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'''桜木町事故'''(さくらぎちょうじこ)は、[[1951年]](昭和26年)[[4月24日]]に[[東海道本線]]支線([[京浜東北線|京浜線]]、現在は[[根岸線]]の一部)[[桜木町駅]]構内で、[[日本国有鉄道|国鉄]][[電車]]([[国電]])が発火し、多くの死傷者を出した[[列車火災事故]]である。犯罪的所業によるものではないが、「桜木町事件」と呼ばれることもある。
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==事故概要==
京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、[[桜木町駅]]構内で、[[碍子]]交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた[[架線]]に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106人、重傷者92人を出す大惨事となった。[[窓]]は中段を固定した3段構造で脱出不能、乗務員が措置を講じず脱出した上に、駅員が非常用コックの位置を知らなかったため乗降[[扉]]を開けることができなかった。また当時の車両の車端貫通路は車両同士の貫通を目的としたものではなかったため内開きの開き戸で、しかも施錠されていたため乗客は脱出路が全くなく、被害を拡大することとなった。

==事故後の対策==
当時の[[日本国有鉄道|国鉄]]は、事故の数日後には全車両の車体にコック位置を表記した上、車内にもコック位置を記した張り紙をするという素早い対策を打った。そして戦時設計の電車に対し、車内への防火塗料の塗布、[[集電装置]]の絶縁強化、車端部の貫通路と貫通幌の設置などの応急処置を施し、後に徹底的な体質改善工事を実施したのだが、800両にも及ぶ対象車の体質改善工事はわずか2年強で完了した。これらのことは、この事故の与えた衝撃の大きさを物語るものといえる。
*被災した[[国鉄63系電車|モハ63形電車]]は、重要な安全部品を省略したり粗悪な代用品を使用したいわゆる「戦時設計車」であった。マスメディアがこの点を厳しく糾弾したことから、戦時設計が被害を大きくした主な原因であるかのように言われがちだが、実際には可燃性材料の多さは戦前期の電車に共通するものであり、モハ63形でなくとも火の回り方は同じようなものであっただろうともいわれている。ただし、モハ63形は電気配線の絶縁の質が劣悪で(通常、絶縁皮膜と防護鋼管で覆われているべき室外配線を、碍子支持の裸電線としていたり、一部の引き通し線を化粧板覆いもなく室内に露出させたりしていた)、この事故以前にも小規模な発煙、発火事故を日常的に起こしていた。ただ、窓についてはモハ63形以前の車両は2段式で開口部が大きいためより脱出が容易であり、死者は少なかっただろうと推測されている。なお、前述の体質改善工事によって63形電車は[[国鉄73系電車|73形]]と名を改め、国鉄末期まで各地で活躍した。

==関連項目==
*[[鉄道事故]]
*[[国鉄戦後五大事故]]

[[Category:鉄道事故|さくらきちようしこ]]
[[Category:日本国有鉄道|さくらきちようしこ]]
[[Category:火災の歴史|さくらきちようしこ]]

2006年4月25日 (火) 12:20時点における版

桜木町事故(さくらぎちょうじこ)は、1951年(昭和26年)4月24日東海道本線支線(京浜線、現在は根岸線の一部)桜木町駅構内で、国鉄電車国電)が発火し、多くの死傷者を出した列車火災事故である。犯罪的所業によるものではないが、「桜木町事件」と呼ばれることもある。

事故概要

京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で、碍子交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた架線に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106人、重傷者92人を出す大惨事となった。は中段を固定した3段構造で脱出不能、乗務員が措置を講じず脱出した上に、駅員が非常用コックの位置を知らなかったため乗降を開けることができなかった。また当時の車両の車端貫通路は車両同士の貫通を目的としたものではなかったため内開きの開き戸で、しかも施錠されていたため乗客は脱出路が全くなく、被害を拡大することとなった。

事故後の対策

当時の国鉄は、事故の数日後には全車両の車体にコック位置を表記した上、車内にもコック位置を記した張り紙をするという素早い対策を打った。そして戦時設計の電車に対し、車内への防火塗料の塗布、集電装置の絶縁強化、車端部の貫通路と貫通幌の設置などの応急処置を施し、後に徹底的な体質改善工事を実施したのだが、800両にも及ぶ対象車の体質改善工事はわずか2年強で完了した。これらのことは、この事故の与えた衝撃の大きさを物語るものといえる。

  • 被災したモハ63形電車は、重要な安全部品を省略したり粗悪な代用品を使用したいわゆる「戦時設計車」であった。マスメディアがこの点を厳しく糾弾したことから、戦時設計が被害を大きくした主な原因であるかのように言われがちだが、実際には可燃性材料の多さは戦前期の電車に共通するものであり、モハ63形でなくとも火の回り方は同じようなものであっただろうともいわれている。ただし、モハ63形は電気配線の絶縁の質が劣悪で(通常、絶縁皮膜と防護鋼管で覆われているべき室外配線を、碍子支持の裸電線としていたり、一部の引き通し線を化粧板覆いもなく室内に露出させたりしていた)、この事故以前にも小規模な発煙、発火事故を日常的に起こしていた。ただ、窓についてはモハ63形以前の車両は2段式で開口部が大きいためより脱出が容易であり、死者は少なかっただろうと推測されている。なお、前述の体質改善工事によって63形電車は73形と名を改め、国鉄末期まで各地で活躍した。

関連項目