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{{政治家 |
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[[File:Komatsu Akira, president of the Tokyo Stock Exchange.jpg|thumb|200px|小松彰]] |
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|人名 = 小松 彰 |
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'''小松 彰'''(こまつ あきら、[[天保]]13年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]([[1842年]][[4月19日]]) - [[明治]]21年([[1888年]])[[3月25日]])は、明治時代の日本の官吏、実業家。幼名は金八、左右輔。 |
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|各国語表記 = こまつ あきら |
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|画像 = Komatsu Akira, president of the Tokyo Stock Exchange.jpg |
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|画像説明 = |
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|国略称 = {{JPN}} |
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1842|4|19|死去}}([[天保]]13年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]) |
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|出生地 = [[信濃国]][[松本城]]下六九町(現・[[長野県]][[松本市]]) |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1842|4|19|1888|3|25}} |
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|死没地 = [[東京府]][[麹町区]]飯田町(現・[[東京都]][[千代田区]][[飯田橋]]) |
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|出身校 = |
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|所属政党 = |
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|称号・勲章 = [[正五位]] |
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|親族(政治家) = |
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|配偶者 = |
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|職名 = [[左院]]二等議官 |
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|退任日 = [[2月22日]] |
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|職名2 = [[豊岡県#歴代知事|豊岡県権令]] / 豊岡県令 |
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|就任日2 = [[1871年]][[12月13日]](明治4年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]])<br /> - [[1872年]][[4月15日]](明治5年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]])<br />1872年4月15日(明治5年3月8日)<br /> |
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|退任日2 = [[11月2日]]([[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) |
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|退任日3 = [[12月13日]](明治4年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) |
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'''小松 彰'''(こまつ あきら、[[天保]]13年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]([[1842年]][[4月19日]]) - [[明治]]21年([[1888年]])[[3月25日]])は[[明治|明治時代]]の[[日本]]の官僚、実業家。旧[[松本藩|松本]][[藩士]]。[[久美浜県#歴代知事|久美浜県権知事]]兼[[生野県#歴代知事|生野県権知事]]、[[豊岡県#歴代知事|豊岡県令]]、[[東京株式取引所]]頭取を歴任した。通称'''彰太郎'''<ref>「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」。</ref>、'''左右輔'''。[[雅号|号]]は雪巌。 |
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== 来歴 == |
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[[天保]]13年([[1842年]])3月、[[信濃国]][[松本城]]下に[[松本藩|松本]][[藩医]]小松維貫(通称齢司、[[坪井信道]]門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学[[崇教館]]に学んだのち、[[安政]]5年([[1858年]])から藩命で[[江戸]]に遊学。[[塩谷宕陰]]の教えを受け、[[文久]]元年([[1861年]])には陽明学を学ぶため[[古賀謹一郎|古賀謹堂]]に入門したが、父維貫が江戸に赴任した文久2年([[1862年]])、家事を掌るべく帰国した。なお江戸では[[長岡藩]]士[[河井継之助]]の薫陶を受けており、以後親交を深めることになる。文久3年([[1863年]])11月、[[松代藩]]の[[佐久間象山]]の門に入り、翌[[元治]]元年([[1864年]])3月には幕命により[[京都]]にのぼる師に従ったが、象山は7月、[[禁門の変]]直前に暗殺された<ref>坪谷、150-157頁。</ref>。 |
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その後小松は江戸に赴き、藩主[[松平光則]]に建策を行ったところ、禁門の変後の情況視察を命じられ翌[[慶応]]元年([[1865年]])1月に再び上京。[[正親町三条実愛|正親町三条]]家に寄寓しながら各藩の周旋方と交際し、松本藩周旋方と目されるに至った。3月、情勢を報じるため老中[[小笠原長行]]配下の[[唐津藩]]士[[大野右仲|大野又七郎]]をともなって帰国。さらに江戸にも出向いている。7月、[[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征討]]のため藩主が宿営する[[なにわ|浪華]]に入って形勢観察に当たり、次いで[[安芸国|芸州]]地方探偵を命を受け三度広島に渡ったが、翌年9月には京都に戻った。慶応3年([[1867年]])3月、松本に帰国すると出府を命じられ、藩財政逼迫のため当年予定されていた参勤の期間軽減を求めて老中[[板倉勝静]]、小笠原長行らと交渉。一期の猶予が認められた。[[大政奉還]]後の同年12月には、江戸滞在中の河井継之助と謀って上京。河井は主君[[牧野忠訓]]とともに朝廷を諫める建白を行ったが用いられず京を離れ、小松も[[戊辰戦争]]勃発後の翌年2月に帰国している。松本に帰ると士籍小納戸格に列せられ、さらに藩から新政府に出仕する貢士に抜擢。ただちに京都に戻ったものの、ほどなく貢士に代わって[[公議所|公議人]]が置かれると解任となった<ref>坪谷、157-163頁。</ref>。 |
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明治2年(1869年)には[[明治政府]]に出仕し、[[倉敷県]]判事、[[生野県]]・[[久美浜県]]両県権知事、[[豊岡県|豊岡]][[県令]]を歴任し、明治5年(1872年)には[[文部省]]会計課長となる。明治9年(1876年)に退官し実業界へ転身する。明治11年(1878年)、[[東京株式取引所]]の頭取に就任。明治20年(1887年)、両毛鉄道会社取締役、東京米商会所頭取に就任。明治21年(1888年)[[熱海市|熱海]]で病没。正五位。 |
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[[明治]]2年([[1869年]])1月、新政府より[[倉敷県]]権判事を命じられたが赴任しないまま8月に免職。次いで新都[[東京]]への上京を命じられ、10月に[[大学校 (1869年)|大学]]少丞に就任<ref>坪谷、164-165頁。</ref>。別当[[松平慶永]]のもと、少丞[[楠田英世]]らとともに「大学規則」の立案に尽力し、規則が成立した明治3年([[1870年]])2月には大学大丞に進んだ。しかし、この学制改革は教官および生徒の反発を受け、学内は混乱。7月に至り別当以下が免職となり、大学本校は閉鎖された<ref>[[大久保利謙]]著 『大久保利謙歴史著作集 4 明治維新と教育』 [[吉川弘文館]]、1987年10月、ISBN 464203594X、336-344頁。熊沢恵里子著 『幕末維新期における教育の近代化に関する研究』 風間書房、2007年6月、ISBN 9784759916362、443-448頁。坪谷、165-166頁。</ref>。その後小松は12月に[[久美浜県#歴代知事|久美浜県権知事]]兼[[生野県#歴代知事|生野県権知事]]に任命され、翌明治4年([[1871年]])2月に久美浜に赴任<ref>坪谷、166頁。</ref>。10月に播但農民一揆が起こると鎮圧に当たった<ref>兵庫県史編集専門委員会編 『兵庫県史 第5巻』 [[兵庫県]]、1980年3月、941、953頁。坪谷、167-168頁。</ref>。同年11月、[[廃藩置県#第1次府県統合|第1次府県統合]]により久美浜生野ほか諸県を廃して成立した[[豊岡県]]の権令となり、明治5年([[1872年]])3月には県令に進んだが、中央官界への復帰を望んで7月に上京<ref>坪谷、166、168頁。</ref>。10月に[[正院]]の大外史に転じ、歴史課長を務めた<ref>坪谷、168頁。[[東京大学史料編纂所]]編 『東京大学史料編纂所史史料集』 東京大学史料編纂所、2001年11月、363頁。</ref>。翌明治6年([[1873年]])5月、権大内史に進み、新設された法制課の課長に就任。[[明法寮|明法]]頭楠田英世が法制課長兼務となった7月以降は副課長を務めた<ref>藤田正 「明治六年の太政官制潤飾と内史官」([[大濱徹也]]編 『国民国家の構図』 [[雄山閣|雄山閣出版]]、2009年11月、ISBN 4639016522)111-113頁。</ref>。同年11月には[[内務省 (日本)|内務省]]新設の趣旨伝達と民情視察のため[[三陸]]六県に派遣されている<ref>小池ウルスラ 「太政官制下の地方監察 : 明治6年11、12月の地方巡廻」(『[[日本歴史]]』第561号、1995年2月、{{NAID|40003067358}})77-78頁。坪谷、169-170頁。</ref>。法制課が[[左院]]に移管された明治7年([[1874年]])2月、左院の二等議官に転任となり、さらに同月、[[文部省|文部]]大丞に異動<ref>[[西川誠]] 「左院における公文書処理 : 左院の機能に関する一考察」(『日本歴史』第528号、1992年5月、{{NAID|40003067851}})74、80頁。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787666/87 『太政官日誌』明治7年第17号、4頁]。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787666/117 同誌明治7年第27号、3頁]。</ref>。文部省四等出仕を経て文部大丞に再任されたのち、明治9年([[1876年]])9月に退官した。文部省内では明治7年2月に学務局長、4月に督学事務取扱となり、同年9月以降は会計課長を務めた<ref>『東京経済雑誌』第412号。</ref>。なお明治9年1月には、盲教育施設設立をめざして[[古川節蔵|古川正雄]]らが前年に組織した楽善会に参加し<ref>[[中野善達]]、加藤康昭共著 『わが国特殊教育の成立』 東峰書房、1991年2月改訂新版、ISBN 4885920152、227頁。</ref>、以後[[東京盲唖学校|訓盲院]]開設に尽力している。 |
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退官後は実業界に転じ、明治11年([[1878年]])1月に[[東京株式取引所]]設立に参画。初代頭取に選出された。翌年1月、[[渋沢成一郎|渋沢喜作]]が頭取に選ばれると肝煎となり、明治13年([[1880年]])7月には肝煎を辞任したが、明治14年([[1881年]])1月に再び頭取に選出。以後再選を重ねた<ref>[[東京株式取引所]]編 『東京株式取引所五十年史』 東京株式取引所、1928年10月、245-247頁。坪谷、170-171頁。</ref>。しかし明治19年([[1886年]])、取引所が所有していた[[金禄公債|金禄公債証書]]の売却益をめぐって株主と対立。同年10月の臨時総会で[[河野敏鎌]]が頭取に選出され、退任に追い込まれた<ref>石井裕晶著 『中野武営と商業会議所 : もうひとつの近代日本政治経済史』 ミュージアム図書、2004年5月、ISBN 4944113552、264-265頁。</ref>。このほか、明治15年([[1882年]])に壬午銀行の設立に参加<ref>坪谷、171頁。</ref>。明治19年11月には[[両毛線|両毛鉄道]]発起人となり、翌明治20年([[1887年]])年3月、取締役に選出されている<ref>石井里枝著 『戦前期日本の地方企業 : 地域における産業化と近代経営』 [[日本経済評論社]]、2013年2月、ISBN 9784818822481、30-31頁。『東京経済雑誌』第412号。</ref>。さらに同年11月、東京米商会所頭取に就任したが、翌月に持病の肺患を再発。明治21年([[1888年]])3月、東京[[飯田橋|飯田町]]の自宅で死去し、[[染井霊園|染井墓地]]に葬られた<ref>坪谷、171-172頁。</ref>。享年47。没後、郷里の[[四柱神社|松本神道]](四柱神社)境内に顕彰碑が建設された<ref>松本尋常高等小学校。</ref>。 |
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小松の兄弟は二兄二姉が夭折しており、父維貫没後は義弟の維直、弟の精一、妹二人が残った<ref>坪谷、154、163頁。</ref>。婿養子の維直は[[佐藤尚中|佐藤舜海]]に学んで医業を継ぎ、精一は官吏、長女は維直夫人、次女は医師原桂仙夫人となった<ref>[[星新一]]著 『祖父・小金井良精の記』 [[河出書房新社]]、1974年2月、71-72頁。</ref>。小松の正妻には子がなかった。権妻との間に一男一女があったが男子は夭折したため、維直の次男春三を婿養子に迎えている<ref>大植。</ref>。 |
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== 著作 == |
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* 「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000000090519 小松文部大丞三陸諸県景況上申]」([[国立公文書館]]所蔵 「公文録・明治六年・第二百四十八巻」) |
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* 自伝 - <small>明治4年(1871年)2月まで。</small> |
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** 「小松彰君の伝」(『東京経済雑誌』第425号、1888年6月) - <small>抄録</small> |
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** 後掲 『実業家百傑伝 第三編』 - <small>抄録</small> |
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* 備忘日誌 - <small>元治元年(1864年)の象山暗殺以降、全11冊(文部省辞任前後の1冊が欠本)<ref>上沼。</ref>。</small> |
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== 脚注 == |
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{{reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 「小松彰君逝けり」(『東京経済雑誌』第412号、1888年3月) |
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*『東京証券取引所20年史』(1974年) |
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* 「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777998/287 小松彰君]」([[坪谷善四郎]]編 『実業家百傑伝 第三編』 東京堂書房、1892年9月) |
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*『明治大正人物事典 政治・軍事・産業篇』(日外アソシエーツ、2011年) |
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** 坪谷善四郎著 『実業家百傑伝 1』 立体社〈明治原典選書〉、1978年6月 |
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* 「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758330/102 小松彰氏の朝野に於ける活動]」(松本尋常高等小学校編 『松本郷土訓話集 第一輯』 交文社、1912年3月) |
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* 「小松彰」(大植四郎編 『国民過去帳 明治之巻』 尚古房、1935年12月) |
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** 大植四郎編 『明治過去帳』 東京美術、1971年11月 |
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* [[上沼八郎]] 「松本藩士・小松彰の日誌」(『[[信濃毎日新聞]]』 1975年3月25日夕刊) |
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* [[上條宏之]] 「小松彰」([[宮地正人]]ほか編 『明治時代史大辞典 1』 [[吉川弘文館]]、2011年12月、ISBN 9784642014618) |
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* 「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000000951390 従五位小松彰特旨ヲ以テ進位一級ノ件]」([[国立公文書館]]所蔵 「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」) |
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== 関連文献 == |
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* 早稲田大学大学史資料センター編 『大隈重信関係文書 5』 [[みすず書房]]、2009年3月、ISBN 9784622082057 |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ 古典籍総合データベース] - [[早稲田大学図書館]]。大隈関係文書の小松彰書翰などが閲覧できる。 |
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* [http://sky.geocities.jp/petrus0067/biography_KOMATSU.html 天馬行空 漢学者銘々伝 小松彰] |
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| title = [[豊岡県#|豊岡県令]] |
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| before = <small>知事</small><br />[[井田譲]] |
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| title = 東京米商会所頭取 |
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{{Succession box |
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[[Category:日本の実業家]] |
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[[Category:東京株式取引所の人物]] |
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[[Category:戦前日本の文部官僚]] |
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[[Category:廃止された府県の知事]] |
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[[Category:長野県出身の人物]] |
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[[Category:幕末松本藩の人物]] |
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[[Category:1842年生]] |
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2015年4月26日 (日) 15:19時点における版
小松 彰 こまつ あきら | |
---|---|
| |
生年月日 | 1842年4月19日(天保13年3月9日) |
出生地 | 信濃国松本城下六九町(現・長野県松本市) |
没年月日 | 1888年3月25日(45歳没) |
死没地 | 東京府麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋) |
称号 | 正五位 |
左院二等議官 | |
在任期間 | 1874年2月12日 - 2月22日 |
豊岡県権令 / 豊岡県令 | |
在任期間 |
1871年12月13日(明治4年11月2日) - 1872年4月15日(明治5年3月8日) 1872年4月15日(明治5年3月8日) - 11月2日(10月2日) |
在任期間 | 1871年2月8日(明治3年12月19日) - 12月13日(明治4年11月2日) |
小松 彰(こまつ あきら、天保13年3月9日(1842年4月19日) - 明治21年(1888年)3月25日)は明治時代の日本の官僚、実業家。旧松本藩士。久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。通称彰太郎[1]、左右輔。号は雪巌。
来歴
天保13年(1842年)3月、信濃国松本城下に松本藩医小松維貫(通称齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰国した。なお江戸では長岡藩士河井継之助の薫陶を受けており、以後親交を深めることになる。文久3年(1863年)11月、松代藩の佐久間象山の門に入り、翌元治元年(1864年)3月には幕命により京都にのぼる師に従ったが、象山は7月、禁門の変直前に暗殺された[2]。
その後小松は江戸に赴き、藩主松平光則に建策を行ったところ、禁門の変後の情況視察を命じられ翌慶応元年(1865年)1月に再び上京。正親町三条家に寄寓しながら各藩の周旋方と交際し、松本藩周旋方と目されるに至った。3月、情勢を報じるため老中小笠原長行配下の唐津藩士大野又七郎をともなって帰国。さらに江戸にも出向いている。7月、第二次長州征討のため藩主が宿営する浪華に入って形勢観察に当たり、次いで芸州地方探偵を命を受け三度広島に渡ったが、翌年9月には京都に戻った。慶応3年(1867年)3月、松本に帰国すると出府を命じられ、藩財政逼迫のため当年予定されていた参勤の期間軽減を求めて老中板倉勝静、小笠原長行らと交渉。一期の猶予が認められた。大政奉還後の同年12月には、江戸滞在中の河井継之助と謀って上京。河井は主君牧野忠訓とともに朝廷を諫める建白を行ったが用いられず京を離れ、小松も戊辰戦争勃発後の翌年2月に帰国している。松本に帰ると士籍小納戸格に列せられ、さらに藩から新政府に出仕する貢士に抜擢。ただちに京都に戻ったものの、ほどなく貢士に代わって公議人が置かれると解任となった[3]。
明治2年(1869年)1月、新政府より倉敷県権判事を命じられたが赴任しないまま8月に免職。次いで新都東京への上京を命じられ、10月に大学少丞に就任[4]。別当松平慶永のもと、少丞楠田英世らとともに「大学規則」の立案に尽力し、規則が成立した明治3年(1870年)2月には大学大丞に進んだ。しかし、この学制改革は教官および生徒の反発を受け、学内は混乱。7月に至り別当以下が免職となり、大学本校は閉鎖された[5]。その後小松は12月に久美浜県権知事兼生野県権知事に任命され、翌明治4年(1871年)2月に久美浜に赴任[6]。10月に播但農民一揆が起こると鎮圧に当たった[7]。同年11月、第1次府県統合により久美浜生野ほか諸県を廃して成立した豊岡県の権令となり、明治5年(1872年)3月には県令に進んだが、中央官界への復帰を望んで7月に上京[8]。10月に正院の大外史に転じ、歴史課長を務めた[9]。翌明治6年(1873年)5月、権大内史に進み、新設された法制課の課長に就任。明法頭楠田英世が法制課長兼務となった7月以降は副課長を務めた[10]。同年11月には内務省新設の趣旨伝達と民情視察のため三陸六県に派遣されている[11]。法制課が左院に移管された明治7年(1874年)2月、左院の二等議官に転任となり、さらに同月、文部大丞に異動[12]。文部省四等出仕を経て文部大丞に再任されたのち、明治9年(1876年)9月に退官した。文部省内では明治7年2月に学務局長、4月に督学事務取扱となり、同年9月以降は会計課長を務めた[13]。なお明治9年1月には、盲教育施設設立をめざして古川正雄らが前年に組織した楽善会に参加し[14]、以後訓盲院開設に尽力している。
退官後は実業界に転じ、明治11年(1878年)1月に東京株式取引所設立に参画。初代頭取に選出された。翌年1月、渋沢喜作が頭取に選ばれると肝煎となり、明治13年(1880年)7月には肝煎を辞任したが、明治14年(1881年)1月に再び頭取に選出。以後再選を重ねた[15]。しかし明治19年(1886年)、取引所が所有していた金禄公債証書の売却益をめぐって株主と対立。同年10月の臨時総会で河野敏鎌が頭取に選出され、退任に追い込まれた[16]。このほか、明治15年(1882年)に壬午銀行の設立に参加[17]。明治19年11月には両毛鉄道発起人となり、翌明治20年(1887年)年3月、取締役に選出されている[18]。さらに同年11月、東京米商会所頭取に就任したが、翌月に持病の肺患を再発。明治21年(1888年)3月、東京飯田町の自宅で死去し、染井墓地に葬られた[19]。享年47。没後、郷里の松本神道(四柱神社)境内に顕彰碑が建設された[20]。
小松の兄弟は二兄二姉が夭折しており、父維貫没後は義弟の維直、弟の精一、妹二人が残った[21]。婿養子の維直は佐藤舜海に学んで医業を継ぎ、精一は官吏、長女は維直夫人、次女は医師原桂仙夫人となった[22]。小松の正妻には子がなかった。権妻との間に一男一女があったが男子は夭折したため、維直の次男春三を婿養子に迎えている[23]。
著作
- 「小松文部大丞三陸諸県景況上申」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治六年・第二百四十八巻」)
- 自伝 - 明治4年(1871年)2月まで。
- 「小松彰君の伝」(『東京経済雑誌』第425号、1888年6月) - 抄録
- 後掲 『実業家百傑伝 第三編』 - 抄録
- 備忘日誌 - 元治元年(1864年)の象山暗殺以降、全11冊(文部省辞任前後の1冊が欠本)[24]。
脚注
- ^ 「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」。
- ^ 坪谷、150-157頁。
- ^ 坪谷、157-163頁。
- ^ 坪谷、164-165頁。
- ^ 大久保利謙著 『大久保利謙歴史著作集 4 明治維新と教育』 吉川弘文館、1987年10月、ISBN 464203594X、336-344頁。熊沢恵里子著 『幕末維新期における教育の近代化に関する研究』 風間書房、2007年6月、ISBN 9784759916362、443-448頁。坪谷、165-166頁。
- ^ 坪谷、166頁。
- ^ 兵庫県史編集専門委員会編 『兵庫県史 第5巻』 兵庫県、1980年3月、941、953頁。坪谷、167-168頁。
- ^ 坪谷、166、168頁。
- ^ 坪谷、168頁。東京大学史料編纂所編 『東京大学史料編纂所史史料集』 東京大学史料編纂所、2001年11月、363頁。
- ^ 藤田正 「明治六年の太政官制潤飾と内史官」(大濱徹也編 『国民国家の構図』 雄山閣出版、2009年11月、ISBN 4639016522)111-113頁。
- ^ 小池ウルスラ 「太政官制下の地方監察 : 明治6年11、12月の地方巡廻」(『日本歴史』第561号、1995年2月、NAID 40003067358)77-78頁。坪谷、169-170頁。
- ^ 西川誠 「左院における公文書処理 : 左院の機能に関する一考察」(『日本歴史』第528号、1992年5月、NAID 40003067851)74、80頁。『太政官日誌』明治7年第17号、4頁。同誌明治7年第27号、3頁。
- ^ 『東京経済雑誌』第412号。
- ^ 中野善達、加藤康昭共著 『わが国特殊教育の成立』 東峰書房、1991年2月改訂新版、ISBN 4885920152、227頁。
- ^ 東京株式取引所編 『東京株式取引所五十年史』 東京株式取引所、1928年10月、245-247頁。坪谷、170-171頁。
- ^ 石井裕晶著 『中野武営と商業会議所 : もうひとつの近代日本政治経済史』 ミュージアム図書、2004年5月、ISBN 4944113552、264-265頁。
- ^ 坪谷、171頁。
- ^ 石井里枝著 『戦前期日本の地方企業 : 地域における産業化と近代経営』 日本経済評論社、2013年2月、ISBN 9784818822481、30-31頁。『東京経済雑誌』第412号。
- ^ 坪谷、171-172頁。
- ^ 松本尋常高等小学校。
- ^ 坪谷、154、163頁。
- ^ 星新一著 『祖父・小金井良精の記』 河出書房新社、1974年2月、71-72頁。
- ^ 大植。
- ^ 上沼。
参考文献
- 「小松彰君逝けり」(『東京経済雑誌』第412号、1888年3月)
- 「小松彰君」(坪谷善四郎編 『実業家百傑伝 第三編』 東京堂書房、1892年9月)
- 坪谷善四郎著 『実業家百傑伝 1』 立体社〈明治原典選書〉、1978年6月
- 「小松彰氏の朝野に於ける活動」(松本尋常高等小学校編 『松本郷土訓話集 第一輯』 交文社、1912年3月)
- 「小松彰」(大植四郎編 『国民過去帳 明治之巻』 尚古房、1935年12月)
- 大植四郎編 『明治過去帳』 東京美術、1971年11月
- 上沼八郎 「松本藩士・小松彰の日誌」(『信濃毎日新聞』 1975年3月25日夕刊)
- 上條宏之 「小松彰」(宮地正人ほか編 『明治時代史大辞典 1』 吉川弘文館、2011年12月、ISBN 9784642014618)
- 「従五位小松彰特旨ヲ以テ進位一級ノ件」(国立公文書館所蔵 「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」)
関連文献
- 早稲田大学大学史資料センター編 『大隈重信関係文書 5』 みすず書房、2009年3月、ISBN 9784622082057
外部リンク
- 古典籍総合データベース - 早稲田大学図書館。大隈関係文書の小松彰書翰などが閲覧できる。
- 天馬行空 漢学者銘々伝 小松彰
公職 | ||
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先代 (新設) |
豊岡県令 1872年 権令 1871年 - 1872年 |
次代 権令 林茂平 |
先代 知事 井田譲 |
久美浜県権知事 1871年 |
次代 (廃止) |
先代 知事 井田譲 |
生野県権知事 1871年 |
次代 (廃止) |
その他の役職 | ||
先代 早川勇 |
東京米商会所頭取 1887年 - 1888年 |
次代 中村道太 |
先代 (新設) 井関盛艮 |
東京株式取引所頭取 1878年 - 1879年 1881年 - 1886年 |
次代 渋沢喜作 河野敏鎌 |