「念 (仏教)」の版間の差分
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2014年4月15日 (火) 13:45時点における版
仏教における念(ねん)は、以下のように多義的な意味で用いられる[1]。
sati, smrti
元々「念」という訳語は、サンスクリットの「スムリティ」(smrti)、パーリ語の「サティ」(sati)に対応する語であり、これらの語は「意識・記憶していること」全般を広く言い表す語である。
例えば、上座部仏教圏であるスリランカなどでは、師僧が小僧(沙弥)をしつける際などに、「サティ」(気を付けなさい)という言葉を使ったりする [2]。
また、ヒンドゥー教では、『ヴェーダ』のような聖典(天啓、シュルティ)以外の伝承されてきた古代文献のことを「スムリティ」(聖伝文献)と呼んでいる[3]。
行法としての念
しかし、仏教においては、やはり「念」という言葉・概念は、行法の文脈で用いられることが多い。
初期仏教における「三十七道品」においても、四念処はもちろん、四神足、五根、五力、七覚支、八正道の中でも「念」がその1つに数えられており、仏教の行法において「念」が重要な概念となっていることが伺える。
安那般那念
初期仏教以来の瞑想導入法として、自分の呼吸に意識を向ける(あるいは呼吸を数える)「安那般那念」(アーナパーナ・サティ)という行法がある。
念仏・観念
仏教の瞑想において観想する対象(業処)は様々に数多くあるが、その内の「十随念」などでは、仏(釈迦)を三宝(仏・法・僧)の1つとして観想したりする。これが元来の意味での「念仏」である。
そこから転じて、大乗仏教においては、自分達が帰依する各種の如来・菩薩を観想したり、そのための祈りを捧げることを念仏と表現するようになった。中でもとりわけ、浄土教・浄土宗の「南無阿弥陀仏」は有名である。
一念
天台宗における最高の観法である「一念三千」にも表れているように、「ほんの少し、一瞬」「一回だけ」意識することを「一念」と表現したりもする。