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「宮崎龍介」の版間の差分

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『宮崎滔天全集』の刊行準備中であった[[1971年]](昭和46年)1月23日、[[心筋梗塞]]により死去。享年78。墓は[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]の[[顕鏡寺]]にある。法号は石老院大観竜光居士。宮崎家は娘の蕗苳が継ぎ、滔天全集も娘夫婦によって完成された。
『宮崎滔天全集』の刊行準備中であった[[1971年]](昭和46年)1月23日、[[心筋梗塞]]により死去。享年78。墓は[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]の[[顕鏡寺]]にある。法号は石老院大観竜光居士。宮崎家は娘の蕗苳が継ぎ、滔天全集も娘夫婦によって完成された。

== 蒋介石への密使 ==
[[1937年]](昭和12年)7月7日に起きた[[盧溝橋事件]]で日中関係が緊迫していた7月19日、龍介は父滔天と同じく[[孫文]]の盟友であった[[秋山定輔]]から電話で呼び出される。鞠町の秋山の自宅で向かい合うと、「すぐに[[南京市|南京]]に行って[[蒋介石]]を連れて来い」と命令される。何のためにか問うと、秋山は「判りきっているじゃないか、日本外道の懺悔だ。これを蒋君に聞いてもらうんだ。蒋君は聞く耳を持っているはずだ」と述べた。秋山は[[近衛文麿]]首相から、中国との和平工作の特使として滔天の長男である龍介を派遣するよう依頼されていた。龍介は抗日軍総司令の蒋介石を敵国に連れてくるなど、とても無理だと断ると、「[[汪兆銘]]ではどうだ」と迫られ、早速向かうよう急き立てられる。目的を果たせるかどうかの判断もつかないまま、龍介は[[中華民国]]大使館に蒋介石への問い合わせを依頼する。

南京の蒋介石からいつでも面会に応じる事と、[[上海市|上海]]まで迎えを出すという返電があり、[[神戸港]]から上海への汽船「長崎丸」を手配した。23日午後8時、[[東京駅]]を避けて[[新橋駅]]から二等寝台で出発し、切符の名前は「高田隆助」という変名にした。途中で秋山から[[電報]]が入り、京都で下車して電話で連絡をとると「今朝閣議前に、陸軍大臣・[[杉山元]]が近衛公のところへ行く事になっている。何か問題が起こるかも知れんから、そのつもりで気をつけておけよ」という忠告であった。龍介は持っていた印鑑を航空便で東京へ送り、メモや手帳を引き裂いて処分し、出航15分前に長崎丸に乗船した。

船室に入ったのち、サロンに出るとそこで「失礼ですが、あなたは宮崎さんですね」と[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]に肩をたたかれ、下船するよう告げられる。上海と打ち合わせている事を言い返すも荷物はすでに下ろされていた。龍介の上海行きは[[大日本帝国海軍|海軍]]によて電報が傍受されており、これを知った[[大日本帝国陸軍|陸軍]]強硬派が憲兵を動かして龍介を拘束したのである。

龍介は憲兵分隊で待たされた後、「県庁に知り合いはいないか」と尋ねられる。神戸で憲兵に捕まった事を知った近衛文麿が、憲兵から[[司法省]]に引き取らせようと考え、塩野法相→馬場内相→兵庫県知事の流れで身柄引き取りを命じていたという。そうとは知らない龍介は憲兵隊に居座り、31日の午後になって本部から来た私服の曹長に簡単な供述調書を取られる。内容は「近衛公の依頼を受けて南京へ行こうとしたのは誤りであった」という曹長の作文で、龍介は署名だけして拇印は押さなかった。翌日、東京へ送還され、憲兵本部で始末書を提示させられる。内容は前日の供述書と同じく「近衛公の私的依頼を公的な依頼だと思ったのは誤解であった」という要領を得ないものであり、これに署名捺印すればすぐ釈放する事になっていると告げられる。

そうして本部から釈放されると、妻の燁子とその友人が迎えに来ていた。この事件で秋山は三日間憲兵隊本部に監禁され、厳重な家宅捜索を受けた。龍介宅も憲兵に捕まってすぐ家宅捜索を受けていた。

こうして龍介が一役を担うはずだった日中全面戦争回避の和平工作は幻に終わった。


== 白蓮事件と龍介 ==
== 白蓮事件と龍介 ==
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* 笠井忠「宮崎龍介」(『近代日本社会運動史人物大事典 4』(日外アソシエーツ、[[1997年]]))
* 笠井忠「宮崎龍介」(『近代日本社会運動史人物大事典 4』(日外アソシエーツ、[[1997年]]))
*[[永畑道子]] 『恋の華・白蓮事件』 新評論、[[1982年]]。(文庫版:[[文藝春秋]]、[[1990]]。再版:[[藤原書店]]、[[2008年]])
*[[永畑道子]] 『恋の華・白蓮事件』 新評論、[[1982年]]。(文庫版:[[文藝春秋]]、[[1990]]。再版:[[藤原書店]]、[[2008年]])
*宮崎蕗苳(聞き書き:宮嶋玲子)『白蓮〜娘が語る母燁子〜』[[2007年]]、「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」発行。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[姦通罪]]
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* [[日中戦争]]
* [[日中戦争]]

== 外部リンク ==
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2014年4月9日 (水) 12:03時点における版

新人会浪人会の合同演説会にて
前列左から2人目が宮崎・その右へ尾崎行雄吉野作造

宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年明治25年)11月2日 - 1971年昭和46年)1月23日)は、大正昭和期の編集者弁護士社会運動家。孫文の盟友・宮崎滔天の長男。母は前田案山子の三女・槌。有夫であった歌人・柳原白蓮と駆け落ちした白蓮事件で知られる。竜介とも。

経歴

熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)で宮崎滔天・槌夫妻の長男として生まれる。父滔天は革命運動に打ち込んで家庭を顧みないため、家の田畑は売り払われ、お嬢様育ちであった母・槌が慣れない石炭販売などで必死で働いて子供達を育てた。龍介は弟と共に母の実家前田家に預けられ、そこから小学校に通うが、困窮のため郷里に居られなくなり、槌と子供達は1905年(明治38年)正月に上京した。東京の宮崎家に出入りする滔天の盟友孫文黄興とは子供の頃から親しみ、時にはスパイに狙われる孫文を槌が家から逃れさせ、龍介が付き添った事もあった。

第一高等学校に入学。ボート部でハードな練習を続けるうちに結核を発症して喀血し、一高を休学して転地療養をしている。その後小康を保って1916年大正5年)に東京帝国大学に合格、法科大学仏法科に入学する。

法学部学生で組織する「緑会」弁論部に属する。この年、父・滔天を頼って日本で亡命生活を送っていた黄興が死去し、その旧宅(東京府北豊島郡高田村)の管理を父の代理で引き受けることとなる。1918年(大正7年)に京都帝国大学との弁論大会の準備委員として知り合った赤松克麿石渡春雄とともに新人会を結成した。龍介は黄興旧宅を新人会の合宿所として提供し、また機関誌『デモクラシー』の編集に参加して大正デモクラシーを鼓吹した。黄興旧宅には顧問の吉野作造のみならず、賀川豊彦大杉栄森戸辰男ら多くの知識人が出入りした。

1920年(大正9年)1月、帝国大学学生のまま吉野が主宰する黎明会の機関誌であった『解放』(大鐙閣)の主筆となった龍介は、たまたま九州出身であった事から、同誌の執筆者である柳原白蓮(伊藤燁子)との打ち合わせのため、別府の伊藤家別荘を訪れる。その後打ち合わせの中で燁子と恋仲となると、新人会では伯爵令嬢でブルジョワ夫人である燁子との関係を裏切り行為と見なし、1921年(大正10年)1月、龍介は『解放』編集者から解任され、4月には新人会を除名された(皮肉にも黄興旧宅の提供など、宮崎家の支援を受けていた新人会は龍介の除名によってそれを失って衰退への道を歩むことになる)。その後、白蓮事件を経て燁子と夫婦となる。この最中の1920年に大学を卒業した龍介は弁護士となり、中央法律相談所に属して片山哲星島二郎の薫陶を受けていたが、ふたたび喀血して自宅療養の身となる。燁子は献身的な介護を行い、龍介が動けなかった3年間は燁子の文筆業で家計を支えた。以後終生彼女は、夫の良き理解者となり一男一女をもうける。

復帰後、1926年(大正15年)に吉野・安部磯雄とともに独立労働協会を結成、続いて社会民衆党中央委員となる。1927年昭和2年)に松岡駒吉とともに中国を訪れて蒋介石と会談し、社会民衆党と中国国民党との連携を図った。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から東京府第4区で出馬するが落選、翌年の同党分裂では除名されて支持派とともに全国民衆党を結成する。その後、無産政党の大合同によって全国大衆党全国農労大衆党社会大衆党となり、中央委員や青年・選挙部長などを歴任した。

だが、1933年(昭和8年)には同党と距離を置いて、同じアジア主義者中野正剛率いる東方会に転じる(1939年に正式入会)。1937年(昭和12年)7月、近衛文麿首相の密使として、蒋介石との和平協議のために中国を訪問しようとするが、これに反対する陸軍憲兵隊を用いて神戸港で龍介を逮捕した。この経緯については諸説があり詳細は不明である。後に東方会東京府連会長を務め、南進論によるアジア解放を進める南鵬会を結成して会長となる。これが、後に太平洋戦争に賛同したとする根拠とされた。戦争で燁子との間の長男・香織が早稲田大学政経学部在学中に学徒出陣し、終戦の4日前に所属していた陸軍・串木野市の基地に爆撃を受けて戦死している。

戦後、日本社会党の結成に参加して中央委員となるが、間もなく離党、戦時中の行動を理由として公職追放となる。1954年(昭和29年)には憲法擁護国民連合の結成に参加して常任委員となり、1967年(昭和42年)には代表委員に選ばれ、また1956年(昭和31年)には孫文の活動を顕彰する日本中山会を結成するなど、一貫して護憲運動日中友好協会の常任理事となって中国との関係改善に努めた。

『宮崎滔天全集』の刊行準備中であった1971年(昭和46年)1月23日、心筋梗塞により死去。享年78。墓は神奈川県相模原市緑区顕鏡寺にある。法号は石老院大観竜光居士。宮崎家は娘の蕗苳が継ぎ、滔天全集も娘夫婦によって完成された。

蒋介石への密使

1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件で日中関係が緊迫していた7月19日、龍介は父滔天と同じく孫文の盟友であった秋山定輔から電話で呼び出される。鞠町の秋山の自宅で向かい合うと、「すぐに南京に行って蒋介石を連れて来い」と命令される。何のためにか問うと、秋山は「判りきっているじゃないか、日本外道の懺悔だ。これを蒋君に聞いてもらうんだ。蒋君は聞く耳を持っているはずだ」と述べた。秋山は近衛文麿首相から、中国との和平工作の特使として滔天の長男である龍介を派遣するよう依頼されていた。龍介は抗日軍総司令の蒋介石を敵国に連れてくるなど、とても無理だと断ると、「汪兆銘ではどうだ」と迫られ、早速向かうよう急き立てられる。目的を果たせるかどうかの判断もつかないまま、龍介は中華民国大使館に蒋介石への問い合わせを依頼する。

南京の蒋介石からいつでも面会に応じる事と、上海まで迎えを出すという返電があり、神戸港から上海への汽船「長崎丸」を手配した。23日午後8時、東京駅を避けて新橋駅から二等寝台で出発し、切符の名前は「高田隆助」という変名にした。途中で秋山から電報が入り、京都で下車して電話で連絡をとると「今朝閣議前に、陸軍大臣・杉山元が近衛公のところへ行く事になっている。何か問題が起こるかも知れんから、そのつもりで気をつけておけよ」という忠告であった。龍介は持っていた印鑑を航空便で東京へ送り、メモや手帳を引き裂いて処分し、出航15分前に長崎丸に乗船した。

船室に入ったのち、サロンに出るとそこで「失礼ですが、あなたは宮崎さんですね」と憲兵隊に肩をたたかれ、下船するよう告げられる。上海と打ち合わせている事を言い返すも荷物はすでに下ろされていた。龍介の上海行きは海軍によて電報が傍受されており、これを知った陸軍強硬派が憲兵を動かして龍介を拘束したのである。

龍介は憲兵分隊で待たされた後、「県庁に知り合いはいないか」と尋ねられる。神戸で憲兵に捕まった事を知った近衛文麿が、憲兵から司法省に引き取らせようと考え、塩野法相→馬場内相→兵庫県知事の流れで身柄引き取りを命じていたという。そうとは知らない龍介は憲兵隊に居座り、31日の午後になって本部から来た私服の曹長に簡単な供述調書を取られる。内容は「近衛公の依頼を受けて南京へ行こうとしたのは誤りであった」という曹長の作文で、龍介は署名だけして拇印は押さなかった。翌日、東京へ送還され、憲兵本部で始末書を提示させられる。内容は前日の供述書と同じく「近衛公の私的依頼を公的な依頼だと思ったのは誤解であった」という要領を得ないものであり、これに署名捺印すればすぐ釈放する事になっていると告げられる。

そうして本部から釈放されると、妻の燁子とその友人が迎えに来ていた。この事件で秋山は三日間憲兵隊本部に監禁され、厳重な家宅捜索を受けた。龍介宅も憲兵に捕まってすぐ家宅捜索を受けていた。

こうして龍介が一役を担うはずだった日中全面戦争回避の和平工作は幻に終わった。

白蓮事件と龍介

白蓮事件から46年後の1967年(昭和42年)、添い遂げた燁子を見送った龍介は『文藝春秋』に回顧録「柳原白蓮との半世紀」を寄せた。その中で事件当時の決意の背景には、しいたげられて苦しむ者を救うという政治運動・社会主義革命といった時代の雰囲気の影響があったと述べている。そして燁子について以下のように締めくくった。

「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人人よりは燁子の個性を理解し、援助してやることが出来たと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。」
宮崎龍介、「柳原白蓮との半世紀」『文藝春秋』昭和42年6月号創刊45周年記念号

参考文献

  • 神田文人「宮崎竜介」(『国史大辞典 13』(吉川弘文館、1992年) ISBN ISBN 4-642-00513-7
  • 岩村登志夫「宮崎龍介」(『日本史大事典 6』(平凡社、1994年ISBN 978-4-582-13106-2
  • 笠井忠「宮崎龍介」(『近代日本社会運動史人物大事典 4』(日外アソシエーツ、1997年))
  • 永畑道子 『恋の華・白蓮事件』 新評論、1982年。(文庫版:文藝春秋1990。再版:藤原書店2008年
  • 宮崎蕗苳(聞き書き:宮嶋玲子)『白蓮〜娘が語る母燁子〜』2007年、「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」発行。

関連項目