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{{Infobox scientist
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|name = 飯盛 里安<br />いいもり さとやす
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|birth_date = 188510月19日
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|awards = 帝国学士院賞 (1945) <br />勲四等旭日小綬章 (1964)
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'''飯盛 里安'''(いいもり さとやす、[[1885年]][[10月19日]] - [[1982年]][[10月13日]])は日本の分析化学者、理学博士。[[1917年]]9月創立間もない[[財団法人]][[理化学研究所]] (通称:理研) に入所し、主に[[放射性鉱物]]と[[希元素]]の研究を行う。[[1919年]]イギリスに留学し、[[オックスフォード大学]]の[[フレデリック・ソディ]]教授のもとで[[放射化学]]を学んだ。帰国後、我国で未開拓の分野だった[[放射化学]]を導入し基礎を築き確立させた功績、放射性鉱物の研究に生涯を捧げた科学者として「日本の放射化学の父」と呼ばれている<ref>「かなざわ偉人物語(8)ーふるさとの歴史をいろどる人々ー」2010年 金沢こども読書研究会編 pp.167 - 186 </ref>。[[太平洋戦争]]中は、理研の[[仁科芳雄]]を中心に進められた[[原子爆弾]]開発研究 ([[二号研究]]) に加わり、[[天然ウラン|ウラン鉱]]の探索・採掘・精製を行なった。戦後は[[人造宝石]]の研究を行い、[[ビクトリア・ストン]]、[[メタヒスイ]]をはじめとする一連の[[人造宝石]] (IL-stoneと総称) の発明者としても知られている<ref name="hsk">「合成猫目石とメタヒスイ」化学と工業、Vol.13, No.4, pp.412 - 414 (1960)</ref>。

'''飯盛 里安'''(いいもり さとやす、[[1885年]][[10月19日]] - [[1982年]][[10月13日]])は日本の分析化学者、鉱物学者、理学博士。[[1917年]]9月創立間もない[[財団法人]][[理化学研究所]](通称:理研)に入所し、主に[[放射性鉱物]]と[[希元素]]の研究を行う。[[1919年]]イギリスに留学し、[[オックスフォード大学]]の[[フレデリック・ソディ]]教授のもとで[[放射化学]]を学んだ。帰国後、我国で未開拓の分野だった[[放射化学]]を学問として確立させた。[[太平洋戦争]]中は、理研の[[仁科芳雄]]を中心に進められた[[原子爆弾]]開発研究([[二号研究]])に加わり、[[天然ウラン|ウラン鉱]]の探索・採掘・精製を行なった。戦後は[[人造宝石]]の研究を行い、[[ビクトリア・ストン]]、[[メタヒスイ]]をはじめとする一連の[[人造宝石]](IL-stoneと総称)の発明者としても知られている。<ref name="hsk">「合成猫目石とメタヒスイ」化学と工業、Vol.13, No.4, pp.412 - 414 (1960)</ref>


==経歴==
==経歴==
[[1885年]]石川県金沢市生まれ。父は金沢藩士、加藤里衡(かとう さとひら)、母豊子の実家は金沢藩家老横山家の分家。父が高岡市の[[射水神社]](いみずじんじゃ)の宮司であったので、少年時代を高岡市で過ごした。[[1898年]]10月富山県立高岡中学校 (現在の[[富山県立高岡高等学校]]) に入学した。一年後輩に[[正力松太郎]]と[[河合良成]] (後に[[小松製作所]]会長となる)がいた。中学5年の時父が亡くなりその後同校を休学する。[[1903年]]5月に母と共に上京して早稲田中学に転学し[[1904年]]3月同校卒業後帰郷して同年9月[[第四高等学校 (旧制) ]]に入学した。河合良成とは同期入学となり終生変わらない盟友となった。この年母方の叔父横山隆起(よこやま たかおき)の斡旋により[[飯盛挺造]]の養子となり、飯盛姓を名乗ることになった<ref name="keireki">『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 中津川市鉱物博物館 編 pp.61 - 64</ref>。


[[1885年]]石川県金沢市生まれ。父は金沢藩士、加藤里衡(かとうさとひら)、母豊子の実家は金沢藩家老横山家の分家。父が高岡市の射水神社の宮司であったので、少年時代を高岡市で過ごした。1904年中学5年の時父の死に遭い、母と共に上京して早稲田中学を卒業、同年9月再び郷里金沢に帰り[[第四高等学校 (旧制) ]]に入学した。同期の[[河合良成]](後に[[小松製作所]]会長となる)とは終生変わらない盟友となった。この年母方の叔父横山隆起(よこやまたかお)の斡旋により[[飯盛挺造]]の養子となり、飯盛姓を名乗ることになった。 [[第四高等学校 (旧制) ]]卒業後東京帝国大学理科大学化学科に入学、1910年同校卒業後に挺造の次女ゆくと結婚した。1910年大学卒業後直ちに大学院に入り、[[垪和為昌]](はが ためまさ)教授、同教授没後は[[池田菊苗]]教授の指導を受けた。大学院生の時に助手講師を兼任し、1915年9月[[第一高等学校 (旧制) ]]教授に就任、1916年2月大学院卒業と共に理学博士の学位を授与された。1919年理化学研究所に招かれて所員となり、第一高等学校教授を辞任した。1919年11月から1921年10月まで2年間イギリスに留学し、帰国後研究員、翌年主任研究員となり、以後1952年理化学研究所を退任するまで理化学研究所飯盛研究室を主宰した。退任後は東京巣鴨の自宅に設けた飯盛研究所で人造宝石の合成に専念した
第四高等学校 (旧制) 卒業後東京帝国大学理科大学化学科に入学、[[1910年]]同校卒業後に挺造の次女ゆくと結婚した。[[1910年]]大学卒業後直ちに大学院に入り、[[垪和為昌]](はが ためまさ)教授、同教授没後は[[池田菊苗]]教授の指導を受けた。大学院生の時に助手講師を兼任し、[[1915年]]9月[[第一高等学校 (旧制) ]]教授に就任、[[1916年]]2月大学院卒業と共に理学博士の学位を授与された<ref name="keireki" />

[[1919年]]理化学研究所に招かれて所員となり、第一高等学校教授を辞任した。[[1919年]]11月から[[1921年]]10月まで2年間イギリスに留学し、帰国後研究員、翌年主任研究員となり、以後[[1952年]]理化学研究所 (当時は株式会社科学研究所に改組されていた) を退任するまで理化学研究所飯盛研究室を主宰した。[[1952年]][[8月1日]]科学研究所名誉研究員となり、[[1958年]][[10月21日]]科学研究所は特殊法人理化学研究所に改組され、同所名誉研究員となった。理研在籍中の[[1931年]]4月 - [[1932年]]3月には[[日本化学会]]会長を務めた。また、退任後の[[1953年]]5月 - [[1954年]]4月には[[日本分析化学会]]会長を務めた。退任後は東京巣鴨の自宅に設けた飯盛研究所で人造宝石の合成に専念した<ref name="keireki" />。


==業績==
==業績==
===大学院時代===
===大学院時代===
学生のころから分析化学に興味を持ち、一学年の時には垪和教授に命じられて台湾の[[北投温泉]]に産する放射性鉱物[[北投石]]([[岡本要八郎]]発見)中の[[ウラン]]の分析を行い、ウランを含まないことを確認したが、これが放射性鉱物分析の最初の実験であった。大学院での最初の研究は[[フェリシアン化カリウム]](赤血塩)水溶液が日光又は熱の作用又は酸の存在によって自然還元を受けて[[紺青|ベルリンブルー]]の沈殿を生じシアン化水素を放つ時、溶液全体がはなはだしく暗かっ色を呈する現象の解明であった。 種々調査の結果、その原因となる物質はアクオ五シアノ鉄錯塩であることが確かめられた。同時にこの溶液を放置蒸発させる時析出する赤血塩結晶が暗かっ色針状(純赤血塩は板状結晶)となるのは上記アクオ五シアノ塩の微量の混入によることも解明され、この研究報告は研究生活の開幕を飾る論文として[[1915年]]に『東京化学会誌』に発表された<ref name="hajime">[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.36.150 「六シアノ鉄錯塩水溶液内におけるアクオ五シアノ鉄錯塩の生成」東京化学会誌 vol.36, pp.150 - 192 (1915)]</ref>。またこの結果は、後の人造宝石の研究の際、結晶の形をコントロールする昌癖調整法のヒントになった<ref name="hsk" />。


当時 K<sub>2</sub>[Fe(CN)<sub>6</sub>] なる組成の過フェリシアン化カリウムという物質の存在について諸説交錯し真偽不明であったところ、垪和教授から五フェリシアン化カリウム水溶液がオゾンによって暗かっ色に変色することの原因を探求することを推奨されたので、この問題に取り組んだ。 その結果数種類の五シアノ第二鉄錯塩の生成を確認し、過フェリシアン化カリウムの存在は認められなかった<ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.36.329 「フェリシアン化カリウムの酸化」東京化学会誌 vol.36, pp.329 - 348 (1915)]</ref>。さらに続いてフェリシアン化カリウムの光化学反応の研究も行われ<ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.36.553 「フェリシアン化カリウムの光反応(第一報)臭素の存在における光分解」東京化学会誌 vol.36, pp.553 - 558(1915)]</ref><ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.36.558 「フェリシアン化カリウムの光反応(第二報)光触媒作用(其一)」東京化学会誌 vol.36, pp.558 - 580 (1915)]</ref>、これら鉄錯塩の研究の積み重ねはフェリシアン化カリウム溶液を用いる酸化滴定法の制定にまで展開し<ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.36.626 「フェリシアン化カリウム溶液を用いる酸化測定法(其一」亜硫酸塩並にチオ硫酸塩の存在に於ける硫化水素の滴定」 東京化学会誌 vol.36, pp.626 - 648 (1915)]</ref><ref>"Massanalytische Bestimmung des Schwefelwasserstoffes in alkalischer L&ouml;esung mit Ferricyankalium", ''Japanese J. Chem''.,'''1''' pp.43 - 54 (1922)</ref>、これが学位論文の主論文として [[1916年]] 大学院卒業と同時に理学博士の学位を授与された。
学生のころから分析化学に興味を持ち、一学年の時には垪和教授に命じられて台湾の[[北投温泉]]に産する放射性鉱物[[北投石]]([[岡本要八郎]]発見)中の[[ウラン]]の分析を行い、ウランを含まないことを確認したが、これが放射性鉱物分析の最初の実験であった。大学院での最初の研究は[[フェリシアン化カリウム]](赤血塩)水溶液が日光又は熱の作用又は酸の存在によって自然還元を受けて[[紺青|ベルリンブルー]]の沈殿を生じシアン化水素を放つ時、溶液全体がはなはだしく暗かっ色を呈する現象の解明であった。 種々調査の結果、その原因となる物質はアクオ五シアノ鉄錯塩であることが確かめられた。同時にこの溶液を放置蒸発させる時析出する赤血塩結晶が暗かっ色針状(純赤血塩は板状結晶)となるのは上記アクオ五シアノ塩の微量の混入によることも解明され、この研究報告は研究生活の開幕を飾る論文として1915年に『東京化学会誌』に発表された<ref>「六シアノ鉄錯塩水溶液内におけるアクオ五シアノ鉄錯塩の生成」東京化学会誌 vol.36, pp.150 - 192 (1915)</ref>。またこの結果は、後の人造宝石の研究の際、結晶の形をコントロールする昌癖調整法のヒントになった。<ref name="hsk" />


当時 K<sub>2</sub>[Fe(CN)<sub>6</sub>] なる組成の過フェリシアン化カリウムという物質の存在について諸説交錯し真偽不明であったところ、垪和教授から五フェリシアン化カリウム水溶液がオゾンによって暗かっ色に変色することの原因を探求することを推奨されたので、この問題に取り組んだ。 その結果数種類の五シアノ第二鉄錯塩の生成を確認し、過フェリシアン化カリウムの存在は認められなかった<ref>「フェリシアン化カリウムの酸化」東京化学会誌 vol.36, pp.329 - 348 (1915)</ref>。さらに続いてフェリシアン化カリウムの光化学反応の研究も行われ<ref>「フェリシアン化カリウムの光反応(第一報)臭素の存在における光分解」東京化学会誌 vol.36, pp.553 - 558(1915)</ref><ref>「フェリシアン化カリウムの光反応(第二報)光触媒作用(其一)」東京化学会誌 vol.36, pp.558 - 580 (1915)</ref>、これら鉄錯塩の研究の積み重ねはフェリシアン化カリウム溶液を用いる酸化滴定法の制定にまで展開し<ref>「フェリシアン化カリウム溶液を用いる酸化測定法(其一」亜硫酸塩並にチオ硫酸塩の存在に於ける硫化水素の滴定」 東京化学会誌 vol.36, pp.626 - 648 (1915) </ref><ref>"Massanalytische Bestimmung des Schwefelwasserstoffes in alkalischer L&ouml;esung mit Ferricyankalium", ''Japanese J. Chem''.,'''1''' pp.43 - 54 (1922)</ref>、これが学位論文の主論文として 1916年 大学院卒業と同時に理学博士の学位を授与された。


===理化学研究所時代===
===理化学研究所時代===

====初期の研究====
====初期の研究====
シアノ鉄錯塩溶液の光化学反応の研究<ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.38.507 「シアノ鉄錯塩光化学電池」東京化学会誌 vol.38, pp.507 - 562 (1917)]</ref><ref>"A Photochemical Cell Containing a Solution of Potassium Ferrocyanide", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''8''' (Supplement), 11 - 13 (1928)</ref> はさらにニッケル、白金などのシアノ錯塩について進められ<ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.39.1 「ニッケル又は白金のシアノ錯塩を用いる光化学電池」東京化学会誌 vol.39, pp.1 - 13 (1918)]</ref><ref>"Photochemical Cell with Complex Cyanide of Nickel or Platinum", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''8''' (Supplement), 14 - 15(1928)</ref>、ハロゲン化銀電極を用いる光化学電池の考案が行われ、これら一連のヨウ化銀感光発電池の研究<ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1880.41.77 飯盛里安・武部俊正「ハロゲン化銀電極を用いる活光電池の増減並に其応用」東京化学会誌 vol.41, pp.77 - 18( 1920)]</ref><ref>飯盛里安・武部俊正「ヨウ化銀感光発電池」理化学研究所彙報 vol.1, pp.219 - 243 (1922)</ref><ref>[http://dx.doi.org/10.2150/jieij1917.10.3_102 「感光発電池について」照明学会雑誌 vol.10(3), pp.102 - 116 (1926)]</ref><ref>"The Photogalvanic Cell Furnished with Silver Iodide Electrodes and Its Application to Photometry and Luminometry", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''8''', pp.131 - 160 (1928)</ref><ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1898.31.8_801 「感光電池および光電池について」工業化学雑誌、Vol.31, pp.801 - 810(1928)]</ref>、に対し[[1921年]]に日本化学会桜井褒賞が授与された<ref name="hata">畑 晋 (はた すすむ) 「飯盛里安先生の業績とその解説」化学史研究、No.1, pp.21 -31 (1986)</ref>。これら一連の研究は、光エネルギーを電気エネルギーに変えるという点で今日の'''太陽光発電の原点'''と言える<ref>[http://www.tapj.jp/newsletter/pdf/No59_1207.pdf フォトポリマー懇話会 ニュースレター No.59, July 2012, p.2]</ref>。

シアノ鉄錯塩溶液の光化学反応の研究<ref>「シアノ鉄錯塩光化学電池」東京化学会誌 vol.38, pp.507 - 562 (1917)</ref><ref>"A Photochemical Cell Containing a Solution of Potassium Ferrocyanide", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''8''' (Supplement), 11 - 13 (1928)</ref> はさらにニッケル、白金などのシアノ錯塩について進められ<ref>「ニッケル又は白金のシアノ錯塩を用いる光化学電池」東京化学会誌 vol.39, pp.1 - 13 (1918)</ref><ref>"Photochemical Cell with Complex Cyanide of Nickel or Platinum", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''8''' (Supplement), 14 - 15(1928)</ref>、ハロゲン化銀電極を用いる光化学電池の考案が行われ、これらの一連のヨウ化銀感光発電地の研究<ref>武部俊正と共著「ハロゲン化銀電極を用いる活光電池の増減並に其応用」東京化学会誌 vol.41, pp.77 - 18( 1920)</ref><ref> 武部俊正と共著 「ヨウ化銀感光発電池」理化学研究所彙報 vol.1, pp.219 - 243 (1922)</ref><ref>「感光発電池について」照明学会雑誌 vol.10(3), pp.102 - 116 (1926)</ref><ref>"The Photogalvanic Cell Furnished with Silver Iodide Electrodes and Its Application to Photometry and Luminometry", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''8''', pp.131 - 160 (1928)</ref><ref>「感光電池および光電池について」工業化学雑誌、Vol.31, pp.801 - 810(1928)</ref>、に対し1921年に日本化学会桜井褒賞が授与された。<ref name="hata">畑 晋 (はた すすむ) 「飯盛里安先生の業績とその解説」化学史研究、No.1, pp.21 -31 (1986)</ref>。「これら一連の研究は、光エネルギーを直接電気エネルギーに変えるという点で今日の'''太陽光発電の原点'''と言える」<ref>フォトポリマー懇話会 ニュースレター No.59, July 2012, p.2</ref>


====アイソトープの邦訳====
====アイソトープの邦訳====
[[フレデリック・ソディ]]は、[[1900年]]からカナダのモントリオールにある[[マギル大学]]で[[アーネスト・ラザフォード]]と共に[[放射性崩壊]]の研究を行ない、[[1904年]]からは[[グラスゴー大学]]の講師になり研究を続けた。その結果、元素が放射線を放つと別の元素に変化することを見出し(放射性変換説)、さらに放射性元素が化学的性質が同一であるにもかかわらず複数の原子量を持つ可能性を示した。ソディはこの概念をアイソトープ (Isotope) と名付け、研究結果を[[1918年]]12月のロンドン化学会で講演した。その内容は[[1919]]年東京帝国大学化学教室の定例雑誌会で取り上げられた。その席で飯盛はアイソトープの邦訳を[[同位元素]]とすることを提案し、同意を得た<ref>「放射変化の研究により拡張せられたる化学元素なる概念に就て」東京化学会誌、第40帙 p.536 (1919), 抄録</ref>。

[[フレデリック・ソディ]]は、1900年からカナダのモントリオールにある[[マギル大学]]で[[アーネスト・ラザフォード]]と共に[[放射性崩壊]]の研究を行ない、1904年からは[[グラスゴー大学]]の講師になり研究を続けた。その結果、元素が放射線を放つと別の元素に変化することを見出し(放射性変換説)、さらに放射性元素が化学的性質が同一であるにもかかわらず複数の原子量を持つ可能性を示した。ソディはこの概念をアイソトープ (Isotope) と名付け、研究結果を1918年12月のロンドン化学会で講演した。その内容は1919年東京帝国大学化学教室の定例雑誌会で取り上げられた。その席で飯盛はアイソトープの邦訳を[[同位元素]]とすることを提案し、同意を得た。<ref>「放射変化の研究により拡張せられたる化学元素なる概念に就て」東京化学会誌、第40帙 p.536 (1919), 抄録</ref>


====イギリス留学====
====イギリス留学====
[[1919年]]11月から2年間イギリス留学を命ぜられた。最初の1年間は[[ケンブリッジ大学]]の ヘイコック教授のもとでヒ素の定量法としてヒ素をヒ酸に変えリン酸の場合と同様にモリブデン酸アンモニウムを加えて黄色のヒ素モリブデン酸アンモニウムの沈殿として分離する方法を検討した。 この方法によってヒ素が正確に定量できることが証明され、教授に大変感謝された。続いて [[1920年]]11月から [[オックスフォード大学]]に移り、[[フレデリック・ソディ]] 教授の指導を受けた。当時を回顧して「[[1920年]]の暮からソディ教授に師事して宿望の放射体化学の研究に多幸な1年を過ごした。その間教授と仕事を共にしたので教授の自然科学研究に対する偉大なる力量をハッキリと感得した」と述べている。<ref>『化学の領域』'''11''', 1 - 2 (1957)</ref> 当時ソディ 教授はトロン (ラドン220 (<sup>220</sup>Rn) の古い名前) 、[[トリウム系列|トリウムX]]、[[ウラン系列|ウランX<sub>2</sub>]]に次いで[[プロトアクチニウム]]を発見した直後で、[[1921年]]度ノーベル賞受賞の年であった。理化学研究所の部屋には ソディ教授の眼光炯炯たる写真がいつも掲げられており、この写真を見上げながらよく当時の思い出を語った。[[ラドン]]を含む試料水を容器ごと振盪して空気中に分配する時の作業が、長身なソディ教授は楽々とこなしたが難作業だったことをよく語っていた<ref name="hata" />。


担当した実験は
1919年11月から2年間英国留学を命ぜられた。最初の1年間は[[ケンブリッジ大学]]の ヘイコック教授のもとでヒ素の定量法としてヒ素をヒ酸に変えリン酸の場合と同様にモリブデン酸アンモニウムを加えて黄色のヒ素モリブデン酸アンモニウムの沈殿として分離する方法を検討した。 この方法によってヒ素が正確に定量できることが証明され、教授に大変感謝された。続いて 1920年11月から [[オックスフォード大学]]に移り、[[フレデリック・ソディ]] 教授の指導を受けた。当時を回顧して「1920年の暮からソディ教授に師事して宿望の放射体化学の研究に多幸な1年を過ごした。その間教授と仕事を共にしたので教授の自然科学研究に対する偉大なる力量をハッキリと感得した」と述べている。<ref>『化学の領域』'''11''', 1 - 2 (1957)</ref> 当時ソディ 教授はトロン (ラドン220 (<sup>220</sup>Rn) の古い名前) 、[[トリウム系列|トリウムX]]、[[ウラン系列|ウランX<sub>2</sub>]]に次いで[[プロトアクチニウム]]を発見した直後で、1921年度ノーベル賞受賞の年であった。理化学研究所の部屋には ソディ教授の眼光炯炯たる写真がいつも掲げられており、この写真見上げながらよく当時の思い出を語った。[[ラドン]]を含む試料水を容器ごと振盪して空気中に分配する時の作業が、長身なソディ教授は楽々とこなしたが難作業だったことをよく語っていた<ref name="hata" />。
#ソディ式ラドン計(同教授考案による高感度エマネーション <ラドン同位体の総称> 検電器)を用いて微量[[ラジウム]]を定量する方法の習得
#セイロン産[[モナズ石]]中の微量成分である[[ウラン]]を上記ラドン計で得たラジウム量から計算して求めること
#[[閃ウラン鉱|ピッチブレンド]]中のウラン定量の湿式法であるブレーリー法の習熟
#モナズ石の[[トリウム]]定量の湿式法であるベンツ法<ref>E. Benz, ''Z. angew. Chem''., '''15''', 297 (1902)</ref>を行う際に、放射性指示薬 [[ウラン系列|UX<sub>1</sub>]]の微量を試料に添加し、分析過程で得られるトリウム沈殿物の示す UX<sub>1</sub>に基づく &beta;放射能を測定し、これを UX<sub>1</sub>の標準の強さと比較することによってトリウムの行動を追跡する実験等であった。


担当した実験は (1) ソディ式ラドン計(同教授考案による高感度エマネーション (ラドン同位体の総称) 検電器)を用いて微量[[ラジウム]]を定量する方法の習得、(2) セイロン産[[モナズ石]]中の微量成分である[[ウラン]]を上記ラドン計で得たラジウム量から計算して求めること、(3) [[閃ウラン鉱|ピッチブレンド]]中のウラン定量の湿式法であるブレーリー法の習熟、(4)モナズ石の[[トリウム]]定量の湿式法であるベンツ法<ref>E. Bnz, Z. angew. Chem., '''15''', 297 (1902)</ref>を行う際に、放射性指示薬 [[ウラン系列|UX<sub>1</sub>]]の微量を試料に添加し、分析過程で得られるトリウム沈殿物の示す UX<sub>1</sub>に基づく &beta;放射能を測定し、これを UX<sub>1</sub>の標準の強さと比較することによってトリウムの行動を追跡する実験等であった。これらの実験結果は帰国後まもなく理化学研究所でまとめられ、モナズ石中のウラン・トリウムの定量については、さらに日本産2種類と朝鮮産 2種類のモナズ石を加えて一括して発表された<ref>モナズ石のラヂウム含有量並にウラン-トリウム比について」 日本化学会誌 vol.49 pp.634 - 640 (1928)</ref><ref name="r33">「放射性指示薬によるトリウムの分離法検査」 日本化学会誌 vol.50 pp.10 - 14 (1929)</ref>。UX<sub>1</sub>放射性指示薬による分析方法の検定も斬新な研究として注目を集めた<ref name="r33" />
これらの実験結果は帰国後まもなく理化学研究所でまとめられ、モナズ石中のウラン・トリウムの定量については、さらに日本産2種類と朝鮮産 2種類のモナズ石を加えて一括して発表された<ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1921.49.634 「モナズ石のラヂウム含有量並にウラン-トリウム比について」 日本化学会誌 vol.49 pp.634 - 640 (1928)]</ref><ref>[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1921.50.10 「放射性指示薬によるトリウムの分離法検査」 日本化学会誌 vol.50 pp.10 - 14 (1929)]</ref>。UX<sub>1</sub>放射性指示薬による分析方法の検定も斬新な研究として注目を集めた。


====放射線測定装置の開発====
====放射線測定装置の開発====
[[1921年]]イギリスからの帰国に際し、ソディ 教授から贈られた標準塩化ラジウム製剤といくつかの放射能測定器を持ち帰った。国産の放射線測定機器類がまだ無かったので、これらの機器を理化学研究所工作部に製作させた。主な機器類は次のとおり<ref>『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 中津川市鉱物博物館 編 p.16</ref>。

1921年イギリスからの帰国に際し、ソディ 教授から贈られた標準塩化ラジウム製剤といくつかの放射能測定器を持ち帰った。国産の放射線測定機器類がまだ無かったので、これらの機器を理化学研究所工作部に製作させた。主な機器類は次のとおり。


* ローリッツェン[[検電器]]
* ローリッツェン[[検電器]]
* &alpha;&beta;&gamma;-放射能測定用検電器〔商品名:大型ラヂオスコープ〕
* &alpha;&beta;&gamma;-放射能測定用検電器〔商品名:大型ラヂオスコープ〕
* 鉱泉及び気態試料の放射能測定器〔商品名:IM-泉効計〕(IM は飯盛のイニシアル)
* 鉱泉及び気態試料の放射能測定器〔商品名:IM-泉効計〕(IM は飯盛のイニシアル)
* ラジウム測定用ラドン定量器〔商品名:理研精密ラドン計〕
* ラジウム測定用ラドン定量器〔商品名:理研精密ラドン計〕(下図参照)
* トロン定量用検電器
* トロン定量用検電器


これらの機器類は理研から発売された。IM泉効計は温泉・鉱泉・池沼水の放射能を測定する携帯用機器で、約0.5リットルの試料水を槽内に採り、密閉振盪して溶存ラドンを槽中の5リットルの空気と0.5リットルの水との間に分配した後、空気相の放射能を測定して試料水中のラドン濃度を定量する携帯用ラドン測定装置である。 ラドン標準として一定量の酸化ウラン粉末を塗布したアルミ板を電離槽中に差しこんで検電器で放射能を読み、これを付属の補正値(振盪時から測定時までの経過時間を考慮した復元値)から始元期ラドン放射能をラドン濃度0.01[[マッヘ]]まで求めることができる<ref>「泉効計の改造とラドンの代用標準」理化学研究所彙報、Vol.10, No.12, pp.1105-1130(1931)</ref>鉱泉や井戸水などのラドン含有量測定に広く用いられた。現在でも[[温泉法]]施行規則第14条七に、温泉成分分析を行おうとする者が備えるべき器具として「IM-泉効計又は[[シンチレーション検出器|液体シンチレーションカウンター]]」と記されている。
これらの機器類は理研から発売された。IM泉効計は温泉・鉱泉・池沼水の放射能を測定する携帯用機器で、約0.5リットルの試料水を槽内に採り、密閉振盪して溶存ラドンを槽中の5リットルの空気と0.5リットルの水との間に分配した後、空気相の放射能を測定して試料水中のラドン濃度を定量する携帯用ラドン測定装置である。 ラドン標準として一定量の酸化ウラン粉末を塗布したアルミ板を電離槽中に差しこんで検電器で放射能を読み、これを付属の補正値(振盪時から測定時までの経過時p間を考慮した復元値)から始元期ラドン放射能をラドン濃度0.01[[マッヘ]]まで求めることができる<ref>「泉効計の改造とラドンの代用標準」理化学研究所彙報、Vol.10, No.12, pp.1105-1130(1931)</ref>鉱泉や井戸水などのラドン含有量測定に広く用いられた。現在でも[[鉱泉分析法指針]]に採用されていて<ref>[http://www.env.go.jp/council/12nature/y123-14/mat04.pdf#search='%E9%89%B1%E6%B3%89%E5%88%86%E6%9E%90%E6%B3%95' 鉱泉分析法指針 環境省自然環境局 平成26年改訂]</ref>[[温泉法]]施行規則第14条七に、温泉成分分析を行おうとする者が備えるべき器具として「IM-泉効計又は[[シンチレーション検出器|液体シンチレーションカウンター]]」と記されている<ref>[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23F03601000035.html 温泉法施行規則] 昭和二十三年八月九日厚生省令第三十五号 最終改正 平成二十四年七月六日環境省令二一号</ref>
{| style="margin:0 auto"
|+'''理研精密ラドン計のカタログ'''
|[[file:Riken radon meter1.png|border]]||[[file:Riken dadon meter2.png|border]]
|}


====放射体化学に関する研究====
====放射体化学に関する研究====
[[1922年]]に東京帝国大学理学部化学教室に初めて「分析化学」と称する講座が設けられ、一部を担当したが[[1927年]]以降は「放射化学」の講義を担当し1943年まで続いた。これは日本における放射化学の講義の始まりである。当時執筆した「放射化学実験法」(『実験化学講座』13B, 1922年共立社)は多年蓄積された実験記録の詳細を具体的に例示した無類の指導書である<ref name="hata" />。


[[1922年]]滋賀県田ノ上山で発見された微放射性[[マンガン]]土球塊について、海底又は湖底の沈積物としてのマンガン土球塊に類似していることを指摘し、太平洋深部のマンガン球塊と比較すると[[ラジウム]]含有量が 4 - 5 倍の新種であることが確認され注目すべき発見となった<ref>「本邦産放射性マンガン土の一新種に就きて」理化学研究所彙報、Vol.3, No.6, pp.683-691 (1924)</ref><ref>[http://dx.doi.org/10.1246/bcsj.1.43 "Radioactive Manganiferous Nodules from Tanokami Oomi Province",''Bull.Chem.Soc.Japan'', '''1''', pp.43 - 47 (1926)], ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''4''', 79 - 83 (1926)</ref>。
1922年に東京帝国大学理学部化学教室に初めて分析化学と称する講座が設けられ、一部を担当したが1927年以降は放射化学の講義を担当し1943年まで続いた。これは我が国における放射化学の講義の始まりである。当時執筆した「放射化学実験法」(『実験化学講座』13B, 1922年共立社)は多年蓄積された実験記録の詳細を具体的に例示した無類の指導書である。


放射性元素についての特殊な研究として注目されるものに色暈(ハロ)の研究がある。 放射性鉱物の微粒が透明な鉱物中に存在すると、その周囲の組織が長年月にわたって放射される&alpha;線のために変色し、同心円状の着色層ができる。これを色暈と呼び、中心から表層までの距離は&alpha;線の飛程に対応する。[[1927年]]三重県石榑(いしぐれ)産黒雲母の薄片中に2種類の色暈を見出した。その一つに巨大色暈、他の一つに Z 色暈と名づけた。後者は空中飛程 1.2センチメートルおよび 2.1センチメートルの&alpha;線によるものとした<ref>S.Iimori, J.Yoshimura, "Pleochroic Haloes in Biotite.Probable Existence of the Independent Origin of the Actinium Series", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''5''', 11 - 24 (1926)</ref>。これより9年後に同じ巨大色暈がインド産[[菫青石]]にクリシュナムらによって見出され<ref>M.S.Krishnam, C.Mahadevan, ''Indian J. Phys., '''5''', 669 (1931)</ref>、これは [[ウラン系列|RaC]] および [[トリウム系列|ThC]] の長飛程&alpha;線によるものとされた。Z 色暈については11年後に[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]らが[[サマリウム]]が飛程1.13センチメートルの&alpha;線を放射することを発見し、飯盛の Z 色暈の1.2センチメートル&alpha;線放射体は恐らくサマリウムであろうと説明している<ref>G.v.Hevesy, M.Pahl, ''Nature'', '''131''', 434 (1931); ''Z. Phys''., '''83''', 53(1933)</ref>。
1922年滋賀県田ノ上山で発見された微放射性[[マンガン]]土球塊について、海底又は湖底の沈積物としてのマンガン土球塊に類似していることを指摘し、太平洋深部のマンガン球塊と比較すると[[ラジウム]]含有量が 4 - 5 倍の新種であることが確認され注目すべき発見となった<ref>「本邦産放射性マンガン土の一新種に就きて」理化学研究所彙報、Vol.3, No.6, pp.683-691 (1924)</ref><ref>"Radioactive Manganiferous Nodules from Tanokami Oomi Province", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''4''', 79 - 83 (1926)</ref>。


希元素鉱物の探査中に見出されたいくつかの含[[ウラン]]鉱物について、鉛とウランの含有量の比が得られるので、鉱物の地質年代が推定できる。 例えば南朝鮮忠清南道産[[サマルスキー石]]では134&times;10<sup>6</sup>年<ref>S.Iimori, S. Hata, "Fergusonite from a New Locality", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 504 - 507 (1938)</ref>、また[[ヘリウム]]とウランおよび[[トリウム]]含有量の比から忠清南道及び平安南道産[[モナズ石]]では80 - 117&times;10<sup>6</sup>年<ref>"The Approximate Content of Gallium in the Green Kaolin from Tanokami. On the Existence of Gallium in the Solar Chromosphere",''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''10''' (Supplement), 1 -4 (1929)</ref>である。 これら鉱物を含有する[[ペグマタイト]]の地質年代はすべて[[ジュラ紀]]前後であることが明らかになった。ラジオメトリー(放射測定法)に鉛の同位体指示薬として [[ウラン系列|RaD]] と [[トリウム系列|ThB]] とを比べてどれが使やすいかを半減期、壊変生成物の放射能から検討し、後者の方が約100倍鋭敏な指示性能を持つことを解説し、実用の際に必要な復元係数表を添付した<ref>飯盛里安・吉村恂・畑晋 「本邦における微放射性ラテライト土壌の産出」理化学研究所彙報 vol.11, pp.901 - 909 (1932)</ref>。
放射性元素についての特殊な研究として注目されるものに色暈(ハロ)の研究がある。 放射性鉱物の微粒が透明な鉱物中に存在すると、その周囲の組織が長年月にわたって放射される&alpha;線のために変色し、同心円状の着色層ができる。これを色暈と呼び、中心から表層までの距離は&alpha;線の飛程に対応する。1927年三重県石榑(いしぐれ)産黒雲母の薄片中に2種類の色暈を見出した。その一つに巨大色暈、他の一つに Z 色暈と名づけた。後者は空中飛程 1.2センチメートルおよび 2.1センチメートルの&alpha;線によるものとした<ref>coauthor J.Yoshimura, "Pleochroic Haloes in Biotite.Probable Existence of the Independent Origin of the Actinium Series", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''5''', 11 - 24 (1926)</ref>。これより9年後に同じ巨大色暈がインド産[[菫青石]]にクリシュナムらによって見出され<ref>M.S.Krishnam, C.Mahadevan, ''Indian J. Phys., '''5''', 669 (1931)</ref>、これは [[ウラン系列|RaC]] および [[トリウム系列|ThC]] の長飛程&alpha;線によるものとされた。Z 色暈については11年後に[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]らが[[サマリウム]]が飛程1.13センチメートルの&alpha;線を放射することを発見し、飯盛の Z 色暈の1.2センチメートル&alpha;線放射体は恐らくサマリウムであろうと説明している。<ref>G.v.Hevesy, M.Pahl, ''Nature'', '''131''', 434 (1931); ''Z. Phys., '''83''', 53(1933)</ref>


希元素鉱物の探査中に見出されたいくつかの含[[ウラン]]鉱物について、鉛とウランの含有量の比が得られるので、鉱物の地質年代が推定できる。 例えば朝朝鮮忠清南道産[[サマルスキー石]]では134&times;10<sup>6</sup>年<ref> coauthor S. Hata, "Fergusonite from a New Locality", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 504 - 507 (1938)</ref>、また[[ヘリウム]]とウランおよび[[トリウム]]含有量の比から忠清南道及び平安南道産[[モナズ石]]では80 - 117&times;10<sup>6</sup>年<ref>"The Approximate Content of Gallium in the Green Kaolin from Tanokami. On the Existence of Gallium in the Solar Chromosphere",''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''10(Supplement)''', 1 -4 (1929)</ref>である。 これら鉱物を含有する[[ペグマタイト]]の地質年代はすべて[[ジュラ紀]]前後であることが明らかになった。ラジオメトリー(放射測定法)に鉛の同位体指示薬として [[ウラン系列|RaD]] と [[トリウム系列|ThB]] とを比べてどれが使やすいかを半減期、壊変生成物の放射能から検討し、後者の方が約100倍鋭敏な指示性能を持つことを解説し、実用の際に必要な復元係数表を添付した<ref>共著 吉村恂、畑晋 「本邦における微放射性ラテライト土壌の産出」理化学研究所彙報 vol.11, pp.901 - 909 (1932)</ref>。
====地質学的研究====
====地質学的研究====
[[file:Antozonite Wilberforce.jpg|thumb|370px|研究に使われたカナダウィルバーフォース産黒色蛍石 飯盛遺品<br />カナダ鉱山省鉱物資源課 H.S.Spenceから寄贈されたもの]]

希元素については、希アルカリ金属の簡易な分離法を考案して<ref name="r15">共著 吉村恂「邦産[[ルビジウム]]の放射能度について」理化学研究所彙報 vol.5, pp.73 - 81 (1926)</ref>、[[リチア雲母|鱗雲母]]および[[チンワルド雲母]]から[[ルビジウム]]及び[[リチウム]]を抽出した<ref name="r15" /><ref>共著 吉村恂「長垂(ながたれ)産鱗雲母の組成並に邦産雲母の[[リチウム]]含有量について」理化学研究所彙報 vol.5, pp.82 - 85 (1926)</ref><ref>coauthor J. Yoshimura, "The Radioactivity of the Rubidium extracted from the Lepidolite and Zinnwaldite of Japan", ''Bull.Chem.Soc.Japan'', '''1''', 215 - 219(1926); ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''5''', 249 - 253(1927)</ref><ref>coauthor J. Yoshimura, "Lepidolite from Nagatori, Chikuzen, Province and the Lithium Content of Japanese Mica", ''Bull. Chem. Soc. Japan'', '''1''', 237 - 239 (1926); ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''5''', 254 - 256 (1927)</ref>。そのうち[[ルビジウム]]については放射能を測定して産地または鉱物種による差異を調べ、ルビジウムの放射能が他の放射性元素の混入によるものではないことを確認した。また田ノ上産緑色陶土について[[スカンジウム]]を検出<ref>"The Green Kaolin from Tanokami, Identity of the Universal Minor Constituents of the Igneous Rock with the Chromospheric Elements of the Sun", ''Bull. Chem. Soc. Japan'', ''2''', 274 - 278 (1927); ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''7''', 253 -257 (1927)</ref>、 同地域の特殊[[カオリナイト|高陵土]]中に[[ガリウム]]<ref>"The Approximate Content of Gallium in the Green Kaolin from Tanokami. On the Existence of Gallium in the Solar Chromosphere",''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''10'''(Supplement), 1 - 4 (1929)</ref>および[[ルテニウム]]<ref>"A Pink Kaolin and Ruthenium as a Minor Constituent of the Tanokami Kaolin", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''10''', 224 - 228 (1929); ''Bull. Chem. Soc. Japan'', '''4''', 1 - 5 (1929)</ref>を検出した。 福井県赤谷に産する天然ヒ素は古来著名であるが、その付近の赤かっ色粘土中に著量(0.18%) の[[バナジウム]]が含まれ、これが天然の酸化還元触媒として作用することによって天然ヒ素が生成する機構を理論的に組み立て、さらに実験的に証明することができた<ref>「バナジンの地球化学的接触作用(第一報)赤谷産天然砒の成因とバナジン粘土」理化学研究所彙報 vol.9, pp.762 - 767 (1930)</ref>。また能登半島に産する特殊な赤土[[ラテライト]]性土壌の一種であることを土壌の組成と土壌を酸またはアルカリで処理した抽出成分の量から推論した。また長野県山口村に産する[[酸性白土]]が共存する[[曹長石]]を含有するパーサイトに由来することを希土成分の分析値から推論した<ref>吉村恂畑晋「パーサイトに由来する酸性白土」 理化学研究所彙報 vol.13, pp.1094 - 1097 (1934)</ref>。カナダのウィルバーフォース産黒色蛍石に含有される遊離フッ素を定量するのに、料鉱物をヨウ化カリウム溶液中に浸して乳鉢中で粉砕し、遊離したヨウ素をチオ硫酸ナトリウム溶液で滴定する方法を用い、0.001% 内外であることを確認した<ref>「加奈陀ウィルバーフォース産黒蛍石の放射性並に遊離弗素含有量に就いて」 理化学研究所彙報 vol.11, pp.1237 - 1243 (1932)</ref>。
希元素については、希アルカリ金属の簡易な分離法を考案して<ref name="r15">飯盛里安・吉村恂「邦産[[ルビジウム]]の放射能度について」理化学研究所彙報 vol.5, pp.73 - 81 (1926)</ref>、[[リチア雲母|鱗雲母]]および[[チンワルド雲母]]から[[ルビジウム]]及び[[リチウム]]を抽出した<ref name="r15" /><ref>飯盛里安・吉村恂「長垂(ながたれ)産鱗雲母の組成並に邦産雲母の[[リチウム]]含有量について」理化学研究所彙報 vol.5, pp.82 - 85 (1926)</ref><ref>S.Iimori, J.Yoshimura, "The Radioactivity of the Rubidium extracted from the Lepidolite and Zinnwaldite of Japan", [http://dx.doi.org/10.1246/bcsj.1.215 ''Bull.Chem.Soc.Japan'', '''1''', 215 - 219(1926)]; ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''5''', 249 - 253(1927)</ref><ref>S.Iimori, J.Yoshimura, "Lepidolite from Nagatori, Chikuzen, Province and the Lithium Content of Japanese Mica", [http://dx.doi.org/10.1246/bcsj.1.237 ''Bull. Chem. Soc. Japan'', '''1''', 237 - 239 (1926)]; ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''5''', 254 - 256 (1927)</ref>。そのうち[[ルビジウム]]については放射能を測定して産地または鉱物種に
よる差異を調べ、ルビジウムの放射能が他の放射性元素の混入によるものではないことを確認した。また田ノ上産緑色陶土について[[スカンジウム]]を検出<ref>"The Green Kaolin from Tanokami, Identity of the Universal Minor Constituents of the Igneous Rock with the Chromospheric Elements of the Sun", [http://dx.doi.org/10.1246/bcsj.2.274 ''Bull. Chem. Soc. Japan'', '''2''', 274 - 278 (1927)]; ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''7''', 253 -257 (1927)</ref>、 同地域の特殊[[カオリナイト|高陵土]]中に[[ガリウム]]<ref>"The Approximate Content of Gallium in the Green Kaolin from Tanokami. On the Existence of Gallium in the Solar Chromosphere",''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''10'''(Supplement), 1 - 4 (1929)</ref>および[[ルテニウム]]<ref>"A Pink Kaolin and Ruthenium as a Minor Constituent of the Tanokami Kaolin", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''10''', 224 - 228 (1929); [http://dx.doi.org/10.1246/bcsj.4.1 ''Bull. Chem. Soc. Japan'', '''4''', 1 - 5 (1929)]</ref>を検出した。 福井県赤谷に産する天然ヒ素は古来著名であるが、その付近の赤かっ色粘土中に著量(0.18%) の[[バナジウム]]が含まれ、これが天然の酸化還元触媒として作用することによって天然ヒ素が生成する機構を理論的に組み立て、さらに実験的に証明することができた<ref>「バナジンの地球化学的接触作用(第一報)赤谷産天然砒の成因とバナジン粘土」理化学研究所彙報 vol.9, pp.762 - 767 (1930)</ref>。また能登半島に産する特殊な赤土[[ラテライト]]性土壌の一種であることを土壌の組成と土壌を酸またはアルカリで処理した抽出成分の量から推論した。また長野県山口村に産する[[酸性白土]]が共存する[[曹長石]]を含有するパーサイトに由来することを希土成分の分析値から推論した<ref>吉村恂畑晋「パーサイトに由来する酸性白土」 理化学研究所彙報 vol.13, pp.1094 - 1097 (1934)</ref>。カナダのウィルバーフォース産黒色蛍石に含有される遊離フッ素を定量するのに、料鉱物をヨウ化カリウム溶液中に浸して乳鉢中で粉砕し、遊離したヨウ素をチオ硫酸ナトリウム溶液で滴定する方法を用い、0.001% 内外であることを確認した<ref>「加奈陀ウィルバーフォース産黒蛍石の放射性並に遊離弗素含有量に就いて」 理化学研究所彙報 vol.11, pp.1237 - 1243 (1932)</ref>。この論文に関連して 2012年に[[ミュンヘン工科大学]]のチームが<sup>19</sup>F-NMR を用いて[[アントゾナイト]] (蛍石の一種) から単体のフッ素を見出し、天然から単体フッ素が見つかったのは驚くべきことと報告している<ref>
[http://www.tcichemicals.com/ja/jp/support-download/chemistry-clip/2013-10-08.html 佐藤健太郎「化学よもやま話 身近な元素の話 天然有機フッ素化合物」]TCIメール、東京化成工業、No.159, p.8 (2013)</ref>。これを見ても飯盛がいかに先見性を持っていたかが分かる。


====希元素・放射性鉱物の探索====
====希元素・放射性鉱物の探索====
放射性鉱物を含めて希有元素資源を調査するための旅行は[[1922年]]以降毎年 1-2回総計 40回以上行われた。国内ではガドリン石<ref>飯盛里安・吉村恂・畑晋 「岐阜県蛭川村新田産放射性鉱物について」 理化学研究所彙報 vol.13, pp.86 - 87 (1934)、 ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''23''', 209 - 211 (1934)</ref>、ゼノタイム<ref>飯盛里安・吉村恂 「福島県川辺産ゼノタイム球塊 附-石川産ゼノタイムの化学組成」 理化学研究所彙報 vol.16, pp.17 - 21 (1937)</ref>、および新鉱物・長手石が報告されている<ref>S.Iimori, J.Yoshimura, S.Hata,"A New Radioactive Mineral found in Japan", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''15''', 83 - 88 (1931)</ref>。 長手石は石川県能登半島の柴垣付近の長手島で発見された褐簾石の変種と思われるセリウム族希土のリンケイ酸塩で、これに随伴して[[閃ウラン鉱]]又はブレッゲル石と思われるウラン鉱の本邦初産出も報告された。長手石は標準標本が戦災で失われたうえ、きわめて希産なので今では "まぼろしの鉱物" といわれている<ref>科学風土記 石川化学教育研究会編 p.162(1997)</ref>。


[[file:Takeo Iimori.jpg|140px|thumb|飯盛武夫 1939年]]
放射性鉱物を含めて希有元素資源を調査するための旅行は1922年以降毎年 1-2回総計 40回以上行われた。国内ではガドリン石<ref>共著 吉村恂、畑晋 「岐阜県蛭川村新田産放射性鉱物について」 理化学研究所彙報 vol.13, pp.86 - 87 (1934)、 ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''23''', 209 - 211 (1934)</ref>、ゼノタイム<ref>共著 吉村恂 「福島県川辺産ゼノタイム球塊 附-石川産ゼノタイムの化学組成」 理化学研究所彙報 vol.16, pp.17 - 21 (1937)</ref>、および新鉱物・長手石が報告されている。<ref>coauthor J. Yoshimura, S. Hata,"A New Radioactive Mineral found in Japan", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''15''', 83 - 88 (1931)</ref> 長手石は石川県能登半島の柴垣付近の長手島で発見された褐簾石の変種と思われるセリウム族希土のリンケイ酸塩で、これに随伴して[[閃ウラン鉱]]又はブレッゲル石と思われるウラン鉱の本邦初産出も報告された。
[[1936年]]11月には福島県川俣地方の水晶山および房又にある長石ケイ石採石場において幸運にも本邦最大のペグマタイト鉱床が発見された。 この鉱床からは何種類もの希元素鉱物が採取され、その中に一つの新鉱物・飯盛石(Iimoriite)がある。[[加藤昭]]、長島弘三によって発見された Y<sub>2</sub>SiO<sub>5</sub> の組成を持つケイ酸[[イットリウム]]鉱物で希土中のイットリウムの含有量が極めて高く、かつ Hf/Zr の比が本邦既知鉱物中で最も高い珍しい新鉱物である。 両名は希元素鉱物の化学、鉱物学に生涯を捧げた飯盛武夫{{Refnest|group="注"|name="takeo"|[[1912年]][[3月28日]]生まれ。東京帝国大学理学部化学科卒業後すぐに理研の飯高研究室に研究生として入所、その後仁科研究室で同位体分離について学びその後、父の飯盛研究室に入って父と同じ道を歩むことになった。吉村 恂、畑 晋とともに父・里安を手伝って


*足立工場におけるモナズ石の化学処理、および砂鉱の磁選
1934年には朝鮮半島全域にわたる調査が行われた。 その結果河川流域の砂金採取場の残砂中に種々の放射性鉱物が含まれていることが判明した<ref>共著 吉村恂、畑晋 「朝鮮におけるウラン鉱の産出(速報)」 日本化学会誌 vol.55 p.747 (1934)</ref>。 それらは[[サマルスキー石]]<ref>coauthor S. Hata, "Samarskite found in the Placer of Ryujomen, Korea", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 922-930 (1938)</ref>、モナズ石<ref>共著 吉村恂、畑晋 「大同江および清川江におけるモナズ石の産出並にその分布」 理化学研究所彙報 vol.14, pp.351 - 360 (1935)</ref>、<ref>「朝鮮におけるモナズ石の産出およびその分布」 理化学研究所彙報 vol.21, pp.405 - 411 (1942)</ref>、[[タンタル|タンタル石]]、<ref>coauthor S. Hata, "Tantalite occurring in a Korea Gold Placer", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 1010 - 1013 (1938)</ref>、ゼノタイム、褐簾石、フェルグソン石、ミクロライト、[[ジルコン]]等のペグマタイト鉱物であった。これら資源を活用するために1935年ごろから理化学研究所内に研究室付属試験工場(理研希元素部)が設けられた。 主として南朝鮮の河川流域に産する黒砂(ブラックサンド)を取り寄せ、選鉱して[[イルメナイト|チタン鉄鉱]]、ジルコンその他から分離してモナズ石精鉱とし、化学処理する作業が行われた。 選鉱には淘汰盤による比重選鉱と電磁石による磁力選鉱が行われた。 精鉱を濃硫酸と共に加熱して分解し、水に抽出した後希土の大部分を茫硝複塩として沈殿させ、上澄液中の少量の希土、トリウム、ウラン等をも完全に回収した。製品は探照灯用炭素電極に使用する混合希土フッ化物、防眩硝子用シュウ酸ジジム、石炭液化研究用触媒の酸化トリウムであった。 このような希元素製品の生産研究は戦争の進展と共に一層促進され、1941年には希元素部の会長として理研希元素工業株式会社(終戦と共に解散)の設立となり、作業場も本郷工場、足立工場、荒川工場に拡大された。原料黒砂も朝鮮だけでなく、1942年以降はマライ半島の砂錫選鉱の残砂でアマンと称する重砂を取り寄せてこれを処理した。
*荒川工場におけるモナズ石処理残渣、カルノー石貧鉱、老廃特殊触媒等よりウランの抽出およびジルコンの化学処理、セリウム族希土類の熔融塩電解等
*理研構内の工場における国内原鉱からウラン、トリウム、ニオブ、タンタルの抽出、モナズ石処理残渣より[[トリウム系列|メソトリウム]]の製造、ビルマのモゴク地区サカンジ産鱗雲母および福島県水晶山産黒雲母よりリチウム、およびセシウムの抽出


の諸工程を完成させた<ref>「稀元素とその研究」化学の領域、Vol.8, No.11, pp.693 - 694(1954)</ref>。
1936年11月には福島県川俣地方の水晶山および房又にある長石ケイ石採石場において幸運にも本邦最大のペグマタイト鉱床が発見された。 この鉱床からは何種類もの希元素鉱物が採取され、その中に一つの新鉱物・飯盛石(Iimoriite)がある。[[加藤昭]]、長島弘三によって発見された Y<sub>2</sub>SiO<sub>5</sub> の組成を持つケイ酸[[イットリウム]]鉱物で希土中のイットリウムの含有量が極めて高く、かつ Hf/Zr の比が本邦既知鉱物中で最も高い珍しい新鉱物である。 両者は希元素鉱物の化学、鉱物学に生涯を捧げた飯盛武夫とその父・飯盛里安の業績を記念して1958年に飯盛石と命名した<ref>長島乙吉、長島弘三『日本希元素鉱物』p.172 (1960)</ref>。ここで得られた鉱物のうちトロゴム石は本邦に初めての産出で<ref>coauthor S. Hata, "Japanese Thorogummite and Its Parent Mineral", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 447 - 454 (1938)</ref>、フェルグソン石は牙状に突き立って中に[[閃ウラン鉱]]を包含する珍しい産状である<ref>coauthor S. Hata, "Fergusonite from a New Locality", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 504 - 507 (1938)</ref>。その他研究室の室員の名で発表された鉱物に、阿武隈石<ref>S. Hata, "Abukumalite, a New Yittrium Mineral", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 1013 - 1023 (1938)</ref>、イットリア石<ref>S. Hata, "Yttrialite from Iisaka, Japan ", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 455 - 459 (1938)</ref>、テンゲル石<ref>T. Iimori, "Tengerite found in Iisaka, and Its Chemical Composition", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 832 - 841 (1938)</ref>、変種ジルコンおよびゼノタイム<ref>S. Hata, "Xenotime and a Variety of Zircon from Iisaka ", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 619 - 622 (1938)</ref>、褐簾石<ref>S. Hata, "Studies on the Allanite from the Abukuma Granite Region", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''36''', 112 - 129 (1939)</ref>、[[閃ウラン鉱]]<ref>T. Iimori, "The Microgranulary Uraninite from Iisaka, and Its Geologic Age", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''39''', 208 - 210 (1941)</ref>、ガドリン石<ref name="r15">畑 晋「稀元素鉱物の新産例」化学研究所報告 Vol.29, pp.488 - 490 (1953)</ref>、イットロゴム石<ref name="r15" />、銅ウラン鉱および灰ウラン鉱<ref>長島乙吉、長島弘三『日本希元素鉱物』p.112 - 116 (1960)</ref>などがある。

また、[[1940年]]10月ボストンで開催された第一回応用原子核物理学会に矢崎爲一 (やざきためかず) 、[[渡辺慧]] (わたなべさとし)<ref group="注" name="watanabe" /> とともに、多忙な父・里安の代理として出席した<ref name="kigenso">飯盛里安「稀元素の想い出」学術月報、日本学術振興会、Vol.26, No.5, pp.343 - 346 (1973)</ref>。

将来を期待されていたが[[1943年]][[8月16日]]31才の若さで病没した<ref>畑晋「飯盛研究室の思い出」理研OB会会報、第14号 pp.2 - 6(1982)</ref><ref>『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 中津川市鉱物博物館 編 p.2</ref>。その名は[[人名に由来する名前の鉱物の一覧|飯盛石]]となって今に残されている<ref name="nagashima">長島乙吉・長島弘三『日本希元素鉱物』p.172 (1960)</ref>。}}とその父・飯盛里安の業績を記念して[[1958年]]に飯盛石と命名した<ref name="nagashima" />。ここで得られた鉱物のうちトロゴム石は本邦に初めての産出で<ref>S.Iimori, S. Hata, "Japanese Thorogummite and Its Parent Mineral", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 447 - 454 (1938)</ref>、フェルグソン石は牙状に突き立って中に[[閃ウラン鉱]]を包含する珍しい産状である<ref>S.Iimori, S.Hata, "Fergusonite from a New Locality", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 504 - 507 (1938)</ref>。その他研究室の室員の名で発表された鉱物に、阿武隈石<ref>S. Hata, "Abukumalite, a New Yittrium Mineral", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 1013 - 1023 (1938)</ref>、イットリア石<ref>S. Hata, "Yttrialite from Iisaka, Japan ", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 455 - 459 (1938)</ref>、テンゲル石<ref>T. Iimori, "Tengerite found in Iisaka, and Its Chemical Composition", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 832 - 841 (1938)</ref>、変種ジルコンおよびゼノタイム<ref>S. Hata, "Xenotime and a Variety of Zircon from Iisaka ", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 619 - 622 (1938)</ref>、褐簾石<ref>S. Hata, "Studies on the Allanite from the Abukuma Granite Region", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''36''', 112 - 129 (1939)</ref>、[[閃ウラン鉱]]<ref>T. Iimori, "The Microgranulary Uraninite from Iisaka, and Its Geologic Age", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''39''', 208 - 210 (1941)</ref>、ガドリン石<ref name="r15">畑 晋「稀元素鉱物の新産例」化学研究所報告 Vol.29, pp.488 - 490 (1953)</ref>、イットロゴム石<ref name="r15" />、銅ウラン鉱および灰ウラン鉱<ref>長島乙吉・長島弘三『日本希元素鉱物』p.112 - 116 (1960)</ref>などがある。


==二号研究との関わり==
==二号研究との関わり==


===二号研究開始前の希元素鉱物資源の状況===
{{節stub}}

1922年からの調査で国内には有望な希元素の資源が無いことが分かっていたので検討の結果、1934年に日本の統治下にあった朝鮮半島全域にわたる調査が行われた。調査には室員で長男の飯盛武夫<ref group="注" name="takeo" />のほか室員の吉村恂、畑晋が同行した <ref name="kigenso" />。その結果河川流域の砂金採取場の残砂(黒砂)中に種々の放射性鉱物が含まれていることが判明した<ref>飯盛里安・吉村恂・畑晋 「朝鮮における[[天然ウラン|ウラン鉱]]の産出(速報)」 日本化学会誌 vol.55 p.747 (1934)</ref>。 それらは[[サマルスキー石]]<ref>S. Iimori, S. Hata, "Samarskite found in the Placer of Ryujomen, Korea", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 922-930 (1938)</ref>、モナズ石<ref>飯盛里安・吉村恂・畑晋 「大同江および清川江におけるモナズ石の産出並にその分布」 理化学研究所彙報 vol.14, pp.351 - 360 (1935)</ref>、<ref>「朝鮮におけるモナズ石の産出およびその分布」 理化学研究所彙報 vol.21, pp.405 - 411 (1942)</ref>、[[タンタル|タンタル石]]、<ref>S.Iimori, S. Hata, "Tantalite occurring in a Korea Gold Placer", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 1010 - 1013 (1938)</ref>、ゼノタイム、褐簾石、フェルグソン石、ミクロライト、[[ジルコン]]等の[[ペグマタイト]]鉱物であった<ref name="hata" />。これら資源を活用するために1935年ごろから理化学研究所内に研究室付属試験工場(理研希元素部)が設けられた。 主として南朝鮮の河川流域に産する黒砂を取り寄せ、選鉱して[[イルメナイト|チタン鉄鉱]]、ジルコンその他から分離してモナズ石精鉱とし、化学処理する作業が行われた。 選鉱には淘汰盤による比重選鉱と電磁石による磁力選鉱が行われた。 精鉱を濃硫酸と共に加熱して分解し、水に抽出した後希土の大部分を硫酸ナトリウム複塩として沈殿させ、上澄液中の少量の希土、トリウム、ウラン等をも完全に回収した。製品はサーチライト用炭素電極に使用する混合希土フッ化物、防眩ガラス用シュウ酸ジジム<ref group="注">ジジムは古くは[[ネオジム]]と[[プラセオジム]]の混合物を指したが現代ではネオジムの同義語</ref>、石炭液化研究用触媒の酸化トリウムなどであった<ref name="hata" />。

===二号研究の開始と仁科研究室の対応===

1941年には理研に対し[[陸軍航空技術研究所]]から原子爆弾 (当時はウラン爆弾と呼ばれた) の開発の要請があった。当時技術将校として理研仁科研究室に配属されていた中根良平{{Refnest|group="注"|1921年生まれ、大阪大学理学部化学科卒、1943年理研 仁科研究室入所。同位元素研究室主任研究員(1962 - 1980年)、副理事長 (1983 - 1987年)、元理研名誉相談役、元財団法人仁科記念財団常務理事 2010年没<ref name="riken">[http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/publications/news/2006/rn200603.pdf 「歴史秘話 サイクロトロンと原爆研究 (前篇) 」理研ニュース No. 297 March(2006)]、[http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/publications/news/2006/rn200604.pdf 同 (後編) No.298 April(2006)]</ref>}}によると、仁科はこの時点では要請を断った。その後、検討の結果理論的には原爆を作ることは可能という結論が出て要請を受けることになり、1943年1月にいわゆる[[二号研究]]が始まった。しかし、仁科が一度断った原爆開発をなぜ受け入れることになったかが仁科の口から語られることはなかった。この点に関して中根は理由を次のように推定している。

#仁科は原子力を将来のエネルギー源として利用することを考えていた。
#当時ウラン (92番) より重い[[超ウラン元素]]の発見が各国の間で競われていた。仁科は小[[サイクロトロン]]を使用して[[ネプツニウム|93番元素]]を狙っていたが、アメリカの[[エドウィン・マクミラン]]に先を越されてしまった。そこで大サイクロトロンを完成させて [[プルトニウム|94番元素]]を発見しようとしていた。二号研究を受け入れることによって、この研究を進展させようとしていた。

当時仁科研究室員は誰一人原爆が作れるとは考えていなかった。また、研究室の総力を挙げて二号研究に取り組んだわけではなく、宇宙線や理論を研究していた人たちはノータッチだった。二号研究に携わった者は皆、原爆を作るのではなく、基礎実験だと思っていた<ref name="riken" />。これを裏付けるように[[東京工業大学]]の[[山崎正勝]]は、仁科にとって「二号研究」と「ウラニウム爆弾」構想は、理研におけるサイクロトロンなどによる実験的な基礎研究を守るための「盾」だった面がある、と述べている<ref name="yamazaki">[http://dx.doi.org/10.11316/butsuri1946.56.584 「第二次世界大戦時の日本の原爆開発」日本物理学会誌、Vol.56, No.8, pp.584 - 590 (2001)]</ref>。

===理研希元素工業株式会社の設立と石川町への移転===

二号研究における飯盛の役割はウラン鉱からイエローケーキ (重ウラン酸ナトリウム) を得て、[[ウラン濃縮|濃縮]]を担当する仁科研究室に供給することであった。濃縮とは、天然ウラン中にわずか 0.7% しか含まれていない核分裂性の[[ウラン235]] (当時は[[ウランの同位体|アクチノウラン]]と呼ばれていた) を取り出すことである。仁科研究室ではそのために理研構内に熱拡散分離塔を作り基礎実験を始めたが間もなく米軍の爆撃によって破壊され何も成果を上げることができなかった。1944年暮れごろ、撃墜した[[B29]]から回収した東京の地図に理研が攻撃目標として記されていた、という話も伝えられている<ref name="yomiuri">『昭和史の天皇4』 読売新聞社 pp.155 - 156 (1968)</ref>。

希元素製品の生産研究は戦争の進展と共に一層促進され、1941年には理研希元素工業株式会社が設立され、作業場も本郷工場、足立工場、荒川工場に拡大された。原料黒砂も朝鮮だけでなく、1942年以降はマレー半島の砂錫選鉱の残砂でアマンと称する重砂を取り寄せてこれを処理した。1945年にすべての工場が空襲によって被災し、操業不能になったので、軍需省からの指示により全工場機能を福島県石川町に移すことになった<ref name="yomiuri" /><ref>『ペグマタイトの記憶』福島県石川町教育委員会発行 p.208 (2013)</ref> (足立工場は被災しなかったという記述もある)<ref name="hata" /><ref>新津甚一「南から北へ八十年」(1981 - 1982) </ref>。この地が選ばれたのは日本三大ペグマタイト産出地<ref group="注">他の二つは岐阜県中津川市苗木地区、滋賀県大津市田上山 (たのかみやま) 地区</ref>であり、少量ながら[[サマルスキー石]]、モナズ石、ゼノタイムなどの含ウラン鉱物が産出したためである。 これらが俗にウラン鉱と呼ばれることがあるがウランは主成分でなく、微量しか含まれていない。戦局の悪化により、外地からの原料の調達もままならず、国内の資源に頼らざるを得なかった。

{| style="float:right"
|+'''理研希元素工業扶桑第806工場'''
|[[file:Riken_kigenso_fusu_no.806kojo.jpg|380px]]
|-
|style="text-align:center"|福島県石川町立歴史民俗資料館提供
|}
[[1945年]][[4月13日]]の空襲の折り、巣鴨の飯盛の自宅も被災した。その時の様子が、仙台に住む次男の飯盛昌三・郁子夫妻宛の手紙に詳しく記されている<ref>『ペグマタイトの記憶』福島県石川町教育委員会発行 p.163 (2013)</ref>。このため、飯盛自身も混乱の中、家族とともに石川町に疎開することになった。一家は7月9日に石川町に着き一時旅館に逗留した後、借家住まいを始めた。

理研希元素工業株式会社の移転先は、鉱山師・丸野内鉄之助がジルコン量産のため建設していた「日本ジルコン鉱業研究所石川鉱山」で、完成直前に軍需省の命令で強制的に理研希元素工業に委譲させられた工場である。これが理研希元素工業扶桑第806工場となった<ref>『ペグマタイトの記憶』福島県石川町教育委員会発行 p.155 (2013)</ref>。東京から設備類を運び、移転は5月にはほぼ完了した。

この工場では東京から運んだ朝鮮産とマレーシア産の黒砂を比重選鉱機と磁力選鉱機によってモナズ石、ジルコンその他に分離し、モナズ石をボールミルで粉砕して化学処理する。これより生産される希土類元素化合物、トリウムはそれぞれ軍需用に発送された。ウランはこの工場でも採取されたが地元産のウラン鉱 (サマルスキー石、フェルグソン石等) の量は微々たるもので、原料にはならなかった<ref>『ペグマタイトの記憶』福島県石川町教育委員会発行 p.172 (2013)</ref>。

===終戦===

[[8月15日]]の終戦により必然的に工場は操業停止になり、理研希元素工業株式会社は解散した。結局この工場は3ケ月ほど操業しただけだった。それまでに仁科研究室に渡した重ウラン酸ナトリウムはほんの数キログラムだった。<ref>「敗戦とともに葬られた2号研究の顛末 その (1)」Researcher 研究と開発 No.14, pp.8 - 16 1970年 11月号</ref><ref>「化学分析その他の昔話」ぶんせき No.6, pp.398 -402 (1975)</ref>当時、原子爆弾一発を作るのに10%に濃縮したウラン235が10キログラム必要とされていた<ref name="riken" /><ref name="yamazaki" />。この量を作るのに必要な重ウラン酸ナトリウムは計算上190キログラムとなるので
<ref group="注">原子量:ナトリウム (Na) 22.98977, 酸素 (O) 15.999, ウラニウム (U) 238.02891<br />
重ウラン酸ナトリウム (Na<sub>2</sub>U<sub>2</sub>O<sub>7</sub>) の式量:22.98977&times;2+238.02891&times;2+15.999&times;7=634.032<br />
重ウラン酸ナトリウム中のウラニウム含有量:238.02891&times;2&divide;634.032&times;100=75.084%<br />
10% 濃縮ウラン235 10キログラムは純ウラン235 1キログラムに相当する。純ウラン235 1キログラムを含む天然ウランは 1&divide;0.7&times;100=142.86キログラム<br />
天然ウラン142.86キログラムを含む重ウラン酸ナトリウムは 142.86&divide;75.084&times;100='''190.27キログラム'''<br />
これはすべての反応が化学量論的に進んだ場合 (実際にはあり得ない) の数値なので、実際にはもっと多く必要になる。</ref>
、まったく足りなかった。なお、戦後になって「10%に濃縮したウラン235が10キログラム」について理論的な精査がされている<ref name="yamazaki" />。


飯盛は戦災により東京巣鴨の家を失い、勤め先の理研も東京の街も焼けてしまったので、しばらくの間石川町に住むことにした(理研一号館の飯盛研究室は焼けなかった) <ref name="nkt" />。そこで[[1945年]]10月に土地を借り、家を建てた。[[GHQ]]の命令で放射化学の研究を禁じられたので、工場の一隅を借りて理研飯盛研究室分室の看板をあげ、残った設備装置に手を加え小さな窯を自作して次男昌三、四男健造と共に磁器質蛍光体や陶磁器の試作を始めた。石川町で産出する良質の石英や長石を活かすため陶磁器の事業化を目的に福島県下の窯業者を訪ね歩き情報を集めた。また良質の陶土を探した。その頃の様子が日記に詳しく述べられている<ref>『ペグマタイトの記憶』福島県石川町教育委員会発行 p.226 (2013)</ref>。陶磁器の事業化は目途が立たなかったが釉薬の工夫をしているうちに人造宝石のヒントを見出し、研究の方向を人造宝石に切り替えた。[[1949年]]11月には巣鴨の焼け跡に自宅を再建し東京に戻った。
一方、理化学研究所仁科研究室が陸軍航空本部に依頼されて開始した二号研究に必要なウランをも確保することが要請され、国内国外のウラン探策を行った。


石川町在住中の[[1947年]]秋に「鉱物と地質」誌に「放射能一夕話」という題の文を投稿した。その内容は学者としては珍しく、生涯をかけて追及してきた放射化学への道が戦争という不条理により断ち切られてしまった無念の想いを綴っている。その最後は「'''栄えよ放射能!!さようなら放射能!!!'''」という胸を打つ言葉で結ばれている<ref>「放射能一夕話」鉱物と地質 日本鑛物趣味の会 Vol.8, pp.83 - 84(1948)</ref>。


==人造宝石==
==人造宝石==


===開発の動機===


[[1952年]]理化学研究所 (当時は科学研究所) を引退した後は、[[河合良成]]の援助を受けて自宅に飯盛研究所を設けて人造宝石の合成に没頭した。回想記<ref name="hsk" /> によれば、これら合成を思い立った動機は1936年に福島県伊達郡水晶山で拾った陽起石([[アクチノライト]])の小結晶を、机上に置きマスコットとしていたが、戦災で失ってしまったことにある。
{{節stub}}


苦心を重ねた結果、まず微晶質のヒスイが完成した。 ヒスイは古来から貴ばれ、西洋でもJadeと称して珍重されると同時にGood Luckとして幸運の象徴とされている<ref name="hsk" />。ありふれたヒスイではなく、最高級の琅玕(ロウカン)という、透明に近い半透明のものでなければならず、これを目指して輝石族鉱物の組成にほぼ等しいものを作ったものである。 外見は翡翠、しかも最高級のロウカンと全く同じなので「メタヒスイ」と名付けた<ref name="hsk" />。
1952年理化学研究所を引退した後は、自宅に飯盛研究所を設けて人造宝石の合成に没頭した。回想記<ref name="hsk" /> によれば、これら合成を思い立った動機は1936年に福島県伊達郡水晶山で陽起石([[アクチノライト]])の小結晶を拾い、変わった形だったので机上に置きマスコットとしていたが、戦災でこれを失ってしまったので人工的に合成することを思い立ったことにある。苦心を重ねること数年にして合成に成功したが、陽起石の組成から出発した変彩性軟玉翡翠で、これに「ビクトリア・ストン」と命名した。外見は翡翠と全く同じなので「メタヒスイ」とも呼ばれた。 合成は成分と着色剤の溶融によって行われるが、これに加えて結晶化を促進する晶化剤と晶癖調整剤を加えることによって製品に美しい変彩性を与えることに成功した。同じ方法で金録石系猫目石が得られ、合成猫目石が生まれたのである。この発明は、特許「装飾石の合成製造法」および関連実用新案は「注目発明」「優秀発明」の表彰を受けた。


これに加えて結晶化を促進する晶化剤と[[晶癖]]調整剤を加えることによって繊維状の結晶を包含する美しい変彩性軟玉翡翠を完成させ「ビクトリア・ストン」と名付けた。この繊維構造の石のうち金緑色のものを特殊カットすることにより猫目石(合成キャッツ・アイ)として製品となった。 十数種類の配合研究により「ビクトリアストン」各色を完成させた。

===株式会社飯盛研究所の設立===
やがて物になりそうになったところで、業者に研磨してもらい、いろいろの人の意見を聞き、段々に人に知られる様になった。この発明は特許「装飾石の合成製造法」<ref group="注" name="tokkyo">特許公報 特公昭30-000088 (注)特許公報へのアクセス法:[http://www.inpit.go.jp/ipdl/service/ 特許電子図書館]→特許・実用新案公報DB→文献種別に"B",文献番号に"S30-88"を入力→文献番号照会をクリック</ref>および関連実用新案は「注目発明」「優秀発明」の表彰を受けた<ref name="PGHSK" />。新聞、TV、週刊誌にも取り上げられるようになったので、[[1962年]]6月人造宝石の製造販売を目的とする株式会社飯盛研究所を設立し、商業規模の生産を始めた<ref name="nkt" />。

発足当時に製造販売したのは、表に示すとおり、メタヒスイ、15色のビクトリア・ストンのほか、トルコ石、何種類かの透明石などであった。事業の進展とともに製品数もだんだん増やしていった。公表されているものとしてはサンダイア (ダイアモンドの模造品)<ref name="PGHSK" /> 、チェリーストン (ピンク色のビクトリア・ストン)<ref name="PGHSK" />、&gamma;-ジルコン<ref name="nkt" />、アイリスジャスパー<ref name="nkt" />、サン-トルコ石<ref name="hsk" />がある。このうち&gamma;-ジルコンは自然光下では淡桃色、蛍光灯下では淡黄緑色を呈する ([[変色効果]])<ref name="nkt" /> 。これ等飯盛研究所で作られた人造宝石類は IL-ストンと総称される (IL はIimori Laboratoryの略称) 。

{|style="margin:0 auto;font-size:small" class="wikitable"
|+飯盛研究所初期の製品<ref name="PGHSK">『ペグマタイトの記憶』福島県石川町教育委員会発行 pp.250 - 254(2013)</ref>
!style="background-color:#fcf"|原石名!!style="background-color:#fcf"|色!!style="background-color:#fcf"|略号!!style="background-color:#cff"|原石名!!style="background-color:#cff"|色!!style="background-color:#cff"|略号
|-
|ビクトリア・ストン||緑色||V G||style="text-align:center"|メ タ ヒ ス イ||緑 色||H G
|-
|style="text-align:center"|〃||空 色||VSB||style="text-align:center"|ブ ル ー ヒ ス イ||空 色||H B
|-
|style="text-align:center"|〃||ピンク褐色||VPR||style="text-align:center"|IL- ト ル コ 石||淡 青 色||T L
|-
|style="text-align:center"|〃||若 草 色||VYG||style="text-align:center"|〃||青 色||T M
|-
|style="text-align:center"|〃||青 緑 色||VBG||style="text-align:center"|〃||濃 青 色||T D
|-
|style="text-align:center"|〃||群 青 色||VSI||style="text-align:center"|〃||明濃青色||JTB
|-
|style="text-align:center"|〃||褐 色||VCR||style="text-align:center"|IL- オ リ ビ ン||淡オリーブ緑||OVS
|-
|style="text-align:center"|〃||紺 黒 色||VIL||style="text-align:center"|〃||濃オリーブ緑||OVD
|-
|style="text-align:center"|〃||白 色||V W||style="text-align:center"|IL- ブルージルコン||淡 青 色||Z B
|-
|style="text-align:center"|〃||鶯 色||VQG||style="text-align:center"|IL- 藤色ジルコン||藤 色||ZLP
|-
|style="text-align:center"|〃||芥 子 色||VQY||style="text-align:center"|IL- ロードジルコン||ピンク色||ZRh
|-
|style="text-align:center"|〃||暗 青 色||VQB||style="text-align:center"|IL- ブルースピネル||濃 青 色||SPB
|-
|style="text-align:center"|〃||灰 色||VQL||style="text-align:center"|IL- ガーネット||暗 赤 色||G N
|-
|style="text-align:center"|〃||黒 色||VLD||style="text-align:center"|IL- ア メ シ ス ト||青 紫 色||A P
|-
|ビクトリア・ストンC||金 緑 色||K S||style="text-align:center"|〃||赤 紫 色||A R
|-
|style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|IL- エ メ ラ ル ド||緑 色||E B
|-
| style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|〃||濃 緑 色||E D
|-
|style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||IL- ト ー パ ツ<ref group="注" name="topaz">トパーズと表記されることが多いが飯盛研究所では英語の発音[t&oacute;up&aelig;z]に近いトーパツまたはトーパズとしていた。</ref>||橙 色||TPL
|-
|style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|〃||濃 橙 色||TPD
|-
|style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|- ||style="text-align:center"|IL- サ フ ァ イ ア||紫 紺 色||SAP
|}

[[1969年]]アメリカの宝石業界誌 Lapidary Journal へ紹介記事を投稿したところ、各国から反応があり、国内よりむしろ海外からの需要が大きくなった。北米向けには主に原石のまま輸出され、研磨した石も北米、東南アジア方面に輸出された<ref name="PGHSK" />。日本国内では見た目はどうでも天然石でなければ喜ばれなかった<ref name="nkt" />。これについて、飯盛は日本人が美しさを解さないことへの嘆きとも受け取れる言葉を述べている<ref name="hsk" />。

[[1982年]]飯盛の没後は四男の加藤健造が事業を引き継ぎ、[[1990年]]始め頃まで製造されていたが、会社は解散され、現在ではこの製造技術は途切れてしまった<ref name="PGHSK" />。

===特許公報===

特許公報 特公昭30-000088 「装飾石の合成製造法」<ref group="注" name="tokkyo" />にはビクトリア・ストンの名前は出ていないが、"繊維状結晶の放射状集合構造体"、"変彩性光輝を呈する" と記されているので、明らかに装飾石とはビクトリア・ストンを意味する。ビクトリア・ストンの名称は、この特許より後から付けられた。<ref>「変彩性軟玉ヒスイの話」地学研究、日本鉱物趣味の会、Vol.21, No.2 pp.43 - 46(1970)</ref>

この特許によると、装飾石は (1) 基本成分 (2) 鉱化成分 (3) 放射状結晶集合構造を生成せしむる成分 の三成分よりなる、とされている。内容を解釈すると、石英を主成分とする固溶体中に鉱化成分の結晶を析出させ、その結晶を「放射状結晶集合構造を生成せしむる成分」によって繊維状にしたもの、ということになる。

「鉱化成分」は後に飯盛自身により「晶化剤」と言い換えられている。同様に「放射状結晶集合構造を生成せしむる成分」は「[[晶癖]]調整剤」と言い換えられている。<ref name="hsk" />

なお、原料の一つとして挙げられている酸化トリウムは現在では[[核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律|原子炉等規制法]]によって[[核燃料|核燃料物質]]に指定されているので許可を得た者でないと入手できない。

===晶癖調整剤===

[[1915年]]の大学院時代最初の研究で、[[フェリシアン化カリウム]](赤血塩) の水溶液に少量の酸を加えて蒸発させると通常の板状結晶でなく針状の結晶が得られ、その原因は[[加水分解]]で生じた微量のアクオ五シアノ鉄錯塩がフェリシアン化カリウムの結晶のある特定の面に吸着され、その面の成長が阻害されて他の面だけが選択的に成長したためであることを見出している<ref name="hajime" />。このように同じ物質の結晶が異なる形を示すことを[[晶癖]]と呼ぶ。この論文中ではなぜそのような現象が起きるのかにまでは言及していないが、[[結晶]]とは、原子や分子が三次元的に規則正しく配列したものだから各[[結晶面]]には三次元的構造が反映され、それぞれの面の性質が異なるためである。

飯盛は熔融塩系にも水溶液系の[[類推|アナロジー]]が成り立つと考えた。その裏付けは永年の鉱物採取の経験から、同じ鉱物であっても産地が異なると[[晶癖]]が異なり、その原因は共存する成分が異なるためであることを知っていたからである<ref name="hsk" />。人造宝石の開発ではこのことを踏まえ、試行錯誤を繰り返して固溶体中に晶化剤 (特許公報中では鉱化成分) を繊維状に析出させることに成功した。この時に晶癖をコントロールするために添加する物質を「晶癖調整剤」と名付けた。

「晶癖調整剤」は飯盛の造語であって以後使われることは無かった。現在では「媒晶剤」という言葉が一般化して使われている。意味はまったく同じである。溶液から結晶を析出させる工程 ([[晶析]]) は工業的に広く行われ、媒晶剤、媒晶効果、媒晶機構に関する研究が多数行われている<ref>[http://dx.doi.org/10.1252/kakoronbunshu1953.35.960 山田 保「媒晶剤」化学工業 Vol.35, No.9 pp.960 - 964(1971)]</ref>。

===飯盛研究所製品の数々===

*画像をクリックすると拡大表示になります。
<gallery>
<gallery>
file:Victoria stone rose flower.jpg|ビクトリア・ストン製のバラの彫刻
file:Iimori stones.jpg|いろいろな IL-sotne
file:Iimori stones.jpg|いろいろな IL-sotne
file:Metajade.jpg|メタヒスイの装飾品
file:Metajade.jpg|メタヒスイの装飾品
file:Victoria stone salmonpink.jpg|珍しいサーモンピンクのビクトリア・ストン ペンダントトップ
file:Victoria stone necklace.jpg|ビクトリア・ストンのネックレス 赤紫色と金緑色
file:Metajade necklace.jpg|メタヒスイのネックレス
file:Metajade necklace.jpg|メタヒスイのネックレス
file:IL-stone turquoise.jpg|IL-ストン トルコ石
file:紫ヒスイ.jpg|IL-ストン 紫ヒスイ
file:Bluejade.jpg|IL-ストン ブルーヒスイ カボション
file:Victoria stone salmonpink.jpg|珍しいサーモンピンクのビクトリア・ストン ペンダントトップ
file:Victoria stone 15colors.jpg|15色のビクトリア・ストン
file:IL-stone turquoise.jpg|IL-ストン トルコ石
file:IL-stone gernet.jpg|IL-ストン ガーネット
file:IL-stone gernet.jpg|IL-ストン ガーネット
file:IL-topaz.jpg|IL-ストン, トーパズ<ref group="注" name="topaz" />
file:Victoria stones.jpg|いろいろなビクトリア・ストン
file:Victoria stones.jpg|いろいろなビクトリア・ストン
file:Victoria stone chocolate.jpg|チョコレー色のビクトリア・ストン カボショ
file:Victoria Stone Cat's Eye.JPG|キャッツ・アイにカッされたビクトリア・ストン
file:Sun-turquoise raw.jpg|サン・トルコ石の原石<ref name="hsk" />繊維状結晶構造がよくわかる。
file:Victoria stone redishpurple stone egg.jpg|赤紫色ビクトリア・ストン "石卵"
file:Victoria stone raw01.jpg|ビクトリア・ストンの原石
File:Victoria stone raw02.JPG|ビクトリア・ストンの原石, white
file:Victoria stone raw22.jpg|ビクトリア・ストンの原石, green
file:Victoria stone raw06.JPG|ビクトリア・ストンの原石, light green
file:Victoria stone raw20.jpg|ビクトリア・ストンの原石, blue
file:Victoria stone raw04.JPG|ビクトリア・ストンの原石, blue
file:Victoria stone raw05.JPG|ビクトリア・ストンの原石, pink<br />ピンク色は金コロイドによる<ref name="PGHSK" />。
file:Victoria stone raw07.JPG|ビクトリア・ストンの原石, black
file:Victoria stone raw08.JPG|ビクトリア・ストンの原石, indigo
file:Victoria stone raw09.JPG|ビクトリア・ストンの原石, grey
file:Victoria stone raw21.jpg|ビクトリア・ストンの原石, 金緑色, キャッツアイの原材料
file:IL stone raw10.JPG|IL-ストン ラピスラズリの原石
file:Meta Jade raw.JPG|メタ・ヒスイの原石
</gallery>
</gallery>


==飯盛コレクション==
==著書==


[[file:Microlite2.JPG|left|380px|thumb|United States National Museum (スミソニアン博物館) から飯盛武夫に贈られたミクロライトの標本 (飯盛遺品)]]
[[1922年]]以来、国内、朝鮮半島への鉱物の調査の際自身で標本を採取したり、室員を派遣して満州、北支、蒙古、南方諸地域から多数の鉱物標本を採集した。まだウランが核エネルギー源になることが知られていなかった時期から含ウラン鉱も採取していた<ref name="hokkaido">北海道新聞 昭和39年8月20日</ref>。また、外国の研究機関や博物館からの寄贈や交換によっても標本を集めていた。

[[1940年]]10月ボストンで第一回応用原子核物理学会が開催され、多忙な父・里安の代理として室員で長男の飯盛武夫<ref group="注" name="takeo" />が矢崎為一 (やざきためかず) 、[[渡辺慧]] (わたなべさとし){{Refnest|group="注"|name="watanabe"|渡辺扶生としている資料もある<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002068644 田島英三「理化学研究所における研究の回顧 : 理研のサイクロトロン物語 (<特集> 仁科芳雄生誕百年記念)」日本物理學會誌、Vol.45, No.10, pp.734-737, (1990)]</ref>}} とともに出席したが、その途上ワシントンの国立博物館に立ち寄り、福島県水晶山産の含ウラン諸鉱物の一揃いを寄贈したところ、交換に多数のカナダ産希元素鉱物を譲与され、日本の希元素鉱物研究に大いに役立った、という記述がある<ref name="kigenso" />。

これらの膨大な標本は「飯盛コレクション」と呼ばれたが、戦争のため放射化学の研究が中断され、飯盛研究室の後継者が途絶えたため、宝の持ち腐れとなってしまった 。(理研18号館に置いてあった朝鮮や南方地域で採集した分は戦災で焼失してしまった)<ref>益富壽之助「飯盛コレクション北大へ渡る」地学研究、Vol.15, No.11, pp354 - 355(1964)</ref>。

これらの鉱物標本を有効に活用するために[[北海道大学]]理学部鉱物学教室、東京大学理学部化学教室、東京都立大学 (現首都大学東京) 理学部化学教室に寄贈されることになった。特に北海道大学分は4,000種類、3.5トンもあり、新聞で報道された<ref name="hokkaido" />。その一部はweb上に公開されていて閲覧することができる<ref group="注">[http://micro.museum.hokudai.ac.jp/Minerals/ 北海道大学総合博物館鉱物標本データベース]にアクセス、簡易検索ボックスに”飯盛標本”と入力して検索する。</ref>。

==著書==
*『分析化学』「岩波講座物理及び化学,化学V.C」 1930年 [[岩波書店]]
*『分析化学』「岩波講座物理及び化学,化学V.C」 1930年 [[岩波書店]]
*『放射化学実験法』「実験化学講座13.B」1934年 共立社
*『放射化学実験法』「実験化学講座13.B」1934年 共立社
116行目: 278行目:


===鉱物の発光に関する研究===
===鉱物の発光に関する研究===
*S. Iimori, E. Iwase, "The Solarization of Fluorite and the Law of Lumino-transformation", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''16''', 41 - 67 (1931)
*S. Iimori, "On the Constitution of Phosphorescence Centers in Fluorite" ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''20''', 189 - 200 (1933)
*S. Iimori, "The Thermo-luminescence Spectrum of Calcite", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''20''', 274 - 284 (1933)
*S. Iimori, E. Iwase, "Spektrographische Untersuchung uber die Thermo-lumineszenz des Feldspates", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''28''', 147 - 151 (1935)
*S. Iimori, "The Photoluminescence of Feldspar", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''29''', 79 - 110(1936)
*S. Iimori, J. Yoshimura, "The Cathodo-Luminescence Spectra of Feldspars and Other Alkali Alumino-silicate Minerals", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''31''', 281 - 295 (1937)
*E. Iwase, S. Iimori, "The Cathodo-luminescence of Luminescent Calcium Silicate", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 173 - 181( 1938)
*S. Iimori, E. Iwase, "The Fluorescence Spectrum of Autunite", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 372 - 376 (1938)


*''Sc.Pap.I.P.C.R. : Scientific Papers of the Institute of Physical and Chemical Research''
*coauthor E. Iwase, "The Solarization of Fluorite and the Law of Lumino-transformation", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''16''', 41 - 67 (1931)
*"On the Constitution of Phosphorescence Centers in Fluorite" ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''20''', 189 - 200 (1933)
*"The Thermo-luminescence Spectrum of Calcite", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''20''', 274 - 284 (1933)
*coauthor E. Iwase, "Spektrographische Untersuchung uber die Thermo-lumineszenz des Feldspates", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''28''', 147 - 151 (1935)
*"The Photoluminescence of Feldspar", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''29''', 79 - 110(1936)
*共著 吉村恂 「福島県川辺産ゼノタイム球塊 附-石川産ゼノタイムの化学組成」 理化学研究所彙報 vol.16, pp.17 - 21 (1937)
*coauthor J. Yoshimura, "The Cathodo-Luminescence Spectra of Feldspars and Other Alkali Alumino-silicate Minerals", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''31''', 281 - 295 (1937)
*coauthor E. Iwase, "The Cathodo-luminescence of Luminescent Calcium Silicate", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 173 - 181( 1938)
*coauthor E. Iwase, "The Fluorescence Spectrum of Autunite", ''Sc.Pap.I.P.C.R.'', '''34''', 372 - 376 (1938)


===戦前に行なわれたその他の研究===
===戦前に行なわれたその他の研究===
*飯盛里安・鈴木鑛二 「新有機溶剤ソルベンチン」 理化学研究所彙報 vol.2, pp.561 - 584 (1923)

*共著 鑛二 「新有機溶剤ソルベンチン」 理化学研究所彙報 vol.2, pp.561 - 584 (1923)
*飯盛里安・磯野忠雄 「樹脂瓦斯及び材瓦斯の組成について」 理化学研究所彙報 vol.2, pp.585 - 589 (1923)
*共著 磯野忠雄 「樹脂瓦斯及び木材瓦斯について」 理化学研究所彙報 vol.2, pp.585 - 589 (1923)
*飯盛里安・磯野忠雄 「樹脂軽油分(第一報)」 理化学研究所彙報 vol.4, pp.523 - 526 (1925)
*共著 磯野忠雄樹脂軽油主成分(第一報)」 理化学研究所彙報 vol.4, pp.523 - 526 (1925)
*飯盛里安・石動弘写真乾板に及ぼす気体増感並に減感作用」 理化学研究所彙報 vol.6, pp.45 - 57 (1927)
*共著 石動弘写真乾板に及ぼす気体増感並に減感作用」 理化学研究所彙報 vol.6, pp.45 - 57 (1927)
*[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1921.48.451 飯盛里安・磯野忠雄樹脂軽油主成分 第二報 日本化学会誌 vol.48, pp.451 - 457 (1927)]; 理化学研究所彙報 vol.7, pp.89 - 97 (1928)
*共著 磯野忠雄樹脂軽油主成分 第二報」 日本化学会誌 vol.48, pp.451 - 457 (1927) 理化学研究所彙報 vol.7, pp.89 - 97 (1928)
*[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1921.48.479 飯盛里安・北岡馨光線による染色体褪色について」 日本化学会誌 vol.48, pp.479 - 494 (1927)]; 理化学研究所彙報 vol.7, pp.173 - 195 (1928)
*共著 北岡馨光線による染色体褪色について」 日本化学会誌 vol.48, pp.479 - 494 (1927); 理化学研究所彙報 vol.7, pp.173 - 195 (1928)
*[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1921.48.520 飯盛里安・菊池宇宙越後 牧産石油の一二成分について」 日本化学会誌 vol.48, pp.520 - 526 (1927)]; 理化学研究所彙報 vol.7, pp.109 - 117 (1928)
*[http://dx.doi.org/10.1246/nikkashi1921.52.570 飯盛里安・石動弘 「膠質色素を含有する固態物質の光学的吸収」 日本化学会誌 vol.52, pp.570 - 573 (1931)]
*共著 菊池宇宙 「越後 牧産石油の一二の成分について」 日本化学会誌 vol.48, pp.520 - 526 (1927); 理化学研究所彙報 vol.7, pp.109 - 117 (1928)
*共著 石動弘 「膠質色素を含有する固態物質の光学的吸収」 日本化学会誌 vol.52, pp.570 - 573 (1931)


===戦後の研究===
===戦後の研究===
*飯盛里安・飯盛昌三 「含稀元素坏土の焼成物について」 科学研究所報告 vol.25, pp.42 - 47 (1949)

*共著 飯盛昌三含稀元素坏土焼成物について」 科学研究所報告 vol.25, pp.42 - 47 (1949)
*飯盛里安・加藤健造陶磁器螢光について」 科学研究所報告 vol.28, pp.132 - 138 (1952)
*共著 加藤健造陶磁器の螢光について」 科学研究所報告 vol.28, pp.132 - 138 (1952)
*飯盛昌三・飯盛里安或る種合成螢光性鉱物体並びアルミノ珪酸塩螢光体」 科学研究所報告 vol.29, pp.463 - 467 (1953)
*共著 飯盛昌三或る種の合成螢光性鉱物体並びにアルミノ珪酸塩螢光体」 科学研究所報告 vol.29, pp.463 - 467 (1953)
*加藤健造・飯盛里安磁器質螢光体」 科学研究所報告 vol.29, pp.481 - 487 (1953)
*共著 加藤健造 「磁器質螢光体」 科学研究所報告 vol.29, pp.481 - 487 (1953)


==受賞歴==
==受賞歴==
*[[1921年]] [[櫻井錠二|桜井褒章]]<ref name="hata" />
*[[1944年]] [[朝日賞|朝日文化賞]](希元素の研究)<ref name="hata" />
*[[1945年]] [[日本学士院賞|帝国学士院賞]] [http://www.japan-acad.go.jp/pdf/youshi/035/iimori.pdf (稀元素鉱物殊に放射性及発光性鉱物に関する研究)]
*[[1952年]] [[日本分析化学会]]名誉会員章<ref name="nkt">『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 中津川市鉱物博物館 編 pp.46 - 57</ref>
*[[1964年]] [[旭日章|勲四等旭日小綬章]] (1917年 - 1945年までの28年間の希元素の研究) <ref name="nkt" />
*[[1957年]] 第9回東京都優秀発明展覧会 奨励賞 (人工装飾石に対し) <ref name="nkt" />


==注釈==
*1921年 [[櫻井錠二|桜井褒章]]<ref name="hata" />
{{reflist|group="注"}}
*1944年 [[朝日賞|朝日文化賞]](希元素の研究)<ref name="hata" />
*1952年 [[日本分析化学会]]名誉会員章<ref name="nkt">『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 中津川市鉱物博物館 編 pp.46 - 56</ref>
*1955年 [[日本学士院賞|帝国学士院賞]] (稀元素鉱物殊に放射性及発光性鉱物に関する研究) <ref name="hata" />
*1964年 [[旭日章|勲四等旭日小綬章]] (1917年 - 1945年までの28年間の希元素の研究) <ref name="nkt" />
*1957年 第9回東京都優秀発明展覧会 奨励賞 (人工装飾石に対し) <ref name="nkt" />


==脚注==
==脚注==

*''Sc.Pap.I.P.C.R. : Scientific Papers of the Institute of Physical and Chemical Research''
*''Sc.Pap.I.P.C.R. : Scientific Papers of the Institute of Physical and Chemical Research''


{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}


==参考文献==
==参考文献==

* 畑 晋 (はた すすむ) 「飯盛里安先生の業績とその解説」化学史研究、No.1, pp.21-31 (1986)
* 畑 晋 (はた すすむ) 「飯盛里安先生の業績とその解説」化学史研究、No.1, pp.21-31 (1986)
*『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 荻野義雄著 [[中津川市鉱物博物館]]編集発行
*『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 荻野義雄著 [[中津川市鉱物博物館]]編集発行
*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110008679726 阪上正信『飯盛里安先生のあゆみを偲んで』地球化学、Vol.16, No.2, pp.vii - xii (1982)]
*『[[ペグマタイト]]の記憶』2013年 橋本悦雄著 福島県石川町教育委員会発行
*『[[ペグマタイト]]の記憶』2013年 橋本悦雄著 福島県石川町教育委員会発行
*『かなざわ偉人物語(8)』2010年 金沢こども読書研究会編
*『かなざわ偉人物語(8)』2010年 金沢こども読書研究会編
* 斉藤信房「日本における放射能研究の黎明期-駒込と本郷の科学者たち-」 2000年 Isotope news 10月号
* 斉藤信房「日本における放射能研究の黎明期-駒込と本郷の科学者たち-」 2000年 Isotope news 10月号
*『昭和史の天皇4』1968年 [[読売新聞社]]
*『昭和史の天皇4』1968年 [[読売新聞社]]
*『装飾石の合成製造法』特許公報 特公昭30-000088 (注)特許公報へのアクセス法:[http://www.inpit.go.jp/ipdl/service/ 特許電子図書館]→特許・実用新案公報DB→文献種別に"B",文献番号に"S30-88"を入力→文献番号照会をクリック


== 外部リンク ==
==関連項目==
* [http://www.radiochem.org/index-j.html 日本放射化学会]

* [http://www.jrias.or.jp 公益社団法人日本アイソトープ協会]

* [http://www.town.ishikawa.fukushima.jp/admin/material 福島県石川町立歴史民俗資料館]
==外部リンク==
* [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/museum/ 中津川市鉱物博物館]

*[http://www.radiochem.org/index-j.html 日本放射化学会]
* [http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/ 金沢ふるさと偉人館]
*[http://www.jrias.or.jp 公益社団法人日本アイソトープ協会]
*[http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/museum/ 中津川市鉱物博物館]
*[http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/ 金沢ふるさと偉人館]
*[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23F03601000035.html 温泉法施行規則] 昭和二十三年八月九日厚生省令第三十五号 最終改正 平成二十四年七月六日環境省令二一号


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2014年9月13日 (土) 13:38時点における版

飯盛 里安
(いいもり さとやす)
1961年 76才
生誕 (1885-10-19) 1885年10月19日
日本の旗 日本石川県金沢市
死没 (1982-10-13) 1982年10月13日(96歳没)
国籍 日本の旗 日本
研究分野 放射化学
研究機関 理化学研究所
主な業績 放射化学の確立
影響を
受けた人物
飯盛挺造
フレデリック・ソディ
主な受賞歴 帝国学士院賞 (1945)
勲四等旭日小綬章 (1964)
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - 1982年10月13日)は日本の分析化学者、理学博士。1917年9月創立間もない財団法人理化学研究所 (通称:理研) に入所し、主に放射性鉱物希元素の研究を行う。1919年イギリスに留学し、オックスフォード大学フレデリック・ソディ教授のもとで放射化学を学んだ。帰国後、我国で未開拓の分野だった放射化学を導入し基礎を築き確立させた功績、放射性鉱物の研究に生涯を捧げた科学者として「日本の放射化学の父」と呼ばれている[1]太平洋戦争中は、理研の仁科芳雄を中心に進められた原子爆弾開発研究 (二号研究) に加わり、ウラン鉱の探索・採掘・精製を行なった。戦後は人造宝石の研究を行い、ビクトリア・ストンメタヒスイをはじめとする一連の人造宝石 (IL-stoneと総称) の発明者としても知られている[2]

経歴

1885年石川県金沢市生まれ。父は金沢藩士、加藤里衡(かとう さとひら)、母豊子の実家は金沢藩家老横山家の分家。父が高岡市の射水神社(いみずじんじゃ)の宮司であったので、少年時代を高岡市で過ごした。1898年10月富山県立高岡中学校 (現在の富山県立高岡高等学校) に入学した。一年後輩に正力松太郎河合良成 (後に小松製作所会長となる)がいた。中学5年の時父が亡くなりその後同校を休学する。1903年5月に母と共に上京して早稲田中学に転学し1904年3月同校卒業後帰郷して同年9月第四高等学校 (旧制) に入学した。河合良成とは同期入学となり終生変わらない盟友となった。この年母方の叔父横山隆起(よこやま たかおき)の斡旋により飯盛挺造の養子となり、飯盛姓を名乗ることになった[3]

第四高等学校 (旧制) 卒業後東京帝国大学理科大学化学科に入学、1910年同校卒業後に挺造の次女ゆくと結婚した。1910年大学卒業後直ちに大学院に入り、垪和為昌(はが ためまさ)教授、同教授没後は池田菊苗教授の指導を受けた。大学院生の時に助手講師を兼任し、1915年9月第一高等学校 (旧制) 教授に就任、1916年2月大学院卒業と共に理学博士の学位を授与された[3]

1919年理化学研究所に招かれて所員となり、第一高等学校教授を辞任した。1919年11月から1921年10月まで2年間イギリスに留学し、帰国後研究員、翌年主任研究員となり、以後1952年理化学研究所 (当時は株式会社科学研究所に改組されていた) を退任するまで理化学研究所飯盛研究室を主宰した。1952年8月1日科学研究所名誉研究員となり、1958年10月21日科学研究所は特殊法人理化学研究所に改組され、同所名誉研究員となった。理研在籍中の1931年4月 - 1932年3月には日本化学会会長を務めた。また、退任後の1953年5月 - 1954年4月には日本分析化学会会長を務めた。退任後は東京巣鴨の自宅に設けた飯盛研究所で人造宝石の合成に専念した[3]

業績

大学院時代

学生のころから分析化学に興味を持ち、一学年の時には垪和教授に命じられて台湾の北投温泉に産する放射性鉱物北投石岡本要八郎発見)中のウランの分析を行い、ウランを含まないことを確認したが、これが放射性鉱物分析の最初の実験であった。大学院での最初の研究はフェリシアン化カリウム(赤血塩)水溶液が日光又は熱の作用又は酸の存在によって自然還元を受けてベルリンブルーの沈殿を生じシアン化水素を放つ時、溶液全体がはなはだしく暗かっ色を呈する現象の解明であった。 種々調査の結果、その原因となる物質はアクオ五シアノ鉄錯塩であることが確かめられた。同時にこの溶液を放置蒸発させる時析出する赤血塩結晶が暗かっ色針状(純赤血塩は板状結晶)となるのは上記アクオ五シアノ塩の微量の混入によることも解明され、この研究報告は研究生活の開幕を飾る論文として1915年に『東京化学会誌』に発表された[4]。またこの結果は、後の人造宝石の研究の際、結晶の形をコントロールする昌癖調整法のヒントになった[2]

当時 K2[Fe(CN)6] なる組成の過フェリシアン化カリウムという物質の存在について諸説交錯し真偽不明であったところ、垪和教授から五フェリシアン化カリウム水溶液がオゾンによって暗かっ色に変色することの原因を探求することを推奨されたので、この問題に取り組んだ。 その結果数種類の五シアノ第二鉄錯塩の生成を確認し、過フェリシアン化カリウムの存在は認められなかった[5]。さらに続いてフェリシアン化カリウムの光化学反応の研究も行われ[6][7]、これら鉄錯塩の研究の積み重ねはフェリシアン化カリウム溶液を用いる酸化滴定法の制定にまで展開し[8][9]、これが学位論文の主論文として 1916年 大学院卒業と同時に理学博士の学位を授与された。

理化学研究所時代

初期の研究

シアノ鉄錯塩溶液の光化学反応の研究[10][11] はさらにニッケル、白金などのシアノ錯塩について進められ[12][13]、ハロゲン化銀電極を用いる光化学電池の考案が行われ、これら一連のヨウ化銀感光発電池の研究[14][15][16][17][18]、に対し1921年に日本化学会桜井褒賞が授与された[19]。これら一連の研究は、光エネルギーを電気エネルギーに変えるという点で今日の太陽光発電の原点と言える[20]

アイソトープの邦訳

フレデリック・ソディは、1900年からカナダのモントリオールにあるマギル大学アーネスト・ラザフォードと共に放射性崩壊の研究を行ない、1904年からはグラスゴー大学の講師になり研究を続けた。その結果、元素が放射線を放つと別の元素に変化することを見出し(放射性変換説)、さらに放射性元素が化学的性質が同一であるにもかかわらず複数の原子量を持つ可能性を示した。ソディはこの概念をアイソトープ (Isotope) と名付け、研究結果を1918年12月のロンドン化学会で講演した。その内容は1919年東京帝国大学化学教室の定例雑誌会で取り上げられた。その席で飯盛はアイソトープの邦訳を同位元素とすることを提案し、同意を得た[21]

イギリス留学

1919年11月から2年間イギリス留学を命ぜられた。最初の1年間はケンブリッジ大学の ヘイコック教授のもとでヒ素の定量法としてヒ素をヒ酸に変えリン酸の場合と同様にモリブデン酸アンモニウムを加えて黄色のヒ素モリブデン酸アンモニウムの沈殿として分離する方法を検討した。 この方法によってヒ素が正確に定量できることが証明され、教授に大変感謝された。続いて 1920年11月から オックスフォード大学に移り、フレデリック・ソディ 教授の指導を受けた。当時を回顧して「1920年の暮からソディ教授に師事して宿望の放射体化学の研究に多幸な1年を過ごした。その間教授と仕事を共にしたので教授の自然科学研究に対する偉大なる力量をハッキリと感得した」と述べている。[22] 当時ソディ 教授はトロン (ラドン220 (220Rn) の古い名前) 、トリウムXウランX2に次いでプロトアクチニウムを発見した直後で、1921年度ノーベル賞受賞の年であった。理化学研究所の部屋には ソディ教授の眼光炯炯たる写真がいつも掲げられており、この写真を見上げながらよく当時の思い出を語った。ラドンを含む試料水を容器ごと振盪して空気中に分配する時の作業が、長身なソディ教授は楽々とこなしたが難作業だったことをよく語っていた[19]

担当した実験は

  1. ソディ式ラドン計(同教授考案による高感度エマネーション <ラドン同位体の総称> 検電器)を用いて微量ラジウムを定量する方法の習得
  2. セイロン産モナズ石中の微量成分であるウランを上記ラドン計で得たラジウム量から計算して求めること
  3. ピッチブレンド中のウラン定量の湿式法であるブレーリー法の習熟
  4. モナズ石のトリウム定量の湿式法であるベンツ法[23]を行う際に、放射性指示薬 UX1の微量を試料に添加し、分析過程で得られるトリウム沈殿物の示す UX1に基づく β放射能を測定し、これを UX1の標準の強さと比較することによってトリウムの行動を追跡する実験等であった。

これらの実験結果は帰国後まもなく理化学研究所でまとめられ、モナズ石中のウラン・トリウムの定量については、さらに日本産2種類と朝鮮産 2種類のモナズ石を加えて一括して発表された[24][25]。UX1放射性指示薬による分析方法の検定も斬新な研究として注目を集めた。

放射線測定装置の開発

1921年イギリスからの帰国に際し、ソディ 教授から贈られた標準塩化ラジウム製剤といくつかの放射能測定器を持ち帰った。国産の放射線測定機器類がまだ無かったので、これらの機器を理化学研究所工作部に製作させた。主な機器類は次のとおり[26]

  • ローリッツェン検電器
  • αβγ-放射能測定用検電器〔商品名:大型ラヂオスコープ〕
  • 鉱泉及び気態試料の放射能測定器〔商品名:IM-泉効計〕(IM は飯盛のイニシアル)
  • ラジウム測定用ラドン定量器〔商品名:理研精密ラドン計〕(下図参照)
  • トロン定量用検電器

これらの機器類は理研から発売された。IM泉効計は温泉・鉱泉・池沼水の放射能を測定する携帯用機器で、約0.5リットルの試料水を槽内に採り、密閉振盪して溶存ラドンを槽中の5リットルの空気と0.5リットルの水との間に分配した後、空気相の放射能を測定して試料水中のラドン濃度を定量する携帯用ラドン測定装置である。 ラドン標準として一定量の酸化ウラン粉末を塗布したアルミ板を電離槽中に差しこんで検電器で放射能を読み、これを付属の補正値(振盪時から測定時までの経過時p間を考慮した復元値)から始元期ラドン放射能をラドン濃度0.01マッヘまで求めることができる[27]。鉱泉や井戸水などのラドン含有量測定に広く用いられた。現在でも鉱泉分析法指針に採用されていて[28]温泉法施行規則第14条七にも、温泉成分分析を行おうとする者が備えるべき器具として「IM-泉効計又は液体シンチレーションカウンター」と記されている[29]

理研精密ラドン計のカタログ

放射体化学に関する研究

1922年に東京帝国大学理学部化学教室に初めて「分析化学」と称する講座が設けられ、一部を担当したが1927年以降は「放射化学」の講義を担当し1943年まで続いた。これは日本における放射化学の講義の始まりである。当時執筆した「放射化学実験法」(『実験化学講座』13B, 1922年共立社)は多年蓄積された実験記録の詳細を具体的に例示した無類の指導書である[19]

1922年滋賀県田ノ上山で発見された微放射性マンガン土球塊について、海底又は湖底の沈積物としてのマンガン土球塊に類似していることを指摘し、太平洋深部のマンガン球塊と比較するとラジウム含有量が 4 - 5 倍の新種であることが確認され注目すべき発見となった[30][31]

放射性元素についての特殊な研究として注目されるものに色暈(ハロ)の研究がある。 放射性鉱物の微粒が透明な鉱物中に存在すると、その周囲の組織が長年月にわたって放射されるα線のために変色し、同心円状の着色層ができる。これを色暈と呼び、中心から表層までの距離はα線の飛程に対応する。1927年三重県石榑(いしぐれ)産黒雲母の薄片中に2種類の色暈を見出した。その一つに巨大色暈、他の一つに Z 色暈と名づけた。後者は空中飛程 1.2センチメートルおよび 2.1センチメートルのα線によるものとした[32]。これより9年後に同じ巨大色暈がインド産菫青石にクリシュナムらによって見出され[33]、これは RaC および ThC の長飛程α線によるものとされた。Z 色暈については11年後にゲオルク・ド・ヘヴェシーらがサマリウムが飛程1.13センチメートルのα線を放射することを発見し、飯盛の Z 色暈の1.2センチメートルα線放射体は恐らくサマリウムであろうと説明している[34]

希元素鉱物の探査中に見出されたいくつかの含ウラン鉱物について、鉛とウランの含有量の比が得られるので、鉱物の地質年代が推定できる。 例えば南朝鮮忠清南道産サマルスキー石では134×106[35]、またヘリウムとウランおよびトリウム含有量の比から忠清南道及び平安南道産モナズ石では80 - 117×106[36]である。 これら鉱物を含有するペグマタイトの地質年代はすべてジュラ紀前後であることが明らかになった。ラジオメトリー(放射測定法)に鉛の同位体指示薬として RaDThB とを比べてどれが使やすいかを半減期、壊変生成物の放射能から検討し、後者の方が約100倍鋭敏な指示性能を持つことを解説し、実用の際に必要な復元係数表を添付した[37]

地質学的研究

研究に使われたカナダウィルバーフォース産黒色蛍石 飯盛遺品
カナダ鉱山省鉱物資源課 H.S.Spenceから寄贈されたもの

希元素については、希アルカリ金属の簡易な分離法を考案して[38]鱗雲母およびチンワルド雲母からルビジウム及びリチウムを抽出した[38][39][40][41]。そのうちルビジウムについては放射能を測定して産地または鉱物種に よる差異を調べ、ルビジウムの放射能が他の放射性元素の混入によるものではないことを確認した。また田ノ上産緑色陶土についてスカンジウムを検出[42]、 同地域の特殊高陵土中にガリウム[43]およびルテニウム[44]を検出した。 福井県赤谷に産する天然ヒ素は古来著名であるが、その付近の赤かっ色粘土中に著量(0.18%) のバナジウムが含まれ、これが天然の酸化還元触媒として作用することによって天然ヒ素が生成する機構を理論的に組み立て、さらに実験的に証明することができた[45]。また能登半島に産する特殊な赤土がラテライト性土壌の一種であることを土壌の組成と土壌を酸またはアルカリで処理した抽出成分の量から推論した。また長野県山口村に産する酸性白土が共存する曹長石を含有するパーサイトに由来することを希土成分の分析値から推論した[46]。カナダのウィルバーフォース産黒色蛍石に含有される遊離フッ素を定量するのに、試料鉱物をヨウ化カリウム溶液中に浸して乳鉢中で粉砕し、遊離したヨウ素をチオ硫酸ナトリウム溶液で滴定する方法を用い、0.001% 内外であることを確認した[47]。この論文に関連して 2012年にミュンヘン工科大学のチームが19F-NMR を用いてアントゾナイト (蛍石の一種) から単体のフッ素を見出し、天然から単体フッ素が見つかったのは驚くべきことと報告している[48]。これを見ても飯盛がいかに先見性を持っていたかが分かる。

希元素・放射性鉱物の探索

放射性鉱物を含めて希有元素資源を調査するための旅行は1922年以降毎年 1-2回総計 40回以上行われた。国内ではガドリン石[49]、ゼノタイム[50]、および新鉱物・長手石が報告されている[51]。 長手石は石川県能登半島の柴垣付近の長手島で発見された褐簾石の変種と思われるセリウム族希土のリンケイ酸塩で、これに随伴して閃ウラン鉱又はブレッゲル石と思われるウラン鉱の本邦初産出も報告された。長手石は標準標本が戦災で失われたうえ、きわめて希産なので今では "まぼろしの鉱物" といわれている[52]

飯盛武夫 1939年

1936年11月には福島県川俣地方の水晶山および房又にある長石ケイ石採石場において幸運にも本邦最大のペグマタイト鉱床が発見された。 この鉱床からは何種類もの希元素鉱物が採取され、その中に一つの新鉱物・飯盛石(Iimoriite)がある。加藤昭、長島弘三によって発見された Y2SiO5 の組成を持つケイ酸イットリウム鉱物で希土中のイットリウムの含有量が極めて高く、かつ Hf/Zr の比が本邦既知鉱物中で最も高い珍しい新鉱物である。 両名は希元素鉱物の化学、鉱物学に生涯を捧げた飯盛武夫[注 2]とその父・飯盛里安の業績を記念して1958年に飯盛石と命名した[57]。ここで得られた鉱物のうちトロゴム石は本邦に初めての産出で[58]、フェルグソン石は牙状に突き立って中に閃ウラン鉱を包含する珍しい産状である[59]。その他研究室の室員の名で発表された鉱物に、阿武隈石[60]、イットリア石[61]、テンゲル石[62]、変種ジルコンおよびゼノタイム[63]、褐簾石[64]閃ウラン鉱[65]、ガドリン石[38]、イットロゴム石[38]、銅ウラン鉱および灰ウラン鉱[66]などがある。

二号研究との関わり

二号研究開始前の希元素鉱物資源の状況

1922年からの調査で国内には有望な希元素の資源が無いことが分かっていたので検討の結果、1934年に日本の統治下にあった朝鮮半島全域にわたる調査が行われた。調査には室員で長男の飯盛武夫[注 2]のほか室員の吉村恂、畑晋が同行した [54]。その結果河川流域の砂金採取場の残砂(黒砂)中に種々の放射性鉱物が含まれていることが判明した[67]。 それらはサマルスキー石[68]、モナズ石[69][70]タンタル石[71]、ゼノタイム、褐簾石、フェルグソン石、ミクロライト、ジルコン等のペグマタイト鉱物であった[19]。これら資源を活用するために1935年ごろから理化学研究所内に研究室付属試験工場(理研希元素部)が設けられた。 主として南朝鮮の河川流域に産する黒砂を取り寄せ、選鉱してチタン鉄鉱、ジルコンその他から分離してモナズ石精鉱とし、化学処理する作業が行われた。 選鉱には淘汰盤による比重選鉱と電磁石による磁力選鉱が行われた。 精鉱を濃硫酸と共に加熱して分解し、水に抽出した後希土の大部分を硫酸ナトリウム複塩として沈殿させ、上澄液中の少量の希土、トリウム、ウラン等をも完全に回収した。製品はサーチライト用炭素電極に使用する混合希土フッ化物、防眩ガラス用シュウ酸ジジム[注 3]、石炭液化研究用触媒の酸化トリウムなどであった[19]

二号研究の開始と仁科研究室の対応

1941年には理研に対し陸軍航空技術研究所から原子爆弾 (当時はウラン爆弾と呼ばれた) の開発の要請があった。当時技術将校として理研仁科研究室に配属されていた中根良平[注 4]によると、仁科はこの時点では要請を断った。その後、検討の結果理論的には原爆を作ることは可能という結論が出て要請を受けることになり、1943年1月にいわゆる二号研究が始まった。しかし、仁科が一度断った原爆開発をなぜ受け入れることになったかが仁科の口から語られることはなかった。この点に関して中根は理由を次のように推定している。

  1. 仁科は原子力を将来のエネルギー源として利用することを考えていた。
  2. 当時ウラン (92番) より重い超ウラン元素の発見が各国の間で競われていた。仁科は小サイクロトロンを使用して93番元素を狙っていたが、アメリカのエドウィン・マクミランに先を越されてしまった。そこで大サイクロトロンを完成させて 94番元素を発見しようとしていた。二号研究を受け入れることによって、この研究を進展させようとしていた。

当時仁科研究室員は誰一人原爆が作れるとは考えていなかった。また、研究室の総力を挙げて二号研究に取り組んだわけではなく、宇宙線や理論を研究していた人たちはノータッチだった。二号研究に携わった者は皆、原爆を作るのではなく、基礎実験だと思っていた[72]。これを裏付けるように東京工業大学山崎正勝は、仁科にとって「二号研究」と「ウラニウム爆弾」構想は、理研におけるサイクロトロンなどによる実験的な基礎研究を守るための「盾」だった面がある、と述べている[73]

理研希元素工業株式会社の設立と石川町への移転

二号研究における飯盛の役割はウラン鉱からイエローケーキ (重ウラン酸ナトリウム) を得て、濃縮を担当する仁科研究室に供給することであった。濃縮とは、天然ウラン中にわずか 0.7% しか含まれていない核分裂性のウラン235 (当時はアクチノウランと呼ばれていた) を取り出すことである。仁科研究室ではそのために理研構内に熱拡散分離塔を作り基礎実験を始めたが間もなく米軍の爆撃によって破壊され何も成果を上げることができなかった。1944年暮れごろ、撃墜したB29から回収した東京の地図に理研が攻撃目標として記されていた、という話も伝えられている[74]

希元素製品の生産研究は戦争の進展と共に一層促進され、1941年には理研希元素工業株式会社が設立され、作業場も本郷工場、足立工場、荒川工場に拡大された。原料黒砂も朝鮮だけでなく、1942年以降はマレー半島の砂錫選鉱の残砂でアマンと称する重砂を取り寄せてこれを処理した。1945年にすべての工場が空襲によって被災し、操業不能になったので、軍需省からの指示により全工場機能を福島県石川町に移すことになった[74][75] (足立工場は被災しなかったという記述もある)[19][76]。この地が選ばれたのは日本三大ペグマタイト産出地[注 5]であり、少量ながらサマルスキー石、モナズ石、ゼノタイムなどの含ウラン鉱物が産出したためである。 これらが俗にウラン鉱と呼ばれることがあるがウランは主成分でなく、微量しか含まれていない。戦局の悪化により、外地からの原料の調達もままならず、国内の資源に頼らざるを得なかった。

理研希元素工業扶桑第806工場
福島県石川町立歴史民俗資料館提供

1945年4月13日の空襲の折り、巣鴨の飯盛の自宅も被災した。その時の様子が、仙台に住む次男の飯盛昌三・郁子夫妻宛の手紙に詳しく記されている[77]。このため、飯盛自身も混乱の中、家族とともに石川町に疎開することになった。一家は7月9日に石川町に着き一時旅館に逗留した後、借家住まいを始めた。

理研希元素工業株式会社の移転先は、鉱山師・丸野内鉄之助がジルコン量産のため建設していた「日本ジルコン鉱業研究所石川鉱山」で、完成直前に軍需省の命令で強制的に理研希元素工業に委譲させられた工場である。これが理研希元素工業扶桑第806工場となった[78]。東京から設備類を運び、移転は5月にはほぼ完了した。

この工場では東京から運んだ朝鮮産とマレーシア産の黒砂を比重選鉱機と磁力選鉱機によってモナズ石、ジルコンその他に分離し、モナズ石をボールミルで粉砕して化学処理する。これより生産される希土類元素化合物、トリウムはそれぞれ軍需用に発送された。ウランはこの工場でも採取されたが地元産のウラン鉱 (サマルスキー石、フェルグソン石等) の量は微々たるもので、原料にはならなかった[79]

終戦

8月15日の終戦により必然的に工場は操業停止になり、理研希元素工業株式会社は解散した。結局この工場は3ケ月ほど操業しただけだった。それまでに仁科研究室に渡した重ウラン酸ナトリウムはほんの数キログラムだった。[80][81]当時、原子爆弾一発を作るのに10%に濃縮したウラン235が10キログラム必要とされていた[72][73]。この量を作るのに必要な重ウラン酸ナトリウムは計算上190キログラムとなるので [注 6] 、まったく足りなかった。なお、戦後になって「10%に濃縮したウラン235が10キログラム」について理論的な精査がされている[73]

飯盛は戦災により東京巣鴨の家を失い、勤め先の理研も東京の街も焼けてしまったので、しばらくの間石川町に住むことにした(理研一号館の飯盛研究室は焼けなかった) [82]。そこで1945年10月に土地を借り、家を建てた。GHQの命令で放射化学の研究を禁じられたので、工場の一隅を借りて理研飯盛研究室分室の看板をあげ、残った設備装置に手を加え小さな窯を自作して次男昌三、四男健造と共に磁器質蛍光体や陶磁器の試作を始めた。石川町で産出する良質の石英や長石を活かすため陶磁器の事業化を目的に福島県下の窯業者を訪ね歩き情報を集めた。また良質の陶土を探した。その頃の様子が日記に詳しく述べられている[83]。陶磁器の事業化は目途が立たなかったが釉薬の工夫をしているうちに人造宝石のヒントを見出し、研究の方向を人造宝石に切り替えた。1949年11月には巣鴨の焼け跡に自宅を再建し東京に戻った。

石川町在住中の1947年秋に「鉱物と地質」誌に「放射能一夕話」という題の文を投稿した。その内容は学者としては珍しく、生涯をかけて追及してきた放射化学への道が戦争という不条理により断ち切られてしまった無念の想いを綴っている。その最後は「栄えよ放射能!!さようなら放射能!!!」という胸を打つ言葉で結ばれている[84]

人造宝石

開発の動機

1952年理化学研究所 (当時は科学研究所) を引退した後は、河合良成の援助を受けて自宅に飯盛研究所を設けて人造宝石の合成に没頭した。回想記[2] によれば、これら合成を思い立った動機は1936年に福島県伊達郡水晶山で拾った陽起石(アクチノライト)の小結晶を、机上に置きマスコットとしていたが、戦災で失ってしまったことにある。

苦心を重ねた結果、まず微晶質のヒスイが完成した。 ヒスイは古来から貴ばれ、西洋でもJadeと称して珍重されると同時にGood Luckとして幸運の象徴とされている[2]。ありふれたヒスイではなく、最高級の琅玕(ロウカン)という、透明に近い半透明のものでなければならず、これを目指して輝石族鉱物の組成にほぼ等しいものを作ったものである。 外見は翡翠、しかも最高級のロウカンと全く同じなので「メタヒスイ」と名付けた[2]

これに加えて結晶化を促進する晶化剤と晶癖調整剤を加えることによって繊維状の結晶を包含する美しい変彩性軟玉翡翠を完成させ「ビクトリア・ストン」と名付けた。この繊維構造の石のうち金緑色のものを特殊カットすることにより猫目石(合成キャッツ・アイ)として製品となった。 十数種類の配合研究により「ビクトリアストン」各色を完成させた。

株式会社飯盛研究所の設立

やがて物になりそうになったところで、業者に研磨してもらい、いろいろの人の意見を聞き、段々に人に知られる様になった。この発明は特許「装飾石の合成製造法」[注 7]および関連実用新案は「注目発明」「優秀発明」の表彰を受けた[85]。新聞、TV、週刊誌にも取り上げられるようになったので、1962年6月人造宝石の製造販売を目的とする株式会社飯盛研究所を設立し、商業規模の生産を始めた[82]

発足当時に製造販売したのは、表に示すとおり、メタヒスイ、15色のビクトリア・ストンのほか、トルコ石、何種類かの透明石などであった。事業の進展とともに製品数もだんだん増やしていった。公表されているものとしてはサンダイア (ダイアモンドの模造品)[85] 、チェリーストン (ピンク色のビクトリア・ストン)[85]、γ-ジルコン[82]、アイリスジャスパー[82]、サン-トルコ石[2]がある。このうちγ-ジルコンは自然光下では淡桃色、蛍光灯下では淡黄緑色を呈する (変色効果)[82] 。これ等飯盛研究所で作られた人造宝石類は IL-ストンと総称される (IL はIimori Laboratoryの略称) 。

飯盛研究所初期の製品[85]
原石名 略号 原石名 略号
ビクトリア・ストン 緑色 V G メ タ ヒ ス イ 緑 色 H G
空 色 VSB ブ ル ー ヒ ス イ 空 色 H B
ピンク褐色 VPR IL- ト ル コ 石 淡 青 色 T L
若 草 色 VYG 青 色 T M
青 緑 色 VBG 濃 青 色 T D
群 青 色 VSI 明濃青色 JTB
褐 色 VCR IL- オ リ ビ ン 淡オリーブ緑 OVS
紺 黒 色 VIL 濃オリーブ緑 OVD
白 色 V W IL- ブルージルコン 淡 青 色 Z B
鶯 色 VQG IL- 藤色ジルコン 藤 色 ZLP
芥 子 色 VQY IL- ロードジルコン ピンク色 ZRh
暗 青 色 VQB IL- ブルースピネル 濃 青 色 SPB
灰 色 VQL IL- ガーネット 暗 赤 色 G N
黒 色 VLD IL- ア メ シ ス ト 青 紫 色 A P
ビクトリア・ストンC 金 緑 色 K S 赤 紫 色 A R
- - - IL- エ メ ラ ル ド 緑 色 E B
- - - 濃 緑 色 E D
- - - IL- ト ー パ ツ[注 8] 橙 色 TPL
- - - 濃 橙 色 TPD
- - - IL- サ フ ァ イ ア 紫 紺 色 SAP

1969年アメリカの宝石業界誌 Lapidary Journal へ紹介記事を投稿したところ、各国から反応があり、国内よりむしろ海外からの需要が大きくなった。北米向けには主に原石のまま輸出され、研磨した石も北米、東南アジア方面に輸出された[85]。日本国内では見た目はどうでも天然石でなければ喜ばれなかった[82]。これについて、飯盛は日本人が美しさを解さないことへの嘆きとも受け取れる言葉を述べている[2]

1982年飯盛の没後は四男の加藤健造が事業を引き継ぎ、1990年始め頃まで製造されていたが、会社は解散され、現在ではこの製造技術は途切れてしまった[85]

特許公報

特許公報 特公昭30-000088 「装飾石の合成製造法」[注 7]にはビクトリア・ストンの名前は出ていないが、"繊維状結晶の放射状集合構造体"、"変彩性光輝を呈する" と記されているので、明らかに装飾石とはビクトリア・ストンを意味する。ビクトリア・ストンの名称は、この特許より後から付けられた。[86]

この特許によると、装飾石は (1) 基本成分 (2) 鉱化成分 (3) 放射状結晶集合構造を生成せしむる成分 の三成分よりなる、とされている。内容を解釈すると、石英を主成分とする固溶体中に鉱化成分の結晶を析出させ、その結晶を「放射状結晶集合構造を生成せしむる成分」によって繊維状にしたもの、ということになる。

「鉱化成分」は後に飯盛自身により「晶化剤」と言い換えられている。同様に「放射状結晶集合構造を生成せしむる成分」は「晶癖調整剤」と言い換えられている。[2]

なお、原料の一つとして挙げられている酸化トリウムは現在では原子炉等規制法によって核燃料物質に指定されているので許可を得た者でないと入手できない。

晶癖調整剤

1915年の大学院時代最初の研究で、フェリシアン化カリウム(赤血塩) の水溶液に少量の酸を加えて蒸発させると通常の板状結晶でなく針状の結晶が得られ、その原因は加水分解で生じた微量のアクオ五シアノ鉄錯塩がフェリシアン化カリウムの結晶のある特定の面に吸着され、その面の成長が阻害されて他の面だけが選択的に成長したためであることを見出している[4]。このように同じ物質の結晶が異なる形を示すことを晶癖と呼ぶ。この論文中ではなぜそのような現象が起きるのかにまでは言及していないが、結晶とは、原子や分子が三次元的に規則正しく配列したものだから各結晶面には三次元的構造が反映され、それぞれの面の性質が異なるためである。

飯盛は熔融塩系にも水溶液系のアナロジーが成り立つと考えた。その裏付けは永年の鉱物採取の経験から、同じ鉱物であっても産地が異なると晶癖が異なり、その原因は共存する成分が異なるためであることを知っていたからである[2]。人造宝石の開発ではこのことを踏まえ、試行錯誤を繰り返して固溶体中に晶化剤 (特許公報中では鉱化成分) を繊維状に析出させることに成功した。この時に晶癖をコントロールするために添加する物質を「晶癖調整剤」と名付けた。

「晶癖調整剤」は飯盛の造語であって以後使われることは無かった。現在では「媒晶剤」という言葉が一般化して使われている。意味はまったく同じである。溶液から結晶を析出させる工程 (晶析) は工業的に広く行われ、媒晶剤、媒晶効果、媒晶機構に関する研究が多数行われている[87]

飯盛研究所製品の数々

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飯盛コレクション

United States National Museum (スミソニアン博物館) から飯盛武夫に贈られたミクロライトの標本 (飯盛遺品)

1922年以来、国内、朝鮮半島への鉱物の調査の際自身で標本を採取したり、室員を派遣して満州、北支、蒙古、南方諸地域から多数の鉱物標本を採集した。まだウランが核エネルギー源になることが知られていなかった時期から含ウラン鉱も採取していた[88]。また、外国の研究機関や博物館からの寄贈や交換によっても標本を集めていた。

1940年10月ボストンで第一回応用原子核物理学会が開催され、多忙な父・里安の代理として室員で長男の飯盛武夫[注 2]が矢崎為一 (やざきためかず) 、渡辺慧 (わたなべさとし)[注 1] とともに出席したが、その途上ワシントンの国立博物館に立ち寄り、福島県水晶山産の含ウラン諸鉱物の一揃いを寄贈したところ、交換に多数のカナダ産希元素鉱物を譲与され、日本の希元素鉱物研究に大いに役立った、という記述がある[54]

これらの膨大な標本は「飯盛コレクション」と呼ばれたが、戦争のため放射化学の研究が中断され、飯盛研究室の後継者が途絶えたため、宝の持ち腐れとなってしまった 。(理研18号館に置いてあった朝鮮や南方地域で採集した分は戦災で焼失してしまった)[90]

これらの鉱物標本を有効に活用するために北海道大学理学部鉱物学教室、東京大学理学部化学教室、東京都立大学 (現首都大学東京) 理学部化学教室に寄贈されることになった。特に北海道大学分は4,000種類、3.5トンもあり、新聞で報道された[88]。その一部はweb上に公開されていて閲覧することができる[注 9]

著書

  • 『分析化学』「岩波講座物理及び化学,化学V.C」 1930年 岩波書店
  • 『放射化学実験法』「実験化学講座13.B」1934年 共立社
  • 『天然放射能』「物理実験学10,原子核物理学」1940年 河出書房

論文

鉱物の発光に関する研究

  • S. Iimori, E. Iwase, "The Solarization of Fluorite and the Law of Lumino-transformation", Sc.Pap.I.P.C.R., 16, 41 - 67 (1931)
  • S. Iimori, "On the Constitution of Phosphorescence Centers in Fluorite" Sc.Pap.I.P.C.R., 20, 189 - 200 (1933)
  • S. Iimori, "The Thermo-luminescence Spectrum of Calcite", Sc.Pap.I.P.C.R., 20, 274 - 284 (1933)
  • S. Iimori, E. Iwase, "Spektrographische Untersuchung uber die Thermo-lumineszenz des Feldspates", Sc.Pap.I.P.C.R., 28, 147 - 151 (1935)
  • S. Iimori, "The Photoluminescence of Feldspar", Sc.Pap.I.P.C.R., 29, 79 - 110(1936)
  • S. Iimori, J. Yoshimura, "The Cathodo-Luminescence Spectra of Feldspars and Other Alkali Alumino-silicate Minerals", Sc.Pap.I.P.C.R., 31, 281 - 295 (1937)
  • E. Iwase, S. Iimori, "The Cathodo-luminescence of Luminescent Calcium Silicate", Sc.Pap.I.P.C.R., 34, 173 - 181( 1938)
  • S. Iimori, E. Iwase, "The Fluorescence Spectrum of Autunite", Sc.Pap.I.P.C.R., 34, 372 - 376 (1938)
  • Sc.Pap.I.P.C.R. : Scientific Papers of the Institute of Physical and Chemical Research

戦前に行なわれたその他の研究

戦後の研究

  • 飯盛里安・飯盛昌三 「含稀元素坏土の焼成物について」 科学研究所報告 vol.25, pp.42 - 47 (1949)
  • 飯盛里安・加藤健造 「陶磁器の螢光について」 科学研究所報告 vol.28, pp.132 - 138 (1952)
  • 飯盛昌三・飯盛里安 「或る種の合成螢光性鉱物体並びにアルミノ珪酸塩螢光体」 科学研究所報告 vol.29, pp.463 - 467 (1953)
  • 加藤健造・飯盛里安 「磁器質螢光体」 科学研究所報告 vol.29, pp.481 - 487 (1953)

受賞歴

注釈

  1. ^ a b 渡辺扶生としている資料もある[89]
  2. ^ a b c 1912年3月28日生まれ。東京帝国大学理学部化学科卒業後すぐに理研の飯高研究室に研究生として入所、その後仁科研究室で同位体分離について学びその後、父の飯盛研究室に入って父と同じ道を歩むことになった。吉村 恂、畑 晋とともに父・里安を手伝って
    • 足立工場におけるモナズ石の化学処理、および砂鉱の磁選
    • 荒川工場におけるモナズ石処理残渣、カルノー石貧鉱、老廃特殊触媒等よりウランの抽出およびジルコンの化学処理、セリウム族希土類の熔融塩電解等
    • 理研構内の工場における国内原鉱からウラン、トリウム、ニオブ、タンタルの抽出、モナズ石処理残渣よりメソトリウムの製造、ビルマのモゴク地区サカンジ産鱗雲母および福島県水晶山産黒雲母よりリチウム、およびセシウムの抽出
    の諸工程を完成させた[53]。 また、1940年10月ボストンで開催された第一回応用原子核物理学会に矢崎爲一 (やざきためかず) 、渡辺慧 (わたなべさとし)[注 1] とともに、多忙な父・里安の代理として出席した[54]。 将来を期待されていたが1943年8月16日31才の若さで病没した[55][56]。その名は飯盛石となって今に残されている[57]
  3. ^ ジジムは古くはネオジムプラセオジムの混合物を指したが現代ではネオジムの同義語
  4. ^ 1921年生まれ、大阪大学理学部化学科卒、1943年理研 仁科研究室入所。同位元素研究室主任研究員(1962 - 1980年)、副理事長 (1983 - 1987年)、元理研名誉相談役、元財団法人仁科記念財団常務理事 2010年没[72]
  5. ^ 他の二つは岐阜県中津川市苗木地区、滋賀県大津市田上山 (たのかみやま) 地区
  6. ^ 原子量:ナトリウム (Na) 22.98977, 酸素 (O) 15.999, ウラニウム (U) 238.02891
    重ウラン酸ナトリウム (Na2U2O7) の式量:22.98977×2+238.02891×2+15.999×7=634.032
    重ウラン酸ナトリウム中のウラニウム含有量:238.02891×2÷634.032×100=75.084%
    10% 濃縮ウラン235 10キログラムは純ウラン235 1キログラムに相当する。純ウラン235 1キログラムを含む天然ウランは 1÷0.7×100=142.86キログラム
    天然ウラン142.86キログラムを含む重ウラン酸ナトリウムは 142.86÷75.084×100=190.27キログラム
    これはすべての反応が化学量論的に進んだ場合 (実際にはあり得ない) の数値なので、実際にはもっと多く必要になる。
  7. ^ a b 特許公報 特公昭30-000088 (注)特許公報へのアクセス法:特許電子図書館→特許・実用新案公報DB→文献種別に"B",文献番号に"S30-88"を入力→文献番号照会をクリック
  8. ^ a b トパーズと表記されることが多いが飯盛研究所では英語の発音[tóupæz]に近いトーパツまたはトーパズとしていた。
  9. ^ 北海道大学総合博物館鉱物標本データベースにアクセス、簡易検索ボックスに”飯盛標本”と入力して検索する。

脚注

  • Sc.Pap.I.P.C.R. : Scientific Papers of the Institute of Physical and Chemical Research
  1. ^ 「かなざわ偉人物語(8)ーふるさとの歴史をいろどる人々ー」2010年 金沢こども読書研究会編 pp.167 - 186
  2. ^ a b c d e f g h i j 「合成猫目石とメタヒスイ」化学と工業、Vol.13, No.4, pp.412 - 414 (1960)
  3. ^ a b c 『飯盛里安博士97年の生涯』2003年 中津川市鉱物博物館 編 pp.61 - 64
  4. ^ a b 「六シアノ鉄錯塩水溶液内におけるアクオ五シアノ鉄錯塩の生成」東京化学会誌 vol.36, pp.150 - 192 (1915)
  5. ^ 「フェリシアン化カリウムの酸化」東京化学会誌 vol.36, pp.329 - 348 (1915)
  6. ^ 「フェリシアン化カリウムの光反応(第一報)臭素の存在における光分解」東京化学会誌 vol.36, pp.553 - 558(1915)
  7. ^ 「フェリシアン化カリウムの光反応(第二報)光触媒作用(其一)」東京化学会誌 vol.36, pp.558 - 580 (1915)
  8. ^ 「フェリシアン化カリウム溶液を用いる酸化測定法(其一」亜硫酸塩並にチオ硫酸塩の存在に於ける硫化水素の滴定」 東京化学会誌 vol.36, pp.626 - 648 (1915)
  9. ^ "Massanalytische Bestimmung des Schwefelwasserstoffes in alkalischer Löesung mit Ferricyankalium", Japanese J. Chem.,1 pp.43 - 54 (1922)
  10. ^ 「シアノ鉄錯塩光化学電池」東京化学会誌 vol.38, pp.507 - 562 (1917)
  11. ^ "A Photochemical Cell Containing a Solution of Potassium Ferrocyanide", Sc.Pap.I.P.C.R., 8 (Supplement), 11 - 13 (1928)
  12. ^ 「ニッケル又は白金のシアノ錯塩を用いる光化学電池」東京化学会誌 vol.39, pp.1 - 13 (1918)
  13. ^ "Photochemical Cell with Complex Cyanide of Nickel or Platinum", Sc.Pap.I.P.C.R., 8 (Supplement), 14 - 15(1928)
  14. ^ 飯盛里安・武部俊正「ハロゲン化銀電極を用いる活光電池の増減並に其応用」東京化学会誌 vol.41, pp.77 - 18( 1920)
  15. ^ 飯盛里安・武部俊正「ヨウ化銀感光発電池」理化学研究所彙報 vol.1, pp.219 - 243 (1922)
  16. ^ 「感光発電池について」照明学会雑誌 vol.10(3), pp.102 - 116 (1926)
  17. ^ "The Photogalvanic Cell Furnished with Silver Iodide Electrodes and Its Application to Photometry and Luminometry", Sc.Pap.I.P.C.R., 8, pp.131 - 160 (1928)
  18. ^ 「感光電池および光電池について」工業化学雑誌、Vol.31, pp.801 - 810(1928)
  19. ^ a b c d e f g h 畑 晋 (はた すすむ) 「飯盛里安先生の業績とその解説」化学史研究、No.1, pp.21 -31 (1986)
  20. ^ フォトポリマー懇話会 ニュースレター No.59, July 2012, p.2
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  47. ^ 「加奈陀ウィルバーフォース産黒蛍石の放射性並に遊離弗素含有量に就いて」 理化学研究所彙報 vol.11, pp.1237 - 1243 (1932)
  48. ^ 佐藤健太郎「化学よもやま話 身近な元素の話 天然有機フッ素化合物」TCIメール、東京化成工業、No.159, p.8 (2013)
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  50. ^ 飯盛里安・吉村恂 「福島県川辺産ゼノタイム球塊 附-石川産ゼノタイムの化学組成」 理化学研究所彙報 vol.16, pp.17 - 21 (1937)
  51. ^ S.Iimori, J.Yoshimura, S.Hata,"A New Radioactive Mineral found in Japan", Sc.Pap.I.P.C.R., 15, 83 - 88 (1931)
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  54. ^ a b c 飯盛里安「稀元素の想い出」学術月報、日本学術振興会、Vol.26, No.5, pp.343 - 346 (1973)
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参考文献

外部リンク