄化する」が60.2%という結果であった。この結果について調査員は、「前者の答えが意外に多いので驚いている」と述べている([[#観光資源保護財団(1983)|観光資源保護財団(1983)]] p.28)</ref>。
このような活動が実を結び、1996年、「考える会」の目標でもあった重要伝統的建造物群保存地区として選定された。関東では初の選定であった。保存地区選定後は国の補助も受け、建造物の保存のための修理が行われるようになった。


したがって、この間に奈良屋(大正6年築、木造2階建てデパート)や、数棟の茅葺きの町屋などが取り壊され<ref name="10years-3"/>、蔵も今風に建て替えられたりした<ref name="taguchi58">[[#田口(2009)|田口(2009)]] p.58</ref>。取り壊されなかった建物も、いわゆる[[看板建築]]のように前面に新しく覆いがされ、元の外見を見えなくしたものも多かった<ref>[[#西(1989)|西(1989)]] p.50</ref>。小野川のだしも1989年時点で残っているのは2か所のみとなった。そして川沿いには路上駐車の車が並び、「あとは通過する車のための余地がようやく残されるだけ<ref>[[#観光資源保護財団(1983)|観光資源保護財団(1983)]] p.24</ref>」といった状態であった。2度にわたる調査がいずれも具体的な活動や重要伝統的建造物群保存地区の指定といった成果に結び付かなかったことは、町並み保存運動として「2度の失敗」と位置付けられている<ref name="10years-5"/>。とはいうものの、この年代になると、本地区はすでにかつての地域中心都市としての地位が低下していたこともあって、他の都市と比較して大規模な乱開発はまぬがれ、多くの歴史的建造物は残された<ref name="taguchi58"/><ref>[[#小堀(1999)|小堀(1999)]] p.26</ref>。
こうした取り組みの中、まちづくりに関しても新たな動きが活発になった。ボランティアによる小野川の清掃、行政による電線の地中化、忠敬橋歩道橋の撤去、「だし」の復元、「考える会」による観光案内の設置などが行われた。第三セクター「ぶれきめら」、地域の女性による「佐原おかみさん会」といった、新しい団体も設立され、前者は舟による町並みめぐり事業、後者は「佐原まちぐるみ博物館」の設置を行った。こうした観光客向け事業が盛んになる一方、町並みの修繕・保存に関しても、引き続き官民一体となった取り組み<ref>http://www.toshisaisei.go.jp/05suisin/kantoh/04suisin/zenkoku/01_giji.html</ref>が続けられている。


=== 町並み保存に関する年表 ===
=== 保存活動の始まり ===
昭和60年代に入ると、[[モータリゼーション]]などの影響で、買い物客は郊外に進出してきた大型店舗を利用するようになった<ref>[[#金野(2010)|金野(2010)]] pp.230-231</ref><ref name="shirai96">[[#白井他(2009)|白井他(2009)]] p.96</ref>。さらに、[[成田空港]]の開港、[[鹿島臨海工業地帯|鹿島・神栖の工業地域]]の形成といった周辺自治体の発展の影響がさらに強まり、佐原は地域における商業の中心地としての機能を失っていた<ref name="sakou"/>。そのなかで、佐原の町を再び活気づかせるため、観光客の取り込みが模索されるようになり、その一環として歴史的な町並みが注目されるようになった<ref name="shirai96"/><ref>[[#金野(2010)|金野(2010)]] p.231</ref>。

具体的な町並み保存活動のきっかけとなったのは、[[竹下登]]首相のもとで[[1988年]]から実施された[[ふるさと創生事業]]である。佐原市はこの資金の使い道についてアイディアを募集したところ、町並み保存や伊能忠敬関係について使うという意見が多く出された<ref>[[#金野(2010)|金野(2010)]] p.232</ref>。これらの案は市役所職員による検討ののち、佐原市と市民の代表者の間で数回にわたる話し合いがなされた。さらに[[国土庁]]地域振興アドバイザーの勧めもあって、町並み保存の流れで話がまとまった。そして[[1991年]]、市民団体「佐原の町並みを考える会」が設立された<ref name="10years-5"/>(同年7月に「小野川と佐原の町並みを考える会」に名称変更。以下、本項では「考える会」と表記する)。

また、当時佐原を代表する洋風建築であった[[三菱銀行]]佐原支店の建物([[佐原三菱館|三菱館]])は、改築によって取り壊されることになっていた。地元有志はこれに反対して建物の保存を訴え、その結果、三菱銀行は三菱館を市に寄贈することに決まった(土地は市が取得)<ref name="10years-21">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.21</ref><ref>[[#松本(2009)|松本(2009)]] p.39</ref>。

=== 保存計画の作成 ===
考える会は三菱館を拠点にして観光案内をおこない、夜には学習会を開いて保存計画を考えた<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] pp.7,12</ref>。計画を立てるにあたっては、町並み保存先進地の事例を参考にしようとしたが、保存方法は各地でばらばらであり、統一したマニュアルも無かったため、行政担当の高橋賢一が作った案をもとに、佐原に合った方法を考えて作成することにした<ref name="10years-15">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.15</ref>。

1992年5月からは、行政と協力して実際に建物調査をおこなった<ref name="10years-15"/><ref>[[#日事連(2012)|日事連(2012)]] p.15</ref>。これは、独自に作った調査台帳に基づいて建物の構造などを調べるもので、331件617棟を調査した。建物の価値はA(絶対に残したいもの)からD(歴史的景観を阻害しているもの)までの4段階に分類し、その分布などから保存の対象とする地区を決め、市の予算に見合うように保存経費を算出した<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.16</ref>。

このようにして考える会は企画書「佐原市小野川・香取街道歴史的町並み保存基本計画」を作成し、1992年9月、市長に提出した。当時の佐原市長鈴木全一は後に、「調査員の方々が一軒一軒歩きながら作った資料を見せられて、驚きました。皆さんの強い意気込みが伝わり、3度目の正直ではないが、今回は成功するのではないかと感じたものです」と述べている<ref name="10years-17">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.17</ref>。

佐原市は補助金を出し、より総合的・具体的な保存計画を出すように求めた。この計画書は関係機関などとの協議のもとで作成され、1993年5月に「佐原市佐原地区町並み形成基本計画」として刊行された<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] pp.12-13,17</ref>。

=== 重伝建地区への選定 ===
「佐原市佐原地区町並み形成基本計画」は保存地区全戸に配布され、さらに考える会によって住民向けの資料「町並み保存Q&A」が作成された<ref name="10years-17"/>。佐原市と考える会は共同で説明会を開いた<ref name="shirai97">[[#白井他(2009)|白井他(2009)]] p.97</ref>。

佐原市は1994年に「佐原市歴史的景観条例」を施行し、1995年には市の窓口となるまちづくり推進室を設置した<ref name="shirai97"/><ref>[[#金野(2010)|金野(2010)]] pp.233-234</ref>。景観条例の施行によって助成のシステムが整い<ref>[[#香取市(2006)|香取市(2006)]] p.44</ref>、1994年から1997年までの間に合計45件の修理・修景がおこなわれた<ref name="okazaki316">[[#岡崎他(2001)|岡崎他(2001)]] p.316</ref>。

また、1994年には、実際に保存地区に住んでいる住民によって「佐原町並み保存会」が発足した<ref name="10years-21"/>。これによって、考える会、行政、地域住民が一体となって町並み保存に取り組める体制が整った<ref>[[#金野(2010)|金野(2010)]] p.234</ref>。

考える会では1995年から毎年小野川の清掃・美化作業を始めた。当時の小野川は生活排水が流れ込み、粗大ごみが捨てられているような状態だった<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.20</ref>。そのようななかで地域住民がこの川の価値に気付いたのは、[[岐阜県]][[高山市]]から来た視察団に、「どうして資源として活用しないのか」と尋ねられたことがきっかけだった<ref>[[#田口(2009)|田口(2009)]] p.60</ref>。さらに、佐原に来た観光客から川が汚いとの指摘を受けたことが、清掃作業を始める契機となった<ref name="10years-13">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.13</ref>。小野川清掃活動は、町並み保存に乗り気でなかった地域住民からの理解を得ることにもつながった<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.19</ref>。また、1996年には小野川浄化用水の導水施設も稼働した<ref name="taguchi63">[[#田口(2009)|田口(2009)]] p.63</ref>。

そして1995年、佐原市は保存地区を決めるにあたっての同意書を作成し、建物の所有者の同意を得ることにした。市は考える会と協力して所有者に対して戸別に説明し、その結果、92%の賛同票を得ることができた<ref name="okazaki316"/><ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] pp.13,19</ref>。

このような活動が実を結び、[[1996年]][[12月10日]]の官報告示で、佐原の町並みは重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された<ref name="10years-13"/>。関東地区からは初の選出だった。

=== 保存活動と観光事業の推進 ===
[[File:Sawara onogawa 20100504.jpg|thumb|小野川観光舟事業(2010年撮影)]]
重伝建選定後は建造物保存のための修理について国の補助も受けられるようになった。はじめのうちは修理を希望する家が少なく、市役所の職員が個別に勧誘に回っても良い反応が得られなかった。しかし次第に理解が得られるようになり、修復の内容も、より昔の手法に近いものが求められるようになっていった<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2010)|小野川と佐原の町並みを考える会(2010)]] p.28</ref>。

また当時、町並みの中心部にある[[忠敬橋]]には歩道橋が掛けられていた。この歩道橋の存在については昔から賛否両論あった<ref group="注釈">歩道橋のメリットとしては、[[佐原の大祭]]の見物に役立つという点が挙げられた。</ref>が、重伝建指定後は景観を損ねるとの理由で撤去の声が多くなり、1998年に撤去された<ref name="10years-14">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2001)|小野川と佐原の町並みを考える会(2001)]] p.14</ref>。また1999年には、[[佐原郵便局]]の協力により、新たに[[丸型ポスト]]が設置された<ref name="10years-14"/>。

さらに、この時期からは保存活動に加えて、町並みに活気を取り戻すための観光事業にも積極的な取り組みがみられた。佐原市は2000年に「佐原市中心市街地活性化基本計画」を策定し、水郷の小江戸 産業観光でにぎわいの再興」をキャッチフレーズにして、佐原の中心部にかつてのにぎわいを復活させようとした。この基本計画では対象地区を小野川周辺地区、JR佐原駅周辺地区、本宿耕地地区の3つに分類しており<ref name="kihonkeikaku">[[#佐原市中心市街地活性化基本計画|佐原市中心市街地活性化基本計画]] </ref>、重伝建地区があるのはこのうちの小野川周辺地区にあたる。本地区では活性化の事業として、小野川の舟運事業や建物の空き家対策などが挙げられた<ref name="kihonkeikaku"/>。

このうち小野川の舟運は、戦後、30年にわたって途絶えていた時代もあったが、佐原の大祭時に利根川河川敷の駐車場と祭り会場を結ぶ便として1993年に復活していた<ref>[[#金野(2010)|金野(2010)]] p.248</ref><ref>[[#「石垣」(2006)|「石垣」(2006)]] p.47</ref>。基本計画ではこれを通年化することとし、2003年から観光舟の運行を始めた<ref name="kihonkeikaku"/><ref>[[#金野(2010)|金野(2010)]] p.248</ref>。一方で2002年、小野川沿いの道路の一部区間は駐車禁止とした<ref>[[#椎名(2005)|椎名(2005)]] p.68</ref>。舟運事業は、佐原市民、商工会議所、佐原市が出資した[[TMO]]である株式会社ぶれきめらが運営している<ref name="taguchi63"/>。

ぶれきめらはまた、空き地となっていた土地に木造のレストランを設置するなどの活動をおこなった<ref name="taguchi63"/>。

=== まちづくり運動の進展 ===
東京三菱銀行(当時)は、三菱館の隣に店舗を建設して営業を続けていたが、2003年に撤退した。そこで佐原市はこの土地と建物を取得して、「佐原町並み交流館」への改修をほどこし、三菱館とあわせた新たな観光拠点づくりを進めた<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2010)|小野川と佐原の町並みを考える会(2010)]] p.11</ref>。この施設は民間での運用が計画されていたため、今まで三菱館を中心に活動してきた考える会は2004年にNPO法人を取得した。佐原町並み交流館は2005年に市の運営でオープンし、2006年から考える会に業務委託された<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2010)|小野川と佐原の町並みを考える会(2010)]] pp.11-12</ref>。考える会は交流館で館内展示や観光案内などをおこなった<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2010)|小野川と佐原の町並みを考える会(2010)]] p.13</ref>。

また、考える会と市は2006年6月から、集客のために[[八坂神社 (香取市)|八坂神社]]で「小江戸佐原の骨董市」を共同開催した<ref name="20years-15">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2010)|小野川と佐原の町並みを考える会(2010)]] p.15</ref>。骨董市は現在でも月に1度開かれ、平均1,500人ほどの集客を生んでいる<ref name="20years-15"/>。

一方、町並みの各店舗で店を守っていた女性たちは、市や商工会議所の協力のもと、新たな団体「佐原おかみさん会」を結成した<ref name="ishigaki48">[[#「石垣」(2006)|「石垣」(2006)]] p.48</ref><ref>[[#白井他(2009)|白井他(2009)]] p.96</ref>。おかみさん会は2005年から「佐原まちぐるみ博物館」をはじめた。これは、各家がそれぞれ1つの博物館となって、家に保管されていた伝統的な道具や生活用品を観光客に紹介することで、佐原の伝統や文化に触れてもらうことを目的としている<ref name="ishigaki48"/><ref>[[#椎名(2006)|椎名(2006)]] p.26</ref><ref>[[#大下(2006)|大下(2006)]] pp.22-25</ref>。

このほか、大学生と協力した空き家解消などへの取り組み(2006年以降)<ref>[[#香取市都市計画課(2008)|香取市都市計画課(2008)]] p.15</ref><ref>[[#松本(2009)|松本(2009)]] p.42</ref><ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2010)|小野川と佐原の町並みを考える会(2010)]] pp.17-18</ref>、全国都市再生モデルとしての外国人観光客誘致事業(2003年以降)<ref>{{Cite web |url=http://www.mlit.go.jp/crd/city/mint/htm_doc/pdf/044katori.pdf |title=事例番号 044 水と緑に彩られた喜びあふれる交流・文化創造都市圏(千葉県香取市(旧佐原市)) |format=PDF |publisher=国土交通省 都市・地域整備局 |accessdate=2015-11-27}}</ref>、全国都市再生イン佐原の開催(2004年)<ref>{{Cite web |url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/toshisaisei/05suisin/kantoh/04suisin/zenkoku/01_giji.html |title=全国都市再生イン佐原 議事録 |publisher=都市再生本部 |accessdate=2015-11-28}}</ref>、小野川沿いの電線地中化などをおこなった。

このような官民一体となったまちづくり運動によって、佐原市([[2006年]]に合併し香取市となる)は平成17年度優秀観光地づくり賞金賞を受賞した<ref>[[#香取市(2006)|香取市(2006)]] p.43</ref>。また、2009年には佐原の町並みが[[平成百景]]に選ばれた。観光客も増え、1976年で年間11,300人<ref>[[#田口(2009)|田口(2009)]] p.56</ref>、考える会の活動当初でも年間推定5万人<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2010)|小野川と佐原の町並みを考える会(2010)]] p.1</ref>だった観光客数が、2009年には50万人を上回るようになった<ref>{{Cite web |date=2011-04-28 |url=http://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/region-insight/EEI110428.pdf |title=千葉県における「観光立県」の取り組みとバイオ振興 |format=PDF |publisher=みずほ総合研究所 |accessdate=2015-11-27}}</ref>。

=== 震災による被害と復興 ===
[[File:Katori kaido 20110402.JPG|thumb|東日本大震災後の香取街道沿い(2011年4月2日)。県指定文化財の瓦が落ち、屋根にはシートが被され、観光客も少なくなった。]]
[[File:Onogawa(Sawara) 20110402.JPG|thumb|東日本大震災により崩れた小野川の川岸]]
[[File:Fallen tiles in Sawara.JPG|thumb|東日本大震災で落下し壊れた瓦に書きこまれた応援メッセージ。]]
[[2011年]]3月11日、[[東北地方太平洋沖地震]]が発生し、香取市は震度5強の揺れを観測した。この地震により、市内は被災建物総数6,000棟、[[液状化現象|液状化]]面積3,500haの被害を受けた<ref>[[#渡邉他(2014)|渡邉他(2014)]] p.65</ref>。

町並みも大きな被害を受け、重伝建地区内で保存すべき建築物に特定された建物93棟のうち、少なくとも25棟が復旧が必要と認定された<ref name="watabnabe66">[[#渡邉他(2014)|渡邉他(2014)]] p.66</ref>。このほかに、、自己資金による応急修理のみで済ませた物件や、重伝建地区外で被害にあった物件も存在する<ref name="watabnabe66"/>。特に県指定文化財に指定された建物は経年劣化の影響もあって被害が大きく、瓦の崩落、壁の亀裂等が目立った<ref name="watabnabe66"/><ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2014)|小野川と佐原の町並みを考える会(2014)]] p.9</ref>。国の史跡である[[伊能忠敬旧宅]]も被害を受けた。小野川の岸も崩れ、河口では液状化の影響で川床の隆起が見られた<ref>[[#宇井(2011)|宇井(2011)]] p.27</ref>。瓦が崩れ落ちた町並みを見て、町並み保存の関係者からも「これで佐原のまちは終わってしまった」という感想がみられた<ref>[[#椎名(2012)|椎名(2012)]] p.25</ref><ref name="gurutto34">「ぐるっと千葉」2011年6月号、p.34</ref>。

考える会は、被害状況を確認したうえで理事会を開き、今後の活動について検討した。その結果、これまで整備してきた町並みを失うことはできないので、残すために民としてできることをするという方針でまとまった<ref name="shinsai13">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2014)|小野川と佐原の町並みを考える会(2014)]] p.13</ref>。

建物の復興については、被害件数が多く一度には修復できないため、まずは町並みの中核となる県指定有形文化財を優先させることとした。しかしこれらの建物は被害が大きく、修復には数百万円から数千万円の費用が必要になるため<ref name="watanabe61">[[#渡邉他(2014)|渡邉他(2014)]] p.61</ref>、補助金を考慮に入れたとしても、建物所有者の負担は大きかった(通常の負担割合は県1/2、市1/6、所有者1/3)<ref name="gurutto34"/>。そこで考える会と県教育委員会との交渉などにより、補助金のかさ上げが決定された。これにより修理費は県が75%、市が20%を補助することになり、所有者負担は5%まで抑えられた<ref name="nichijiren18">[[#日事連(2012)|日事連(2012)]] p.18</ref>。

また、考える会によって募金活動がおこなわれ、全国から600万円以上が集まった。この義捐金は、文化財指定外のために補助を受けられない建物の所有者に渡された<ref name="shinsai13"/>。

さらに考える会は、全国町並み保存連盟を通して[[ワールド・モニュメント財団]]に支援を依頼した<ref name="shinsai15">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2014)|小野川と佐原の町並みを考える会(2014)]] p.15</ref>。2011年10月には財団職員が佐原を視察し、佐原の町並みを存続が危ぶまれる危機遺産としてリストに載せた<ref>{{Cite web |date=2012-05-16 |url=http://www.chibanippo.co.jp/news/local/81882 |title=「価値あると認められた」町づくりへの期待も「佐原の町並み」1600万円支援 |publisher=千葉日報社 |accessdate=2015-11-29}}</ref>。そして2012年5月、[[アメリカン・エキスプレス]]がスポンサーとなり、20万ドルの支援が決まった<ref name="shinsai15"/>。

一方香取市でも、国や県の協力を受けながら、復興活動に取り組んだ<ref name="ui30">[[#宇井(2011)|宇井(2011)]] p.30</ref>。市は2011年4月に重伝建地区の復興について[[文部科学省]]や[[文化庁]]に要請した。4月16日には[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]幹事長の[[岡田克也]]が、23日には[[国土交通大臣]]の[[大畠章宏]]がそれぞれ佐原を訪れた<ref name="ui30"/>。8月からは香取市復興会議を開催し、さらにアンケートなどにより市民の意見を聴いたうえで、2011年11月、香取市災害復興計画を策定した。この復興計画では、町並みについて、修理費の助成や伝統木造建築物の耐震化推進などの事業が明記された<ref>{{Cite web |date=2013-11 |url=http://www.city.katori.lg.jp/02profile/plan/pdf/023/hukkou-keikaku.pdf |title=香取市災害復興計画 |publisher=香取市 |accessdate=2015-11-29}}</ref>。

=== 現在 ===
[[File:Sawarabo.jpg|thumb|さわら部で「さわらぼ」として使用された建物。]]
震災で被害にあった建物の修復は2013年の時点でほぼ完了した<ref name="watanabe61"/>。その際には、これまで現代的であった外観を町並みに合わせた形に修復する動きもあった<ref name="nichijiren18"/>。

[[東京大学]]都市デザイン研究室では、2008年から「佐原プロジェクト」を始め、学生によるまちづくり、空き家対策の提案などをおこなっている。2013年からは佐原高校の生徒と協力して「さわら部」を結成した。さわら部は、震災後に香取市に譲渡された空き家の古民家を改修して「さわらぼ」<ref group="注釈">この名称は、佐原、コラボレーション(協業)、ラボラトリー(研究室)を「かけあわせたもの</ref>と名付け、そこで様々なイベント活動をおこなった<ref>{{Cite web |date=2014-06 |url=http://ud.t.u-tokyo.ac.jp/ja/blog/2014/06/post_15.php |title=東大生×佐原高校生=さわら部による、「さわらぼ」スタート! |publisher=東京大学都市デザイン研究室 |accessdate=2015-11-29}}</ref><ref>{{Cite web |date=2015-01-30 |url=https://www.city.katori.lg.jp/03government/section/toshi/news/2014-0912-1045-16.html |title=さわらぼイベント開催予定 |publisher=香取市 |accessdate=2015-11-29}}</ref>。

== 町並み保存に関する年表 ==
*1974年 伝統的建造物群保存調査
*1974年 伝統的建造物群保存調査
*1975年 上の調査報告書「佐原の町並み―佐原市伝統的建造物群保存地区調査報告―」作成
*1975年 上の調査報告書「佐原の町並み―佐原市伝統的建造物群保存地区調査報告―」作成
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== 建築物の特徴と保存方法 ==
== 建築物の特徴と保存方法 ==
[[File:Sawara mougins.jpg|thumb|古い蔵を利用したフランス料理店。]]
この地区の建造物の特徴としては、江戸時代(主に土蔵)から明治(正文堂など)、大正(三菱館など)、昭和まで、幅広い年代の建造物が混在していることが挙げられる。ただし1892年に大火が起こったため、現存する建物の大半はそれ以後に建築されたものである。また、その火事の影響から、防火設備を施したものも多い。
この地区の建造物の特徴としては、江戸時代(主に土蔵)から明治(正文堂など)、大正(三菱館など)、昭和まで、幅広い年代の建造物が混在していることが挙げられる<ref>[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]]p.36</ref>。ただし1892年に大火が起こったため、現存する建物の大半はそれ以後に建築されたものである<ref>[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]]p.22</ref>。また、その火事の影響から、防火設備を施したものも多い。


小野川沿いは「正上」に代表される、比較的大規模の店が多い。香取街道沿いは小型な2階建ての店が多い。
小野川沿いは「正上」に代表される、比較的大規模の店が多い。香取街道沿いは小型な2階建ての店が多い。


現在でも当時の商売を続けている店舗が多く、生きている町並みであるとも言えるが、一方で、廃業し、住宅地や廃屋となった店舗も見られる<ref>小堀(1999)p29</ref>。
現在でも当時の商売を続けている店舗が多く、生きている町並みであるとも言えるが、一方で、廃業し、住宅地や廃屋となった店舗も見られる。特に小野川沿いは舟運に依存した店が多かったこともあり、廃業し現代的な建物の住宅地となった区域も多い<ref>[[#小堀(1999)|小堀(1999)]]p.29</ref>。建物の維持管理や後継者問題などの課題も抱えている<ref>{{Cite web |date=2012-11-29 |url=http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3281_all.html |title=懐かしの町並みを守るには~失われる伝統的建築物~ |publisher=NHK |accessdate=2015-11-29}}</ref>が、近年は空き店舗を活用して新たな商売を始めるところも現れてきている
近年はそういった空き店舗を活用して新たな商売を始めるところも現れてきている。


建築物の改築や修繕については、香取市佐原地区歴史的景観条例(合併前の「佐原市歴史的景観条例」に相当するもの)に則っている。この条例では町並みを「伝統的建造物保存地区」と「景観形成地区」に分けており、建物の改築等を行う際には、前者は許可が、後者は届出が必要になる。また、建物の修繕を行うにあたっては、助成率に応じた助成金が支給される<ref>上北、斎藤(2005年)</ref>。
建築物の改築や修繕については、香取市佐原地区歴史的景観条例(合併前の「佐原市歴史的景観条例」に相当するもの)に則っている。この条例では町並みを「伝統的建造物保存地区」と「景観形成地区」に分けており、建物の改築等を行う際には、前者は許可が、後者は届出が必要になる。また、建物の修繕を行うにあたっては、助成率に応じた助成金が支給される<ref>[[#上北(1999)|上北他(1999)]]</ref>。


2007年の時点で、伝統的建造物保存地区で90件、景観形成地区で35件の修理を行った<ref name="keikakuka"/>。先に述べたように、様々な年代の建築物が残されているため、修理にあたっては特定の時代設定は行わず、どの時代を再現した建築にするかは建物によって異なる。また、古色塗りを行わないのも特徴である。
2007年の時点で、伝統的建造物保存地区で90件、景観形成地区で35件の修理を行った<ref name="keikakuka"/>。先に述べたように、様々な年代の建築物が残されているため、修理にあたっては特定の時代設定は行わず、どの時代を再現した建築にするかは建物によって異なる。また、古色塗りを行わないのも特徴である。
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:旧[[三菱銀行]]佐原支店本館、大正3年建築時は[[東京川崎財閥|川崎銀行]]佐原支店、設計・施工清水満之助商店、現[[清水建設]]
:旧[[三菱銀行]]佐原支店本館、大正3年建築時は[[東京川崎財閥|川崎銀行]]佐原支店、設計・施工清水満之助商店、現[[清水建設]]
*正文堂書店店舗(千葉県指定文化財)
*正文堂書店店舗(千葉県指定文化財)
:現在の建物は[[1880年]](明治13年)建築。江戸時代から本の販売をおこなってきたが、現在は営業を停止している。古くは和書の出版もおこなった<ref name="1975-27">[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]]p.27</ref>。店舗は切妻造2階建の店蔵で、龍の彫り物を配した看板が特徴であった<ref name="1975-27"/><ref name="nakamura102">[[#中村(2004)|中村(2004)]]p.102</ref>。[[東日本大震災]]によって看板および瓦全体が崩落。修復にあたって、瓦は小江戸瓦と呼ばれる特殊な瓦を使用していたため特注した。ただし、安全面・予算面の都合で、従来の土葺きから空葺きへと変更している(震災の被害にあった他の県指定文化財も同様)。また、内部の造りに大幅な変更を加えている<ref name="watanabe69">[[#渡邉他(2014)|渡邉他(2014)]] p.69</ref><ref name="shinsai19">[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2014)|小野川と佐原の町並みを考える会(2014)]] p.19</ref>。
:1880年建築。登り龍、下り龍を配した看板が特徴。現在は書店としての営業は停止している。
*小堀屋本店店舗(千葉県指定文化財)
*小堀屋本店店舗(千葉県指定文化財)
:創業[[1782年]](天明2年)の蕎麦屋。現在の建物は[[1900年]](明治33年)建築で、木造切妻造2階建。奥の土蔵は[[1890年]](明治23年)の建築である<ref name="nakamura102"/><ref name="1975-30">[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]]p.30</ref>。入口の硝子戸は1902年(明治35年)に発注したもので、当時の佐原で硝子戸の使用は珍しかった<ref name="nakamura102"/><ref name="1975-30"/>。東日本大震災によって店舗・土蔵共に瓦の崩落などの被害を受けた<ref name="watanabe69"/>。旧千葉銀行佐原支店の建物を利用した別館もある。
:創業1782年の蕎麦屋。現在の建物は1892年建築。旧千葉銀行佐原支店の建物を利用した別館もある。
*福新呉服店(千葉県指定文化財)
*福新呉服店(千葉県指定文化財)
:創業[[1804年]](文化元年)。藍染製品などを販売。現在の店舗は1892年(明治25年)の大火後に建築された<ref name="1975-29">[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]]p.29</ref>。火災を防ぐため側面が土蔵造りとなっている<ref name="1975-29"/>。震災によって店舗・土蔵共に瓦の崩落などの被害を受けた。特に土蔵の壁が大きく崩れたが、本来の工法で修復した<ref name="watanabe69"/>。
:創業1804年。現在の店舗は1895年の建築。藍染製品などを販売。
*中村屋乾物店(千葉県指定文化財)
*中村屋乾物店(千葉県指定文化財)
:江戸時代からの乾物商。現在の店舗は[[1892年]](明治25年)に建てられた2階建て土蔵造で、2階の扉に木彫りの看板がはめ込まれているのが特徴<ref name="1975-29"/>。店舗の奥には土蔵がある。震災で店舗の瓦や壁に被害を受け、特注の瓦を使って修理した<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2014)|小野川と佐原の町並みを考える会(2014)]] p.23</ref>。
:1892年建築。当時の最高技術の防火構造を使用した土蔵造りの建物。木彫りの看板がはめ込まれているのが特徴。
*正上醤油店(千葉県指定文化財)
*正上醤油店(千葉県指定文化財)
:創業1800年。創業時は油屋を営んでいたが、1832年に醤油の製造を始める。現在は佃煮の販売を主にっている。現在の建物は1832年の建築。
:創業時は油屋を営んでいたが、[[1832年]](天保3年)に醤油の製造を始める。現在は佃煮の販売を主におこなっている。現在の建物は1832年の建築で、隣の土蔵は明治初期の建築<ref name="nakamura102"/><ref>[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]]p.32</ref>。震災では、店舗に瓦の崩落、土蔵に液状化による被害などがあった<ref name="watanabe69"/>
*旧油惣商店(千葉県指定文化財)
*旧油惣商店(千葉県指定文化財)
:江戸時代は酒造、奈良漬の製造、明治からは問屋を営んだ。[[1900年]](明治33年)建築の旧店舗と、[[1798年]](寛政10年)建築とされる土蔵が文化財に指定されており、特に土蔵は佐原で最古のものである<ref>[[#中村(2004)|中村(2004)]]p.104</ref>。震災では土蔵の棟木が折れるなどの大きな被害を受け、全面的な修理が必要となった<ref name="watanabe69"/><ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2014)|小野川と佐原の町並みを考える会(2014)]] p.29</ref>。
:1798年に作られた土蔵があり、土蔵としては佐原で最古のものである。
*中村屋商店(千葉県指定文化財)
*中村屋商店(千葉県指定文化財)
:1855建築。雑貨等販売。小野川沿いの道と香取街道の交わるにあるため、五角形の柱を使用するなど、間取りに工夫が見られる。
:[[1874]](明治7年)より畳表、雑貨商を営み、現在では雑貨等販売している。建物はそれ以前の[[1855年]](安政2年)建築で2階建切妻造<ref>[[#佐原市教育委員会(1975)|佐原市教育委員会(1975)]]p.34</ref>。小野川沿いの道と香取街道の交わる変形した敷地にあるため、五角形の柱を使用するなど、間取りに工夫が見られる<ref>[[#小野川と佐原の町並みを考える会(2014)|小野川と佐原の町並みを考える会(2014)]] p.31</ref>。土蔵は1892年(明治25年)の建築。店舗は震災の被害が少なかったが、土蔵は全体的に被害を受けた<ref name="watanabe69"/>
*与倉屋
:醤油作りに使用していた倉が現存している。現在は倉庫業を営んでいる。


== ギャラリー ==
== ギャラリー ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 参照元 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
*川越市教育委員会ほか編『関東地方の町並み』東洋書林、2004年、ISBN 978-4887216532
|author=赤松宗旦
:1975年および1983年作成の調査報告書が収録されている
|year=1938
*島田七夫 『佐原の歴史散歩』たけしま出版、1998年、ISBN 978-4925111041
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*白井清兼他「[http://shakai-gijutsu.org/vol6/6_93.pdf 旧佐原市地区におけるまちづくり型観光政策の形成プロセスとその成立要因に関する分析]」『社会技術研究論文集』2009年、Vol.6,pp.93-106
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*小森正明 『室町期東国社会と寺社造営』思文閣出版、2008年、ISBN 978-4784214211
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|title=まちの解体新書 千葉県佐原市--すぐやる、必ずやる、できるまでやる
|journal=石垣
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*[http://www.city.katori.lg.jp/reiki/418901010103000000MH/418901010103000000MH/418901010103000000MH_j.html 香取市佐原地区歴史的景観条例]
*[http://www.city.katori.lg.jp/reiki/418901010103000000MH/418901010103000000MH/418901010103000000MH_j.html 香取市佐原地区歴史的景観条例]
* [http://m-kaze.com/gurumi/ 佐原まちぐるみ博物館]
* [http://m-kaze.com/gurumi/ 佐原まちぐるみ博物館]
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2015年11月29日 (日) 09:26時点における版

佐原本町
佐原三菱館とボンネットバス

佐原の町並み(さわらのまちなみ)は、千葉県香取市佐原の市街地にある歴史的な建造物が残る町並みである。商家町の歴史的景観を残す町並みは重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

概要

佐原は、江戸時代利根川東遷事業により舟運が盛んになると小野川沿いなどが物資の集散地として栄え始めた。小野川には物資を陸に上げるための、「だし」と呼ばれる河岸施設が多く作られた。

明治以降もしばらく繁栄は続き、自動車交通が発達し始める昭和30年頃までにかけて、成田から鹿嶋にかけての広範囲な商圏を持つ町となっていた。

佐原の町並みは、佐原が最も栄えていた江戸時代末期から昭和時代前期に建てられた木造町家建築、造りの店舗建築、洋風建築などから構成されている。重要伝統的建造物群保存地区内の、市街地を東西に走る通称香取街道、南北に流れる小野川沿い、及び下新町通りなどにその町並みを見ることができる。

町並みの形成とその発展

佐原周辺の空中写真。画像中央部の市街地が佐原地区。古い街路区画の残る家屋の密集する市街地の中央を小野川が南から北へ流れる。画像上方の大きな河川は利根川。街路や建造物と比較すると利根川の大きさがよく分かる。
1984年撮影の6枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

小野川沿いの商業都市としての町並みは、遅くとも南北朝時代に作られたとされる[1]。佐原の地は香取神宮領内にあった村落の1つ[2]であるが、元々は小野川と香取海の間に形成された砂州の堆積によって形成された無主地であったとみられ、香取神宮の支配も限定的であったことがその後の町の発展に影響を与えたと考えられる[3]。1374年頃に作成された「海夫注文」と呼ばれる文書にはこの地域の主要な津(港)の名前が記されており、その中に「さわらの津 中村」という表記があり、これは千葉氏の被官である中村氏が佐原の地頭であったことを示しているとみられる[3]。また、1388年にこの中村氏によるものとみられる「嘉慶二年一二月一一日付中村胤幹還付状(写)」によって当時の佐原に市場や宿が形成されていたことが判明する[4]。はじめは小野川の東側が中心であったが、江戸時代に入る頃には西側まで範囲が拡大した。そしてこの時期から、東側を「本宿」、西側を「新宿」と呼ぶようになった。

利根川東遷事業が完了し、小野川が利根川と繋がると、東北地方などから物資が利根川を経由し江戸へ至るルートが確立されたため、佐原はその舟運の拠点となった。新宿では定期市(六斎市)が開かれにぎわった。さらに、醤油や酒の醸造業が盛んとなった。江戸中期には35軒もの造酒屋が存在し[5]、関東灘とも呼ばれた。佐原は香取街道のほか銚子方面、成田方面への街道も通じ、陸上交通の要衝でもあった。

江戸時代後期の1838年には、人口が5647人を数えた[6]。この江戸後期から明治時代にかけてが、佐原の最も栄えた時代である。その繁栄の様子は、1855年の「利根川図志」にも取り上げられている。同書によると、小野川を利用する商人や旅人は両岸の狭いことをうらみ、往来する舟や人は昼夜止むことがなかったという[7]

また、他の地方から佐原に店を出す商人もあった。たとえば京都の2代目杉本新右衛門は、「日本国中、正月の元日から商売の出来るのは、伊勢の山田と下総の佐原である」[8]として、1786年、佐原に呉服屋「奈良屋」を出店し、佐原を代表する商店となった。こういった経済的な繁栄は文化にも影響を与え、楫取魚彦伊能忠敬を輩出することとなった[9]

1898年、佐原に鉄道が開通すると、東京までの物資の輸送としての舟運は下火になるが、代わりに、周辺の鉄道が通じていない農村から米などの物資を佐原駅まで舟で運搬し、それを鉄道で他地域に運ぶというルートが確立したため、その後も繁栄は続いた[10]。1920年の国勢調査では、佐原の人口は15299人で、これは千葉県内では千葉、銚子に次ぐ数字であった[9]

町並み保存活動の歴史

中心市街地の衰退

1933年、成田線松岸駅まで延伸されると、鉄道における佐原の優位性は薄まった。その3年後には水郷大橋が開通し、佐原地区の交通にも変化が見られるようになり、舟運は衰退していった[10]

第二次世界大戦後になると、佐原の中心部も佐原駅周辺へと移動し、駅前に大型デパートが建てられた。そして、小野川周辺のかつての市街地は商業活動が衰え、伝統的な建造物が残された[10]

1974年の調査

1974年、文化庁は、市街地の開発によって全国的に破壊されつつある伝統的な景観を保護するため、「伝統的建造物群保存地区保存対策のための調査および計画策定」と銘打って、いくつかの地区を対象に調査を計画した[11]。佐原は、河港商業都市としての景観を良く残しているとしてこの調査の対象に選ばれ、佐原市が主体となり、国や県の補助を受けて調査がおこなわれた[11]。調査結果は大河直躬らの手により翌年に報告書としてまとめられた。

調査によって、佐原の町は小野川沿いと香取街道沿いを中心に、町屋や土蔵といった古い建築物が残り、町並みは江戸時代から昭和まで幅広い年代の建材物が混在していることが明らかになった[12]。建築物以外では、小野川両岸の石垣や荷揚用階段(だし)が景観上重要で、これらも含めて町並み保存の対象にした[13][14]

しかし、この時期の主な取り組みは、町屋2棟を県の文化財に指定したことにとどまり、積極的な保存活動は見られなかった[15][16]。当時の佐原は今までの繁栄していた雰囲気を残しており、保存より再開発を望む声も多かった[17]。小野川沿いに植えられていた柳やプラタナスの並木は多くが切られ[18]、だしもその後に護岸工事のためほとんどが取り壊された。さらには、小野川に蓋をして、その上を駐車場にする案まであった[17]

1982年の調査

1982年、財団法人観光資源保護財団の手により、佐原の町並みに関する2度目の調査がおこなわれた。この調査は、「前回の調査を受けて、町並み保存についてより具体的な、一歩すすんだ方針を得ようとする[15]」ことを目的とした。調査報告書は千葉大学の福川裕一らの手によって、1983年に「佐原の町並み よみがえれ、水郷の商都」としてまとめられた。

この報告書には、調査員からの意見や感想がいくつか見られるが、たとえば全国町並み保存連盟顧問の石川忠臣は、「佐原の歴史的町並みは、正直にいって、すばらしいとはいいがたい。小野川沿いにしろ、香取街道沿いにしろ、現代風に改造、新築した家も多く、町並みとしてはいわゆる"歯抜け"の状況が目立つ[19]」と評したうえで、しかし、妻籠の町並みが保存活動によって観光資源としてよみがえったように、佐原も"やる気"があれば再生可能だと述べた[19]

しかし、この調査後も町並み保存についての進展は少なく、先進地の視察研修程度にとどまった[20]。住民の意識も、前回調査時と比べると変わりつつあった[21]ものの、伝統的な町並みを生かすという考えをとる人は一部にとどまった[注釈 1]

したがって、この間に奈良屋(大正6年築、木造2階建てデパート)や、数棟の茅葺きの町屋などが取り壊され[21]、蔵も今風に建て替えられたりした[22]。取り壊されなかった建物も、いわゆる看板建築のように前面に新しく覆いがされ、元の外見を見えなくしたものも多かった[23]。小野川のだしも1989年時点で残っているのは2か所のみとなった。そして川沿いには路上駐車の車が並び、「あとは通過する車のための余地がようやく残されるだけ[24]」といった状態であった。2度にわたる調査がいずれも具体的な活動や重要伝統的建造物群保存地区の指定といった成果に結び付かなかったことは、町並み保存運動として「2度の失敗」と位置付けられている[20]。とはいうものの、この年代になると、本地区はすでにかつての地域中心都市としての地位が低下していたこともあって、他の都市と比較して大規模な乱開発はまぬがれ、多くの歴史的建造物は残された[22][25]

保存活動の始まり

昭和60年代に入ると、モータリゼーションなどの影響で、買い物客は郊外に進出してきた大型店舗を利用するようになった[26][27]。さらに、成田空港の開港、鹿島・神栖の工業地域の形成といった周辺自治体の発展の影響がさらに強まり、佐原は地域における商業の中心地としての機能を失っていた[9]。そのなかで、佐原の町を再び活気づかせるため、観光客の取り込みが模索されるようになり、その一環として歴史的な町並みが注目されるようになった[27][28]

具体的な町並み保存活動のきっかけとなったのは、竹下登首相のもとで1988年から実施されたふるさと創生事業である。佐原市はこの資金の使い道についてアイディアを募集したところ、町並み保存や伊能忠敬関係について使うという意見が多く出された[29]。これらの案は市役所職員による検討ののち、佐原市と市民の代表者の間で数回にわたる話し合いがなされた。さらに国土庁地域振興アドバイザーの勧めもあって、町並み保存の流れで話がまとまった。そして1991年、市民団体「佐原の町並みを考える会」が設立された[20](同年7月に「小野川と佐原の町並みを考える会」に名称変更。以下、本項では「考える会」と表記する)。

また、当時佐原を代表する洋風建築であった三菱銀行佐原支店の建物(三菱館)は、改築によって取り壊されることになっていた。地元有志はこれに反対して建物の保存を訴え、その結果、三菱銀行は三菱館を市に寄贈することに決まった(土地は市が取得)[30][31]

保存計画の作成

考える会は三菱館を拠点にして観光案内をおこない、夜には学習会を開いて保存計画を考えた[32]。計画を立てるにあたっては、町並み保存先進地の事例を参考にしようとしたが、保存方法は各地でばらばらであり、統一したマニュアルも無かったため、行政担当の高橋賢一が作った案をもとに、佐原に合った方法を考えて作成することにした[33]

1992年5月からは、行政と協力して実際に建物調査をおこなった[33][34]。これは、独自に作った調査台帳に基づいて建物の構造などを調べるもので、331件617棟を調査した。建物の価値はA(絶対に残したいもの)からD(歴史的景観を阻害しているもの)までの4段階に分類し、その分布などから保存の対象とする地区を決め、市の予算に見合うように保存経費を算出した[35]

このようにして考える会は企画書「佐原市小野川・香取街道歴史的町並み保存基本計画」を作成し、1992年9月、市長に提出した。当時の佐原市長鈴木全一は後に、「調査員の方々が一軒一軒歩きながら作った資料を見せられて、驚きました。皆さんの強い意気込みが伝わり、3度目の正直ではないが、今回は成功するのではないかと感じたものです」と述べている[36]

佐原市は補助金を出し、より総合的・具体的な保存計画を出すように求めた。この計画書は関係機関などとの協議のもとで作成され、1993年5月に「佐原市佐原地区町並み形成基本計画」として刊行された[37]

重伝建地区への選定

「佐原市佐原地区町並み形成基本計画」は保存地区全戸に配布され、さらに考える会によって住民向けの資料「町並み保存Q&A」が作成された[36]。佐原市と考える会は共同で説明会を開いた[38]

佐原市は1994年に「佐原市歴史的景観条例」を施行し、1995年には市の窓口となるまちづくり推進室を設置した[38][39]。景観条例の施行によって助成のシステムが整い[40]、1994年から1997年までの間に合計45件の修理・修景がおこなわれた[41]

また、1994年には、実際に保存地区に住んでいる住民によって「佐原町並み保存会」が発足した[30]。これによって、考える会、行政、地域住民が一体となって町並み保存に取り組める体制が整った[42]

考える会では1995年から毎年小野川の清掃・美化作業を始めた。当時の小野川は生活排水が流れ込み、粗大ごみが捨てられているような状態だった[43]。そのようななかで地域住民がこの川の価値に気付いたのは、岐阜県高山市から来た視察団に、「どうして資源として活用しないのか」と尋ねられたことがきっかけだった[44]。さらに、佐原に来た観光客から川が汚いとの指摘を受けたことが、清掃作業を始める契機となった[45]。小野川清掃活動は、町並み保存に乗り気でなかった地域住民からの理解を得ることにもつながった[46]。また、1996年には小野川浄化用水の導水施設も稼働した[47]

そして1995年、佐原市は保存地区を決めるにあたっての同意書を作成し、建物の所有者の同意を得ることにした。市は考える会と協力して所有者に対して戸別に説明し、その結果、92%の賛同票を得ることができた[41][48]

このような活動が実を結び、1996年12月10日の官報告示で、佐原の町並みは重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された[45]。関東地区からは初の選出だった。

保存活動と観光事業の推進

小野川観光舟事業(2010年撮影)

重伝建選定後は建造物保存のための修理について国の補助も受けられるようになった。はじめのうちは修理を希望する家が少なく、市役所の職員が個別に勧誘に回っても良い反応が得られなかった。しかし次第に理解が得られるようになり、修復の内容も、より昔の手法に近いものが求められるようになっていった[49]

また当時、町並みの中心部にある忠敬橋には歩道橋が掛けられていた。この歩道橋の存在については昔から賛否両論あった[注釈 2]が、重伝建指定後は景観を損ねるとの理由で撤去の声が多くなり、1998年に撤去された[50]。また1999年には、佐原郵便局の協力により、新たに丸型ポストが設置された[50]

さらに、この時期からは保存活動に加えて、町並みに活気を取り戻すための観光事業にも積極的な取り組みがみられた。佐原市は2000年に「佐原市中心市街地活性化基本計画」を策定し、水郷の小江戸 産業観光でにぎわいの再興」をキャッチフレーズにして、佐原の中心部にかつてのにぎわいを復活させようとした。この基本計画では対象地区を小野川周辺地区、JR佐原駅周辺地区、本宿耕地地区の3つに分類しており[51]、重伝建地区があるのはこのうちの小野川周辺地区にあたる。本地区では活性化の事業として、小野川の舟運事業や建物の空き家対策などが挙げられた[51]

このうち小野川の舟運は、戦後、30年にわたって途絶えていた時代もあったが、佐原の大祭時に利根川河川敷の駐車場と祭り会場を結ぶ便として1993年に復活していた[52][53]。基本計画ではこれを通年化することとし、2003年から観光舟の運行を始めた[51][54]。一方で2002年、小野川沿いの道路の一部区間は駐車禁止とした[55]。舟運事業は、佐原市民、商工会議所、佐原市が出資したTMOである株式会社ぶれきめらが運営している[47]

ぶれきめらはまた、空き地となっていた土地に木造のレストランを設置するなどの活動をおこなった[47]

まちづくり運動の進展

東京三菱銀行(当時)は、三菱館の隣に店舗を建設して営業を続けていたが、2003年に撤退した。そこで佐原市はこの土地と建物を取得して、「佐原町並み交流館」への改修をほどこし、三菱館とあわせた新たな観光拠点づくりを進めた[56]。この施設は民間での運用が計画されていたため、今まで三菱館を中心に活動してきた考える会は2004年にNPO法人を取得した。佐原町並み交流館は2005年に市の運営でオープンし、2006年から考える会に業務委託された[57]。考える会は交流館で館内展示や観光案内などをおこなった[58]

また、考える会と市は2006年6月から、集客のために八坂神社で「小江戸佐原の骨董市」を共同開催した[59]。骨董市は現在でも月に1度開かれ、平均1,500人ほどの集客を生んでいる[59]

一方、町並みの各店舗で店を守っていた女性たちは、市や商工会議所の協力のもと、新たな団体「佐原おかみさん会」を結成した[60][61]。おかみさん会は2005年から「佐原まちぐるみ博物館」をはじめた。これは、各家がそれぞれ1つの博物館となって、家に保管されていた伝統的な道具や生活用品を観光客に紹介することで、佐原の伝統や文化に触れてもらうことを目的としている[60][62][63]

このほか、大学生と協力した空き家解消などへの取り組み(2006年以降)[64][65][66]、全国都市再生モデルとしての外国人観光客誘致事業(2003年以降)[67]、全国都市再生イン佐原の開催(2004年)[68]、小野川沿いの電線地中化などをおこなった。

このような官民一体となったまちづくり運動によって、佐原市(2006年に合併し香取市となる)は平成17年度優秀観光地づくり賞金賞を受賞した[69]。また、2009年には佐原の町並みが平成百景に選ばれた。観光客も増え、1976年で年間11,300人[70]、考える会の活動当初でも年間推定5万人[71]だった観光客数が、2009年には50万人を上回るようになった[72]

震災による被害と復興

東日本大震災後の香取街道沿い(2011年4月2日)。県指定文化財の瓦が落ち、屋根にはシートが被され、観光客も少なくなった。
東日本大震災により崩れた小野川の川岸
東日本大震災で落下し壊れた瓦に書きこまれた応援メッセージ。

2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生し、香取市は震度5強の揺れを観測した。この地震により、市内は被災建物総数6,000棟、液状化面積3,500haの被害を受けた[73]

町並みも大きな被害を受け、重伝建地区内で保存すべき建築物に特定された建物93棟のうち、少なくとも25棟が復旧が必要と認定された[74]。このほかに、、自己資金による応急修理のみで済ませた物件や、重伝建地区外で被害にあった物件も存在する[74]。特に県指定文化財に指定された建物は経年劣化の影響もあって被害が大きく、瓦の崩落、壁の亀裂等が目立った[74][75]。国の史跡である伊能忠敬旧宅も被害を受けた。小野川の岸も崩れ、河口では液状化の影響で川床の隆起が見られた[76]。瓦が崩れ落ちた町並みを見て、町並み保存の関係者からも「これで佐原のまちは終わってしまった」という感想がみられた[77][78]

考える会は、被害状況を確認したうえで理事会を開き、今後の活動について検討した。その結果、これまで整備してきた町並みを失うことはできないので、残すために民としてできることをするという方針でまとまった[79]

建物の復興については、被害件数が多く一度には修復できないため、まずは町並みの中核となる県指定有形文化財を優先させることとした。しかしこれらの建物は被害が大きく、修復には数百万円から数千万円の費用が必要になるため[80]、補助金を考慮に入れたとしても、建物所有者の負担は大きかった(通常の負担割合は県1/2、市1/6、所有者1/3)[78]。そこで考える会と県教育委員会との交渉などにより、補助金のかさ上げが決定された。これにより修理費は県が75%、市が20%を補助することになり、所有者負担は5%まで抑えられた[81]

また、考える会によって募金活動がおこなわれ、全国から600万円以上が集まった。この義捐金は、文化財指定外のために補助を受けられない建物の所有者に渡された[79]

さらに考える会は、全国町並み保存連盟を通してワールド・モニュメント財団に支援を依頼した[82]。2011年10月には財団職員が佐原を視察し、佐原の町並みを存続が危ぶまれる危機遺産としてリストに載せた[83]。そして2012年5月、アメリカン・エキスプレスがスポンサーとなり、20万ドルの支援が決まった[82]

一方香取市でも、国や県の協力を受けながら、復興活動に取り組んだ[84]。市は2011年4月に重伝建地区の復興について文部科学省文化庁に要請した。4月16日には民主党幹事長の岡田克也が、23日には国土交通大臣大畠章宏がそれぞれ佐原を訪れた[84]。8月からは香取市復興会議を開催し、さらにアンケートなどにより市民の意見を聴いたうえで、2011年11月、香取市災害復興計画を策定した。この復興計画では、町並みについて、修理費の助成や伝統木造建築物の耐震化推進などの事業が明記された[85]

現在

さわら部で「さわらぼ」として使用された建物。

震災で被害にあった建物の修復は2013年の時点でほぼ完了した[80]。その際には、これまで現代的であった外観を町並みに合わせた形に修復する動きもあった[81]

東京大学都市デザイン研究室では、2008年から「佐原プロジェクト」を始め、学生によるまちづくり、空き家対策の提案などをおこなっている。2013年からは佐原高校の生徒と協力して「さわら部」を結成した。さわら部は、震災後に香取市に譲渡された空き家の古民家を改修して「さわらぼ」[注釈 3]と名付け、そこで様々なイベント活動をおこなった[86][87]

町並み保存に関する年表

  • 1974年 伝統的建造物群保存調査
  • 1975年 上の調査報告書「佐原の町並み―佐原市伝統的建造物群保存地区調査報告―」作成
  • 1982年 財団法人観光資源保護財団による調査
  • 1983年 前年の調査報告書「佐原の町並み よみがえれ、水郷の商都」作成
  • 1989年 三菱館、佐原市に寄贈
  • 1991年 「佐原の町並みを考える会」発足
  • 1992年 樋橋架け替え(コンクリート製から現在の木造に)
  • 1993年 「佐原市佐原地区町並み形成基本計画」作成(考える会)
  • 1994年 「佐原市歴史的景観条例」制定(佐原市)
  • 1994年 樋橋の落水を復活させる
  • 1995年 「まちづくり推進室」設置(佐原市)
  • 1996年 「佐原市佐原景観形成地区」決定(佐原市)
  • 1996年 「重要伝統的建造物群保存地区」として選定される
  • 1996年 樋橋の落水が「残したい日本の音風景100選」に選ばれる
  • 1998年 伊能忠敬記念館新装
  • 2005年 佐原町並み交流館開館
  • 2005年 「佐原まちぐるみ博物館」開始
  • 2009年 「平成百景」に佐原が選ばれる
  • 2010年 伊能忠敬関係資料2345点が、歴史資料として国宝に指定

建築物の特徴と保存方法

古い蔵を利用したフランス料理店。

この地区の建造物の特徴としては、江戸時代(主に土蔵)から明治(正文堂など)、大正(三菱館など)、昭和まで、幅広い年代の建造物が混在していることが挙げられる[88]。ただし1892年に大火が起こったため、現存する建物の大半はそれ以後に建築されたものである[89]。また、その火事の影響から、防火設備を施したものも多い。

小野川沿いは「正上」に代表される、比較的大規模の店が多い。香取街道沿いは小型な2階建ての店が多い。

現在でも当時の商売を続けている店舗が多く、生きている町並みであるとも言えるが、一方で、廃業し、住宅地や廃屋となった店舗も見られる。特に小野川沿いは舟運に依存した店が多かったこともあり、廃業し現代的な建物の住宅地となった区域も多い[90]。建物の維持管理や後継者問題などの課題も抱えている[91]が、近年は空き店舗を活用して新たな商売を始めるところも現れてきている。

建築物の改築や修繕については、香取市佐原地区歴史的景観条例(合併前の「佐原市歴史的景観条例」に相当するもの)に則っている。この条例では町並みを「伝統的建造物保存地区」と「景観形成地区」に分けており、建物の改築等を行う際には、前者は許可が、後者は届出が必要になる。また、建物の修繕を行うにあたっては、助成率に応じた助成金が支給される[92]

2007年の時点で、伝統的建造物保存地区で90件、景観形成地区で35件の修理を行った[1]。先に述べたように、様々な年代の建築物が残されているため、修理にあたっては特定の時代設定は行わず、どの時代を再現した建築にするかは建物によって異なる。また、古色塗りを行わないのも特徴である。

主な建築物

伊能忠敬旧宅
佐原三菱館
三菱銀行佐原支店本館、大正3年建築時は川崎銀行佐原支店、設計・施工清水満之助商店、現清水建設
  • 正文堂書店店舗(千葉県指定文化財)
現在の建物は1880年(明治13年)建築。江戸時代から本の販売をおこなってきたが、現在は営業を停止している。古くは和書の出版もおこなった[93]。店舗は切妻造2階建の店蔵で、龍の彫り物を配した看板が特徴であった[93][94]東日本大震災によって看板および瓦全体が崩落。修復にあたって、瓦は小江戸瓦と呼ばれる特殊な瓦を使用していたため特注した。ただし、安全面・予算面の都合で、従来の土葺きから空葺きへと変更している(震災の被害にあった他の県指定文化財も同様)。また、内部の造りに大幅な変更を加えている[95][96]
  • 小堀屋本店店舗(千葉県指定文化財)
創業1782年(天明2年)の蕎麦屋。現在の建物は1900年(明治33年)建築で、木造切妻造2階建。奥の土蔵は1890年(明治23年)の建築である[94][97]。入口の硝子戸は1902年(明治35年)に発注したもので、当時の佐原で硝子戸の使用は珍しかった[94][97]。東日本大震災によって店舗・土蔵共に瓦の崩落などの被害を受けた[95]。旧千葉銀行佐原支店の建物を利用した別館もある。
  • 福新呉服店(千葉県指定文化財)
創業1804年(文化元年)。藍染製品などを販売。現在の店舗は1892年(明治25年)の大火後に建築された[98]。火災を防ぐため側面が土蔵造りとなっている[98]。震災によって店舗・土蔵共に瓦の崩落などの被害を受けた。特に土蔵の壁が大きく崩れたが、本来の工法で修復した[95]
  • 中村屋乾物店(千葉県指定文化財)
江戸時代からの乾物商。現在の店舗は1892年(明治25年)に建てられた2階建て土蔵造で、2階の扉に木彫りの看板がはめ込まれているのが特徴[98]。店舗の奥には土蔵がある。震災で店舗の瓦や壁に被害を受け、特注の瓦を使って修理した[99]
  • 正上醤油店(千葉県指定文化財)
創業時は油屋を営んでいたが、1832年(天保3年)に醤油の製造を始める。現在は佃煮の販売を主におこなっている。現在の建物は1832年の建築で、隣の土蔵は明治初期の建築[94][100]。震災では、店舗に瓦の崩落、土蔵に液状化による被害などがあった[95]
  • 旧油惣商店(千葉県指定文化財)
江戸時代は酒造、奈良漬の製造、明治からは問屋を営んだ。1900年(明治33年)建築の旧店舗と、1798年(寛政10年)建築とされる土蔵が文化財に指定されており、特に土蔵は佐原で最古のものである[101]。震災では土蔵の棟木が折れるなどの大きな被害を受け、全面的な修理が必要となった[95][102]
  • 中村屋商店(千葉県指定文化財)
1874年(明治7年)より畳表、雑貨商を営み、現在では雑貨等を販売している。建物はそれ以前の1855年(安政2年)建築で2階建切妻造[103]。小野川沿いの道と香取街道の交わる変形した敷地にあるため、五角形の柱を使用するなど、間取りに工夫が見られる[104]。土蔵は1892年(明治25年)の建築。店舗は震災の被害が少なかったが、土蔵は全体的に被害を受けた[95]

ギャラリー

交通

  • 鉄道
  • 高速バス
    • 千葉交通浜松町-東京駅⇔(佐原経由)-銚子・東芝町間高速バス、佐原駅北口下車徒歩10分
    • 関鉄グリーンバス東京駅⇔(佐原・潮来・麻生経由)-鉾田駅間高速バス、忠敬橋下車徒歩0分

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ たとえば、地域住民へのアンケートでは、町を良くする方法として「道路を拡幅して近代的な商店街をかたちづくる(53%)」を選択した住人が最も多く、「伝統的な町並みを生かした商店街をつくる(29%)」を大きく上回っている。小野川に関しては、「きたないので暗きょにし、上は駐車場等に利用する」が35.4%、「きたないので浄化する」が60.2%という結果であった。この結果について調査員は、「前者の答えが意外に多いので驚いている」と述べている(観光資源保護財団(1983) p.28)
  2. ^ 歩道橋のメリットとしては、佐原の大祭の見物に役立つという点が挙げられた。
  3. ^ この名称は、佐原、コラボレーション(協業)、ラボラトリー(研究室)を「かけあわせたもの

参照元

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参考文献

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  • 小堀貴亮「佐原における歴史的街並みの形成と保存の現状」『歴史地理学』第41巻第4号、1999年3月、pp.21-34。 
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  • 椎名喜予「香取市佐原 復興観光という市民活動:互いの違いを認め合い、感謝しあうこと」『地域開発』第570巻、日本地域開発センター.、2012年3月、pp.25-29、ISSN 0385-6623 
  • 島田七夫『佐原の歴史散歩』たけしま出版、1998年。ISBN 978-4925111041 
  • 白井清兼、西村崇、山本淳子、伊藤興一、加藤浩徳、城山英明「旧佐原市地区におけるまちづくり型観光政策の形成プロセスとその成立要因に関する分析」『社会技術研究論文集』第6巻、社会技術研究会、2009年3月、pp.93-106、ISSN 1882-4609 
  • 田口一博「佐原におけるまちづくりの政策システム」『土地総合研究』第17巻第4号、土地総合研究所、2009年、pp.55-67、ISSN 1343-6600 
  • 中村哲夫『千葉の建築探訪』崙書房出版、2004年。ISBN 978-4845511006 
  • 西和久「「ミニ倉敷」めざして街並み復元(千葉県佐原市)」『エコノミスト』、毎日新聞社、1989年4月11日、pp.50-55、ISSN 0013-0621 
  • 「関東地方の震災被害状況 行政・住民が協働し、街並み再生へ:千葉県香取市佐原」『日事連』第50巻第5号、日本建築士事務所協会連合会、2012年5月、pp.16-18。 
  • 『小京都と小江戸―「うつし」文化の研究』松崎憲三編、岩田書院、2010年。ISBN 978-4872946000 
    • 金野啓史『佐原のまちづくりと「小江戸」「江戸まさり」』2010年。 
  • 松本あきら「ぐるっといっとろっけん まちづくり診断の旅(vol.3)江戸優り 地域の自慢を見せびらかすまちづくり「佐原」」『ぶぎんレポート』第120号、ぶぎん地域経済研究所、2009年3月、pp.39-43。 
  • 渡邉瑞恵、日坂彰、中村塑、町田武美「東日本大震災による北総地域文化財の被害と町並み保存の取り組み:香取市佐原重要伝統的建造物群保存地区の事例」『愛国学園大学人間文化研究紀要』第16号、毎日新聞社、2014年3月、pp.61-77、ISSN 1344-705X 

外部リンク

座標: 北緯35度53分18.8秒 東経140度29分55.71秒 / 北緯35.888556度 東経140.4988083度 / 35.888556; 140.4988083