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'''小島事件'''(おじまじけん)は、[[1950年]]([[昭和]]25年)に[[静岡県]]で発生した[[強盗]][[殺人]][[事件]]であるが、捜査段階での[[自白]][[調書]]の任意性が否定され、無罪が確定した[[冤罪]]事件である。
'''小島事件'''(おじまじけん)は、[[1950年]]([[昭和]]25年)に[[静岡県]][[庵原郡]]で発生した[[強盗殺人]]事件である。
{| class="wikitable floatright" style="font-size:90%;"
|+ 経過
! 年 !! 月日 !! 事柄
|-
| 1950年 || style="text-align:center;" | 5月10日 || '''事件発生。'''
|-
| || style="text-align:center;" | 6月19日 || M、別件逮捕される。
|-
| || style="text-align:center;" | 7月20日 || M、起訴される。
|-
| 1952年 || style="text-align:center;" | 2月18日 || 静岡地裁での一審終了。<br />Mに'''無期懲役'''判決。
|-
| 1956年 || style="text-align:center;" | 9月13日 || 東京高裁での控訴審終了。<br />控訴棄却。
|-
| 1958年 || style="text-align:center;" | 6月13日 || 最高裁が有罪判決を'''破棄'''、<br />東京高裁へ'''差戻し'''。
|-
| 1959年 || style="text-align:center;" | 12月2日 || 東京高裁での差戻審終了。<br />Mに'''無罪'''判決。
|}
1950年5月10日深夜、庵原郡[[小島村 (静岡県)|小島村]]で、女性が[[斧]]で撲殺される事件が発生した。[[国家地方警察静岡県本部|国警静岡県本部]]から派遣された[[警部補]]の[[紅林麻雄]]らによる捜査の結果、同村に住む27歳の男、Mが[[被疑者]]として浮上した。Mはほどなく犯行を[[自供]]したが、[[公判]]の段階では自供を翻し、取調べでは[[拷問]]を受けたとして[[無実]]を訴えるようになった。また、事件には自供以外の[[証拠|直接証拠]]も乏しかったが、[[一審]]の[[静岡地裁]]と[[控訴審]]の[[東京高裁]]はともに[[無罪]]主張を退け、Mには[[無期懲役]]の有罪[[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]が下された。


しかし、[[1958年]](昭和33年)に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]は、Mが取調べ後に負傷していた可能性や自供の不自然性を指摘し、自供は無理のある取調べの末に得られたもので[[自白法則|任意性]]に疑義がある、と判決した。最高裁により有罪判決は東京高裁へ破棄差戻しされ、差戻審によっても、やはり取調べは強制的なものであったとして自供の任意性は否定された。[[1959年]](昭和34年)に差戻審で下された無罪判決が[[確定判決|確定]]し、事件は[[冤罪]]と認められた。
==事件の概要==
1950年5月10日午後11時ごろ、静岡県[[庵原郡]][[小島村 (静岡県)|小島村]](おじま=現在の[[静岡市]][[清水区]])の農家の二階で、就寝中だったこの家の主婦(当時32歳)が自宅にあった[[斧]]で殺害され、現金2500円が奪われた。犯行時、妻の夫は[[大阪]]に旅行にいっており不在だった。犯人として地元の農民(当時27歳)を逮捕した。捜査を担当したのは庵原地区警察署と国警静岡県本部であったが、捜査主任だった国警の[[紅林麻雄]][[警部補]]は後に静岡県内で数々の冤罪事件を生み出した”拷問王”であった。彼の指示による拷問によって犯行を自供する自白調書が作成され起訴された。


== 事件と捜査 ==
==裁判==
[[1950年]]([[昭和]]25年)5月10日深夜、[[静岡県]][[庵原郡]][[小島村 (静岡県)|小島村]]で、飴製造業者の妻'''O'''(当時32歳<ref name="共同32">[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 32頁</ref>)が[[斧|薪割り斧]]で撲殺された<ref name="朝日10910">[[#朝日|朝日新聞社 (1984)]] 109-110頁</ref>。現場のタンスや金庫には物色された跡があり<ref name="佐藤、真壁278">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 27-28頁</ref>、後に2500円が奪われていることが分かった<ref name="朝日10910"/>。Oの夫は引越し準備のため不在であったが、現場に居合わせた夫妻の子供は、犯行直後に坊主頭でカーキ色の服を着た男が逃げてゆくのを目撃している<ref name="佐藤、真壁26">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 26頁</ref>。現場の時計が11時37分で止まっていたことから、犯行時刻はその前後であると推定された<ref name="佐藤、真壁278"/>。
この事件では、物的証拠が皆無であり自白調書のみが有罪認定の決め手であった。一審の[[静岡地方裁判所]]は[[1952年]][[2月]]に、二審の[[東京高等裁判所]]は[[1956年]][[9月]]に[[無期懲役]]を言い渡した。[[被告人]]側[[弁護人]]は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に[[上告]]したが、その理由として自白調書は[[警察官]]による拷問と脅迫によって供述したものであり、[[日本国憲法第38条]]に違反するとしたうえ、その自白調書も矛盾に満ちたものと主張した。


翌朝には[[国家地方警察静岡県本部|国警静岡県本部]]から、[[警部補]]の'''[[紅林麻雄]]'''を主任とした捜査員らが派遣された<ref name="佐藤、真壁26"/>。狙われた家は村でも大きくなく、被害者一家には家業で儲けているとの噂もあったことなどから、紅林らは内情を知る村の者が金銭目当てで犯行に及んだ、と推測した<ref name="佐藤、真壁278"/>。だが、大規模な捜査によっても手掛かりはなく、また村人のほとんどが縁者であったことからも捜査は難航した<ref name="佐藤、真壁278"/>。
弁護側によれば自白調書にある凶器の傷の鑑定が警察と第三者とでは食い違っており、また調書によって被害者から奪った時計を「発見」したとしているのに、実際には未発見であった。そのうえ、留置場の同房にいた者の証言によれば[[被告人]]が取調べを受けるたびに[[赤チン]](傷薬)などで治療を受けた上に、実況見分の際には左ほほに傷があったという証言があり、自白調書作成の段階で拷問が行われた形跡があるというものであった。


しかし、事件から1か月が過ぎようとしていた頃、村人たちへの聞き込みから、同村の農民である'''M'''(当時27歳<ref name="海野479">[[#海野|「弁護士海野普吉」刊行委員会 (1972)]] 479頁</ref>)が浮かび上がった<ref name="佐藤、真壁289">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 28-29頁</ref>。MはOの娘の目撃証言とも髪型や年齢などが一致していた<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2025頁</ref>。また、事件以来顔色が悪くなったと噂され、事件当時の[[アリバイ]]もはっきりせず、加えて被害者一家に5000円の借金があった<ref name="佐藤、真壁289"/>。加えてMは、Oの夫から持ちかけられたサツマイモの[[闇市|闇取引]]で、自分だけが[[罰金刑]]を受けたため、被害者一家に対し恨みを抱いていたとも言われていた<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2100-2101頁</ref>(これらについてMは、5000円は借金を頼まれていた第三者に又貸ししたところ、返ってこなくなったのだと主張し、闇取引の件についてもOたちを恨んでいたことはない、と主張している<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2079-2081頁</ref>)。
最高裁は[[1958年]][[6月13日]]に、犯人の疑いが濃厚であり、また被告人が主張するほどひどい拷問はなかったのではないかとしつつも、下級審で有罪の決め手となった自白調書の任意性を否定した。判決では「調書の作成過程で不自然な形跡がある」と認定し、「(調書には)かなり無理があり、この調書を事実認定の有力証拠とするのは判断を誤まる採用してはならない証拠を取り上げたものであり、違法性を認めざるを得ず、原判決は破棄しなければ著しく(正義に)反する」として、東京高裁に差戻した。


事件発生から1か月余りが経過した6月19日、Mは庵原地区署へ[[任意同行]]を求められ、材木などの[[窃盗罪|窃盗]]容疑につき、同日中に[[別件逮捕]]された<ref name="佐藤、真壁289"/>。窃盗の件はすぐに[[不起訴]]となったが、翌20日から本件の[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]容疑で再逮捕される7月12日、そして本件で[[静岡地裁]]へ[[起訴]]される7月20日までの間、MはO殺害の容疑で取調べを受け続けた<ref name="補償">{{Cite 判例検索システム|裁判所=東京高裁|裁判形式=決定|事件番号=昭和34(ま)2|事件名=刑事補償請求事件 |裁判年月日=1960年7月13日|判例集=高刑集第13巻第5号419頁|url=http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/275/021275_hanrei.pdf}}</ref>。別件逮捕の翌日の6月20日、MはO殺害を[[自供]]した<ref name="佐藤、真壁289"/>。だが、事件にはMの自供を除いては[[証拠|直接証拠]]がなく、後の裁判でも、争点は自供の[[自白法則|任意性]]と信用性に収束した<ref name="共同32"/>。
差戻し審でも、検察はなおも被告人の有罪を主張し[[1959年]][[9月23日]]に無期懲役を[[求刑]]したが、最高裁で有罪の唯一の証拠であった自白調書の任意性が否定されていたうえに新たな証拠も提出できなかったため[[12月2日]]に「犯罪の証明がない」として無罪判決が言い渡された。検察は[[12月16日]]に上告を断念し無罪が確定したが、その理由として「[[幸浦事件]]では事実誤認を理由に上告したが、この事件はそれほど複雑な事案でもないので見送ることにした」というものであった。


== 争点 ==
なお、無罪が確定した農民には[[刑事補償法]]の規定により約100万円が支給されたが、9年半も冤罪で自由を奪われた。また真犯人は検挙されず[[1965年]]に[[時効]]が成立した。
=== 自供 ===
==== 自供の変遷 ====
Mの自白調書としては最終的に、6月20日から7月20日までの間に7通の[[司法警察員面前調書|員面調書]]と2通の[[検面調書]]が作成されている<ref>[[#青柳|青柳 (1965)]] 196頁</ref>。それらは詳細かつ具体的ではあったが、一方で各調書の内容には度重なる変遷がみられる<ref>[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 37頁</ref>。

まず、現場の金庫をこじ開けようとした方法についてMは、6月20日の最初の自供では「自宅から携行した[[鎌]]の先でこじた」とした<ref name="共同40">[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 40頁</ref>。しかしこれは22日の調書では「鎌の刃元でこじ、次に刃先でこじたが刃先も刃元も折れた」と変わり、さらに翌日の調書では「刃は折れたが刃先は折れなかった」、26日には「鎌の刃がこぼれた後[[鉈]]の刃ででこじた、鉈の刃もぼろぼろになった」、そして7月5日には「[[金槌]]と[[タガネ]]それに鉈の三つをもって行き、金庫をタガネでつついたり、金槌を使って二、三回叩いたりした」へと変遷している<ref name="共同40"/>。これに伴い、犯行を決意した時刻についても、Mは6月26日までは一貫して犯行直前の23時頃であると主張していたが、7月5日の調書においては、夕方、村の製茶工場から帰る際に犯行を決意した、と変更されている(5日からの調書では、Mは金槌とタガネを工場から持ち出したとされているため、犯行準備の時刻は工場の操業中でなければ辻褄が合わない)<ref name="共同40"/>。さらに、当初Mは、犯行時にズボンに血が付いたと供述していたが、[[押収]]されたズボンからは[[血痕]]反応が表れなかったため、供述は「つかないように金を探した」へと変化している<ref>[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 29頁</ref>。

裁判で[[弁護人|弁護側]]は、これら自供の変遷を、Mが犯人であるとすれば到底あり得ないものである、と主張した<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2037頁</ref>。

==== 「秘密の暴露」 ====
自供の中で特に注目されたのは、殺害前の現場の状況と、薪割り斧での被害者の殺害方法についての部分であった<ref name="佐藤、真壁30">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 30頁</ref>。

{{quotation|私は両手で薪割を振り上げて夢中で ''(O)'' さんが右に向いて子供を抱いて居る頭の後の方を撲りました。夢中でやったので薪割の刃の方でなく峯の方で撲って終ひました。''(O)'' さんは「うーん」とうなって仰向けになりました。今度は刃の方で頭をめがけて打ちますと左目と耳の間に刺さりましたがそれでもまだ動くやうに見えましたのでもう一回夢中で振り下すと今度は真中の上の方へ刺さりました。|Mの6月20日付員面調書より<ref name="共同34">[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 34頁</ref>}}

Mは現場にあった斧でOを3回撲ったと供述したが、さらにそのうち1回は[[峰打ち]]であったとした。そして、殺害前のOは右を向いて横になっていたとも述べている。この犯行様態についての自供は、捜査段階で遺体の鑑定を行った国警[[鑑識課]]技官の鈴木完夫{{Refnest|group="注"|後に[[静岡県警]][[科学捜査研究所]]所長<ref name="佐藤、真壁7980">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 79-80頁</ref>。[[1954年]](昭和29年)に県内で発生した[[島田事件]]においても、被害者遺体の[[司法解剖]]を担当した<ref name="佐藤、真壁7980"/>。}}による、「傷を見ての所見は、薪割りのようなもので峯うちをしたとは思われなかった」との[[証言]]とは食い違っている<ref name="佐藤、真壁312">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 31-32頁</ref>。しかし、後の[[一審]]で[[東京大学医学部]][[法医学]]教室[[教授]]の[[古畑種基]]が行った再鑑定では「本屍頭部の損傷には、斧の様な重量ある有刃器の打撃によって生じたものと峯部の作用によって生じたものとがある」とされ、これは警察・[[検察]]側によって、捜査段階では知られていなかった事実であり、犯人以外知り得ない[[秘密の暴露]]であると主張されるようになる<ref name="佐藤、真壁30"/>(ただし古畑の鑑定では、峰打ちが1回、刃での打撃が3回とされており、Mの自供とは打撃の回数が食い違う<ref name="佐藤、真壁312"/>)。

しかし、峰打ちについては、事件翌日に捜査員ら立会いのもとで鈴木が遺体の鑑定を行った時点で、頭部の損傷から「八センチと九センチの不正形な扇形の骨片」が確認されている<ref name="佐藤、真壁26"/>。凶器が斧であると確定されている状況で、遺体に刃での割創とは異なる傷がみられるならば、捜査員らが斧での峰打ちを想像するのは当然であり、峰打ち供述はそもそも秘密の暴露とは言えない、と後に弁護側は主張した<ref name="共同36">[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 36頁</ref>。またMも、殺害時の現場の状況は警察に教え込まれたものであり、Oが子供と寝ていたならば姿勢が横向きであったことも容易に想像がつくことである、と主張した<ref name="佐藤、真壁301">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 30-31頁</ref>。

=== 拷問の訴え ===
紅林はMの自供について、「''(M)'' 氏は'''たしかに何の手間ひまもとらせず'''自白した」{{Refnest|group="注"|'''太字'''の部分は、原文では[[傍点]]で強調されている。}}と回顧している<ref name="紅林79">[[#紅林|紅林 (1959)]] 79頁</ref>。だが一方Mは、取調べでは激しい'''[[拷問]]'''を受け続け、自供を翻そうとする度にそれが繰り返された、と主張している。

{{quotation|''(S)'' が「顔をなぐつて来た」のであります(平手と握りで往復で二、三十回程)。そして此の野郎まだいわぬかといつて「足をけること前横より十四、五回位」なぐる、けることをくりかえしてやり、又正座している膝の上に乗つていうまでだぞといつて二、三分位づつ五、六回無茶苦茶に踏み付けたり、おどかしたり、鼻に指を入れて引つぱること二、三回此の時痛いので引つぱる方について行つたりして座敷を廻つたこともあります。正座している膝の処のズボンをつかんで座敷を引きずり廻したことも二、三回あります。{{anchors|Y}}此の間 ''(Y)'' 刑事も此の野郎嘘つきだといつて顔を平手で五、六回なぐりました、''(中略)''二人に約四、五十分にわたり拷問されたのであります。|Mの[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]宛上申書より<ref name="刑集20445">[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2044-2045頁</ref>}}

Mは[[公判]]の段階で自供を撤回し、自身の[[無実]]を訴えるようになった<ref name="共同32"/>。そして、6月20日に自供を行ったのは上のような拷問を受けたためである、と主張した<ref name="刑集20445"/>。22日になって自供を撤回しようとすると、やはり紅林の部下である'''S'''などから、同様の拷問を2時間以上に渡って加えられたという<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2052-2053頁</ref>。脚からの出血で畳は血に染まり、見かねた庵原地区署の警部補が午後に[[マーキュロ]]と[[ペニシリン]][[軟膏]]をMの金で買って治療してくれたという<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2055-2056頁</ref>。その後も自供と検証結果が食い違う度に脅迫を受け<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2057-2058頁</ref>、7月4日には暴行の苦しさから逃れたいがために[[日本における死刑|死刑]]志願書を[[簡裁]]へ宛てて書いたとされる(この志願書も、刑事に顔面を数十回殴られて取り消させられたという)<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2060-2061頁</ref>。[[検事]]による取調べが始まってからも自供を翻そうとはしたが、やはり取調べの後にSらから暴行を受けたため、結局検事の前でも自白を維持したのである、とMは主張した<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2063-2064頁</ref>。

==== 受傷の有無 ====
Mが自身に加えられたと主張する拷問については、紅林を始めとした捜査官全員がそれを否定し<ref name="佐藤、真壁35"/>、Mがマーキュロとペニシリン軟膏で治療を受けたことも否定した<ref name="刑集2114">[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2114頁</ref>。しかし、Mと同時期に庵原地区署で取調べを受けていた[[収賄]]事件の[[被疑者]](後に[[無罪]]となった)は、6月の20日か23日にMが脚にマーキュロを塗っているのを見た、と公判で証言した<ref name="共同445">[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 44-45頁</ref>。さらに[[控訴審]]の段階では、[[静岡刑務所]]の[[領置|領置品]]元帳から、Mが収監される段階ではマーキュロとペニシリン軟膏を所持していたが、私物の持ち込み制限により宅下げとなっていたことが判明した<ref name="共同445"/><ref name="佐藤、真壁367">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 36-37頁</ref>。そのため警察側は、[[水虫]]に悩んでいたMのために、収監当日になって薬を買い与えたのだと主張するようになった<ref name="刑集2034">[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2034頁</ref>。刑務所には薬は持ち込めないことは知っていたが、そういったことは特に考えず薬を渡したのだという<ref name="刑集2034"/>(ただし紅林も、宅下げの時点では薬は未開封であったと述べている<ref name="紅林79"/>)。しかし、静岡刑務所の健康診断記録に、Mが水虫を患っていたとの記載はない<ref name="刑集2114"/>。

脚の傷の他にも、庵原地区署で取調べを受けていた[[暴力行為等処罰ニ関スル法律|暴力行為]]事件の被疑者は、Mの頬に腫れた箇所があったと証言した<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2015頁</ref>。Mの父と妹も、7月5日に[[実況見分]]のためMが村へ戻った際、Mの左もみあげ付近が黒く腫れていたのを見た、と証言している<ref name="佐藤、真壁35"/>。また、村内の但沼[[派出所]]の[[巡査]]も、実況見分の翌日にMの父から拷問についての苦情を受けていたことを認めている<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2035頁</ref>。しかし、紅林はこれに対し、実況見分には100人ほどの村人が立会ったが、Mの痣について指摘する者はMの親族の他にはいない、と反論している<ref name="紅林79"/>。

==== Sのアリバイ ====
Mは上のように、主な拷問は紅林の部下である国警静岡県本部[[巡査部長]]のSによって、6月20日と22日に行われたと主張した<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2027頁、2032頁</ref>。しかし、Sはこれについて、自分は20日と22日は庵原地区署にはおらず、その他の日もMの取調べに深い関与はしていない、と反論している<ref name="佐藤、真壁367"/>。

Sは、捜査段階での自身の行動を次のように述べている。まず、本件発生までSは[[沼津市]]で別件{{Refnest|group="注"|この[[脱税]]事件の被疑者は、苛烈な取調べを苦にして県警本部の屋上から[[投身自殺]]した<ref name="刑集20212">[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2021-2022頁</ref>。その後の裁判では、残る被告人らに無罪[[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]が言い渡されている<ref>{{Cite news |title= 三人に無罪 - メシア教事件|newspaper= [[朝日新聞]]|date= 1954-11-10|page= 7}}</ref>。}}の捜査に従事していたところ、事件発生の翌朝に報を受けて庵原入りし、Mの検挙当日までのおよそ40日間を捜査に従事した<ref name="刑集20212"/>。しかし、検挙当日の6月19日は取調べを担当したが、翌20日は朝に庵原地区署に顔を出したのみで、すぐに[[磐田郡]][[二俣町]]へ出立したのだという<ref name="刑集20212"/>。そしてその晩は宿へ泊り、21日は朝から静岡地裁浜松支部で、かつて紅林とともに捜査を担当した'''[[二俣事件]]'''の一審に出廷して証言を行った<ref name="刑集20212"/>。そして証言を終えた後は[[静岡市]]の自宅へ戻ったという<ref name="刑集20212"/>。22日の行動については本件一審では明らかにしていなかったが、控訴審になるとSは、そもそも自分は20日から22日まで休暇を取っていた、と主張するようになった<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2032頁</ref>。

このようなSの主張について弁護側は、巡査部長という地位にあり、事件発生直後からひと月以上に渡り捜査に携わっていた人間が、被疑者逮捕の翌日から休暇を取ることはおよそあり得ない、と反論した<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2029頁</ref>。Sの不在を証明する欠勤届なども提出されておらず、加えて、SとともにMを拷問したとされるY巡査([[#Y|上記参照]])は、20日と22日の取調べにはSも「いたように思う」と証言している<ref name="佐藤、真壁367"/>。二俣町の宿の従業員は、Sが20日のまだ明るい時刻に宿を訪れたと証言しているが、その日はほぼ[[夏至]]であるから、庵原地区署で午前中にMを拷問した後でも、明るいうちに列車で二俣へ着くことは可能である、と弁護側は主張した<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2030頁</ref>。

=== その他の争点 ===
検察側は自白調書以外にも、実況見分の際にMがOの墓参りを希望したり、[[留置場]]の看守に「とんでもないことをした」「人一人殺したのだからどうせ殺されるなら自分で死んだ方が良い」などと話したことを証拠として挙げた<ref name="共同37">[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 37頁</ref>。一方、一審では事件の主任検事として出廷し、Mが犯行を否認したため逆に有罪の[[心証]]を得た、とまで証言していた人物は<ref name="佐藤、真壁35">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 35頁</ref>、退官して弁護士となっていた頃に出廷した控訴審では、Mの自供は芝居がかっていて不自然に感じられ、捜査主任の紅林に対しても不信感を抱いていた、と証言した<ref name="青柳197">[[#青柳|青柳 (1965)]] 197頁</ref><ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2016-2017頁</ref>。

犯行時の服装については、Oの娘の目撃証言では犯人がカーキ色の服を着ていたとされるところ、Mもいくらかの変遷の末に黄色の[[国民服]]で犯行に及んだと供述するようになった<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2059頁</ref>。しかしMの親族らは、犯行時刻直前に会合に出席していた際のMは白の和装であった、と事件直後から主張している<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2036頁</ref>。また、Mの妻も、Mは23時前に帰宅してからは殺人の報が入るまで在宅であったと供述した<ref>[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 38頁</ref>。

== 裁判 ==
=== 一審・控訴審判決 ===
事件発生から1年9か月が経過した[[1952年]](昭和27年)2月18日、弁護側が無罪を主張し、検察側が死刑を[[求刑]]するところ、静岡地裁第一合議部はMに対し[[無期懲役]]の有罪[[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]を言い渡した<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2100-2103頁</ref>。

{{quotation|主文

被告人を無期懲役に処する。<br />
訴訟費用は全部被告人の負担とする。}}

弁護側は有罪判決に控訴し、弁護人には[[松川事件]]弁護人として知られていたベテランの'''[[海野普吉]]'''が新たに着任した<ref>[[#海野|「弁護士海野普吉」刊行委員会 (1972)]] 477頁、567-568頁</ref>{{Refnest|group="注"|一審で弁護人を務めた西ヶ谷徹は検察官出身であったが、紅林のような捜査官が存在することに危機感を覚え、その後検事へ復職した<ref>[[#朝日|朝日新聞社 (1984)]] 111-112頁</ref>。}}。そして[[東京高裁]]で開始された控訴審においては、Mに対する拷問について、海野もまた紅林を厳しく(紅林当人の形容によれば「[[ヒトラー]]が[[ユダヤ人]]追放を叫んだときのような、きちがいじみた姿」で)追及した<ref>[[#紅林|紅林 (1959)]] 78頁</ref>。控訴審には4年の歳月が費やされたが、[[1956年]](昭和31年)9月13日に高裁刑事第六部により言い渡された判決も、やはり控訴[[棄却]]の有罪判決であった<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2103-2128頁</ref>。

{{quotation|主文

本件控訴はこれを棄却する。<br />
当審における未決勾留日数中三〇〇日を本刑に算入する。<br />
当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。}}

一審、控訴審判決はともに9通の自白調書すべてに証拠能力を認めた(ただし、Mは現場から2500円の他に腕時計も窃取したと自供していたが、判決は腕時計の窃盗についての自供は排斥している)<ref name="刑集2112">[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2112頁</ref>。その自供の内容が変転を重ねていることについても、Mが処罰を逃れたい一心で言を弄したことの表れとされた<ref name="刑集2112"/>。静岡刑務所から宅下げされたマーキュロとペニシリン軟膏については、警察の主張通りに、Mの水虫治療のために収監直前に渡されたものと認定した(刑務所の健康診断記録についても、水虫程度ではその旨記載されないこともあるとされた)<ref name="刑集21134">[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2113-2114頁</ref>。Sによる拷問についても、S当人の主張通りに6月20日から22日は不在であったとして、その疑いを否定した<ref name="刑集21134"/>。自供に含まれていた、殺害前の現場の状況や斧での峰打ちについての供述も、犯人しか知り得ない秘密の暴露であると認めている<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2125-2126頁</ref>。Mの親族によるMの服装やアリバイについての証言もすべて否定された<ref>[[#刑集|刑集第12巻第9号]] 2127-2128頁</ref>。

=== 紅林の転落 ===
しかし、小島事件の控訴審が進む傍ら、最高裁では[[1953年]](昭和28年)11月に二俣事件の死刑判決が破棄差戻しを受けていた<ref>{{Cite 判例検索システム|法廷名=最高裁判所第三小法廷|事件番号=昭和27(あ)96|事件名=強盗殺人、窃盗、住居侵入被告事件 |裁判年月日=1953年11月27日|判例集=刑集第7巻第11号2303頁|url= http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/714/055714_hanrei.pdf}}</ref>。そして[[1957年]](昭和32年)2月には同じく県内で発生していた'''[[幸浦事件]]'''の死刑判決も、やはり最高裁によって破棄差戻しされることとなった<ref>{{Cite 判例検索システム|法廷名=最高裁判所第一小法廷|事件番号=昭和26(あ)2592|事件名=強盗殺人、死体遺棄、窃盗、賍物故買被告事件 |裁判年月日=1957年2月14日|判例集=刑集第11巻第2号554頁|url= http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/240/051240_hanrei.pdf}}</ref>。この2つの事件は、紅林を主任とした県警本部強力犯係の刑事らが捜査に当たった点、[[物証]]に乏しく[[被告人]]らの自供が重要証拠とされていた点、そして被告人らがいずれも、取調べでの拷問と自身の無実を訴えていた点が、小島事件と共通していた<ref name="共同32"/>。

これを機に紅林は「名刑事」から一転「昭和の拷問王」と指弾されるようになり、非難を浴びた県警上層部は、当時[[御殿場警察署|御殿場署]]次席[[警部]]の地位にあった紅林を[[富士警察署|吉原署]]駅前派出所へ転出させた<ref name="朝日1167">[[#朝日|朝日新聞社 (1984)]] 116-117頁</ref>。[[交通巡視員]]待遇という、実質的な二階級降任であった<ref name="朝日1167"/>。

=== 上告審判決 ===
{{最高裁判例
|事件名=強盗殺人被告事件
|事件番号=昭和31(あ)4204
|裁判年月日=1958年6月13日
|判例集=刑集第12巻第9号2009頁
|裁判要旨=一審判決および原審判決が被告人の自白調書に任意性を認めて証拠採用しているにもかかわらず、自白の任意性に疑いが認められ、かつ自白が事実認定の重要証拠とされている場合、[[刑事訴訟法]]第411条第1号により原判決を破棄することができる。
|法廷名=第二小法廷
|裁判長=[[小谷勝重]]
|陪席裁判官=[[藤田八郎]]、[[河村大助 (裁判官)|河村大助]]、[[奥野健一]]
|多数意見=全員一致
|意見=なし
|反対意見=なし
|参照法条=[[b:刑事訴訟法第411条|刑事訴訟法第411条第1号]]、[[b:刑事訴訟法第322条|同第322条第1項]]、[[b:刑事訴訟法第319条|同第319条第1項]]、[[b:刑事訴訟法第335条|同第335条第1項]]、[[b:刑事訴訟法第317条|同第317条]]、[[日本国憲法第38条|憲法第38条第2項]]
|url=http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/524/050524_hanrei.pdf
}}
幸浦事件[[上告審]]判決の翌年、[[1958年]](昭和33年)6月13日、[[小谷勝重]]が指揮する最高裁第二[[小法廷]]は小島事件上告審において、やはり有罪判決を高裁へ破棄差戻しすると判決した。

{{quotation|主文

原判決を破棄する。<br />
本件を東京高等裁判所に差し戻す。}}

判決は、Mの自供の変遷、親族による拷問痕の目撃証言、静岡刑務所によるマーキュロとペニシリン軟膏の宅下げ記録、そして元主任検事すらMの自供が信用に足りないと証言していることなどを指摘し、紅林らによる取調べが「被告人が第一審以来供述してやまない程、苛烈なものであつたかどうかは別としても、そこには可なり無理もあつたのではないかと考えざるを得ない」とした。そして、Mの自供には任意性に疑いがあるとみるのが相当で、「原判決はこれを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める」と結論した。

二俣・幸浦両事件の上告審判決では、[[事実認定]]の不合理、自供の真実性への疑義を理由として差戻しが行われたが、本判決では自供の信用性そのものが取り上げられ、これに疑いのあることが差戻し理由とされている<ref name="青柳197"/><ref>[[#共同|大竹、大野、内田 (1964)]] 43頁</ref>。その一方で、本判決では自供の真実性については全く判断されず、任意性が問題とされたのも員面調書のみで、検面調書については触れられていない<ref name="青柳197"/>。とはいえ、これは[[裁判官]]が捜査員に対する信頼を失ったケースの[[判例#日本における判例|判例]]として意義を認められている<ref name="青柳197"/>。

=== 差戻審判決 ===
東京高裁での差戻審公判は、同年10月に開始された<ref name="佐藤、真壁14">[[#佐藤、真壁|佐藤、真壁 (1981)]] 14頁</ref>。この審理では警察官やSの妻、隣人など数十人が新たに出廷し、1950年6月20日と22日にSが庵原地区署にはおらず、Mの取調べには関与していない旨供述した<ref name="共同445"/>。しかし、12回の公判と2度の現場検証を重ね、公判中に[[裁判長]]が3度交代しながらも、翌[[1959年]](昭和34年)12月2日に高裁刑事第一部は判決に達した<ref name="佐藤、真壁14"/><ref>{{Cite 判例検索システム|裁判所=東京高裁|事件番号=昭和32(う)1340|事件名=強盗殺人被告事件 |裁判年月日=1959年12月2日|判例集=[[判時]]第219号11頁}}</ref>。

{{quotation|主文

第一審判決を破棄する。<br />
被告人は無罪。}}

差戻審判決は、新たに主張されたSのアリバイ証言についてはこれを否定し、SがMの取調べに関与しなかったとは断定し難いとした。そして、結局のところ、上告審判決が指摘したような薬品の宅下げ記録やMの顔の痣、不自然な自供についての疑問は解消されておらず、員面調書は無理な取調べの産物である疑いが拭えない、とした。上告審判決では判断が避けられていた検面調書についても、たとえ検事当人による圧力が存在せずとも、その後に捜査員が圧力を加えることが可能な状況であったのであるから、やはり員面調書と同様に任意性に疑いがあると認めるのが相当である、とした。最終的に差戻審判決は自白調書の証拠採用をすべて退けて一審の無期懲役判決を破棄、Mに対し無罪を言い渡した。同月26日の上告期限までに検察側は再上告を行わず、Mの無罪は[[確定判決|確定]]した<ref name="佐藤、真壁14"/>。

== その後 ==
無罪判決が確定し、Mは[[刑事補償]]として138万5600円を受け取った<ref name="補償"/>。事件以来Mの家族は[[村八分]]にされ続け<ref name="海野5624">[[#海野|「弁護士海野普吉」刊行委員会 (1972)]] 562-564頁</ref>、逮捕時に1歳半であった娘もすでに小学校6年生となっていた<ref name="海野479"/>。しかし、判決後のMは人目を避けるために離婚していた妻とも再婚した<ref name="海野5624"/>。

海野は、弁護士は法廷でこそ発言すべき、との信念を持っていたため、この事件については裁判中も無罪判決後も、外部に対して論評を一切行わなかった<ref name="海野479"/>。また、M家が裕福でなかったことから、海野は弁護費用のほぼ全額を自己負担した<ref name="海野479"/>。無罪判決後にMが謝礼を申し出た際も、「金でこの事件をやったのではない」として受け取ろうとしなかった<ref name="海野479"/>{{Refnest|group="注"|その後、Mは海野が主催していた[[自由人権協会]]に10万円の寄付を行っている<ref>{{Cite news |title= 自由人権協会事務局だより|newspaper= 人権新聞|date= 1960-10-01|publisher= 自由人権協会|page= 2}}</ref>。}}。

一方、Mの無罪判決に対しOの兄は「かれはたしかに犯人だと思うのだが、もうこうなったら仕方がない」と嘆いた<ref name="紅林77">[[#紅林|紅林 (1959)]] 77頁</ref>。担当検事は、「''(M)'' 氏が無罪になった以上、こんごぜったいに“真犯人”はあらわれないだろう」と憤慨した<ref name="紅林77"/>。また紅林も、「清瀬氏{{Refnest|group="注"|二俣事件と幸浦事件の主任弁護人を務めた[[清瀬一郎]]<ref name="紅林81">[[#紅林|紅林 (1959)]] 81頁</ref>。}}や海野氏のようなベテラン弁護人の猿智恵で、有罪のものが無罪になる」と不満を述べた<ref name="紅林81"/>。だが、二俣事件や後の幸浦事件においても被告人ら全員の無罪が確定し、やがて紅林は酒に溺れて急死した<ref name="佐藤、真壁14"/>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
*[[朝日新聞]] [[新聞縮刷版]] 1958年6月、1959年6月、1959年12月
*[[佐藤友之]]、真壁旲冤罪の戦後史 つくられた証拠と自白』図書出版社、1981年3月25日
* {{Cite book|和書|author= [[佐藤友之]]、真壁旲|title= 冤罪の戦後史|year= 1981|publisher= 図書出版社|isbn= 978-4809981913|ref= 佐藤真壁}}
* {{Cite book|和書|others= 「弁護士海野普吉」刊行委員会編・発行|title= 弁護士海野普吉|year= 1972|ncid= BN04426939|ref= 海野}}
* {{Cite book|和書|editor= [[朝日新聞社]]編|title= 無実は無罪に - 再審事件のすべて|year= 1984|publisher= すずさわ書店|isbn= 978-4795405196|ref= 朝日}}


== 関連項目 ==
=== 雑誌 ===
* {{Cite journal|和書|author = [[青柳文雄]]|date = 1965-03|title = 供述の任意性(小島事件)|journal = 別冊[[ジュリスト]]|issue = 第2号、判例百選〈第二版〉|pages = 196-197|publisher = [[有斐閣]]|ncid = BN05640220|ref= 青柳}}
* [[違法収集証拠排除法則]]
* {{Cite journal|和書|author = [[大竹武七郎]]、[[大野正男]]、内田博|date = 1964-02|title = 事実認定における裁判官の判断 - 幸浦・二俣・小島事件の実証的研究|journal = [[法律時報]]|volume = 36|issue = 第2号(通巻第412号)|pages = 30-49|publisher = [[日本評論社]]|issn = 03873420|naid = 40003504383|ref= 共同}}
* {{Cite journal|和書|author = [[紅林麻雄]]|date = 1959-12|title = 真実は犯人だけが知っている - 特別手記|journal = [[週刊文春]]|volume = 1|issue = 36|pages = 77-81|publisher = [[文藝春秋新社]]|ref= 紅林}}


=== 判例集 ===
{{DEFAULTSORT:おしましけん}}
* {{Cite journal|和書|date = 1958|title = 原判決が是認した第一審判決の採証する自白調書の任意性に疑いがあると認められる場合と刑訴第四一一条第一号による原判決の破棄|journal = [[刑集#最高裁判所刑事判例集|最高裁判所刑事判例集]]|volume = 12|issue = 9|pages = 2009-2128|publisher = [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]判例調査会|ncid = AN00011875|ref= 刑集}}

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[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]
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2015年1月29日 (木) 12:41時点における版

小島事件(おじまじけん)は、1950年昭和25年)に静岡県庵原郡で発生した強盗殺人事件である。

経過
月日 事柄
1950年 5月10日 事件発生。
6月19日 M、別件逮捕される。
7月20日 M、起訴される。
1952年 2月18日 静岡地裁での一審終了。
Mに無期懲役判決。
1956年 9月13日 東京高裁での控訴審終了。
控訴棄却。
1958年 6月13日 最高裁が有罪判決を破棄
東京高裁へ差戻し
1959年 12月2日 東京高裁での差戻審終了。
Mに無罪判決。

1950年5月10日深夜、庵原郡小島村で、女性がで撲殺される事件が発生した。国警静岡県本部から派遣された警部補紅林麻雄らによる捜査の結果、同村に住む27歳の男、Mが被疑者として浮上した。Mはほどなく犯行を自供したが、公判の段階では自供を翻し、取調べでは拷問を受けたとして無実を訴えるようになった。また、事件には自供以外の直接証拠も乏しかったが、一審静岡地裁控訴審東京高裁はともに無罪主張を退け、Mには無期懲役の有罪判決が下された。

しかし、1958年(昭和33年)に最高裁は、Mが取調べ後に負傷していた可能性や自供の不自然性を指摘し、自供は無理のある取調べの末に得られたもので任意性に疑義がある、と判決した。最高裁により有罪判決は東京高裁へ破棄差戻しされ、差戻審によっても、やはり取調べは強制的なものであったとして自供の任意性は否定された。1959年(昭和34年)に差戻審で下された無罪判決が確定し、事件は冤罪と認められた。

事件と捜査

1950年昭和25年)5月10日深夜、静岡県庵原郡小島村で、飴製造業者の妻O(当時32歳[1])が薪割り斧で撲殺された[2]。現場のタンスや金庫には物色された跡があり[3]、後に2500円が奪われていることが分かった[2]。Oの夫は引越し準備のため不在であったが、現場に居合わせた夫妻の子供は、犯行直後に坊主頭でカーキ色の服を着た男が逃げてゆくのを目撃している[4]。現場の時計が11時37分で止まっていたことから、犯行時刻はその前後であると推定された[3]

翌朝には国警静岡県本部から、警部補紅林麻雄を主任とした捜査員らが派遣された[4]。狙われた家は村でも大きくなく、被害者一家には家業で儲けているとの噂もあったことなどから、紅林らは内情を知る村の者が金銭目当てで犯行に及んだ、と推測した[3]。だが、大規模な捜査によっても手掛かりはなく、また村人のほとんどが縁者であったことからも捜査は難航した[3]

しかし、事件から1か月が過ぎようとしていた頃、村人たちへの聞き込みから、同村の農民であるM(当時27歳[5])が浮かび上がった[6]。MはOの娘の目撃証言とも髪型や年齢などが一致していた[7]。また、事件以来顔色が悪くなったと噂され、事件当時のアリバイもはっきりせず、加えて被害者一家に5000円の借金があった[6]。加えてMは、Oの夫から持ちかけられたサツマイモの闇取引で、自分だけが罰金刑を受けたため、被害者一家に対し恨みを抱いていたとも言われていた[8](これらについてMは、5000円は借金を頼まれていた第三者に又貸ししたところ、返ってこなくなったのだと主張し、闇取引の件についてもOたちを恨んでいたことはない、と主張している[9])。

事件発生から1か月余りが経過した6月19日、Mは庵原地区署へ任意同行を求められ、材木などの窃盗容疑につき、同日中に別件逮捕された[6]。窃盗の件はすぐに不起訴となったが、翌20日から本件の強盗殺人容疑で再逮捕される7月12日、そして本件で静岡地裁起訴される7月20日までの間、MはO殺害の容疑で取調べを受け続けた[10]。別件逮捕の翌日の6月20日、MはO殺害を自供した[6]。だが、事件にはMの自供を除いては直接証拠がなく、後の裁判でも、争点は自供の任意性と信用性に収束した[1]

争点

自供

自供の変遷

Mの自白調書としては最終的に、6月20日から7月20日までの間に7通の員面調書と2通の検面調書が作成されている[11]。それらは詳細かつ具体的ではあったが、一方で各調書の内容には度重なる変遷がみられる[12]

まず、現場の金庫をこじ開けようとした方法についてMは、6月20日の最初の自供では「自宅から携行したの先でこじた」とした[13]。しかしこれは22日の調書では「鎌の刃元でこじ、次に刃先でこじたが刃先も刃元も折れた」と変わり、さらに翌日の調書では「刃は折れたが刃先は折れなかった」、26日には「鎌の刃がこぼれた後の刃ででこじた、鉈の刃もぼろぼろになった」、そして7月5日には「金槌タガネそれに鉈の三つをもって行き、金庫をタガネでつついたり、金槌を使って二、三回叩いたりした」へと変遷している[13]。これに伴い、犯行を決意した時刻についても、Mは6月26日までは一貫して犯行直前の23時頃であると主張していたが、7月5日の調書においては、夕方、村の製茶工場から帰る際に犯行を決意した、と変更されている(5日からの調書では、Mは金槌とタガネを工場から持ち出したとされているため、犯行準備の時刻は工場の操業中でなければ辻褄が合わない)[13]。さらに、当初Mは、犯行時にズボンに血が付いたと供述していたが、押収されたズボンからは血痕反応が表れなかったため、供述は「つかないように金を探した」へと変化している[14]

裁判で弁護側は、これら自供の変遷を、Mが犯人であるとすれば到底あり得ないものである、と主張した[15]

「秘密の暴露」

自供の中で特に注目されたのは、殺害前の現場の状況と、薪割り斧での被害者の殺害方法についての部分であった[16]

私は両手で薪割を振り上げて夢中で (O) さんが右に向いて子供を抱いて居る頭の後の方を撲りました。夢中でやったので薪割の刃の方でなく峯の方で撲って終ひました。(O) さんは「うーん」とうなって仰向けになりました。今度は刃の方で頭をめがけて打ちますと左目と耳の間に刺さりましたがそれでもまだ動くやうに見えましたのでもう一回夢中で振り下すと今度は真中の上の方へ刺さりました。 — Mの6月20日付員面調書より[17]

Mは現場にあった斧でOを3回撲ったと供述したが、さらにそのうち1回は峰打ちであったとした。そして、殺害前のOは右を向いて横になっていたとも述べている。この犯行様態についての自供は、捜査段階で遺体の鑑定を行った国警鑑識課技官の鈴木完夫[注 1]による、「傷を見ての所見は、薪割りのようなもので峯うちをしたとは思われなかった」との証言とは食い違っている[19]。しかし、後の一審東京大学医学部法医学教室教授古畑種基が行った再鑑定では「本屍頭部の損傷には、斧の様な重量ある有刃器の打撃によって生じたものと峯部の作用によって生じたものとがある」とされ、これは警察・検察側によって、捜査段階では知られていなかった事実であり、犯人以外知り得ない秘密の暴露であると主張されるようになる[16](ただし古畑の鑑定では、峰打ちが1回、刃での打撃が3回とされており、Mの自供とは打撃の回数が食い違う[19])。

しかし、峰打ちについては、事件翌日に捜査員ら立会いのもとで鈴木が遺体の鑑定を行った時点で、頭部の損傷から「八センチと九センチの不正形な扇形の骨片」が確認されている[4]。凶器が斧であると確定されている状況で、遺体に刃での割創とは異なる傷がみられるならば、捜査員らが斧での峰打ちを想像するのは当然であり、峰打ち供述はそもそも秘密の暴露とは言えない、と後に弁護側は主張した[20]。またMも、殺害時の現場の状況は警察に教え込まれたものであり、Oが子供と寝ていたならば姿勢が横向きであったことも容易に想像がつくことである、と主張した[21]

拷問の訴え

紅林はMの自供について、「(M) 氏はたしかに何の手間ひまもとらせず自白した」[注 2]と回顧している[22]。だが一方Mは、取調べでは激しい拷問を受け続け、自供を翻そうとする度にそれが繰り返された、と主張している。

(S) が「顔をなぐつて来た」のであります(平手と握りで往復で二、三十回程)。そして此の野郎まだいわぬかといつて「足をけること前横より十四、五回位」なぐる、けることをくりかえしてやり、又正座している膝の上に乗つていうまでだぞといつて二、三分位づつ五、六回無茶苦茶に踏み付けたり、おどかしたり、鼻に指を入れて引つぱること二、三回此の時痛いので引つぱる方について行つたりして座敷を廻つたこともあります。正座している膝の処のズボンをつかんで座敷を引きずり廻したことも二、三回あります。此の間 (Y) 刑事も此の野郎嘘つきだといつて顔を平手で五、六回なぐりました、(中略)二人に約四、五十分にわたり拷問されたのであります。 — Mの最高裁宛上申書より[23]

Mは公判の段階で自供を撤回し、自身の無実を訴えるようになった[1]。そして、6月20日に自供を行ったのは上のような拷問を受けたためである、と主張した[23]。22日になって自供を撤回しようとすると、やはり紅林の部下であるSなどから、同様の拷問を2時間以上に渡って加えられたという[24]。脚からの出血で畳は血に染まり、見かねた庵原地区署の警部補が午後にマーキュロペニシリン軟膏をMの金で買って治療してくれたという[25]。その後も自供と検証結果が食い違う度に脅迫を受け[26]、7月4日には暴行の苦しさから逃れたいがために死刑志願書を簡裁へ宛てて書いたとされる(この志願書も、刑事に顔面を数十回殴られて取り消させられたという)[27]検事による取調べが始まってからも自供を翻そうとはしたが、やはり取調べの後にSらから暴行を受けたため、結局検事の前でも自白を維持したのである、とMは主張した[28]

受傷の有無

Mが自身に加えられたと主張する拷問については、紅林を始めとした捜査官全員がそれを否定し[29]、Mがマーキュロとペニシリン軟膏で治療を受けたことも否定した[30]。しかし、Mと同時期に庵原地区署で取調べを受けていた収賄事件の被疑者(後に無罪となった)は、6月の20日か23日にMが脚にマーキュロを塗っているのを見た、と公判で証言した[31]。さらに控訴審の段階では、静岡刑務所領置品元帳から、Mが収監される段階ではマーキュロとペニシリン軟膏を所持していたが、私物の持ち込み制限により宅下げとなっていたことが判明した[31][32]。そのため警察側は、水虫に悩んでいたMのために、収監当日になって薬を買い与えたのだと主張するようになった[33]。刑務所には薬は持ち込めないことは知っていたが、そういったことは特に考えず薬を渡したのだという[33](ただし紅林も、宅下げの時点では薬は未開封であったと述べている[22])。しかし、静岡刑務所の健康診断記録に、Mが水虫を患っていたとの記載はない[30]

脚の傷の他にも、庵原地区署で取調べを受けていた暴力行為事件の被疑者は、Mの頬に腫れた箇所があったと証言した[34]。Mの父と妹も、7月5日に実況見分のためMが村へ戻った際、Mの左もみあげ付近が黒く腫れていたのを見た、と証言している[29]。また、村内の但沼派出所巡査も、実況見分の翌日にMの父から拷問についての苦情を受けていたことを認めている[35]。しかし、紅林はこれに対し、実況見分には100人ほどの村人が立会ったが、Mの痣について指摘する者はMの親族の他にはいない、と反論している[22]

Sのアリバイ

Mは上のように、主な拷問は紅林の部下である国警静岡県本部巡査部長のSによって、6月20日と22日に行われたと主張した[36]。しかし、Sはこれについて、自分は20日と22日は庵原地区署にはおらず、その他の日もMの取調べに深い関与はしていない、と反論している[32]

Sは、捜査段階での自身の行動を次のように述べている。まず、本件発生までSは沼津市で別件[注 3]の捜査に従事していたところ、事件発生の翌朝に報を受けて庵原入りし、Mの検挙当日までのおよそ40日間を捜査に従事した[37]。しかし、検挙当日の6月19日は取調べを担当したが、翌20日は朝に庵原地区署に顔を出したのみで、すぐに磐田郡二俣町へ出立したのだという[37]。そしてその晩は宿へ泊り、21日は朝から静岡地裁浜松支部で、かつて紅林とともに捜査を担当した二俣事件の一審に出廷して証言を行った[37]。そして証言を終えた後は静岡市の自宅へ戻ったという[37]。22日の行動については本件一審では明らかにしていなかったが、控訴審になるとSは、そもそも自分は20日から22日まで休暇を取っていた、と主張するようになった[39]

このようなSの主張について弁護側は、巡査部長という地位にあり、事件発生直後からひと月以上に渡り捜査に携わっていた人間が、被疑者逮捕の翌日から休暇を取ることはおよそあり得ない、と反論した[40]。Sの不在を証明する欠勤届なども提出されておらず、加えて、SとともにMを拷問したとされるY巡査(上記参照)は、20日と22日の取調べにはSも「いたように思う」と証言している[32]。二俣町の宿の従業員は、Sが20日のまだ明るい時刻に宿を訪れたと証言しているが、その日はほぼ夏至であるから、庵原地区署で午前中にMを拷問した後でも、明るいうちに列車で二俣へ着くことは可能である、と弁護側は主張した[41]

その他の争点

検察側は自白調書以外にも、実況見分の際にMがOの墓参りを希望したり、留置場の看守に「とんでもないことをした」「人一人殺したのだからどうせ殺されるなら自分で死んだ方が良い」などと話したことを証拠として挙げた[42]。一方、一審では事件の主任検事として出廷し、Mが犯行を否認したため逆に有罪の心証を得た、とまで証言していた人物は[29]、退官して弁護士となっていた頃に出廷した控訴審では、Mの自供は芝居がかっていて不自然に感じられ、捜査主任の紅林に対しても不信感を抱いていた、と証言した[43][44]

犯行時の服装については、Oの娘の目撃証言では犯人がカーキ色の服を着ていたとされるところ、Mもいくらかの変遷の末に黄色の国民服で犯行に及んだと供述するようになった[45]。しかしMの親族らは、犯行時刻直前に会合に出席していた際のMは白の和装であった、と事件直後から主張している[46]。また、Mの妻も、Mは23時前に帰宅してからは殺人の報が入るまで在宅であったと供述した[47]

裁判

一審・控訴審判決

事件発生から1年9か月が経過した1952年(昭和27年)2月18日、弁護側が無罪を主張し、検察側が死刑を求刑するところ、静岡地裁第一合議部はMに対し無期懲役の有罪判決を言い渡した[48]

主文

被告人を無期懲役に処する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

弁護側は有罪判決に控訴し、弁護人には松川事件弁護人として知られていたベテランの海野普吉が新たに着任した[49][注 4]。そして東京高裁で開始された控訴審においては、Mに対する拷問について、海野もまた紅林を厳しく(紅林当人の形容によれば「ヒトラーユダヤ人追放を叫んだときのような、きちがいじみた姿」で)追及した[51]。控訴審には4年の歳月が費やされたが、1956年(昭和31年)9月13日に高裁刑事第六部により言い渡された判決も、やはり控訴棄却の有罪判決であった[52]

主文

本件控訴はこれを棄却する。
当審における未決勾留日数中三〇〇日を本刑に算入する。

当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

一審、控訴審判決はともに9通の自白調書すべてに証拠能力を認めた(ただし、Mは現場から2500円の他に腕時計も窃取したと自供していたが、判決は腕時計の窃盗についての自供は排斥している)[53]。その自供の内容が変転を重ねていることについても、Mが処罰を逃れたい一心で言を弄したことの表れとされた[53]。静岡刑務所から宅下げされたマーキュロとペニシリン軟膏については、警察の主張通りに、Mの水虫治療のために収監直前に渡されたものと認定した(刑務所の健康診断記録についても、水虫程度ではその旨記載されないこともあるとされた)[54]。Sによる拷問についても、S当人の主張通りに6月20日から22日は不在であったとして、その疑いを否定した[54]。自供に含まれていた、殺害前の現場の状況や斧での峰打ちについての供述も、犯人しか知り得ない秘密の暴露であると認めている[55]。Mの親族によるMの服装やアリバイについての証言もすべて否定された[56]

紅林の転落

しかし、小島事件の控訴審が進む傍ら、最高裁では1953年(昭和28年)11月に二俣事件の死刑判決が破棄差戻しを受けていた[57]。そして1957年(昭和32年)2月には同じく県内で発生していた幸浦事件の死刑判決も、やはり最高裁によって破棄差戻しされることとなった[58]。この2つの事件は、紅林を主任とした県警本部強力犯係の刑事らが捜査に当たった点、物証に乏しく被告人らの自供が重要証拠とされていた点、そして被告人らがいずれも、取調べでの拷問と自身の無実を訴えていた点が、小島事件と共通していた[1]

これを機に紅林は「名刑事」から一転「昭和の拷問王」と指弾されるようになり、非難を浴びた県警上層部は、当時御殿場署次席警部の地位にあった紅林を吉原署駅前派出所へ転出させた[59]交通巡視員待遇という、実質的な二階級降任であった[59]

上告審判決

最高裁判所判例
事件名 強盗殺人被告事件
事件番号 昭和31(あ)4204
1958年6月13日
判例集 刑集第12巻第9号2009頁
裁判要旨
一審判決および原審判決が被告人の自白調書に任意性を認めて証拠採用しているにもかかわらず、自白の任意性に疑いが認められ、かつ自白が事実認定の重要証拠とされている場合、刑事訴訟法第411条第1号により原判決を破棄することができる。
第二小法廷
裁判長 小谷勝重
陪席裁判官 藤田八郎河村大助奥野健一
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑事訴訟法第411条第1号同第322条第1項同第319条第1項同第335条第1項同第317条憲法第38条第2項
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幸浦事件上告審判決の翌年、1958年(昭和33年)6月13日、小谷勝重が指揮する最高裁第二小法廷は小島事件上告審において、やはり有罪判決を高裁へ破棄差戻しすると判決した。

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

判決は、Mの自供の変遷、親族による拷問痕の目撃証言、静岡刑務所によるマーキュロとペニシリン軟膏の宅下げ記録、そして元主任検事すらMの自供が信用に足りないと証言していることなどを指摘し、紅林らによる取調べが「被告人が第一審以来供述してやまない程、苛烈なものであつたかどうかは別としても、そこには可なり無理もあつたのではないかと考えざるを得ない」とした。そして、Mの自供には任意性に疑いがあるとみるのが相当で、「原判決はこれを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める」と結論した。

二俣・幸浦両事件の上告審判決では、事実認定の不合理、自供の真実性への疑義を理由として差戻しが行われたが、本判決では自供の信用性そのものが取り上げられ、これに疑いのあることが差戻し理由とされている[43][60]。その一方で、本判決では自供の真実性については全く判断されず、任意性が問題とされたのも員面調書のみで、検面調書については触れられていない[43]。とはいえ、これは裁判官が捜査員に対する信頼を失ったケースの判例として意義を認められている[43]

差戻審判決

東京高裁での差戻審公判は、同年10月に開始された[61]。この審理では警察官やSの妻、隣人など数十人が新たに出廷し、1950年6月20日と22日にSが庵原地区署にはおらず、Mの取調べには関与していない旨供述した[31]。しかし、12回の公判と2度の現場検証を重ね、公判中に裁判長が3度交代しながらも、翌1959年(昭和34年)12月2日に高裁刑事第一部は判決に達した[61][62]

主文

第一審判決を破棄する。

被告人は無罪。

差戻審判決は、新たに主張されたSのアリバイ証言についてはこれを否定し、SがMの取調べに関与しなかったとは断定し難いとした。そして、結局のところ、上告審判決が指摘したような薬品の宅下げ記録やMの顔の痣、不自然な自供についての疑問は解消されておらず、員面調書は無理な取調べの産物である疑いが拭えない、とした。上告審判決では判断が避けられていた検面調書についても、たとえ検事当人による圧力が存在せずとも、その後に捜査員が圧力を加えることが可能な状況であったのであるから、やはり員面調書と同様に任意性に疑いがあると認めるのが相当である、とした。最終的に差戻審判決は自白調書の証拠採用をすべて退けて一審の無期懲役判決を破棄、Mに対し無罪を言い渡した。同月26日の上告期限までに検察側は再上告を行わず、Mの無罪は確定した[61]

その後

無罪判決が確定し、Mは刑事補償として138万5600円を受け取った[10]。事件以来Mの家族は村八分にされ続け[63]、逮捕時に1歳半であった娘もすでに小学校6年生となっていた[5]。しかし、判決後のMは人目を避けるために離婚していた妻とも再婚した[63]

海野は、弁護士は法廷でこそ発言すべき、との信念を持っていたため、この事件については裁判中も無罪判決後も、外部に対して論評を一切行わなかった[5]。また、M家が裕福でなかったことから、海野は弁護費用のほぼ全額を自己負担した[5]。無罪判決後にMが謝礼を申し出た際も、「金でこの事件をやったのではない」として受け取ろうとしなかった[5][注 5]

一方、Mの無罪判決に対しOの兄は「かれはたしかに犯人だと思うのだが、もうこうなったら仕方がない」と嘆いた[65]。担当検事は、「(M) 氏が無罪になった以上、こんごぜったいに“真犯人”はあらわれないだろう」と憤慨した[65]。また紅林も、「清瀬氏[注 6]や海野氏のようなベテラン弁護人の猿智恵で、有罪のものが無罪になる」と不満を述べた[66]。だが、二俣事件や後の幸浦事件においても被告人ら全員の無罪が確定し、やがて紅林は酒に溺れて急死した[61]

脚注

注釈

  1. ^ 後に静岡県警科学捜査研究所所長[18]1954年(昭和29年)に県内で発生した島田事件においても、被害者遺体の司法解剖を担当した[18]
  2. ^ 太字の部分は、原文では傍点で強調されている。
  3. ^ この脱税事件の被疑者は、苛烈な取調べを苦にして県警本部の屋上から投身自殺した[37]。その後の裁判では、残る被告人らに無罪判決が言い渡されている[38]
  4. ^ 一審で弁護人を務めた西ヶ谷徹は検察官出身であったが、紅林のような捜査官が存在することに危機感を覚え、その後検事へ復職した[50]
  5. ^ その後、Mは海野が主催していた自由人権協会に10万円の寄付を行っている[64]
  6. ^ 二俣事件と幸浦事件の主任弁護人を務めた清瀬一郎[66]

出典

  1. ^ a b c d 大竹、大野、内田 (1964) 32頁
  2. ^ a b 朝日新聞社 (1984) 109-110頁
  3. ^ a b c d 佐藤、真壁 (1981) 27-28頁
  4. ^ a b c 佐藤、真壁 (1981) 26頁
  5. ^ a b c d e 「弁護士海野普吉」刊行委員会 (1972) 479頁
  6. ^ a b c d 佐藤、真壁 (1981) 28-29頁
  7. ^ 刑集第12巻第9号 2025頁
  8. ^ 刑集第12巻第9号 2100-2101頁
  9. ^ 刑集第12巻第9号 2079-2081頁
  10. ^ a b 東京高裁決定 1960年7月13日 高刑集第13巻第5号419頁、昭和34(ま)2、『刑事補償請求事件』。
  11. ^ 青柳 (1965) 196頁
  12. ^ 大竹、大野、内田 (1964) 37頁
  13. ^ a b c 大竹、大野、内田 (1964) 40頁
  14. ^ 佐藤、真壁 (1981) 29頁
  15. ^ 刑集第12巻第9号 2037頁
  16. ^ a b 佐藤、真壁 (1981) 30頁
  17. ^ 大竹、大野、内田 (1964) 34頁
  18. ^ a b 佐藤、真壁 (1981) 79-80頁
  19. ^ a b 佐藤、真壁 (1981) 31-32頁
  20. ^ 大竹、大野、内田 (1964) 36頁
  21. ^ 佐藤、真壁 (1981) 30-31頁
  22. ^ a b c 紅林 (1959) 79頁
  23. ^ a b 刑集第12巻第9号 2044-2045頁
  24. ^ 刑集第12巻第9号 2052-2053頁
  25. ^ 刑集第12巻第9号 2055-2056頁
  26. ^ 刑集第12巻第9号 2057-2058頁
  27. ^ 刑集第12巻第9号 2060-2061頁
  28. ^ 刑集第12巻第9号 2063-2064頁
  29. ^ a b c 佐藤、真壁 (1981) 35頁
  30. ^ a b 刑集第12巻第9号 2114頁
  31. ^ a b c 大竹、大野、内田 (1964) 44-45頁
  32. ^ a b c 佐藤、真壁 (1981) 36-37頁
  33. ^ a b 刑集第12巻第9号 2034頁
  34. ^ 刑集第12巻第9号 2015頁
  35. ^ 刑集第12巻第9号 2035頁
  36. ^ 刑集第12巻第9号 2027頁、2032頁
  37. ^ a b c d e 刑集第12巻第9号 2021-2022頁
  38. ^ “三人に無罪 - メシア教事件”. 朝日新聞: p. 7. (1954年11月10日) 
  39. ^ 刑集第12巻第9号 2032頁
  40. ^ 刑集第12巻第9号 2029頁
  41. ^ 刑集第12巻第9号 2030頁
  42. ^ 大竹、大野、内田 (1964) 37頁
  43. ^ a b c d 青柳 (1965) 197頁
  44. ^ 刑集第12巻第9号 2016-2017頁
  45. ^ 刑集第12巻第9号 2059頁
  46. ^ 刑集第12巻第9号 2036頁
  47. ^ 佐藤、真壁 (1981) 38頁
  48. ^ 刑集第12巻第9号 2100-2103頁
  49. ^ 「弁護士海野普吉」刊行委員会 (1972) 477頁、567-568頁
  50. ^ 朝日新聞社 (1984) 111-112頁
  51. ^ 紅林 (1959) 78頁
  52. ^ 刑集第12巻第9号 2103-2128頁
  53. ^ a b 刑集第12巻第9号 2112頁
  54. ^ a b 刑集第12巻第9号 2113-2114頁
  55. ^ 刑集第12巻第9号 2125-2126頁
  56. ^ 刑集第12巻第9号 2127-2128頁
  57. ^ 最高裁判所第三小法廷判決 1953年11月27日 刑集第7巻第11号2303頁、昭和27(あ)96、『強盗殺人、窃盗、住居侵入被告事件』。
  58. ^ 最高裁判所第一小法廷判決 1957年2月14日 刑集第11巻第2号554頁、昭和26(あ)2592、『強盗殺人、死体遺棄、窃盗、賍物故買被告事件』。
  59. ^ a b 朝日新聞社 (1984) 116-117頁
  60. ^ 大竹、大野、内田 (1964) 43頁
  61. ^ a b c d 佐藤、真壁 (1981) 14頁
  62. ^ 東京高裁判決 1959年12月2日 判時第219号11頁、昭和32(う)1340、『強盗殺人被告事件』。
  63. ^ a b 「弁護士海野普吉」刊行委員会 (1972) 562-564頁
  64. ^ “自由人権協会事務局だより”. 人権新聞 (自由人権協会): p. 2. (1960年10月1日) 
  65. ^ a b 紅林 (1959) 77頁
  66. ^ a b 紅林 (1959) 81頁

参考文献

書籍

  • 佐藤友之、真壁旲『冤罪の戦後史』図書出版社、1981年。ISBN 978-4809981913 
  • 『弁護士海野普吉』「弁護士海野普吉」刊行委員会編・発行、1972年。 NCID BN04426939 
  • 朝日新聞社編 編『無実は無罪に - 再審事件のすべて』すずさわ書店、1984年。ISBN 978-4795405196 

雑誌

判例集

  • 「原判決が是認した第一審判決の採証する自白調書の任意性に疑いがあると認められる場合と刑訴第四一一条第一号による原判決の破棄」『最高裁判所刑事判例集』第12巻第9号、最高裁判所判例調査会、1958年、2009-2128頁、NCID AN00011875