「ルーヴル宮殿」の版間の差分
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{{Infobox building |
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| name = ルーヴル宮殿 |
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| native_name= Palais du Louvre |
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| image = [[File:Louvre Museum Wikimedia Commons.jpg|300px]] |
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| caption = クール・ナポレオンから撮影したルーヴル宮殿と[[ルーヴル・ピラミッド]]の夜景。{{Infobox mapframe|zoom=14|stroke-width=1|height=150|frame-latitude=48.861|frame-longitude=2.335}} |
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| image_map = Map of the Palais du Louvre - OpenStreetMap 2015.svg |
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| building_type = [[宮殿]] |
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| architectural_style = [[ゴシック建築|ゴシック様式]](13世紀、14世紀に増改築された箇所)、<br />[[ルネサンス建築|ルネサンス様式]](16世紀に増改築された箇所)、<br />ルイ13世様式・[[バロック建築|バロック様式]](17世紀、18世紀に増改築された箇所)、<br />[[新古典主義建築|新古典様式]]・新バロック様式・ナポレオン3世様式(19世紀に増改築された箇所)、<br />[[モダニズム建築|モダニズム様式]](20世紀に増改築された箇所) |
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| start_date = 1202年([[ルーヴル城]])、1546年(ルーヴル宮殿) |
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}} |
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{{世界遺産概要表 |
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'''ルーヴル宮殿'''(ルーヴルきゅうでん、{{lang-fr-short|Palais du Louvre}}、{{IPA-fr|palɛ dy luvʁ|IPA}})は、かつて歴代フランス王の王宮として使用されていた[[宮殿]]。[[パリ]]の[[セーヌ川]]右岸に位置し、西側のテュイルリー庭園と東側のサンジェルマン・ロクセロワ教会の間にある。ルーヴル宮殿の北側はリヴォリ通り ([[:en:Rue de Rivoli]]) に面し、南側はフランソワ・ミッテラン通り ([[:en:Quai François Mitterrand]]) に面している。[[中世]]に建築が始められ、16世紀以降増改築を繰り返されてきた。1682年にフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ヴェルサイユ宮殿]]に遷宮するまで、事実上の歴代フランス王宮としての役割を果たしている。ルーヴル宮殿は1682年以降も、[[アンシャン・レジーム]]が終焉する1789年まで、名目上、あるいは公式な政庁として使用されていた。その後ルーヴル宮殿内に[[ルーヴル美術館]]が創設され、また、様々な官公庁部署が収容されていった。 |
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[[File:Palais du Louvre - Paris.jpg|thumb|300px|上空から見たルーヴル宮殿]] |
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<!-- [[File:Map of the Palais du Louvre and environs.svg|thumb|300px|ルーヴル宮殿の平面図]] --> |
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<!-- 【全体のリード文なので、単純に「概要」などの節で分割しないでください】 --> |
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現在のルーヴル宮殿は広大な両翼と4棟の主たる建造物で構成されている。数世紀にわたって幾度も増改築が繰り返されてきた結果、全体としての建築様式は統一されているとは言えない。建造物の総面積は約40ヘクタールで、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]時代に完成したクール・カレ(方形中庭)と、[[ナポレオン3世]]時代に整備が開始されたさらに広いクール・ナポレオン(ナポレオン中庭/ナポレオン広場)の二面の大きな中庭がある。このクール・ナポレオンは西側で[[カルーゼル広場]]に面している。 |
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'''ルーヴル宮殿'''(ルーヴルきゅうでん、[[フランス語|仏]]:Palais du Louvre)は、[[フランス]]の[[パリ]]にある、[[フランス君主一覧|フランス王]]の築いた[[宮殿]]である。 |
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ルーヴル宮殿の構成は、中世からルネサンス期に建造された、クール・カレを囲む建築物や翼棟とセーヌ河岸に沿って長く伸びるグランド・ギャルリ(大展示室)で構成される通称「旧ルーヴル」と、19世紀以降に建造された、クール・ナポレオンの北側と南側に沿って延びる建築物と翼棟、1871年に焼失した[[テュイルリー宮殿]]の遺構となるテュイルリー庭園から構成される通称「新ルーヴル」に大別される。現在ではルーヴル宮殿全体の総床面積のうち、約60,600平方メートル以上が美術品の展示場所として使用されている<ref>{{cite web | title = Œuvres | publisher=Musée du Louvre | url = http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/alaune.jsp?bmLocale=fr_FR | accessdate =27 April 2008 }}</ref>。 |
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元々は中世の城館であったが、国王フランソワ1世が新たに建設することを計画した。3世紀にわたって建設が続けられたため、各時代の建築様式を見ることができる。 |
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現在は[[ルーヴル美術館]]として利用されている。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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=== ルーヴルという名称の語源 === |
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* [[1200年]]頃、[[セーヌ川|セーヌ河]]岸に[[中世]]の城館が築かれた |
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「ルーヴル ({{lang|fr|Louvre}})」という名称の由来ははっきりしていない。フランス人歴史家アンリ・ソーヴァル ([[:en:Henri Sauval]]) が、「古いラテン=サクソン用語集によると『{{lang|fr|Leouar}}』という言葉は『城塞』という意味である」と1660年代ごろに記しており、この「{{lang|fr|Leouar}}」が「{{lang|fr|Louvre}}」の語源であるとする説がある<ref>Sauval 1724, [https://books.google.com/books?id=TdzvCzvi1-IC&pg=PA9 p. 9]: "dans un vieux Glossaire Latin-Saxon, Leouar y est traduit ''Castellum''".</ref>。キース・ブリッグスは、この説が有名で現代の書籍にも取り上げられることを認めたうえで、ソーヴァルがいう用語集が一度たりとも発見されたことがないことから、「{{lang|fr|Leouar}}」語源説は過去に主流だった説にすぎないとしている。そしてブリッグスは、H. J. ウルフが1969年に唱えた「{{lang|fr|Louvre}}」は「赤い土」を意味するラテン語の「{{lang|la|Rubras}}」に由来するという説を支持した<ref>Briggs 2008, p. 116.</ref>。デイヴィッド・ハンサーは「オオカミ狩り用狩猟犬の訓練場所」を意味するフランス語「{{lang|fr|louveterie}}」が語源ではないかとしている<ref>Hanser 2006, p. 115; [[:en:Wolfcatcher Royal]]と[[:fr:Louveterie]]も参照。</ref>。 |
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* [[1546年]]、[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が建築家レスコーを招き、[[ルネサンス様式]]の宮殿の建設に着手 |
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[[File:Plan of Louvre and Tuileries - Yvan Christ, Le Louvre et les Tuileries.svg|800px|frameless|center|時代別のルーヴルとテュイルリー宮殿の平面図]] |
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* [[1624年]]-25年、ルメルシエによる時計のパヴィルヨン |
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<center> |
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* [[1665年]]、イタリア[[バロック建築|バロック]]の建築家[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]案による改築に着手するが、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ヴェルサイユ宮殿]]に関心を向けたため、ルーヴル宮殿の計画は縮小されることになった |
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時代別のルーヴルとテュイルリー宮殿の平面図 |
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* [[1667年]]-74年、ル・ヴォー、[[シャルル・ルブラン|ル・ブラン]]、ペローにより東面が建設される |
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{| width= 800 style="margin: 10px;" |
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* [[1793年]]、[[フランス第一共和政|共和国政府]]により中央[[美術館]]が開館 |
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* [[1852年]]-57年、[[ナポレオン3世]]が[[パリ改造]]の一環として、建築家ヴィスコンティを招き、新館([[第二帝政期建築]])を建設 |
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* [[1981年]]、当時の[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]][[フランスの大統領|大統領]]によりルーヴル美術館の大改造計画が発表、リシュリュー翼に入っていた[[フランス経済・財政・産業省|財務省]]が1993年までに段階的に移転され、美術館用の敷地に転用される |
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| '''建築年''' |
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| '''フランス統治者''' |
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| '''建築家''' |
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| {{legend|#EFB014|}} |
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| 1546年 - 1549年 |
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| [[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]] |
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| [[ピエール・レスコ]] |
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| 2 |
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| {{legend|#599186|}} |
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| 1559年 - 1574年 |
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| [[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]、[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]、[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]] |
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| ピエール・レスコ |
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| 3 |
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| {{legend|#8ca53d|}} |
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| 1564年 - 1570年 |
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| [[カトリーヌ・ド・メディシス]] |
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| フィリベール・ドロルム |
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| 4 |
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| 1566年 |
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| [[カトリーヌ・ド・メディシス]] |
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| ピエール・レスコ |
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| 5 |
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| 1570年 - 1572年 |
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| [[カトリーヌ・ド・メディシス]] |
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| ジャン・ビュラン |
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| 6 |
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| 1595年 - 1610年 |
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| [[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]] |
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| ルイ・メテゥゾー |
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| 7 |
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| {{legend|#92a34b|}} |
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| 1595年 - 1610年 |
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| [[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]] |
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| ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー |
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| 1861年 - 1870年 |
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| [[ナポレオン3世]] |
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| エクトール・ルフエル |
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| 8 |
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| {{legend|#f9cb0d|}} |
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| 1595年 - 1610年 |
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| [[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]] |
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| ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー |
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| {{legend|#bfb35c|}} |
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| 1624年 - 1654年 |
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| [[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ジャック・ルメルシエ |
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| 10 |
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| {{legend|#c3b091|}} |
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| 1653年 - 1655年 |
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| [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ルイ・ル・ヴォー |
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| 11 |
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| {{legend|#eaa757|}} |
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| 1659年 - 1662年 |
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| [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ルイ・ル・ヴォー、カルロ・ヴィガラニ |
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|- |
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| 12 |
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| {{legend|#568ebf|}} |
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| 1659年 - 1664年 |
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| [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ルイ・ル・ヴォー |
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| 13 |
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| {{legend|#8568af|}} |
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| 1661年 - 1664年 |
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| [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ルイ・ル・ヴォー |
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| 14 |
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| {{legend|#c3b091|}} |
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| 1664年 - 1666年 |
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| [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ルイ・ル・ヴォー |
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| 15 |
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| {{legend|#ba60ad|}} |
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| 1664年 - 1666年 |
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| [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ルイ・ル・ヴォー |
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| 1874年 - 1880年 |
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| [[フランス第三共和政|フランス第三共和政府]] |
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| エクトール・ルフエル |
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| 16 |
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| {{legend|#3b6793|}} |
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| 1667年 - 1670年 |
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| [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] |
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| ルイ・ル・ヴォー、[[クロード・ペロー]]、[[シャルル・ルブラン|シャルル・ル・ブラン]] |
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| 17 |
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| {{legend|#d35959|}} |
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| 1806年 - 1811年 |
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| [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]] |
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| シャルル・ペルシエ、ピエール・フォンティーヌ |
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| 18 |
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| {{legend|#f2cb2a|}} |
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| 1816年 - 1824年 |
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| [[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]] |
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| ピエール=フランソワ=レオナール・フォンティーヌ |
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| 19 |
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| {{legend|#6a8966|}} |
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| 1852年 - 1857年 |
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| [[ナポレオン3世]] |
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| [[ルイ・ヴィスコンティ]]、エクトール・ルフエル |
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| 20 |
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| {{legend|#cc7722|}} |
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| 1861年 - 1870年 |
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| [[ナポレオン3世]] |
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| エクトール・ルフエル |
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| 21 |
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| {{legend|#3c64a5|}} |
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| 1874年 - 1880年 |
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| [[フランス第三共和政|フランス第三共和政府]] |
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| エクトール・ルフエル |
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=== 中世 === |
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==== 城塞 ==== |
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* [[ルーヴル美術館]] |
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[[File:Plan of medieval Louvre from Berty with overlay based on Hautecoeur.jpg|thumb|upright=1.25|中世のルーヴルとフィリップ・オーギュストの防壁の平面図。シャルル5世時代に増築された箇所が描かれている<ref>Figure from Berty 1868, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6517947c/f180.image.r=.langEN after p. 128 (at Gallica)], with modifications based on a figure from Hautecoeur 1940, p. 2.</ref>。]] |
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* [[ルネサンス建築]] |
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1190年に、[[第3回十字軍]]を主導したことでも知られるフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]が、パリ全域を囲む城壁 ([[:en:Wall of Philip II Augustus]]) の建設を命じた。「フィリップ・オーギュストの防壁」とも呼ばれるこの城壁は、北西からの敵侵攻に備えたもので、城壁外部には数棟の堅固な城塞が建設された。これらの城塞のうちセーヌ川に建設されたのが、現在のルーヴル宮殿の前身にあたる城塞としてのルーヴルである。ルーヴルが建設されたのは、現在のクール・カレ南西部分のおよそ四分の一に相当する場所で、1202年に完成した。現在でもルーヴルのシュリー翼で、建設当時のルーヴルの遺物が一般公開されている<ref name=Ayers32>Ayers 2004, p. 32.</ref><ref name="The Louvre">{{cite web|url=http://www.paris-walking-tours.com/thelouvre.html|title=The Louvre: One for the Ages|year=2008|accessdate=29 September 2008}}</ref>。 |
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* [[バロック建築]] |
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完成当初のルーヴルは78メートル × 72メートルのほぼ正方形の建造物で、高さ2.6メートルの[[胸壁]]と[[出し狭間|張出狭間]]を備えた[[カーテンウォール (要塞)|城壁]]で囲まれていた。 |
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さらにその外側は水をたたえた[[堀]]がめぐらされていた。城壁外部には10棟の防御用尖塔があり、城壁の各角および北側と西側の城壁中央に1棟ずつと、南側と東側に設けられた狭い門の両脇にそれぞれ2棟ずつ建てられていた<ref name=Ayers32/>。中庭のやや北東寄りには、石造りの急傾斜を付けた深い乾濠に囲まれた、高さ13メートル、直径4メートルの円筒状の主塔([[キープ (城)|ドンジョン]])が設置されていた。ルーヴルに派遣された兵士たちの寝泊まりには、主塔の円天井を持つ大部屋と、城壁内部の西側と南側に建てられた翼棟が使用されていた<ref name=Ayers3233>Ayers 2004, pp. 32–33.</ref>。この時代のルーヴルは城塞であり、当時のフランス王たちがパリで住居としていたのは[[コンシェルジュリー|コンシェルジュリー宮殿]]だった<ref name=Ayers33>Ayers 2004, p. 33.</ref>。 |
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円筒形の建物は方形の建物に比べて死角が少なく、侵攻してくる敵を遠距離から視認できるという特長を持つ。このため当時のフランスでは円筒形の主塔を持つ城塞が多かったが、ルーヴルほど大規模な城塞は稀だった。ルーヴルはフランス王が持つ権力の象徴となり、国王に対する忠誠の誓言として採用されるほどだった。ルーヴルは1528年に解体されているが、この慣習は時代をはるかに下る[[アンシャン・レジーム|アンシャン・レジーム期]]の終わりまで続いている<ref name=Ayers3233/><ref name="History of the Louvre">{{cite web|url=http://www.louvre.fr/en/history-louvre |title=The History of the Louvre: From Château to Museum|year=2008|accessdate=29 September 2008}}</ref>。ルーヴルは中世時代を通じて何度も増改築された。13世紀半ばのフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]のころには、ルーヴルは王室財産の保管地にもなっている<!-- citation needed -->。また、[[ヴァロワ家|ヴァロワ王朝期]]には、監獄や法廷が収容されたこともあった<ref>Hanser 2006, p. 115.</ref>。 |
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==== 王宮 ==== |
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[[File:Les Très Riches Heures du duc de Berry octobre.jpg|thumb|[[装飾写本]]『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』に描かれた、シャルル5世時代のルーヴル。]] |
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パリの隆盛と[[百年戦争]]の勃発が商人頭[[エティエンヌ・マルセル]]の台頭を招き、実質的にパリ市長ともいえる地位にいたマルセルは、フィリップ・オーギュストの防壁の外側に[[土塁]]を築き始めた。フランス王と対立していたマルセルの暗殺後にフランス王位に就いた[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]も、この土塁建造を継続してさらに防壁へと強化していった<ref name="History of the Louvre"/>。「シャルル5世の防壁 ([[:en:Wall of Charles V]])」と呼ばれるこの防壁は、現在でもルーヴル美術館のギャルリ・カルーゼル(カルーゼル展示室)で見ることができる<ref name=Ayers33/>。マルセルの土塁の最西端に設置されていた木造の塔から、シャルル5世の防壁がセーヌ右岸を巡っていたフィリップ・オーギュストの防壁の外側にも延長された。二重の防壁に囲まれたルーヴルの軍事的重要性とその価値は飛躍的に高まっていった<ref name=Ballon15>Ballon 1991, p. 15.</ref>。 |
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シャルル5世が王太子シャルルだった時期にパリのフランス王宮として使用されていたのは[[シテ宮殿]]だった。父王[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]が百年戦争でイングランドの捕虜となって以来、シャルルが摂政としてシテ宮殿でフランスの国政を司っていた。当時フランス王室と激しく対立していたエティエンヌ・マルセルの私兵が1358年にシテ宮殿に乱入して、フランス王の相談役らを殺害するという事件を起こす。自身がシテ宮殿に滞在しているときに引き起こされたこの事件にシャルルは激しく憤った。シャルルはシテ宮殿ではなく、ルーヴルをフランス王宮とすることを決めた<ref name=Ayers33/>。ルーヴルが城塞から宮殿へと改築されたのは1360年から1380年にかけてである<ref name=Ballon15/>。城壁にはガラス窓が取り付けられ、中庭には新たな翼棟が建設された。屋根には装飾された煙突や小塔、尖塔などが設置されている。「可愛らしいルーヴル ({{lang|fr|joli Louvre}})」として知られるシャルル5世が改築したルーヴルは、[[装飾写本]]『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』の「10月」の葉に描かれている<ref>Hanser 2006, p. 115; Ayers 2004, p. 33.</ref>。 |
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=== ルネサンス期 === |
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1528年に、幽閉されていたスペインから帰還したフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が、ルーヴルの主塔の破却を命じた。フランソワ1世は[[フォンテーヌブロー宮殿]]で、後のルーヴル美術館の中核コレクションとなる美術品の収集を開始した。フランソワ1世が購入した有名な美術品に、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の『[[モナ・リザ]]』がある<ref>{{cite news|author=Chaundy, Bob|title=Faces of the Week|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/5392000.stm|publisher=[[BBC]]|date=29 September 2006|accessdate=5 October 2007}}</ref>。1546年にフランソワ1世は、建築家の[[ピエール・レスコ]]と彫刻家の[[ジャン・グージョン]]に、ルーヴルを当時の主流だった[[ルネサンス建築|ルネサンス様式]]の宮殿に改装するように命じた<ref name="Ayers33"/><ref name="Mignot 34">Mignot 1999, pp. 34, 35.</ref><ref>Sturdy 1995, p. 42.</ref>。レスコはかつて[[ロワール渓谷]]の古城の修復を手掛けたことがあり、このルーヴル改装計画にも抜擢された建築家である。フランソワ1世が1547年に死去すると、ルーヴル改装計画はいったん中止されたが、フランソワ1世の後を襲って王位に就いた[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]が、1549年からルーヴル改装計画を再開した<ref name="Ayers33"/>。 |
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レスコはルーヴルの西側に建てられていた翼棟を破却し、現在でもレスコ翼と呼ばれる翼棟を新たに建造した。また、王の別館 ({{lang|fr|Pavillon du Roi}}) のアンリ2世の寝室の天井を、伝統的な[[梁 (建築)|梁]]構造ではなく、古代ギリシア・ローマ様式を模した女性像彫刻で装飾した<ref name="Blunt">Blunt 1999, [https://books.google.com/books?id=slFq1L2b58UC&pg=PA47&dq=Scibec+de+Carpi+ceiling&ei=rk8zSKS0JYy6ygSFzaDMDw&sig=4V6F9m9Otq9ENZB8BeOD4z-4G_g p. 47].</ref>。美術史家アンソニー・ブラント ([[:en:Anthony Blunt]]) はレスコが残した業績について「フランス古典主義ともいえる様式で、独自の原則と調和に満ちている」と評している<ref name="Blunt"/>。 |
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[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]と[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の時代に、レスコは南側の翼棟も破却してレスコ翼と同じ設計の翼棟を建造した。これはエクーアン城 ([[:en:Château d'Écouen]]) のように、4棟の建物で正方形の城郭を構成する設計だったと考えられており、北側には高さが低いものの同一の設計の翼棟と、東側にはエントランスがある翼棟の建造が計画されていた<ref>Ayers 2004, p. 34. 正方形を構成するという当初計画が破棄されて、現在のような長方形を構成する翼棟に設計変更された時期については、複数の説がある。エアーズは1594年10月だという説を唱え(Ayers 2004, p. 35)、ボーティエは計画変更を決めたのはアンリ4世だったとしている(Bautier 1995, p. 39)。その他、バロンはアンリ2世が1551年にレスコの当初計画を4倍に延伸する案を裁可したと主張し(Ballon 1991, p. 16)、ミニョはレスコ自らがアンリ2世に計画の変更を提案したとしている(Mignot 1999, p. 38)。</ref>。レスコはルーヴルの南東角からセーヌ川へと延びるプティート・ギャルリ(プティート展示室)の設計も担当した。しかしながら、[[ユグノー戦争]]の勃発により、すべてのルーヴル改装作業が中止されてしまった<ref name=Ayers34>Ayers 2004, p. 34.</ref>。 |
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1564年初頭になって、1559年に事故死したアンリ2世の王妃で幼王[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の摂政を務めていた[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が、ルーヴルの西側のシャルル5世の防壁外に宮殿の建造を命じた。この宮殿はタイル工場 ({{lang|fr|tuileries}}) の跡地に建てられたことから[[テュイルリー宮殿]]と呼ばれるようになった。建築家フィリベール・ドゥ・ロルム ([[:en:Philibert de l'Orme]]) が設計を担当し、ロルムが1570年に死去するとジャン・ビュラン ([[:en:Jean Bullant]]) が計画を引き継いだ<ref name="Mignot 34"/><ref name=Ayers34/>。 |
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File:Bastiments v1 (Gregg 1972 p20) - Louvre west wing court facade.jpg|レスコ翼のファサード。ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソーの銅版画(1576年)。 |
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File:Bastiments v1 (Gregg 1972 p21) - Louvre Pavillon du Roi river facade.jpg|王の別館の南側ファサード。デュ・セルソーの銅版画(1576年)。 |
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File:Plan of the Louvre with the modifications by Lescot - Berty 1868 after p168 – Gallica 2013 (adjusted).jpg|レスコが当初計画していた、正方形の城郭を持つルーヴルの平面設計図。画面上がレスコ翼で、左が南翼棟。<ref>Drawing by architect Henri Legrand (1868) based on historical documents reproduced in Berty 1868, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6517964w/f287 after p. 168 (at Gallica)].</ref> |
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File:West facade of the Lescot wing by H Legrand - Berty 1885 v2 after p56 - Gallica 2013 (adjusted).jpg|1560年頃のレスコ翼西側ファサード。建築家アンリ・ルグランが古文書から描き起こした立面図(1868年)<ref>Figure from Berty 1868, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6517964w/f102 after p. 56 (at Gallica)]; discussed and reproduced in Lowry 1956, pp. 61–62 (c. 1560, date of completion of the Pavillon du Roi; Lescot wing completed in 1553); Fig. 20, discussed on p. 143.</ref>。 |
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File:Israël Silvestre 049-10 Veüe et Perspective de la partie du Louure ou sont les apartemens du Roy et de la Reyne du coste du Jardin.jpg|左が王の別館の南側ファサード、右が旧ルーヴルの南塔。イスラエル・シルヴェストルの銅版画(1650年頃)。 |
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=== ブルボン朝以降 === |
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ユグノー戦争中に断絶した[[ヴァロワ朝|ヴァロワ家]]の後、1589年に[[ブルボン朝|ブルボン家]]がフランス王位を継ぎ、[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]](在位1589年 - 1610年)がルーヴルの「大計画 ({{lang|fr|Grand Design}})」を開始した。中世の城塞時代からの遺構をすべて破却して中庭クール・カレを拡張するとともに、ルーヴルとテュイルリー宮殿を結ぶ長大な回廊の建造計画を推し進めたのである。建築家ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー ([[:en:Jacques II Androuet du Cerceau]]) とルイ・メテゥゾーが完成したこの回廊はグランド・ギャルリ(大展示室、{{lang|fr|Grande Galerie}})と呼ばれるようになった<ref name="Mignot 39"/>。セーヌ川に沿って長さ400メートル超、幅およそ30メートルに及ぶこの長大な回廊は、完成当時で世界最長の建造物だった。アンリ4世は、数百人にのぼる芸術家、工芸家をルーヴルに住まわせて芸術活動を後援した。この慣習は200年後にナポレオン3世が廃止するまで続いている。 |
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File:Louvre1615.jpg|グランド・ギャルリで結ばれたルーヴルとテュイルリー宮殿。1615年のパリ地図。 |
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File:Le Louvre et l'Hôtel de Bourbon, vus de la rive gauche, vers 1650 - Musée Carnavalet (adjusted).jpg|レイニール・ノームスが描いたルーヴルの南側ファサード(1650年頃)。 |
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17世紀初頭に[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]が、レスコ翼を北へと倍の長さへの延長を決定し、建築家ジャック・ルメルシエが1642年ごろに完成させた。このときに延長されたレスコ翼の中央棟は、1857年に時計が設置されたことから「時計棟 ([[:en:Pavillon de l’Horloge]]) と呼ばれるようになっていった<ref name="Mignot 39">Mignot 1999, p. 39.</ref>。ルメルシエは、北翼を東へと延伸する第一期の工事も手がけている<ref>Ayers 2004, p. 35.</ref>。 |
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File:Israël Silvestre 049-11 Veue du Louure et de la grande Galerie du costé des Offices.jpg|1644年頃のルーヴル西側ファサード。ジャック・ルメルシエが北へ延伸したレスコ翼が見える。レスコ翼終端のボーヴェ棟 ({{lang|fr|Pavillon de Beauvais}})は一階部分しかない。イスラエル・シルヴェストルの銅版画。 |
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File:Israël Silvestre 049-08 Veue et Perspectiue du dedans du Louure, faict du Regne de Louis XIII.jpg|中庭から見たルメルシエが北へ延伸したレスコ翼のファサード。左の作品よりもさらに後世に制作されたルメルシエの銅版画で、完成したボーヴェ棟と東へ延伸途中の北翼が見える。 |
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File:Israël Silvestre 051-08 Veuë du Louure par dedans le Bastiment neuf.jpg|南から見たクール・カレ。破却されている旧ルーヴルの北翼と破却前の尖塔が見える。ルメルシエの銅版画。 |
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==== ルイ14世時代 ==== |
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[[File:Palais du Louvre on the map of Turgot 1739 - Kyoto U.jpg|thumb|upright=1.25|1739年に発行された「テュルゴーのパリ地図 ([[:en:Turgot map of Paris]])」に掲載されているルーヴル。ルイ14世の時代には北翼、西翼などの屋根が未完成に終わっている。最終的に完成したのはおよそ100年後のナポレオン1世時代だった。]] |
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1659年フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が、建築家ルイ・ル・ヴォー ([[:en:Louis Le Vau]]) と画家[[シャルル・ルブラン|シャルル・ル・ブラン]]にルーヴルの拡張計画推進を命じた。ル・ヴォーはテュイルリー宮殿の改装が完了するまで作業監督を務め、さらにルーヴルの北翼の仮組と南翼の延伸の完遂、王の別館の装飾、プティート・ギャルリに沿って設けられた新たなギャルリである王の大執務室 ({{lang|fr|Grand Cabinet du Roi}}) と礼拝堂の新設を担当した。ル・ブランはギャルリ・アポロン(アポロン展示室 ([[:en:Galerie d'Apollon]]))の装飾を担当した。造園家の[[アンドレ・ル・ノートル]]は、カトリーヌ・ド・メディシスが1564年にイタリア風庭園として完成させた[[テュイルリー庭園]]を、フランス風庭園へと改装している<ref name="Mignot 39"/><ref name=Ayers36>Ayers 2004, p. 36.</ref><ref name="Edwards198">Edwards 1893, p. 198.</ref>。「王室美術コレクション ({{lang|fr|Cabinet du Roi}})」の中核は、プティート・ギャルリの上階に設置されたアポロン・ギャルリ西側の8部屋に飾られていた。1673年頃には多くの歴代フランス王の肖像画がこれらの部屋に収蔵されており、アート・ギャラリーとして公開されるようになっていった。1681年にルイ14世がフランス王宮をルーヴルから[[ヴェルサイユ宮殿]]に遷すと、アポロン・ギャルリの絵画のうち26点がヴェルサイユ宮殿へと持ち出された。ルーヴルの王室美術コレクションの価値はその分低くなったとはいえ、1684年発行のパリガイドブックにも記載されており、1686年には[[タイ王国|シャム]]の外交官一行が見学に訪れている<ref>Berger 1999, pp. 83–86.</ref>。 |
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ルイ13世が任命した、ル・ヴォー、ル・ブラン、[[クロード・ペロー]]らで構成される建築委員会が、ルーヴルの東ファサードの設計を担当した<ref>Ayers 2004, p. 31.</ref>。1668年に建設が開始され、ルイ14世が在位中の1680年に一応の完成を見た。しかしながら翼部分は一部が未完成で、すべて完成したのはナポレオン1世の時代になってからだった<ref name=Ayers36/>。この東ファサードの設計を主導したのはペローだといわれており、各建築家の意見をうまく調整して南翼の横幅を倍にする決定を下したのもペローだった<ref name=Ayers36/>。 |
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[[File:3888ParigiLouvre.JPG|thumb|left|ペローが設計したルーヴルの東ファサード(1665年 - 1680年)。ヨーロッパ屈指の古典主義建築とされる。]] |
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東ファサードの屋根は明らかにフランス風ではない平らな構造と、典型的なイタリア風[[手すり子|欄干]]で囲まれている。このデザインがフランス建築史の一大転換となった。当時のルーヴルでは、特別にパリへと招聘された世界的なイタリア人建築家・彫刻家[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]が改装設計を担当していた。しかしながら、この東ファサードはベルニーニによる設計案ではなく、ペローの設計案が採用された建物である。ペローは古代ローマの建築家[[ウィトルウィウス]]のデザインをフランス建築に昇華した。柱塔、[[コロネード]]、[[ペディメント]]など、古典主義とバロックを抑制的に融合した様式は、何世紀にもわたってヨーロッパやアメリカの大規模建造物の手本となってきた。ニューヨークの[[メトロポリタン美術館]]もペローの様式からの影響を受けている。ペローは南翼の横幅倍増計画の責任者でもあった。南翼ファサードはル・ヴォーのデザインで改装されていたが、ペローはより東ファサードと調和するデザインで南翼ファサードを一新している<ref name=Ayers36/>。さらにペローは北翼の市街側ファサードの設計も担当したほか<ref name=Ayers36/>、クール・カレ側の北、東、南ファサードのデザインの責任者でもあったと考えられている<ref>Ayers 2004, p. 37.</ref>。{{-}} |
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==== 19世紀以降 ==== |
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[[File:Tuileries Palace in 1871 after the burning during the fights of the Commune de Paris.jpg|thumb|right|テュイルリー宮殿は、1871年5月に[[パリ・コミューン]]の鎮圧時の混乱で焼失した。]] |
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[[File:Gambetta's monument, Paris, France, ca. 1890-1900.jpg|thumb|クール・ナポレオンに設置されていた[[レオン・ガンベタ|レオン・ガンベッタ]]の記念碑(1900年頃)。1954年に撤去された。]] |
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1806年にフランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の命で、東に延びる二棟の翼の中間に[[カルーゼル凱旋門]]の建設が開始された。これはナポレオン1世自身の軍事的業績を讃えるための凱旋門で、建築家シャルル・ペルシエ ([[:en:Charles Percier]]) が設計し、1808年に完成した。現在のカルーゼル凱旋門には彫刻家フランソワ・ジョゼフ・ボジオの[[クアドリガ]]が安置されているが、これはナポレオン没落後の[[フランス復古王政|フランス王政復古期]]に設置されたものである。 |
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19世紀半ばごろまでカルーゼル広場には中世以来のルーヴル城の遺構が残っていた。これらの遺構がすべて撤去されたのは[[ナポレオン3世]]の[[フランス第二帝政|フランス第二帝政期]]になってからだった。ルーヴルとテュイルリー宮殿とを結ぶ壮大な計画が着想されたのはおよそ3世紀前のことだったが、この大計画の最終建築物となる、リヴォリ通りに並行して延びる北側のリシュリュー翼と南側のドゥノン翼が完成したのは、このフランス第二帝政期である。この2翼は、建築家ルイ・ヴィスコンティ ([[:en:Louis Visconti]]) とエクトル・ルフュール ([[:en:Hector Lefuel]]) が設計を担当した、フランス第二帝政期を代表するネオ・バロック様式の建造物である。大規模な彫刻細工で装飾されたほか、フランス史上著名な歴史的人物の彫像も設置された。この人物彫像の一部を以下に挙げる。 |
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* 歴史家フィリップ・ド・コミーヌ ([[:en:Philippe de Commines]])、ウジェーヌ=ルイ・ルケンヌ ([[:en:Eugène-Louis Lequesne]]) |
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* 博物学者[[ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン]]、ウジェーヌ・アンドレ・ウディネ ([[:en:Eugène André Oudiné]]) |
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* 科学者[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]、ジャック=レオナール・マイエ ([[:en:Jacques-Léonard Maillet]]) |
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* 哲学者[[ジャン=ジャック・ルソー]]、ジャン・バティスト・フォション |
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* 軍人[[セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン]]、ギュスターヴ・クロク |
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テュイルリー宮殿は、1871年5月に[[パリ・コミューン]]の鎮圧時にコミューン参加者によって放火され、花の館を残して完全に焼失した。ルーヴルのリシュリュー文書室も火に包まれて焼失したが、その他の建物は消防士とルーヴル職員との懸命な消火活動によって破壊を免れた<ref>Héron de Villefosse, René, ''Histoire de Paris'', Bernard Grasset, 1959.</ref>。テュイルリー宮殿焼失以来、ルーヴルの東側の中庭であるカルーゼル広場は、一面のみが開放されたままの、いわゆる「クール・ドヌール ([[:en:Cour d'honneur]])」の状態となっている。 |
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1888年にフランスの政治家[[レオン・ガンベタ|レオン・ガンベッタ]]の記念碑がクール・ナポレオンの中央、現在の[[ルーヴル・ピラミッド]]が位置する場所に建立された。当時のクール・ナポレオンは二つの庭園となっており、一方の庭園にこのガンベッタの記念碑が、もう一方の庭園にはフランスの軍人・侯爵[[ラファイエット]]の記念碑が設置されていた。しかしながらこれらの記念碑と庭園は、時計棟からの見晴らしをよくするために1954年に撤去されている。 |
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==== 大ルーヴル計画とルーヴル・ピラミッド ==== |
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{{Main|ルーヴル・ピラミッド}} |
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1983年に当時の[[フランスの大統領|フランス大統領]][[フランソワ・ミッテラン]]が、「パリ大改造計画 ([[:en:Grands Projets of François Mitterrand]])」を推進した。この計画の一環として「大ルーヴル計画 ({{lang|fr|Grand Louvre}})」が実施されることとなり、1983年に大ルーヴル計画公団が設立された。この計画では、ルーヴルの建造物の修復と、リシュリュー翼に収容されていた[[経済・財務省|財務省]]を移設して、建物全体を美術館として使用することが決められた。さらにアメリカの[[建築家]][[イオ・ミン・ペイ]]に、クール・ナポレオンの中央に新たに設置するメイン・エントランスの設計が任され、1989年に[[ルーヴル・ピラミッド]]と呼ばれるガラス製の近未来的なデザインのピラミッドが完成した<ref>{{cite news|last=Simons|first=Marlise|title=5 Pieces of Europe's Past Return to Life: France; A vast new exhibition space as the Louvre renovates |work=New York Times|date=1993-03-28|url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F0CEFDF1F39F93BA15750C0A965958260|accessdate=2008-10-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.louvre.fr/jp/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 |title=ルーヴルの歴史 |publisher=ルーヴル美術館 |date= |accessdate=2013-01-23}}</ref>。完成当初には、古典的建築物であるルーヴルに、このような建造物は相応しくないのではないかという議論が巻き起こったが、徐々に新たなパリのランドマークとしてパリ市に受け入れられつつある。1993年にはルーヴル・ピラミッドと対となる[[ルーヴル・逆ピラミッド]]が完成した。2002年以降のルーヴルの入場者数は、大ルーヴル計画以前に比べて約2倍に増加している<ref>{{cite web | url=http://www.businessweek.com/magazine/content/02_24/b3787627.htm | date=17 June 2002 | title=Online Extra: Q&A with the Louvre's Henri Loyrette | work=Business Week Online | archive-url=https://web.archive.org/web/20131210154237/http://www.businessweek.com/stories/2002-06-16/online-extra-q-and-a-with-the-louvres-henri-loyrette | archive-date=10 December 2013| accessdate=26 April 2015 }}</ref>。 |
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大ルーヴル計画の一環として、ルーヴルでは建物の場所によって全体を大きく三つに分け、主たる建物の名前で呼ぶことを決めた。ルーヴルのメインエントランスであるルーヴルピラミッドの地下からの順路として、東へ向かうシュリー翼、北へ向かうリシュリュー翼、そして南へ向かうドゥノン翼である<ref>Biasini et al 1989, pp. 152–153; Ochterbeck 2009, pp. 174–201; [http://www.louvre.fr/en/plan Louvre: Interactive Floor Plans]; [http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=rp_view_rp Louvre: Atlas database of exhibits].</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.louvre.fr/sites/default/files/medias/medias_fichiers/fichiers/pdf/louvre-見取り図館内のご案内.pdf |title=見取り図と館内のご案内 日本語版 |publisher=ルーヴル美術館 |date= |accessdate=2016-05-26}}</ref> |
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== ギャラリー == |
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ファイル:Paris - The Musee Du Louvre main hall by night - 2884.jpg|大ルーヴル計画で修復された、リシュリュー翼の展示室クール・マルリ。フランス人芸術家の彫刻作品が展示されている。 |
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ファイル:Cour Carrée, Louvre Museum, 2 April 2009.jpg|クール・カレから東向きに撮影したパノラマ写真。 |
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ファイル:Louvre medieval foundations flickr.jpg|唯一中世の遺構が残るシュリー翼の地下。 |
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== 出典 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
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* Sturdy, David (1995). ''Science and social status: the members of the Académie des sciences 1666-1750''. Woodbridge, Suffolk, U.K.: Boydell Press. ISBN 085115395X. [https://books.google.com/books?id=xLsNxkRXiNAC&pg=RA1-PA42&dq=francois+I+keep+Louvre&ei=ZU4zSIGoDZC2ygTet4zMDw&sig=qB9S30BnqK15vEkRN747c1clomg Preview] at [[Google Books]]. |
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== 外部リンク == |
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{{Commons|Louvre}} |
{{Commons|Louvre}} |
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* [http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=RETROUVER&FIELD_1=INSEE&VALUE_1=75101&NUMBER=31&GRP=2&REQ=%28%2875101%29%20%3aINSEE%20%29&USRNAME=nobody&USRPWD=4%24%2534P&SPEC=9&SYN=1&IMLY=&MAX1=1&MAX2=100&MAX3=100&DOM=Tous Ministry of Culture database entry for the Louvre] {{fr icon}} |
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{{Coord|48|51|40|N|2|20|11|E|region:FR_type:landmark|display=title}} |
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* [http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/memoire_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_5=LBASE&VALUE_5=PA00085992 Ministry of Culture photos] |
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* [https://web.archive.org/web/20080331223305/http://www.virtualparis.fr/en/guide/displayVisit/19 A virtual visit of the Louvre] |
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* [http://www.paris-360.com/front/fiche/8-cour-napol%E9on---pyramide-du-louvre.html Panoramic view of the pyramid and the Cour Napoléon] |
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{{Coord|48|51|40|N|2|20|11|E|region:FR_type:landmark|display=title}} |
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{{フランスの王宮}} |
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{{DEFAULTSORT:るうふるきゆうてん}} |
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[[Category:パリの宮殿]] |
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[[Category:フランスのバロック建築]] |
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[[Category:パリのセーヌ河岸]] |
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[[Category:パリ1区]] |
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[[Category:1202年]] |
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[[Category:13世紀の建築物]] |
2023年12月26日 (火) 14:57時点における最新版
ルーヴル宮殿 | |
---|---|
Palais du Louvre | |
クール・ナポレオンから撮影したルーヴル宮殿とルーヴル・ピラミッドの夜景。 | |
概要 | |
用途 | 宮殿 |
建築様式 |
ゴシック様式(13世紀、14世紀に増改築された箇所)、 ルネサンス様式(16世紀に増改築された箇所)、 ルイ13世様式・バロック様式(17世紀、18世紀に増改築された箇所)、 新古典様式・新バロック様式・ナポレオン3世様式(19世紀に増改築された箇所)、 モダニズム様式(20世紀に増改築された箇所) |
着工 | 1202年(ルーヴル城)、1546年(ルーヴル宮殿) |
完成 | 1989年(ルーヴル・ピラミッド)完成 |
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ルーヴル宮殿の鳥瞰 | |||
英名 | Paris, Banks of the Seine | ||
仏名 | Paris, rives de la Seine | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (ⅰ),(ⅱ),(ⅳ) | ||
登録年 | 1991年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター | ||
地図 | |||
使用方法・表示 |
ルーヴル宮殿(ルーヴルきゅうでん、仏: Palais du Louvre、IPA: [palɛ dy luvʁ])は、かつて歴代フランス王の王宮として使用されていた宮殿。パリのセーヌ川右岸に位置し、西側のテュイルリー庭園と東側のサンジェルマン・ロクセロワ教会の間にある。ルーヴル宮殿の北側はリヴォリ通り (en:Rue de Rivoli) に面し、南側はフランソワ・ミッテラン通り (en:Quai François Mitterrand) に面している。中世に建築が始められ、16世紀以降増改築を繰り返されてきた。1682年にフランス王ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に遷宮するまで、事実上の歴代フランス王宮としての役割を果たしている。ルーヴル宮殿は1682年以降も、アンシャン・レジームが終焉する1789年まで、名目上、あるいは公式な政庁として使用されていた。その後ルーヴル宮殿内にルーヴル美術館が創設され、また、様々な官公庁部署が収容されていった。
現在のルーヴル宮殿は広大な両翼と4棟の主たる建造物で構成されている。数世紀にわたって幾度も増改築が繰り返されてきた結果、全体としての建築様式は統一されているとは言えない。建造物の総面積は約40ヘクタールで、ナポレオン1世時代に完成したクール・カレ(方形中庭)と、ナポレオン3世時代に整備が開始されたさらに広いクール・ナポレオン(ナポレオン中庭/ナポレオン広場)の二面の大きな中庭がある。このクール・ナポレオンは西側でカルーゼル広場に面している。
ルーヴル宮殿の構成は、中世からルネサンス期に建造された、クール・カレを囲む建築物や翼棟とセーヌ河岸に沿って長く伸びるグランド・ギャルリ(大展示室)で構成される通称「旧ルーヴル」と、19世紀以降に建造された、クール・ナポレオンの北側と南側に沿って延びる建築物と翼棟、1871年に焼失したテュイルリー宮殿の遺構となるテュイルリー庭園から構成される通称「新ルーヴル」に大別される。現在ではルーヴル宮殿全体の総床面積のうち、約60,600平方メートル以上が美術品の展示場所として使用されている[1]。
沿革
[編集]ルーヴルという名称の語源
[編集]「ルーヴル (Louvre)」という名称の由来ははっきりしていない。フランス人歴史家アンリ・ソーヴァル (en:Henri Sauval) が、「古いラテン=サクソン用語集によると『Leouar』という言葉は『城塞』という意味である」と1660年代ごろに記しており、この「Leouar」が「Louvre」の語源であるとする説がある[2]。キース・ブリッグスは、この説が有名で現代の書籍にも取り上げられることを認めたうえで、ソーヴァルがいう用語集が一度たりとも発見されたことがないことから、「Leouar」語源説は過去に主流だった説にすぎないとしている。そしてブリッグスは、H. J. ウルフが1969年に唱えた「Louvre」は「赤い土」を意味するラテン語の「Rubras」に由来するという説を支持した[3]。デイヴィッド・ハンサーは「オオカミ狩り用狩猟犬の訓練場所」を意味するフランス語「louveterie」が語源ではないかとしている[4]。
時代別のルーヴルとテュイルリー宮殿の平面図
建築年 | フランス統治者 | 建築家 | ||
1 | 1546年 - 1549年 | フランソワ1世、アンリ2世 | ピエール・レスコ | |
2 | 1559年 - 1574年 | フランソワ2世、シャルル4世、アンリ3世 | ピエール・レスコ | |
3 | 1564年 - 1570年 | カトリーヌ・ド・メディシス | フィリベール・ドロルム | |
4 | 1566年 | カトリーヌ・ド・メディシス | ピエール・レスコ | |
5 | 1570年 - 1572年 | カトリーヌ・ド・メディシス | ジャン・ビュラン | |
6 | 1595年 - 1610年 | アンリ4世 | ルイ・メテゥゾー | |
7 | 1595年 - 1610年 | アンリ4世 | ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー | |
1861年 - 1870年 | ナポレオン3世 | エクトール・ルフエル | ||
8 | 1595年 - 1610年 | アンリ4世 | ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー | |
9 | 1624年 - 1654年 | ルイ13世、ルイ14世 | ジャック・ルメルシエ | |
10 | 1653年 - 1655年 | ルイ14世 | ルイ・ル・ヴォー | |
11 | 1659年 - 1662年 | ルイ14世 | ルイ・ル・ヴォー、カルロ・ヴィガラニ | |
12 | 1659年 - 1664年 | ルイ14世 | ルイ・ル・ヴォー | |
13 | 1661年 - 1664年 | ルイ14世 | ルイ・ル・ヴォー | |
14 | 1664年 - 1666年 | ルイ14世 | ルイ・ル・ヴォー | |
15 | 1664年 - 1666年 | ルイ14世 | ルイ・ル・ヴォー | |
1874年 - 1880年 | フランス第三共和政府 | エクトール・ルフエル | ||
16 | 1667年 - 1670年 | ルイ14世 | ルイ・ル・ヴォー、クロード・ペロー、シャルル・ル・ブラン | |
17 | 1806年 - 1811年 | ナポレオン1世 | シャルル・ペルシエ、ピエール・フォンティーヌ | |
18 | 1816年 - 1824年 | ルイ18世 | ピエール=フランソワ=レオナール・フォンティーヌ | |
19 | 1852年 - 1857年 | ナポレオン3世 | ルイ・ヴィスコンティ、エクトール・ルフエル | |
20 | 1861年 - 1870年 | ナポレオン3世 | エクトール・ルフエル | |
21 | 1874年 - 1880年 | フランス第三共和政府 | エクトール・ルフエル |
中世
[編集]城塞
[編集]1190年に、第3回十字軍を主導したことでも知られるフランス王フィリップ2世が、パリ全域を囲む城壁 (en:Wall of Philip II Augustus) の建設を命じた。「フィリップ・オーギュストの防壁」とも呼ばれるこの城壁は、北西からの敵侵攻に備えたもので、城壁外部には数棟の堅固な城塞が建設された。これらの城塞のうちセーヌ川に建設されたのが、現在のルーヴル宮殿の前身にあたる城塞としてのルーヴルである。ルーヴルが建設されたのは、現在のクール・カレ南西部分のおよそ四分の一に相当する場所で、1202年に完成した。現在でもルーヴルのシュリー翼で、建設当時のルーヴルの遺物が一般公開されている[6][7]。
完成当初のルーヴルは78メートル × 72メートルのほぼ正方形の建造物で、高さ2.6メートルの胸壁と張出狭間を備えた城壁で囲まれていた。 さらにその外側は水をたたえた堀がめぐらされていた。城壁外部には10棟の防御用尖塔があり、城壁の各角および北側と西側の城壁中央に1棟ずつと、南側と東側に設けられた狭い門の両脇にそれぞれ2棟ずつ建てられていた[6]。中庭のやや北東寄りには、石造りの急傾斜を付けた深い乾濠に囲まれた、高さ13メートル、直径4メートルの円筒状の主塔(ドンジョン)が設置されていた。ルーヴルに派遣された兵士たちの寝泊まりには、主塔の円天井を持つ大部屋と、城壁内部の西側と南側に建てられた翼棟が使用されていた[8]。この時代のルーヴルは城塞であり、当時のフランス王たちがパリで住居としていたのはコンシェルジュリー宮殿だった[9]。
円筒形の建物は方形の建物に比べて死角が少なく、侵攻してくる敵を遠距離から視認できるという特長を持つ。このため当時のフランスでは円筒形の主塔を持つ城塞が多かったが、ルーヴルほど大規模な城塞は稀だった。ルーヴルはフランス王が持つ権力の象徴となり、国王に対する忠誠の誓言として採用されるほどだった。ルーヴルは1528年に解体されているが、この慣習は時代をはるかに下るアンシャン・レジーム期の終わりまで続いている[8][10]。ルーヴルは中世時代を通じて何度も増改築された。13世紀半ばのフランス王ルイ9世のころには、ルーヴルは王室財産の保管地にもなっている。また、ヴァロワ王朝期には、監獄や法廷が収容されたこともあった[11]。
王宮
[編集]パリの隆盛と百年戦争の勃発が商人頭エティエンヌ・マルセルの台頭を招き、実質的にパリ市長ともいえる地位にいたマルセルは、フィリップ・オーギュストの防壁の外側に土塁を築き始めた。フランス王と対立していたマルセルの暗殺後にフランス王位に就いたシャルル5世も、この土塁建造を継続してさらに防壁へと強化していった[10]。「シャルル5世の防壁 (en:Wall of Charles V)」と呼ばれるこの防壁は、現在でもルーヴル美術館のギャルリ・カルーゼル(カルーゼル展示室)で見ることができる[9]。マルセルの土塁の最西端に設置されていた木造の塔から、シャルル5世の防壁がセーヌ右岸を巡っていたフィリップ・オーギュストの防壁の外側にも延長された。二重の防壁に囲まれたルーヴルの軍事的重要性とその価値は飛躍的に高まっていった[12]。
シャルル5世が王太子シャルルだった時期にパリのフランス王宮として使用されていたのはシテ宮殿だった。父王ジャン2世が百年戦争でイングランドの捕虜となって以来、シャルルが摂政としてシテ宮殿でフランスの国政を司っていた。当時フランス王室と激しく対立していたエティエンヌ・マルセルの私兵が1358年にシテ宮殿に乱入して、フランス王の相談役らを殺害するという事件を起こす。自身がシテ宮殿に滞在しているときに引き起こされたこの事件にシャルルは激しく憤った。シャルルはシテ宮殿ではなく、ルーヴルをフランス王宮とすることを決めた[9]。ルーヴルが城塞から宮殿へと改築されたのは1360年から1380年にかけてである[12]。城壁にはガラス窓が取り付けられ、中庭には新たな翼棟が建設された。屋根には装飾された煙突や小塔、尖塔などが設置されている。「可愛らしいルーヴル (joli Louvre)」として知られるシャルル5世が改築したルーヴルは、装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の「10月」の葉に描かれている[13]。
ルネサンス期
[編集]1528年に、幽閉されていたスペインから帰還したフランス王フランソワ1世が、ルーヴルの主塔の破却を命じた。フランソワ1世はフォンテーヌブロー宮殿で、後のルーヴル美術館の中核コレクションとなる美術品の収集を開始した。フランソワ1世が購入した有名な美術品に、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』がある[14]。1546年にフランソワ1世は、建築家のピエール・レスコと彫刻家のジャン・グージョンに、ルーヴルを当時の主流だったルネサンス様式の宮殿に改装するように命じた[9][15][16]。レスコはかつてロワール渓谷の古城の修復を手掛けたことがあり、このルーヴル改装計画にも抜擢された建築家である。フランソワ1世が1547年に死去すると、ルーヴル改装計画はいったん中止されたが、フランソワ1世の後を襲って王位に就いたアンリ2世が、1549年からルーヴル改装計画を再開した[9]。
レスコはルーヴルの西側に建てられていた翼棟を破却し、現在でもレスコ翼と呼ばれる翼棟を新たに建造した。また、王の別館 (Pavillon du Roi) のアンリ2世の寝室の天井を、伝統的な梁構造ではなく、古代ギリシア・ローマ様式を模した女性像彫刻で装飾した[17]。美術史家アンソニー・ブラント (en:Anthony Blunt) はレスコが残した業績について「フランス古典主義ともいえる様式で、独自の原則と調和に満ちている」と評している[17]。
フランソワ2世とシャルル9世の時代に、レスコは南側の翼棟も破却してレスコ翼と同じ設計の翼棟を建造した。これはエクーアン城 (en:Château d'Écouen) のように、4棟の建物で正方形の城郭を構成する設計だったと考えられており、北側には高さが低いものの同一の設計の翼棟と、東側にはエントランスがある翼棟の建造が計画されていた[18]。レスコはルーヴルの南東角からセーヌ川へと延びるプティート・ギャルリ(プティート展示室)の設計も担当した。しかしながら、ユグノー戦争の勃発により、すべてのルーヴル改装作業が中止されてしまった[19]。
1564年初頭になって、1559年に事故死したアンリ2世の王妃で幼王シャルル9世の摂政を務めていたカトリーヌ・ド・メディシスが、ルーヴルの西側のシャルル5世の防壁外に宮殿の建造を命じた。この宮殿はタイル工場 (tuileries) の跡地に建てられたことからテュイルリー宮殿と呼ばれるようになった。建築家フィリベール・ドゥ・ロルム (en:Philibert de l'Orme) が設計を担当し、ロルムが1570年に死去するとジャン・ビュラン (en:Jean Bullant) が計画を引き継いだ[15][19]。
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レスコ翼のファサード。ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソーの銅版画(1576年)。
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王の別館の南側ファサード。デュ・セルソーの銅版画(1576年)。
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レスコが当初計画していた、正方形の城郭を持つルーヴルの平面設計図。画面上がレスコ翼で、左が南翼棟。[20]
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1560年頃のレスコ翼西側ファサード。建築家アンリ・ルグランが古文書から描き起こした立面図(1868年)[21]。
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左が王の別館の南側ファサード、右が旧ルーヴルの南塔。イスラエル・シルヴェストルの銅版画(1650年頃)。
ブルボン朝以降
[編集]ユグノー戦争中に断絶したヴァロワ家の後、1589年にブルボン家がフランス王位を継ぎ、アンリ4世(在位1589年 - 1610年)がルーヴルの「大計画 (Grand Design)」を開始した。中世の城塞時代からの遺構をすべて破却して中庭クール・カレを拡張するとともに、ルーヴルとテュイルリー宮殿を結ぶ長大な回廊の建造計画を推し進めたのである。建築家ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー (en:Jacques II Androuet du Cerceau) とルイ・メテゥゾーが完成したこの回廊はグランド・ギャルリ(大展示室、Grande Galerie)と呼ばれるようになった[22]。セーヌ川に沿って長さ400メートル超、幅およそ30メートルに及ぶこの長大な回廊は、完成当時で世界最長の建造物だった。アンリ4世は、数百人にのぼる芸術家、工芸家をルーヴルに住まわせて芸術活動を後援した。この慣習は200年後にナポレオン3世が廃止するまで続いている。
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グランド・ギャルリで結ばれたルーヴルとテュイルリー宮殿。1615年のパリ地図。
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レイニール・ノームスが描いたルーヴルの南側ファサード(1650年頃)。
17世紀初頭にルイ13世が、レスコ翼を北へと倍の長さへの延長を決定し、建築家ジャック・ルメルシエが1642年ごろに完成させた。このときに延長されたレスコ翼の中央棟は、1857年に時計が設置されたことから「時計棟 (en:Pavillon de l’Horloge) と呼ばれるようになっていった[22]。ルメルシエは、北翼を東へと延伸する第一期の工事も手がけている[23]。
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1644年頃のルーヴル西側ファサード。ジャック・ルメルシエが北へ延伸したレスコ翼が見える。レスコ翼終端のボーヴェ棟 (Pavillon de Beauvais)は一階部分しかない。イスラエル・シルヴェストルの銅版画。
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中庭から見たルメルシエが北へ延伸したレスコ翼のファサード。左の作品よりもさらに後世に制作されたルメルシエの銅版画で、完成したボーヴェ棟と東へ延伸途中の北翼が見える。
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南から見たクール・カレ。破却されている旧ルーヴルの北翼と破却前の尖塔が見える。ルメルシエの銅版画。
ルイ14世時代
[編集]1659年フランス王ルイ14世が、建築家ルイ・ル・ヴォー (en:Louis Le Vau) と画家シャルル・ル・ブランにルーヴルの拡張計画推進を命じた。ル・ヴォーはテュイルリー宮殿の改装が完了するまで作業監督を務め、さらにルーヴルの北翼の仮組と南翼の延伸の完遂、王の別館の装飾、プティート・ギャルリに沿って設けられた新たなギャルリである王の大執務室 (Grand Cabinet du Roi) と礼拝堂の新設を担当した。ル・ブランはギャルリ・アポロン(アポロン展示室 (en:Galerie d'Apollon))の装飾を担当した。造園家のアンドレ・ル・ノートルは、カトリーヌ・ド・メディシスが1564年にイタリア風庭園として完成させたテュイルリー庭園を、フランス風庭園へと改装している[22][24][25]。「王室美術コレクション (Cabinet du Roi)」の中核は、プティート・ギャルリの上階に設置されたアポロン・ギャルリ西側の8部屋に飾られていた。1673年頃には多くの歴代フランス王の肖像画がこれらの部屋に収蔵されており、アート・ギャラリーとして公開されるようになっていった。1681年にルイ14世がフランス王宮をルーヴルからヴェルサイユ宮殿に遷すと、アポロン・ギャルリの絵画のうち26点がヴェルサイユ宮殿へと持ち出された。ルーヴルの王室美術コレクションの価値はその分低くなったとはいえ、1684年発行のパリガイドブックにも記載されており、1686年にはシャムの外交官一行が見学に訪れている[26]。
ルイ13世が任命した、ル・ヴォー、ル・ブラン、クロード・ペローらで構成される建築委員会が、ルーヴルの東ファサードの設計を担当した[27]。1668年に建設が開始され、ルイ14世が在位中の1680年に一応の完成を見た。しかしながら翼部分は一部が未完成で、すべて完成したのはナポレオン1世の時代になってからだった[24]。この東ファサードの設計を主導したのはペローだといわれており、各建築家の意見をうまく調整して南翼の横幅を倍にする決定を下したのもペローだった[24]。
東ファサードの屋根は明らかにフランス風ではない平らな構造と、典型的なイタリア風欄干で囲まれている。このデザインがフランス建築史の一大転換となった。当時のルーヴルでは、特別にパリへと招聘された世界的なイタリア人建築家・彫刻家ベルニーニが改装設計を担当していた。しかしながら、この東ファサードはベルニーニによる設計案ではなく、ペローの設計案が採用された建物である。ペローは古代ローマの建築家ウィトルウィウスのデザインをフランス建築に昇華した。柱塔、コロネード、ペディメントなど、古典主義とバロックを抑制的に融合した様式は、何世紀にもわたってヨーロッパやアメリカの大規模建造物の手本となってきた。ニューヨークのメトロポリタン美術館もペローの様式からの影響を受けている。ペローは南翼の横幅倍増計画の責任者でもあった。南翼ファサードはル・ヴォーのデザインで改装されていたが、ペローはより東ファサードと調和するデザインで南翼ファサードを一新している[24]。さらにペローは北翼の市街側ファサードの設計も担当したほか[24]、クール・カレ側の北、東、南ファサードのデザインの責任者でもあったと考えられている[28]。
19世紀以降
[編集]1806年にフランス皇帝ナポレオン1世の命で、東に延びる二棟の翼の中間にカルーゼル凱旋門の建設が開始された。これはナポレオン1世自身の軍事的業績を讃えるための凱旋門で、建築家シャルル・ペルシエ (en:Charles Percier) が設計し、1808年に完成した。現在のカルーゼル凱旋門には彫刻家フランソワ・ジョゼフ・ボジオのクアドリガが安置されているが、これはナポレオン没落後のフランス王政復古期に設置されたものである。
19世紀半ばごろまでカルーゼル広場には中世以来のルーヴル城の遺構が残っていた。これらの遺構がすべて撤去されたのはナポレオン3世のフランス第二帝政期になってからだった。ルーヴルとテュイルリー宮殿とを結ぶ壮大な計画が着想されたのはおよそ3世紀前のことだったが、この大計画の最終建築物となる、リヴォリ通りに並行して延びる北側のリシュリュー翼と南側のドゥノン翼が完成したのは、このフランス第二帝政期である。この2翼は、建築家ルイ・ヴィスコンティ (en:Louis Visconti) とエクトル・ルフュール (en:Hector Lefuel) が設計を担当した、フランス第二帝政期を代表するネオ・バロック様式の建造物である。大規模な彫刻細工で装飾されたほか、フランス史上著名な歴史的人物の彫像も設置された。この人物彫像の一部を以下に挙げる。
- 歴史家フィリップ・ド・コミーヌ (en:Philippe de Commines)、ウジェーヌ=ルイ・ルケンヌ (en:Eugène-Louis Lequesne)
- 博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン、ウジェーヌ・アンドレ・ウディネ (en:Eugène André Oudiné)
- 科学者アントワーヌ・ラヴォアジエ、ジャック=レオナール・マイエ (en:Jacques-Léonard Maillet)
- 哲学者ジャン=ジャック・ルソー、ジャン・バティスト・フォション
- 軍人セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン、ギュスターヴ・クロク
テュイルリー宮殿は、1871年5月にパリ・コミューンの鎮圧時にコミューン参加者によって放火され、花の館を残して完全に焼失した。ルーヴルのリシュリュー文書室も火に包まれて焼失したが、その他の建物は消防士とルーヴル職員との懸命な消火活動によって破壊を免れた[29]。テュイルリー宮殿焼失以来、ルーヴルの東側の中庭であるカルーゼル広場は、一面のみが開放されたままの、いわゆる「クール・ドヌール (en:Cour d'honneur)」の状態となっている。
1888年にフランスの政治家レオン・ガンベッタの記念碑がクール・ナポレオンの中央、現在のルーヴル・ピラミッドが位置する場所に建立された。当時のクール・ナポレオンは二つの庭園となっており、一方の庭園にこのガンベッタの記念碑が、もう一方の庭園にはフランスの軍人・侯爵ラファイエットの記念碑が設置されていた。しかしながらこれらの記念碑と庭園は、時計棟からの見晴らしをよくするために1954年に撤去されている。
大ルーヴル計画とルーヴル・ピラミッド
[編集]1983年に当時のフランス大統領フランソワ・ミッテランが、「パリ大改造計画 (en:Grands Projets of François Mitterrand)」を推進した。この計画の一環として「大ルーヴル計画 (Grand Louvre)」が実施されることとなり、1983年に大ルーヴル計画公団が設立された。この計画では、ルーヴルの建造物の修復と、リシュリュー翼に収容されていた財務省を移設して、建物全体を美術館として使用することが決められた。さらにアメリカの建築家イオ・ミン・ペイに、クール・ナポレオンの中央に新たに設置するメイン・エントランスの設計が任され、1989年にルーヴル・ピラミッドと呼ばれるガラス製の近未来的なデザインのピラミッドが完成した[30][31]。完成当初には、古典的建築物であるルーヴルに、このような建造物は相応しくないのではないかという議論が巻き起こったが、徐々に新たなパリのランドマークとしてパリ市に受け入れられつつある。1993年にはルーヴル・ピラミッドと対となるルーヴル・逆ピラミッドが完成した。2002年以降のルーヴルの入場者数は、大ルーヴル計画以前に比べて約2倍に増加している[32]。
大ルーヴル計画の一環として、ルーヴルでは建物の場所によって全体を大きく三つに分け、主たる建物の名前で呼ぶことを決めた。ルーヴルのメインエントランスであるルーヴルピラミッドの地下からの順路として、東へ向かうシュリー翼、北へ向かうリシュリュー翼、そして南へ向かうドゥノン翼である[33][34]
ギャラリー
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大ルーヴル計画で修復された、リシュリュー翼の展示室クール・マルリ。フランス人芸術家の彫刻作品が展示されている。
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クール・カレから東向きに撮影したパノラマ写真。
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唯一中世の遺構が残るシュリー翼の地下。
出典
[編集]- ^ “Œuvres”. Musée du Louvre. 27 April 2008閲覧。
- ^ Sauval 1724, p. 9: "dans un vieux Glossaire Latin-Saxon, Leouar y est traduit Castellum".
- ^ Briggs 2008, p. 116.
- ^ Hanser 2006, p. 115; en:Wolfcatcher Royalとfr:Louveterieも参照。
- ^ Figure from Berty 1868, after p. 128 (at Gallica), with modifications based on a figure from Hautecoeur 1940, p. 2.
- ^ a b Ayers 2004, p. 32.
- ^ “The Louvre: One for the Ages” (2008年). 29 September 2008閲覧。
- ^ a b Ayers 2004, pp. 32–33.
- ^ a b c d e Ayers 2004, p. 33.
- ^ a b “The History of the Louvre: From Château to Museum” (2008年). 29 September 2008閲覧。
- ^ Hanser 2006, p. 115.
- ^ a b Ballon 1991, p. 15.
- ^ Hanser 2006, p. 115; Ayers 2004, p. 33.
- ^ Chaundy, Bob (29 September 2006). “Faces of the Week”. BBC 5 October 2007閲覧。
- ^ a b Mignot 1999, pp. 34, 35.
- ^ Sturdy 1995, p. 42.
- ^ a b Blunt 1999, p. 47.
- ^ Ayers 2004, p. 34. 正方形を構成するという当初計画が破棄されて、現在のような長方形を構成する翼棟に設計変更された時期については、複数の説がある。エアーズは1594年10月だという説を唱え(Ayers 2004, p. 35)、ボーティエは計画変更を決めたのはアンリ4世だったとしている(Bautier 1995, p. 39)。その他、バロンはアンリ2世が1551年にレスコの当初計画を4倍に延伸する案を裁可したと主張し(Ballon 1991, p. 16)、ミニョはレスコ自らがアンリ2世に計画の変更を提案したとしている(Mignot 1999, p. 38)。
- ^ a b Ayers 2004, p. 34.
- ^ Drawing by architect Henri Legrand (1868) based on historical documents reproduced in Berty 1868, after p. 168 (at Gallica).
- ^ Figure from Berty 1868, after p. 56 (at Gallica); discussed and reproduced in Lowry 1956, pp. 61–62 (c. 1560, date of completion of the Pavillon du Roi; Lescot wing completed in 1553); Fig. 20, discussed on p. 143.
- ^ a b c Mignot 1999, p. 39.
- ^ Ayers 2004, p. 35.
- ^ a b c d e Ayers 2004, p. 36.
- ^ Edwards 1893, p. 198.
- ^ Berger 1999, pp. 83–86.
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- ^ Biasini et al 1989, pp. 152–153; Ochterbeck 2009, pp. 174–201; Louvre: Interactive Floor Plans; Louvre: Atlas database of exhibits.
- ^ “見取り図と館内のご案内 日本語版”. ルーヴル美術館. 2016年5月26日閲覧。
参考文献
[編集]- Ayers, Andrew (2004). The Architecture of Paris. Stuttgart; London: Edition Axel Menges. ISBN 9783930698967.
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