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メーブリック夫妻 1889年

フローレンス・エリザベス・メーブリック(Florence Elizabeth Maybrick、1862年9月3日 - 1941年10月23日)は、かなり年上の夫ジェームズ・メーブリック(James Maybrick)を殺害したとして英国で有罪判決を受けたアメリカ合衆国の女性である。

前半生

チャンドラー・マンション(The Chandler Mansion) アラバマ、モービル(Mobile) フローレンス・チャンドラーの生地

彼女は、フローレンス・エリザベス・チャンドラー(Florence Elizabeth Chandler)としてアラバマ、モービル(Mobile)に、ウィリアム・ジョージ・チャンドラー(William George Chandler)の娘としてうまれたが、彼はセント・ジョン・パワーズ・アンド・カンパニー(St. John Powers and Company)の共同経営者であり、いちじはモービルの市長(mayor)であった。[1] 父親が死亡したし、そして母親キャロライン・チャンドラー・デュ・バリー、旧姓ホールブルック(Caroline Chandler Du Barry, née Holbrook)は、1872年にアドルフ・ヴォン・ロック男爵(Baron Adolph von Roques)と3回目の結婚をしたが、彼はドイツ帝国陸軍の第八甲騎兵連隊の騎兵隊士官であった。 彼女は、母とともに英国に旅行ちゅうに、船上で綿花の仲買人ジェームズ・メーブリックにであった。[2] ほかの乗客らは、19歳の娘が、23歳としうえのメーブリックとふたりきりでそれだけの時間をすごすことをおもしろがったか、でなければ衝撃をうけたかのいずれかであった。 1881年7月27日、ふたりは、ロンドン、ピカデリー、セント・ジェームスズ・チャーチ(St James's Church)で結婚した。 ふたりは、リヴァプールの郊外、エグバース(Aigburth)、バトルクレス・ハウス(Battlecrease House)に落ち着いた。[3]

フローレンスは、リヴァプールの社交界にかなり印象をあたえたし、そしてメーブリック家のひとびとは、最も重要な舞踏会と祭典に居て、まさにしあわせな、成功した夫婦そのものであった。 しかし、すべてが外見どおりとはかぎらなかった。 メーブリックは、心気症患者、ヒ素と、有毒な化学薬品をふくむ特許医薬品の常用者で[2]、そして多くの情婦をもち、うち1人は5人の子を産んだ。 フローレンスはいっぽうでは、ますますふこうな結婚になり、じぶんじしんの密通をはじめた。 1つは地元の実業家アルフレッド・ブライアリー(Alfred Brierley)とで、彼女の夫はそのことを語られた。 彼女は、また、義理の兄弟の1人エドウィン(Edwin)と関係を持った疑いがかけられていた。 メーブリックがフローレンスのブライアリーとの関係のうわさを聞いたあとははげしい口論がつづき、そのあいだメーブリックは彼女をおそい、そして離婚をもとめる意図を告げた。

殺害のとが

1889年4月、フローレンス・メーブリックは、地元の薬剤師の店でヒ素をふくんでいるハエ取り紙を買い、そしてのちにそれをボウル1杯の水にひたした。 公判において、彼女は、この方法は化粧用のヒ素を抽出すると主張した。[2] ジェームズ・メーブリックは、2倍のストリキニーネを自己処方したのちに1889年4月27日に病気になった。 医師らは、彼に急性消化不良の治療をほどこしたが、しかし彼の容態は悪化した。 5月8日にフローレンス・メーブリックは、ブライアリーあてに名声を危うくする手紙をかいたが、これはナニー(nanny)のアリス・ヤップ(Alice Yapp)に横取りされた。 ヤップは、それをジェームズ・メーブリックの兄弟エドウィンにわたしたが、彼はバトルクレスにとどまっていた。 エドウィンは、多くのひとの言うところによればフローレンスの情夫の1人であるが、手紙の内容を兄弟マイケル・メーブリック(Michael Maybrick)と共有したが、彼はじじつじょう一家の長であった。 マイケルの命令で、フローレンスは、一家の女性主人としてはただちに免職させられ、そして自宅監禁された。 5月9日に、ナースは、ミセス・メーブリックがひそかに肉汁のびんをいじくりまわしていたと報告したが、のちにこれは0.5グレーン(約32.4ミリグラム)のヒ素を含んでいることが判った。 ミセス・メーブリックの手紙は、彼女の夫が彼女にそれを元気づけの1杯(pick-me-up)として投与するようにたのんでいたことをのちに証明した。 しかしながら、彼は、その内容物をまったく飲まなかった。[4]

ジェームズ・メーブリックは、1889年5月11日に自宅で死亡した。 彼の兄弟らは、死因をうたがい、遺体を検査させた。 それはわずかにヒ素をふくみ、しかし致死的と判断されるほどではないことが判った。 これがメーブリックじしんによって取られたかそれともべつの人物によって投与されたかは、わからない。 近くのホテルでおこなわれた死因審問ののち、フローレンス・メーブリックは彼の殺害のかどで、リヴァプール、セント・ジョージズ・ホール(St George's Hall)で、ジェームズ・フィッツジェームズ・スティーヴン裁判官(Justice James Fitzjames Stephen)のまえで公判に付されて、そこで彼女は有罪死刑判決をいいわたされた。

公衆の抗議ののち、ヘンリー・マシューズ(Henry Matthews)、内務大臣、およびハーディング・ギファード(Hardinge Giffard)は、つぎのように結論づけた、「証拠はミセス・メーブリックが殺意をもって夫に毒を盛ったことを明らかに確証している。 しかし、そのように投与されたヒ素がじっさいに彼の死因であるかどうか合理的な疑いの根拠がある。」[5] 死刑判決は、彼女が決してうったえられなかった犯罪への刑罰として終身刑に減刑された。 1890年代に、あらたな証拠が、彼女の支持者らによって公表されたが、しかし上訴の可能性はなかったし、そして内務省は、ロード・ラッセル(Lord Russell)、首席裁判官の奮闘的な努力にもかかわらず、彼女を釈放する意向はなかった。[4]

事件は、ちょっとした「有名な訴訟」(cause célèbre)で、大西洋の両側でかなりの新聞報道をひきつけた。 ヒ素はとうじいちぶの男によって強精剤兼強壮剤と見なされていたし、そしてジェームズ・メーブリックはたしかにそれを定期的に取っていた。 或る都会の化学者は、自分は長期間にわたってメーブリックに毒を供給していたことを確証したし、バトルクレス・ハウスの捜索は、すくなくとも50人を殺害するだけの量であると判った。 彼女の結婚はあきらかにじじつじょう終わっていたけれども、フローレンスには夫を殺害する動機はほとんどなかった。 メーブリックが遺言状で彼女とその子らにほどこした経済的な備えは、わずかばかりであったし、そして彼女は、彼が法律的に彼女と別居するほかは、生きているほうがずっとよかったかもしれない。 おおくのひとの意見は、フローレンスはじっさいに夫に毒を盛ったが、これは、彼が彼女と離婚しようとし、ヴィクトリア朝社会では、もし離婚すれば彼女は破滅するであろうからであるというものであった。 よりいっそう強制的な動機は、彼女の愛する子らの監護権をうしなうみこみであったかもしれない。

釈放

フローレンス・メーブリックは、ウォキング(Woking)とアリスバーリー(Aylesbury)の監獄で、14年間をすごしたのち、1904年1月に釈放された。 彼女はアメリカの市民権をうしなっていたけれども、英国人の夫と結婚したとき、彼女は合衆国にもどった。 初めは彼女は、無実を主張しながら、巡回講演で生計をたてた。[3] 後年、幾月間か、家政婦としてすごして不首尾であったのちフローレンスは、隠者になり、ネコたちのみをあいてにコネチカット、サウス・ケント、ゲーラーズヴィル(Gaylordsville)の近くのきたならしい3室の小屋(cabin)でくらした。 フローレンスの本当の身元を知っている住人はほとんどいなかったし、そしてヴィクトリア朝のリヴァプールをかつて魅惑した淑女は1941年10月23日にひとりでいちもんなしで死亡し、サウス・ケント学校(South Kent School)の敷地に埋葬された。 所有物のなかには、ぼろぼろになった家庭用聖書があった。 ページの間には紙切れが1枚、あり、それにはあせたインクで美容処理として使用するハエ取り紙の浸漬法があった。

メーブリックは子らににどと会わなかった。 彼らは、一家の医師によって育て上げられた。 息子は、採鉱技師になり、1911年に中毒事故で死亡したが、これは彼がシアン化物溶液をグラス1杯の水と取り違えたときであった。[2]

フローレンス・メーブリックは釈放後まもなく、自分の経験を1冊の書物に書いた。 『My Fifteen Lost Years』の希少本は、リヴァプール市(Liverpool City)の複数の図書館におさめられている。

事件にかんするノンフィクションの書籍とパンフレット

  • Boswell, Charles, and Lewis Thompson. The Girl with the Scarlet Brand (1954).
  • Christie, Trevor L. Etched in Arsenic (1968).
  • Colquhoun, Kate. Did She Kill Him?: A Victorian Tale of Deception, Adultery and Arsenic (2014).
  • Daisy Bank Print. and Pub. Co. Full Account of the Life & Trial of Mrs. Maybrick: Interesting Details of her Earlier Life (ca. 1901).
  • Densmore, Helen. The Maybrick Case (1892).
  • Irving, Henry B. Trial of Mrs. Maybrick (Notable English Trials series, 1912).
  • Irving, Henry B. "Mrs. Maybrick", in James H. Hodge (ed.), Famous Trials III (Penguin, 1950) pp. 97–134
  • J.L.F. The Maybrick Case: A Treatise Showing Conclusive Reasons for the Continued Public Dissent from the Verdict and "Decision." (1891).
  • L.E.X. Is Mrs. Maybrick guilty?: A Defence Shewing that the Verdict of Guilty is not Founded on Fact, and is Inconsistent with the Presence of a Strong Element of Doubt; with Reasons for Mrs. Maybrick's Release (1889).
  • Levy, J. H. The Necessity for Criminal Appeal: As Illustrated by the Maybrick Case and the Jurisprudence of Various Countries (1899).
  • MacDougall, Alexander. The Maybrick Case (1891 and 1896).
  • Mason, Eleanor. Florie Chandler: or, The Secret to the Maybrick Poisoning Case (1890).
  • Maybrick, Florence E. Mrs. Maybrick's Own Story: My Fifteen Lost Years (1904).
  • Morland, Nigel. This Friendless Lady (1957).
  • Ryan Jr., Bernard. The Poisoned Life of Mrs. Maybrick (1977).
  • Tidy, Charles Meymott and Rawdon Macnamara. The Maybrick Trial: A Toxicological Study (1890).

事件にかんするほかの諸作品

メーブリック事件は、1952年にラジオ・シリーズ『The Black Museum』で「"Meat Juice"」というタイトルでドラマ化された。

BBCラジオ・シリーズ『John Mortimer Presents Sensational British Trials』は、メーブリック事件にかんするエピソードを「"The Case of the Liverpool Poisoner"」というタイトルで特集した。

事件によって霊感をあたえられたフィクション

  • Ackroyd, Peter. Dan Leno and the Limehouse Golem (1994).邦題『切り裂き魔ゴーレム』
  • Berkeley, Anthony. The Wychford Poisoning Case (1926).邦題『ウィッチフォード毒殺事件』
  • Fessenden, Laura Dayton. Bonnie Mackirby (1898).
  • Lowndes, Mrs. Belloc. Letty Lynton (1931).
  • Lowndes, Mrs. Belloc. Story of Ivy (1928).
  • Purdy, Brandy. The Ripper's Wife (2014).
  • Sayers, Dorothy L. Strong Poison (1930).邦題『毒を食らわば』
  • Shearing, Joseph. Airing in a Closed Carriage (1943).

参照

  1. ^ Maybrick, Florence E. Mrs Maybrick's Own Story: My Lost Fifteen Years Funk and Wagnalls Company (1904)
  2. ^ a b c d Birch, Dinah (2014年2月25日). “Did She Kill Him? review – a Victorian scandal of sex and poisoning”. The Guardian. http://www.theguardian.com/books/2014/feb/25/did-she-kill-him-kate-colquhoun-review 2014年2月28日閲覧。 
  3. ^ a b Ryan Jr., Bernard. The Poisoned Life of Mrs. Maybrick (1977)
  4. ^ a b Davenport-Hines, Richard. "Maybrick , Florence Elizabeth (1862–1941)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004
  5. ^ Buckle, G. E. (ed.) The Letters of Queen Victoria 3rd ser. (1930–32), vol. 1, p. 527

外部リンク