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この上尾事件の後、高崎線などには構造強化等の仕様変更を行った[[国鉄115系電車|115系]]300番台が増備された。 |
この上尾事件の後、高崎線などには構造強化等の仕様変更を行った[[国鉄115系電車|115系]]300番台が増備された。 |
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<!--労働争議#遵法闘争--> |
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この一連の順法闘争が乗客の暴動を招いたわけだが、[[暴力]]という明確な意思表示がなされても、国鉄の体質は全く変わらなかった、どころか、ますます硬直化した。利用者は国鉄に見切りをつけ始めた。いわゆる「'''国鉄離れ'''」が決定的となったのである。この頃を「[[モータリゼーション]]の高まりにより鉄道全体の利用客が減少した」と片付ける向きもあるが、実際には首都圏では鉄道利用の通勤客はますます増大するばかりであった。 |
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結果、「(国鉄より)早くて便利、しかも安い」を掲げていた[[京浜急行]]・京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])・[[小田急電鉄]]はもとより、上尾事件の舞台となった埼玉では、従前は国鉄より遅く車両設計も保守的だった(ただし運賃は安い)[[東武鉄道]]や[[西武鉄道]]にも乗客が大量に流れ込んだ。一見不便なダイヤでも正確に動く事が評価されたのである。結果、各社は通勤車両の大増備を余儀なくされ、中には[[東武8000系電車]]や[[東急8000系電車]]系列など国鉄張りの一形式大量増備も行われた。また新製だけでは追いつかず、[[吊り掛け駆動方式|釣り掛け式]]の旧型車の、車体だけ軽量の新車体として急場を凌いだ例もあった。 |
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これに対し、国鉄はサービス改善ではなく、度重なる値上げや、急行の「特急格上げ」という名を借りた実質的値上げの乱発とそれに伴う優等列車サービスの簡素化、労組側に屈した形の減量ダイヤ等々によって収支を改善しようとしたが、かえってさらに乗客が離れるという悪循環で、「'''需要はあるのに収入が上がらない'''」結果になり、累積赤字は膨らむ一方となり、最終的にどうしようもなくなって分割民営化に至るのである。 |
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結局、行き過ぎた順法闘争は[[国鉄分割民営化]]というしっぺ返しとなって国鉄労働者を襲った。 |
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==関連項目== |
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2006年3月30日 (木) 12:13時点における版
上尾事件(あげおじけん)は、1973年(昭和48年)3月13日、日本国有鉄道(国鉄)の順法闘争に反抗した利用客が上尾駅(埼玉県上尾市)で起こした集団暴動事件である。
順法闘争
1970年代の国鉄では、賃金引上げや労働環境の改善を目指しての労働闘争が頻繁に繰り返されていた。しかし公共企業体職員であった国鉄職員による争議行為は公共企業体等労働関係法(公労法)で禁じられており、国鉄職員は法を順守する形で闘争した。これを順法闘争と呼んでいる。
第一次ベビーブームによる若年人口の激増は、急速な市街地の広がりに繋がり、朝夕通勤通学時間帯の中・長距離列車はすでに混雑が慢性化し、列車はぎりぎりまで増発してダイヤは過密であって、法規を遵守していては運行ができず、取り扱い違反は恒常化していた。そこで、その状態を逆手に取った運動が行われた。鉄道運転士はほとんどこじつけともいえる些細な理由で停止や徐行を繰り返し、ダイヤは崩壊状態であった。
一方利用する多くの通勤客にとって、ストライキであれば仕事を公式に休めるが、順法闘争の場合はそれもできなかった。当時順法闘争が行われると、サラリーマンは殺人的混雑と大幅な遅延の中に置かれることとなり、利用客の不満は高まっていった。また、崩壊状態のダイヤは貨物列車による首都圏への生活物資の輸送が滞りを発生させ、結果として物価の高騰を招くに至り、順法闘争は民衆の生活に悪影響を与えるもの、という批判も強まっていた。
事件の概要
1973年(昭和48年)3月13日、この日も国鉄職員は順法闘争を行い、高崎線の上り列車が14分遅れて7時20分に上尾駅へ入線した。既に上りホームには3,000人もの通勤利用客でごった返しており、列車に乗り切れない乗客が大勢現れた。その上、この列車を2駅先の大宮駅止まりにするという放送があったため、乗り切れなかった通勤客の一部が激怒、運転士に抗議するために運転室に詰め寄った。乗客の殺気立ち具合から身の危険を感じた運転士は業務を放棄、上尾駅の駅長室に逃げ込んだ。
列車は当然運行できず、これに怒った乗客約10,000人は暴徒と化し、駅長室に突っ込んで中にいた駅長にハンマーなどで殴りかかって負傷させた。また暴徒は電車の窓ガラスや運転室、駅の各種設備を破壊し、事務室からは、どさくさに紛れて現金20万円が何者かによって奪われた。これにより駅周辺は無法地帯と化した。最終的に暴徒化した人数は10,000人前後だったと言われる。この暴動は同じ高崎線沿線の桶川駅や北本駅、鴻巣駅、熊谷駅をはじめ東北本線沿いの埼玉県内各駅にも飛び火し、この地域一帯で一時的に治安が悪化した。上尾駅周辺は約11時間にわたり不通となり、運行再開後も正常なダイヤでの運行は出来ず、終日ダイヤは混乱した。
この事件の逮捕者は7人で、混乱に乗じて駅から金銭を奪った者、取材に来ていた新聞記者に暴行を加えた者などであった。
上尾事件に前後して、或いは呼応する形で、順法闘争に対する乗客の暴動事件が首都圏一帯で多数発生しており、山手線や総武線でも電車数本が走行不能なまでに破壊(走行機器、運転台の破壊等)された。
事件の要因
この事件は表面上、順法闘争によってダイヤを乱したことが原因といわれているが、普段の国鉄職員による横柄な営業態度に日頃から不満を持っていた利用客の怒りが順法闘争によって爆発した事件と見ることもできる。
暴動を起こした利用客は、急速に宅地化の進んだ上尾市に暮らし始めた若年層が中心であった。第一次ベビーブーム世代以下が社会の第一線で活躍し、結婚などで所帯を持ち始めて全国的に住宅不足が叫ばれ、上尾市でも住宅都市整備公団などによって大規模な団地が建設されていた。同じく、暴動が飛び火した桶川や北本、鴻巣でも人口が大幅に増えていた。
一方で国鉄は経営が硬直し、戦後すぐに一大勢力となった労組との軋轢が絶えず、上から下まで利用者抜きの内向き姿勢であった。通勤時間帯にもかかわらず、165系電車のような2ドア・デッキ付の急行列車で使う車両を高崎線に間合いで投入し、その上夜行列車が通勤時間帯に入ってくることなどから列車が増発されず(上越新幹線開業前であり、高崎線は昼夜行とも特急・急行が数多かった。オイルショックによって新幹線建設が滞っていた間に人口が肥大化してしまったのである。もっとも間合い運用による遅延の発生や、それを意識した近郊形電車の急行運用などは明らかに国鉄のダイヤ組成の稚拙さが原因であった。東武など毎時2本のDRCを発着させそのために堂々と空車回送しても文句も出なかったのである)、混雑が慢性化していた事に対する不満も背景にあったとみられる。
また1960~70年代初頭にかけては、安保闘争から大学紛争に至るまで、一般市民による暴動やデモも多発しており、当日利用客の多くを占めたであろう当時の若手サラリーマン層の中には、学生時代にヘルメットをかぶって機動隊と対峙した経験を持つ者も多くおり、暴動慣れしていたという側面もあった。
この事件は昭和48年の警察白書の第7章「公安の維持」でも、「急激な都市化の進展や国民意識の変化に伴って従来予想もされなかったような各種の事案」として取り上げられている。
事後
事件翌日、暴動の再発を恐れた国鉄と警察は、機動隊を上尾駅周辺に配備して治安維持を行ったが、全く何事も起こらなかった。この日もそれまでと変わらない満員電車であったが、恐らくは暴動に参加したであろう市民も、何事も無かったように通勤していった。
この上尾事件の後、高崎線などには構造強化等の仕様変更を行った115系300番台が増備された。